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固い誓い
【53】無実の犠牲(2)
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「あの、ね、私……沙稀がいてくれるだけで、幸せなの。沙稀がいてくれなきゃ、だめなの」
時折止まる、震えたか細い声。怯えていたのだろうか。沙稀は嫌いになって離れたわけではないが、恭良にとってみればプツリと切れたような感覚だったのかもしれない。
──辛いのは、俺だけではなかった。
悲しませたと、恭良を強く抱き締める。微かに香るのは、甘い花のような香り。
「恭良」
この香りに包まれる幸せを、沙稀は改めて感じる。
決して、想いを伝えられる日が来ると思っていなかった。どの角度から考えたところで、想いを伝えないと選んだ方が至当な判断だったから。心を無にして、遂行すべきことに目を向けていた。
けれど、蓋を開けてしまえば閉めることはできなくなって、無にした心は彼女で埋めつくされて、あふれるほどの幸せで満たされた。
幸せすぎて怖くなる。離したくなくなる。彼女なしでは、生きていけなくなる。痛感するだけだ。溺れていくほど、愛おしいと。
「ごめん。ただ……恭良に欲を押し付けているように感じて」
「いつ?」
沙稀は目尻を拭う。両腕の力を抜き、恭良から少し離れた。
「一年半……くらい……」
二年前、初めて恭良から『私も、はやくほしいなぁ』とうれしい言葉を聞いた。──その後からだ。何ヶ月も空しく時間が過ぎていくような感覚に囚われた。
『もし、自分のせいで授かれないのなら』
沙稀は、そう自責することが多くなった。
「ごめんね。苦しめたのは、私なんだね……」
恭良は落ち込んだように瞳を伏せる。発言を気にしていたのかもしれない。
「違う」
沙稀は恭良の頬に手をあて、親指で頬をなぞる。
恭良が恐る恐る視線を上げる。恭良もまた、願いと現状の狭間で苦しんでいたのだろう。
「恭良の言葉はうれしかった。俺も恭良に新しい命が宿ったらと思うだけで、幸せだった」
恭良が沙稀をじっと見つめている。恭良の瞳がわずかに揺れて、そっと沙稀の頬を両手で包んだ。次の瞬間には、呼吸が彼女と混ざる。
沙稀は恭良の背をやさしく包む。そっと体制を崩していき、ふたりはベッドの上に体を横たえていく。離れて過ごした月日を埋めるように、互いを必要とした。
ふと、恭良が沙稀の首元を舐めた。咄嗟に沙稀は身を起こす。
「俺、今日はまだシャワーを浴びてきていない」
沙稀にしては珍しいが、寝る前に浴びようと思っていたのだろう。
恭良がクスリと笑う。
「いつも気にするのね。私、沙稀の匂いも好きよ」
「でも……」
「じゃあ、一緒にお風呂入る?」
恭良の愛らしさに沙稀は笑う。恭良の体を起こすと、そのまま抱き締める。
「養子を迎えようか」
耳元で言うと、ゆっくりと離れ恭良を見た。
「いいよ。それで沙稀が気にしないで、私と一緒にいてくれるなら」
恭良は微笑んでいる。
「まだ、俺を愛していてくれるの?」
恭良はクスクスと笑い出す。そうして、にっこりと笑うと、
「もちろん」
と言い、沙稀の唇を塞いだ。
沙稀が恭良と再び一緒に過ごすようになり、一ヶ月ほどが過ぎたころ、ちいさな訪問者がやって来た。
漆黒の髪を首のうしろで束ね、瞳は父に似て宝石のようだ。その父はすぐうしろにいるというのに、このちいさな訪問者は誰が父かと考えたこともないだろう。
近くまでくると、ピタリと止まり沙稀を見上げる。
「本日はお時間を作って頂き、ありがとうございます。よろしくお願い致します」
深々と頭を下げる仕草は、自らの地位をしっかりと意識しているようで──沙稀は敬意を払い対応する。
「蓮羅様、ようこそお越し下さいました。こちらこそ、よろしくお願い致します」
沙稀が一礼をすると、蓮羅はうれしそうに笑みをこぼした。
