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王位継承──前編
【41】継ぐ者2(3)
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「すまないが、俺から遠慮をさせて頂く。恭姫は軽度の桃アレルギーなんだ」
沙稀の言葉に、渡そうとしていた女性は震えて詫びる。恭良に場を収める気配はない。目を見開いて、ぼんやりと沙稀を見ている。
「気持ちには感謝する。気に病まなくていい。君や、これを用意してくれた者は、恭姫の専任シェフではないのだろうから」
そう告げても、女性は涙ながらに恭良に詫びる。だが、恭良はまだ呆然としているようで、これと言った反応はない。
「恭姫、行きましょう」
沙稀の言葉に反応し、コクリとうなづく。沙稀が歩き始めると、恭良も歩き出してくれた。
すると、厨房の方からポツリと一言だけ聞こえてくる。
「桃のゼリーが食べたいとおっしゃったのは、恭良様だったのに……」
それを耳にした沙稀は、恭良としっかり話さなければならないと感じた。
沙稀は恭良が追いつくのを待ち、来た道を戻らず稽古場を抜けて本来、恭良が歩くべき道へと誘導する。人気がなくなってきたところで、沙稀は口を開く。
「恭姫が桃をお好きなのは存じています」
「うん」
「ですが、食後お体に不快な症状が出てしまうことも知っています」
「うん」
恭良は『うん』しか言わない。食べたかったのかと聞こうとしたが、返ってくる返事がわかっていて、聞く意味はない。
沙稀の足はゆるんだが、恭良は変わらずに歩いて行く。距離はすこしだけ開いた。──さみしそうにドレスの裾がふんわり、ふんわりと揺れている。本当に就任直後のころに恭良は戻ってしまったようで。
悲しみに押しつぶされそうになったのか、沙稀の足は止まる。恭良までの距離は、およそ一メートル。互いに手を伸ばせば、届きそうな──長いこと、恭良とはこの距離を保っていたはずだった。互いに手を伸ばせば届く、安心感と不安を均一に保った、危うそうで安全な距離。
崩れてしまったのは、いつからだっただろう。
「大丈夫ですか?」
恭良の足が止まる。
「何が?」
今度は異なる返事が返って来た。ただし、話し方が普段と違う。力のない、舌足らずとも聞こえた声。
尚且つ、恭良は背を向けたままだ。
「無理……してるじゃないですか」
「ううん。そんなことないよ」
言葉とは裏腹に、声に力は戻ってこない。
「俺に、嘘を言わないで下さい。昔、散々無理している恭姫を見ていたんですから」
恭良の返答はない。
空気が徐々に重力を増してくるように重くなる。ふんわりとしていた恭良のドレスの裾も、重みを感じたかのように、静かだ。
無言の数秒が何十秒、何分に感じられ、沙稀は耐えがたくなる。
「俺が護衛に就任して間もないころ……『お好きに処分して下さって構わない』と恭姫によく言っていましたよね。それは俺の中で変わっていません」
「そう……わかったわ。沙稀を私の護衛の任から解きます」
恭良の一言で、七年間しっかりと繋がっていた糸がプツリと切られる。視線を恭良の足元から逸らし、沙稀は踵を返そうとした。そのとき──。
「何も、言ってくれないのね」
ポツリと。しかし、しっかりと恭良の言葉が聞こえ、沙稀の視線は戻る。
何のことを言っているのか。思考を巡らせていると、恭良が振り向く。
「婚約のこと。私がはやく婚約するように大臣と話しておいて……自分が婚約することは、私に言ってくれないのね」
「俺は婚約するなんて、言っていません」
恭良の口調は責めるようなもので、否定の言葉は強くなる。
「私が前に、凪裟のことをきちんと考えてって言ったときは……断ったのよね?」
