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譲れないもの
【16】あの日(2)
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何秒が経ったのだろう。男はしばらく立ち止まっていたが、周囲を見渡し、首を傾げた。男は何もなかったかのように再び歩き始めていく。
まったく生きた心地がしなかった。細い息が、長くもれる。
男の姿が見えなくなっても、瑠既はしばらく動けなかった。指がわずかに動いて、ようやく大きく息を吸う。
少し経ち、瑠既は行こうと思っていた方向にやっと歩き始め、なんとなく、男はどこへ行くのかと考えた──瞬時、血の気が引いた。男の歩いて行った道は、瑠既の部屋へと続く道だった。
弟を捜し回って城内をあちこち歩いていなければ、男と鉢合わせしていた可能性は高い。いや、もしかしたら、瑠既の部屋に来ていたかもしれない。
恐怖に涙が出そうになる。
「はやく……会いたい」
弟に会えば、大丈夫。そう言い聞かせる。体の弱い瑠既を庇ってか、弟は三歳のころから剣を習っていた。その姿は、父の背を追うようにも見えた。
自分とさほど背格好が変わらないのに、なぜか大きく見えた弟の背中。
ふと、男が歩いてきた方向の先に、『弟がいる』──なぜか、瑠既はそんな気がした。
男が歩いてきただろう道を辿ると、地下へと続いていた。地下には実験施設や装置がある。瑠既は普段、あまり来ない場所だ。
空気が徐々に冷たい風に変わる。橙の光が揺れ、静かに歩く足音が響く。
「はぁはぁはぁ……」
過呼吸気味に息が乱れているのを感じ、壁に手をつく。胸を抑え、呼吸を整える。これは、瑠既にとってはいつものことだ。
苦しさのあまり俯き、目をつぶる。呼吸が整い始めると、つぶった目をうっすらと開けた。──そのとき、眩しい光を目にした。
その光はひとつのドアの前でこぼれ、廊下に広がっていた。ドアの前に視線を移すと、そのドアは少しだけ開いている。
導かれるように、フラリと光へ向かっていく。
ドアを覗くと、ふしぎと人の気配はなかった。だが、瑠既は足を止めない。
「いる」
弟がいると、妙な確信があった。一足、また一足と部屋へ入っていく。
部屋に入るにつれて、冷たい空気がどこからか流れ込んできた。どうやらここは、研究施設で使うものを保管する場所のようだ。見上げると、薬品や液体などが陳列され、冷やされている。
キョロキョロと見渡していた瑠既が、何気なく視線を下げる。そこには、大きな冷凍室があり、妙に目についた。
冷たい冷気が視線の先から流れてくる。
ジッと一点を見ていた瑠既だったが、ふと我に返る。
「こんなところまで、いつの間に……」
普段は近寄らないこの部屋の、ずいぶん奥深くまで入ってきてしまっていた。
「ここにいると思ったのは、勘違いだ」
言い聞かせるように言って、部屋を出ようと思ったときだった。何かが視界に入った。目を疑いながら振り返ると──そこに弟はいた。
信じられなかった。夢であってほしかった。夢なら、目覚めてほしかった。
視線が止まったのは、冷凍室に入っている大きなクリアケ─ス。それを見て、瑠既の目の前は一瞬で真っ白になった。
声にならぬ声。もはやそれは、うめき声だ。
涙は滲んで、流れた。
両手を冷凍室につける。ひんやりと冷たい感覚を両手で感じながら、信じられぬ光景をジッと見つめる。冷凍室の大きなクリアケ─スの中で、ただ静かに横たわっていた姿を。
「なんで……こんな……」
言葉を忘れてしまったかのように、瑠既は途切れ途切れに呟いた。
横たわっているのは、双子の弟だった。クロッカスの長い、長い髪の──瑠既と同じ色、長さの髪を持つ双子の弟の姿。いつも腰につけている剣は、ない。恐らくこの中に入る前も、今のように眠っていたのだろう。弟は眠るときだけ腰から剣を外していた。
視界に弟を映して、寒気に襲われた。途端に体の芯が寒くなっていく。力が抜けて、しゃがみ込む。
震え、すっかり冷えてしまった両手で己の体を包むように抱く。
目覚めたときの、体の違和感の正体がわかった。弟の感覚は双子ゆえに伝わってきたのだと。
『瑠既!』
夢で聞こえたあの声は、確かに弟が助けを求め、叫んだものだ。窮地に追い込まれ、弟は頼りにならないこの兄を呼んでくれていた。それなのに、助けられなかったと奥歯を噛む。