羅凍は蓮羅のうしろで一礼を返す。今日の羅凍は、あくまでも蓮羅の同行人だ。沙稀もそれを心得ていて、蓮羅と並び、城内を軽く案内する。
ちいさな体が疲れないくらいの案内を沙稀は行い、それとなく手合わせを申し出る。蓮羅は沙稀の申し出に目をキラキラさせて同意した。
食らいついてくる蓮羅は幼いながらも、昔の羅凍を沙稀に思い出させ──やはり親子だなと、離れて座る羅凍を瞬時見やる。どこか不安そうな、心配そうな視線は親そのものだ。
沙稀は改めて蓮羅に向き合う。
息を上げても、疲労でスピードを失いながらも、瞳は強く──意思も強いのだろう。休もうとも、降参だとも言わない。
「本日は、このくらいにしましょう」
すっと沙稀が避けて離れる。
「はい!」
ハキハキとした返事が返ってきたものの、蓮羅は疲労困憊の色を滲ませている。ちいさな体を労わろうと沙稀がつい、手を伸ばそうとしたとのとき、羅凍の気配がして留まる。
「お疲れ様でした」
羅凍は蓮羅に近づき労うものの、抱き上げはしない。
「ありがとうございます」
笑顔の蓮羅も、親子とは感じさせない一線があった。
夕食を終え、蓮羅が眠りについただろうころ、沙稀は羅凍の客間に向かう。一言二言交わして、今度は羅凍とあいさつ程度の手合わせをする。
『軽く』と敢えて伝えた。以前の二の舞を踏まないためだ。
剣士たちのいない稽古場へと誘い、稽古用の剣を手渡す。互いの剣を腰に携えたまま、じゃれるような手合わせを、友情の確認のように行う。
遊び半分のような手合わせでも、沙稀は羅凍が格段に腕を上げたと実感した。体制の立て直しのはやさや、次の手への隙がなくなってきている。単に嗜んでいた友人が剣に打ち込んでいると伝わるのはうれしいことで、『今度はいよいよ力試しと言えなくなってきたかもしれない』と、沙稀はひとり苦笑いをした。
羅凍に伝えれば喜ぶかもしれないが、謙遜するだろう。だからこそ、そっと胸の奥にしまっておく。
切り上げてから、草原に座るかのように床に腰を下ろす。互いの身分がどう変わろうが、気楽な付き合いは変わっていない。
「まだ……はやかった?」
時折止まる、震えたか細い声。怯えていたのだろうか。沙稀は嫌いになって離れたわけではないが、恭良にとってみればプツリと切れたような感覚だったのかもしれない。
──辛いのは、俺だけではなかった。
悲しませたと、恭良を強く抱き締める。微かに香るのは、甘い花のような香り。
「恭良」
この香りに包まれる幸せを、沙稀は改めて感じる。
決して、想いを伝えられる日が来ると思っていなかった。どの角度から考えたところで、想いを伝えないと選んだ方が至当な判断だったから。心を無にして、遂行すべきことに目を向けていた。
けれど、蓋を開けてしまえば閉めることはできなくなって、無にした心は彼女で埋めつくされて、あふれるほどの幸せで満たされた。
幸せすぎて怖くなる。離したくなくなる。彼女なしでは、生きていけなくなる。痛感するだけだ。溺れていくほど、愛おしいと。
「ごめん。ただ……恭良に欲を押し付けているように感じて」
「いつ?」
沙稀は目尻を拭う。両腕の力を抜き、恭良から少し離れた。
「一年半……くらい……」
二年前、初めて恭良から『私も、はやくほしいなぁ』とうれしい言葉を聞いた。──その後からだ。何ヶ月も空しく時間が過ぎていくような感覚に囚われた。
『もし、自分のせいで授かれないのなら』
沙稀は、そう自責することが多くなった。
「ごめんね。苦しめたのは、私なんだね……」
恭良は落ち込んだように瞳を伏せる。発言を気にしていたのかもしれない。
「違う」
沙稀は恭良の頬に手をあて、親指で頬をなぞる。
恭良が恐る恐る視線を上げる。恭良もまた、願いと現状の狭間で苦しんでいたのだろう。
「恭良の言葉はうれしかった。俺も恭良に新しい命が宿ったらと思うだけで、幸せだった」
恭良が沙稀をじっと見つめている。恭良の瞳がわずかに揺れて、そっと沙稀の頬を両手で包んだ。次の瞬間には、呼吸が彼女と混ざる。