「きちんと考えた結果です。俺は恭姫に仕えていて、他の誰かをそれ以上に考えることはできないと判断したまでです」
「だって……」
「それとも」
過ぎた話を掘り返され、いつになく恭良に強い口調で言葉を返す。
もう護衛の任は解かれた。護衛でない以上、今後、恭良に会う機会は極端に減る。いや、皆無に等しくなるかもしれない。こうなれば、関係を崩さないようにと言えなかったことを、最後に言ってしまうのも悪くないとさえ思える。
恭良から凪裟を勧められたときは、どんなに心が抉られたことか。その後に同じ日に結婚することを条件に出されたときも同様だ。流しきれずに、滞っている聞けなかったことがある。
「あの言葉は、恭姫のご命令だったのですか?」
何を言われてもいいと覚悟を決めた声に、恭良は下を向く。恐怖を感じているのか、ドレスを右手で握る。
「違う」
やっと聞き取れるくらいの小さな声。
「でも、それじゃあ……」
恭良が沙稀を見る。
「沙稀は……もしそうなら、従ったって言うの?」
「はい。恭姫が本気でそうおっしゃるのでしたら。俺は……最後の命令として従いましょう」
「じゃあ、沙稀は! 私が誰と結婚してもいいって言うの?」
恭良は両手を強く握り、沙稀に詰め寄る。
「恭姫がその方でいいと、納得して下さるのなら」
「私に……納得しろって言うの?」
今にも泣きそうなその声。涙を浮かべそうなのは、沙稀も同じ。ただ、それを堪える。
「俺には恭姫に対して、ああしろこうしろなんて言えません」
恭良にとっては冷たい言葉だ。護衛と姫の関係は終わったと、これまでの信頼関係も終わりだと告げたも同然。
「酷い!」
恭良の感情があふれる。それは、涙とともに。
「私が沙稀を好きだとわかっているのに、沙稀じゃないと嫌なのに! 私は、沙稀と離れたくないのに……そんな言い方するの?」
まるでこれまでの歳月は、単に『鴻嫗城の姫』だったからかと言っているように聞こえる。
確かに、その通りだ。ただ、すこし意味が違うのは、そう思っていたからこそ、護衛という立場もあったからこそ気持ちを抑えていたということ。
この際だ。
遠慮せずに言い、仲違いしてしまっても問題ない。
「そういう風におっしゃってばかりいると、俺以外の他の誰とも婚約もできないようにしてしまいますよ? 離しませんよ、俺」
どうにでもなれ。自棄だ。
しかし、その言葉で恭良のこぼれていた涙が嘘のように止まる。
「本当?」
疑うような、それでいて、うれしそうな表情を浮かべる恭良。
「その気持ちは本当?」
くり返された言葉と、あまりにもうれしそうな恭良の微笑み。それは沙稀に、話しの流れを吹き飛ばせた。
思わず安堵し、自然と微笑んでしまう。
「はい」
その数秒後のことを沙稀は一瞬、理解できなかった。恭良がすっと間近にきて、唇にやわらかい感触が伝わる。
あまりの驚きに、瞳を閉じることができない。時間の概念は狂い、ゆっくりとクロッカスの髪が目の前でなびき、徐々に開くまぶたからクロッカスの瞳が沙稀を見つめる。
その瞳は恭良のもので。目の前にいる恭良は、頬を赤らめてにっこりと微笑んでいる。
「ずっと、一緒にいてね」
ようやくなにが起こったのかを理解すると、今度は顔が急激に熱くなっていく。沙稀は言葉を失い、しばらく顔を伏せ頭を整理する。
「お守りします。貴女の、そのすべてを」
手を伸ばし、恭良の手に触れ、もう片方の手を重ねる。
「一生、離しません」
「ごちそ~さん」
意外な人物の声がふと聞こえ、沙稀は右に首を動かす。
ここは丁字路。いつの間に、右側の通路に瑠既がいたのだろうか。涼しい顔で笑うと、瑠既は背を向けて来たであろう道を戻って行く。ひらひらと右手を振って。
「大臣に言わなくっちゃね」
恭良はもう片方の手を重ね、強く沙稀の手を両手で握り返す。
