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還
【44】それぞれの――サイドB(2)
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「結構です。このまま走らせて下さい」
即答だ。忒畝に迷いはない。
馬車は速度を上げる。
忒畝は、ゆっくりと瞳を閉じた。
今になって、落胆した意味を思い知る。
忒畝は、期待していた。無事に生きている我が子の姿がないことを。
けれど、それは──誄の別れの言葉が、真実だった照明。信じたくないと都合のいいように解釈し、誄を信じようとしてきた照明だ。
──ああ……。
悔しさがにじむ。
罵倒もしないあの余裕。忒畝に対し、相手でもないというあの余裕の態度。何年も経つつことと、今更かもしれないが責めてくれた方が、殴ってくれた方が、忒畝はどんなに救われたことか。
沸々と憎しみが沸き、腹立たしい。
消えない想いが、ずっと、残っていた。
子どもが見たいと鴻嫗城まで来て、その姿のないことを願っていた。──そう、子どもの姿を確認するだけなら、誄の出産当時のものを集めればよかっただけの話だ。
誄に会いたかったのだ、本心は。一目でも、見たかったのだ。
──滑稽だ。
涙がいくつも落ちる。
彼女を求めて体調を悪くし、何度も起きられなくなって、周りに心配をかけた。それでも、彼女に傍にいてほしいと願っていた。
自ら馬車を出してくれと言っておいて、遠のいていく彼女を求めてやまない。悲痛に叫んで、追いかけてきたからこそ、忒畝は馬車を走らせた。
会いたかった、すごく。何年も待っていたのだ、本心は。
でも、いいのだ。
遠目でも、見られたのだから。
たとえ忒畝が泣いて縋ったところで、誄は忒畝のもとには来ない。だから、身が引きちぎられるほど辛くても、誄には僅かな気持ちであっても、深く残したかった。
どんな気持ちであろうとも。
単に自己満足だ。
愚かしい。
惨めだ。
──いつから僕は、こんな人間になってしまったのだろう。
気を引く行為に過ぎない、くだらないことをした。
止まって話を聞けば、終わりだった。誄の中で忒畝は過去の人になる。誄の中で、忒畝が終わる。
だからだ。終わらせないために、逃げた。
──もう……彼女に会う日は、恐らく来ない。
誄は忒畝に言えなかった言葉を引きずり、抱えて、苦しむ。
深い後悔に苛まれる。
そうして忒畝は、誄の中を生き続ける。
終わりは来ない。
誄が後悔したとき、忒畝はいないのだから。
──本当は、こんなことをしたいわけではなかった。
ただ静かに、最期を待つ準備をしたかっただけだった。
馬車を降り、忒畝はていねいに礼を告げて船に乗り込む。心を反映させたような、どんよりとした曇り空は、今にも泣き崩れそうだった。
翌日、船を降りて見慣れた光景を視界に映すと、船着き場に馨民がいた。
「お帰りなさい」
忒畝は己を情けなく思う。彼女は忒畝をわざわざ緋倉まで迎えに来てくれていた。
多分、行先を聖水に聞いて、充忠にうまく言って来た。忒畝の思考もよみ、調度の時間に合わせて。
『ただいま』
──ただいま……僕らしくいられる場所。
「おう。おかえり」
忒畝と馨民を、充忠が出迎える。
「ただいま」
苦笑いの忒畝と、明るい馨民の声が重なる。
充忠がふと笑う。──充忠は、馨民が忒畝の迎えに行っていたとそもそもわかっていたのかもしれない。
和やかな時間はあっという間に過ぎていき、一日が終わろうとしていた。忒畝はベッドに体を横たえ、ここ数ヶ月でうっすらと考え始めていたことを頭の中で整理し、明日に備える。
──明日、聖水に謝ろう。それで、そのときに話そう。
あれこれと続けて考えをまとめ、そのまま眠りに落ちていった。
カーテンから差し込む光で朝を迎え、忒畝は眼鏡をかける。
ベッドから体を起こし、カーテンをサッと開ける。日差しを気持ちよく浴び、時計を確認しつつ身支度を整え、朝食へと向かう。
朝食後、忒畝は珍しく職場へと向かわなかった。足を運んだのは、聖水の部屋。
ノックをすると、聖水が顔を出す。──彼女は食堂で食事を摂らずに自炊をしている。聖水も朝食を終えたころだ。
「この間はごめんね」
忒畝が正直に伝えると、聖水は少し肩を上げ、不思議そうに首を傾げてから横に振る。そして、忒畝を部屋へと招く。
忒畝が着席すると、数分も経たずテーブルにアップルティーが出された。『合わせなくていいよ』と忒畝が言うと、
「私も……すっかり好きなの」
と、微笑んで聖水は言う。
忒畝はゆっくりとアップルティーを口に含む。やさしい気持ちが心にあふれ、沁みていく。心安らぐ時間を、香りが呼び戻す。