沙稀は恭良の背をやさしく包む。そっと体制を崩していき、ふたりはベッドの上に体を横たえていく。離れて過ごした月日を埋めるように、互いを必要とした。
ふと、恭良が沙稀の首元を舐めた。咄嗟に沙稀は身を起こす。
「俺、今日はまだシャワーを浴びてきていない」
沙稀にしては珍しいが、寝る前に浴びようと思っていたのだろう。
恭良がクスリと笑う。
「いつも気にするのね。私、沙稀の匂いも好きよ」
「でも……」
「じゃあ、一緒にお風呂入る?」
恭良の愛らしさに沙稀は笑う。恭良の体を起こすと、そのまま抱き締める。
「養子を迎えようか」
耳元で言うと、ゆっくりと離れ恭良を見た。
「いいよ。それで沙稀が気にしないで、私と一緒にいてくれるなら」
恭良は微笑んでいる。
「まだ、俺を愛していてくれるの?」
恭良はクスクスと笑い出す。そうして、にっこりと笑うと、
「もちろん」
と言い、沙稀の唇を塞いだ。
沙稀が恭良と再び一緒に過ごすようになり、一ヶ月ほどが過ぎたころ、ちいさな訪問者がやって来た。
漆黒の髪を首のうしろで束ね、瞳は父に似て宝石のようだ。その父はすぐうしろにいるというのに、このちいさな訪問者は誰が父かと考えたこともないだろう。
近くまでくると、ピタリと止まり沙稀を見上げる。
「本日はお時間を作って頂き、ありがとうございます。よろしくお願い致します」
深々と頭を下げる仕草は、自らの地位をしっかりと意識しているようで──沙稀は敬意を払い対応する。
「蓮羅様、ようこそお越し下さいました。こちらこそ、よろしくお願い致します」
沙稀が一礼をすると、蓮羅はうれしそうに笑みをこぼした。
羅凍は蓮羅のうしろで一礼を返す。今日の羅凍は、あくまでも蓮羅の同行人だ。沙稀もそれを心得ていて、蓮羅と並び、城内を軽く案内する。
ちいさな体が疲れないくらいの案内を沙稀は行い、それとなく手合わせを申し出る。蓮羅は沙稀の申し出に目をキラキラさせて同意した。
食らいついてくる蓮羅は幼いながらも、昔の羅凍を沙稀に思い出させ──やはり親子だなと、離れて座る羅凍を瞬時見やる。どこか不安そうな、心配そうな視線は親そのものだ。
沙稀は改めて蓮羅に向き合う。
息を上げても、疲労でスピードを失いながらも、瞳は強く──意思も強いのだろう。休もうとも、降参だとも言わない。
「本日は、このくらいにしましょう」
すっと沙稀が避けて離れる。
「はい!」
ハキハキとした返事が返ってきたものの、蓮羅は疲労困憊の色を滲ませている。ちいさな体を労わろうと沙稀がつい、手を伸ばそうとしたとのとき、羅凍の気配がして留まる。
「お疲れ様でした」
羅凍は蓮羅に近づき労うものの、抱き上げはしない。
「ありがとうございます」
笑顔の蓮羅も、親子とは感じさせない一線があった。
夕食を終え、蓮羅が眠りについただろうころ、沙稀は羅凍の客間に向かう。一言二言交わして、今度は羅凍とあいさつ程度の手合わせをする。
『軽く』と敢えて伝えた。以前の二の舞を踏まないためだ。
剣士たちのいない稽古場へと誘い、稽古用の剣を手渡す。互いの剣を腰に携えたまま、じゃれるような手合わせを、友情の確認のように行う。
遊び半分のような手合わせでも、沙稀は羅凍が格段に腕を上げたと実感した。体制の立て直しのはやさや、次の手への隙がなくなってきている。単に嗜んでいた友人が剣に打ち込んでいると伝わるのはうれしいことで、『今度はいよいよ力試しと言えなくなってきたかもしれない』と、沙稀はひとり苦笑いをした。
羅凍に伝えれば喜ぶかもしれないが、謙遜するだろう。だからこそ、そっと胸の奥にしまっておく。
切り上げてから、草原に座るかのように床に腰を下ろす。互いの身分がどう変わろうが、気楽な付き合いは変わっていない。
「まだ……はやかった?」
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