無邪気な笑顔。弾んだ声。それは、沙稀が恭姫と呼ぶようになってから、ずっと守ってきたものだった。
沙稀の言葉に、渡そうとしていた女性は震えて詫びる。恭良に場を収める気配はない。目を見開いて、ぼんやりと沙稀を見ている。
「気持ちには感謝する。気に病まなくていい。君や、これを用意してくれた者は、恭姫の専任シェフではないのだろうから」
そう告げても、女性は涙ながらに恭良に詫びる。だが、恭良はまだ呆然としているようで、これと言った反応はない。
「恭姫、行きましょう」
沙稀の言葉に反応し、コクリとうなづく。沙稀が歩き始めると、恭良も歩き出してくれた。
すると、厨房の方からポツリと一言だけ聞こえてくる。
「桃のゼリーが食べたいとおっしゃったのは、恭良様だったのに……」
それを耳にした沙稀は、恭良としっかり話さなければならないと感じた。
沙稀は恭良が追いつくのを待ち、来た道を戻らず稽古場を抜けて本来、恭良が歩くべき道へと誘導する。人気がなくなってきたところで、沙稀は口を開く。
「恭姫が桃をお好きなのは存じています」
「うん」
「ですが、食後お体に不快な症状が出てしまうことも知っています」
「うん」
恭良は『うん』しか言わない。食べたかったのかと聞こうとしたが、返ってくる返事がわかっていて、聞く意味はない。
沙稀の足はゆるんだが、恭良は変わらずに歩いて行く。距離はすこしだけ開いた。──さみしそうにドレスの裾がふんわり、ふんわりと揺れている。本当に就任直後のころに恭良は戻ってしまったようで。
悲しみに押しつぶされそうになったのか、沙稀の足は止まる。恭良までの距離は、およそ一メートル。互いに手を伸ばせば、届きそうな──長いこと、恭良とはこの距離を保っていたはずだった。互いに手を伸ばせば届く、安心感と不安を均一に保った、危うそうで安全な距離。
崩れてしまったのは、いつからだっただろう。
「大丈夫ですか?」
恭良の足が止まる。
「何が?」
今度は異なる返事が返って来た。ただし、話し方が普段と違う。力のない、舌足らずとも聞こえた声。
尚且つ、恭良は背を向けたままだ。
「無理……してるじゃないですか」
「ううん。そんなことないよ」
言葉とは裏腹に、声に力は戻ってこない。
「俺に、嘘を言わないで下さい。昔、散々無理している恭姫を見ていたんですから」
恭良の返答はない。
空気が徐々に重力を増してくるように重くなる。ふんわりとしていた恭良のドレスの裾も、重みを感じたかのように、静かだ。
無言の数秒が何十秒、何分に感じられ、沙稀は耐えがたくなる。
「俺が護衛に就任して間もないころ……『お好きに処分して下さって構わない』と恭姫によく言っていましたよね。それは俺の中で変わっていません」
「そう……わかったわ。沙稀を私の護衛の任から解きます」
恭良の一言で、七年間しっかりと繋がっていた糸がプツリと切られる。視線を恭良の足元から逸らし、沙稀は踵を返そうとした。そのとき──。
「何も、言ってくれないのね」
ポツリと。しかし、しっかりと恭良の言葉が聞こえ、沙稀の視線は戻る。
何のことを言っているのか。思考を巡らせていると、恭良が振り向く。
「婚約のこと。私がはやく婚約するように大臣と話しておいて……自分が婚約することは、私に言ってくれないのね」
「俺は婚約するなんて、言っていません」
恭良の口調は責めるようなもので、否定の言葉は強くなる。
「私が前に、凪裟のことをきちんと考えてって言ったときは……断ったのよね?」
「きちんと考えた結果です。俺は恭姫に仕えていて、他の誰かをそれ以上に考えることはできないと判断したまでです」
「だって……」
「それとも」
過ぎた話を掘り返され、いつになく恭良に強い口調で言葉を返す。