聖水を妹のように思おうとしたときもあった。けれど、聖水の瞳は、忒畝をずっと異性として見ていることに変わりない。
嫌われればいいと開き直っていた時期もあった。嫌われれば、聖水を解放できると信じて。──けれど、いつからか。それが忒畝の甘えになっていた。
聖水は決して忒畝を嫌わず許すと感じ取り、都合のいいように扱っていたと自覚がある。忒畝がどんなに自分勝手に振舞ったところで、聖水は『忒畝らしくない』と思わないのだろうし、口にもしない。どんな忒畝であっても、『忒畝』と受け止めてくれていた。
ずるいことをした。酷いことをした。たくさん、傷つけた。
素直で純粋な聖水への、せめてものお礼を忒畝はしたいと考えていた。忒畝ができる限りの、関係を、再構築するための事柄を。
今なら忒畝は言えるのだ。聖水に、『ありがとう』と。
少し緊張した忒畝が、すうっと息を吸い込む。そして──。
「一緒に……僕の研究をしてみない?」
もし、この言葉を聞いたのが充忠や馨民だったら、迷わずに拒否しただろう。忒畝がどれだけ研究に没頭し、他者と遮断する事柄だと理解しているから。
だが、まったく知らない聖水は弾んだ声で、
「いいの?」
と、瞳を輝かせる。
聖水にとっては、忒畝の手伝いが何かできるという喜びであふれていた。
キラキラした瞳は忒畝にとっては子どもに見られているようで、どこかむず痒い。
「いいんだよ……というより、僕から言っていることなんだから」
忒畝が笑えば、『でも』と聖水が眉を下げる。
「もう一度、聞くね。一緒に僕の研究をしてみる気は、ある?」
「はい」
照れた様子で答える聖水は、まるでプロポーズを受け取るかのようで──忒畝は食い違いに笑みをこぼす。
「これからよろしくね。……ありがとう」
翌日、忒畝は聖水を研究室へと招き入れる。──その光景を馨民が遠目で見てしまって、息が止まりかけた。馨民にとっては、忒畝と唯一、一線が引かれる扉だったから。
一方の忒畝は、初日から『思った通りだった』と実感する。聖水は飲み込みがはやい。基礎知識がないものの、素直に何でも吸収していく。
真っ直ぐに忒畝を見る姿は、師と慕うようであり、我が子に教えるようなやわらかく不思議な感覚を覚えた。
その夜、忒畝は聖水を『共同研究者』として名を記す。
半年が経ち、忒畝は驚く。
思いもしなかった人物が駆け込んできた。しかも、助けを求めて。忒畝は冷静に応対し、充忠を呼ぶ。
即答だ。忒畝に迷いはない。
馬車は速度を上げる。
忒畝は、ゆっくりと瞳を閉じた。
今になって、落胆した意味を思い知る。
忒畝は、期待していた。無事に生きている我が子の姿がないことを。
けれど、それは──誄の別れの言葉が、真実だった照明。信じたくないと都合のいいように解釈し、誄を信じようとしてきた照明だ。
──ああ……。
悔しさがにじむ。
罵倒もしないあの余裕。忒畝に対し、相手でもないというあの余裕の態度。何年も経つつことと、今更かもしれないが責めてくれた方が、殴ってくれた方が、忒畝はどんなに救われたことか。
沸々と憎しみが沸き、腹立たしい。
消えない想いが、ずっと、残っていた。
子どもが見たいと鴻嫗城まで来て、その姿のないことを願っていた。──そう、子どもの姿を確認するだけなら、誄の出産当時のものを集めればよかっただけの話だ。
誄に会いたかったのだ、本心は。一目でも、見たかったのだ。
──滑稽だ。
涙がいくつも落ちる。
彼女を求めて体調を悪くし、何度も起きられなくなって、周りに心配をかけた。それでも、彼女に傍にいてほしいと願っていた。
自ら馬車を出してくれと言っておいて、遠のいていく彼女を求めてやまない。悲痛に叫んで、追いかけてきたからこそ、忒畝は馬車を走らせた。
会いたかった、すごく。何年も待っていたのだ、本心は。
でも、いいのだ。
遠目でも、見られたのだから。
たとえ忒畝が泣いて縋ったところで、誄は忒畝のもとには来ない。だから、身が引きちぎられるほど辛くても、誄には僅かな気持ちであっても、深く残したかった。
どんな気持ちであろうとも。
単に自己満足だ。
愚かしい。
惨めだ。
──いつから僕は、こんな人間になってしまったのだろう。
気を引く行為に過ぎない、くだらないことをした。
止まって話を聞けば、終わりだった。誄の中で忒畝は過去の人になる。誄の中で、忒畝が終わる。
だからだ。終わらせないために、逃げた。
──もう……彼女に会う日は、恐らく来ない。
誄は忒畝に言えなかった言葉を引きずり、抱えて、苦しむ。
深い後悔に苛まれる。
そうして忒畝は、誄の中を生き続ける。
終わりは来ない。
誄が後悔したとき、忒畝はいないのだから。
──本当は、こんなことをしたいわけではなかった。
ただ静かに、最期を待つ準備をしたかっただけだった。
馬車を降り、忒畝はていねいに礼を告げて船に乗り込む。心を反映させたような、どんよりとした曇り空は、今にも泣き崩れそうだった。
翌日、船を降りて見慣れた光景を視界に映すと、船着き場に馨民がいた。
「お帰りなさい」
忒畝は己を情けなく思う。彼女は忒畝をわざわざ緋倉まで迎えに来てくれていた。
多分、行先を聖水に聞いて、充忠にうまく言って来た。忒畝の思考もよみ、調度の時間に合わせて。
『ただいま』
──ただいま……僕らしくいられる場所。
「おう。おかえり」
忒畝と馨民を、充忠が出迎える。
「ただいま」
苦笑いの忒畝と、明るい馨民の声が重なる。
充忠がふと笑う。──充忠は、馨民が忒畝の迎えに行っていたとそもそもわかっていたのかもしれない。
和やかな時間はあっという間に過ぎていき、一日が終わろうとしていた。忒畝はベッドに体を横たえ、ここ数ヶ月でうっすらと考え始めていたことを頭の中で整理し、明日に備える。
──明日、聖水に謝ろう。それで、そのときに話そう。
あれこれと続けて考えをまとめ、そのまま眠りに落ちていった。
カーテンから差し込む光で朝を迎え、忒畝は眼鏡をかける。
ベッドから体を起こし、カーテンをサッと開ける。日差しを気持ちよく浴び、時計を確認しつつ身支度を整え、朝食へと向かう。
朝食後、忒畝は珍しく職場へと向かわなかった。足を運んだのは、聖水の部屋。
ノックをすると、聖水が顔を出す。──彼女は食堂で食事を摂らずに自炊をしている。聖水も朝食を終えたころだ。
「この間はごめんね」
忒畝が正直に伝えると、聖水は少し肩を上げ、不思議そうに首を傾げてから横に振る。そして、忒畝を部屋へと招く。
忒畝が着席すると、数分も経たずテーブルにアップルティーが出された。『合わせなくていいよ』と忒畝が言うと、
「私も……すっかり好きなの」
と、微笑んで聖水は言う。
忒畝はゆっくりとアップルティーを口に含む。やさしい気持ちが心にあふれ、沁みていく。心安らぐ時間を、香りが呼び戻す。
聖水を妹のように思おうとしたときもあった。けれど、聖水の瞳は、忒畝をずっと異性として見ていることに変わりない。
嫌われればいいと開き直っていた時期もあった。嫌われれば、聖水を解放できると信じて。──けれど、いつからか。それが忒畝の甘えになっていた。
聖水は決して忒畝を嫌わず許すと感じ取り、都合のいいように扱っていたと自覚がある。忒畝がどんなに自分勝手に振舞ったところで、聖水は『忒畝らしくない』と思わないのだろうし、口にもしない。どんな忒畝であっても、『忒畝』と受け止めてくれていた。
ずるいことをした。酷いことをした。たくさん、傷つけた。
素直で純粋な聖水への、せめてものお礼を忒畝はしたいと考えていた。忒畝ができる限りの、関係を、再構築するための事柄を。
今なら忒畝は言えるのだ。聖水に、『ありがとう』と。
少し緊張した忒畝が、すうっと息を吸い込む。そして──。
「一緒に……僕の研究をしてみない?」
もし、この言葉を聞いたのが充忠や馨民だったら、迷わずに拒否しただろう。忒畝がどれだけ研究に没頭し、他者と遮断する事柄だと理解しているから。
だが、まったく知らない聖水は弾んだ声で、
「いいの?」
と、瞳を輝かせる。
聖水にとっては、忒畝の手伝いが何かできるという喜びであふれていた。
キラキラした瞳は忒畝にとっては子どもに見られているようで、どこかむず痒い。
「いいんだよ……というより、僕から言っていることなんだから」
忒畝が笑えば、『でも』と聖水が眉を下げる。
「もう一度、聞くね。一緒に僕の研究をしてみる気は、ある?」
「はい」
照れた様子で答える聖水は、まるでプロポーズを受け取るかのようで──忒畝は食い違いに笑みをこぼす。
「これからよろしくね。……ありがとう」
翌日、忒畝は聖水を研究室へと招き入れる。──その光景を馨民が遠目で見てしまって、息が止まりかけた。馨民にとっては、忒畝と唯一、一線が引かれる扉だったから。
一方の忒畝は、初日から『思った通りだった』と実感する。聖水は飲み込みがはやい。基礎知識がないものの、素直に何でも吸収していく。
真っ直ぐに忒畝を見る姿は、師と慕うようであり、我が子に教えるようなやわらかく不思議な感覚を覚えた。
その夜、忒畝は聖水を『共同研究者』として名を記す。
半年が経ち、忒畝は驚く。
思いもしなかった人物が駆け込んできた。しかも、助けを求めて。忒畝は冷静に応対し、充忠を呼ぶ。
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