もう護衛の任は解かれた。護衛でない以上、今後、恭良に会う機会は極端に減る。いや、皆無に等しくなるかもしれない。こうなれば、関係を崩さないようにと言えなかったことを、最後に言ってしまうのも悪くないとさえ思える。
恭良から凪裟を勧められたときは、どんなに心が抉られたことか。その後に同じ日に結婚することを条件に出されたときも同様だ。流しきれずに、滞っている聞けなかったことがある。
「あの言葉は、恭姫のご命令だったのですか?」
何を言われてもいいと覚悟を決めた声に、恭良は下を向く。恐怖を感じているのか、ドレスを右手で握る。
「違う」
やっと聞き取れるくらいの小さな声。
「でも、それじゃあ……」
恭良が沙稀を見る。
「沙稀は……もしそうなら、従ったって言うの?」
「はい。恭姫が本気でそうおっしゃるのでしたら。俺は……最後の命令として従いましょう」
「じゃあ、沙稀は! 私が誰と結婚してもいいって言うの?」
恭良は両手を強く握り、沙稀に詰め寄る。
「恭姫がその方でいいと、納得して下さるのなら」
「私に……納得しろって言うの?」
今にも泣きそうなその声。涙を浮かべそうなのは、沙稀も同じ。ただ、それを堪える。
「俺には恭姫に対して、ああしろこうしろなんて言えません」
恭良にとっては冷たい言葉だ。護衛と姫の関係は終わったと、これまでの信頼関係も終わりだと告げたも同然。
「酷い!」
恭良の感情があふれる。それは、涙とともに。
「私が沙稀を好きだとわかっているのに、沙稀じゃないと嫌なのに! 私は、沙稀と離れたくないのに……そんな言い方するの?」
まるでこれまでの歳月は、単に『鴻嫗城の姫』だったからかと言っているように聞こえる。
確かに、その通りだ。ただ、すこし意味が違うのは、そう思っていたからこそ、護衛という立場もあったからこそ気持ちを抑えていたということ。
この際だ。
遠慮せずに言い、仲違いしてしまっても問題ない。
「そういう風におっしゃってばかりいると、俺以外の他の誰とも婚約もできないようにしてしまいますよ? 離しませんよ、俺」
どうにでもなれ。自棄だ。
しかし、その言葉で恭良のこぼれていた涙が嘘のように止まる。
「本当?」
疑うような、それでいて、うれしそうな表情を浮かべる恭良。
「その気持ちは本当?」
くり返された言葉と、あまりにもうれしそうな恭良の微笑み。それは沙稀に、話しの流れを吹き飛ばせた。
思わず安堵し、自然と微笑んでしまう。
「はい」
その数秒後のことを沙稀は一瞬、理解できなかった。恭良がすっと間近にきて、唇にやわらかい感触が伝わる。
あまりの驚きに、瞳を閉じることができない。時間の概念は狂い、ゆっくりとクロッカスの髪が目の前でなびき、徐々に開くまぶたからクロッカスの瞳が沙稀を見つめる。
その瞳は恭良のもので。目の前にいる恭良は、頬を赤らめてにっこりと微笑んでいる。
「ずっと、一緒にいてね」
ようやくなにが起こったのかを理解すると、今度は顔が急激に熱くなっていく。沙稀は言葉を失い、しばらく顔を伏せ頭を整理する。
「お守りします。貴女の、そのすべてを」
手を伸ばし、恭良の手に触れ、もう片方の手を重ねる。
「一生、離しません」
「ごちそ~さん」
意外な人物の声がふと聞こえ、沙稀は右に首を動かす。
ここは丁字路。いつの間に、右側の通路に瑠既がいたのだろうか。涼しい顔で笑うと、瑠既は背を向けて来たであろう道を戻って行く。ひらひらと右手を振って。
「大臣に言わなくっちゃね」
恭良はもう片方の手を重ね、強く沙稀の手を両手で握り返す。
無邪気な笑顔。弾んだ声。それは、沙稀が恭姫と呼ぶようになってから、ずっと守ってきたものだった。
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