「……稀ぃ」
悔しいなんてものではない。情けないどころではない。ごめんと謝っても、すまされない。懺悔と後悔が募るが、それらはどれも言葉にはならなかった。
瑠既は弟に手を伸ばす。
どんなときも支えてくれていたのに、助けてくれたのに、何もできない。どうしたらいいのかも、わからない。弟に申し訳なくて、様々な想いで胸がいっぱいになる。
弟はやさしかった。その分、瑠既がわがままを言えたり、母に甘えられたりした。弟の方が兄のようで、瑠既はうれしかった。そのくらい、甘えん坊だった。
弟のいる空間は居心地がよく、安心できた。──それなのに今は。弟が目の前にいるのに、まったく違う。弟は遠くに離れてしまっているかのようだ。いつも一緒の弟と、離れる日が来るなど想像したこともない。
うずくまって泣いた。恐怖も忘れて。泣いて泣いて、ようやく弟のためにできることは何かと考えた。
「助けたい」
気持ちはそれだけだった。ただ、どうしたら助けられるのかはわからなかった。ひとりでは、何もできない。
誰かに助けを求めなければ。──しかし、誰と、答えは出ない。少なくとも、あの男には助けを求められない。
それならば、ここを出るしかない。ここを出れば、すぐ近くに婚約者の幼なじみがいる。その両親だって、きっと力を貸してくれる。
──ここを出よう。
ただ、問題があった。もし、弟をこのようにしたのが、あの男だったなら。正門から出るのは危険だ。──正門から出られないのであれば、もうひとつ出入口を使うしかない。ここには、限られた人しか知らない裏門がある。
瑠既は何とか立ちあがる。
「俺が助けなきゃ」
重く冷えた体で、瑠既は歩き始めた。
何とか瑠既は裏門に着いた。だが、体力は限界に近い。うな垂れたように歩いていると、声が聞こえた。
「瑠既様!」
顔を上げると、三十代前半の男がいた。瞳が瑠既たちよりも桃色がかっている紫。長く、ひとつにまとまった髪は瞳よりも薄い色をしている。一週間前までここにいた、双子の教育係の大臣だ。
大臣がここを不在にしたのは、噂が原因だ。涼舞城が攻め込まれたという噂。その確認と、事実なら援護のために、大臣はしばらく留守にしていた。
涼舞城は双子の父の生家だというが、瑠既も弟も行ったことはない。──それは父の死が関係している。父は双子が生まれる前に、他界していた。双子の生家であるここ──鴻嫗城で、汚名を着せられて。
大臣がすぐに帰城しなかったのは、涼舞城は噂通り攻められていたということだ。大臣が援護をしていたお蔭か、体制は優勢になったという噂を双子は耳にしていた。だからこそ、弟は大丈夫だと言ったのだろう。そろそろ、大臣が戻ってくるはずだと思って。双子が生まれたときから、教育係としてそばにいた大臣。双子の信頼は厚い。
その大臣を目の前にして、瑠既は安堵した。
「……っ、大臣っ」
声にならぬ声で求め、泣いた。大臣は駆け寄り、抱き締める。
「申し訳ありません。貴男たちのもとから、離れるべきではありませんでした」
寝間着で裸足のままの瑠既を見て、何かが城内で起こっていると大臣は察知した。顔をしかめる。いつも一緒にいる双子が、片方しかいない。しかも、決してひとりで外を出歩くようなことがない瑠既が、ぼろぼろの状態で裏門にいた。どんな思いでここまでひとりで歩いてきたのかを想像するだけで、大臣の胸は詰まる。
尚且つ、いない双子の弟の万一を想像するだけで──大臣は激しい後悔に襲われていた。
「……稀が、沙稀が!」
まったく生きた心地がしなかった。細い息が、長くもれる。
男の姿が見えなくなっても、瑠既はしばらく動けなかった。指がわずかに動いて、ようやく大きく息を吸う。
少し経ち、瑠既は行こうと思っていた方向にやっと歩き始め、なんとなく、男はどこへ行くのかと考えた──瞬時、血の気が引いた。男の歩いて行った道は、瑠既の部屋へと続く道だった。
弟を捜し回って城内をあちこち歩いていなければ、男と鉢合わせしていた可能性は高い。いや、もしかしたら、瑠既の部屋に来ていたかもしれない。
恐怖に涙が出そうになる。
「はやく……会いたい」
弟に会えば、大丈夫。そう言い聞かせる。体の弱い瑠既を庇ってか、弟は三歳のころから剣を習っていた。その姿は、父の背を追うようにも見えた。
自分とさほど背格好が変わらないのに、なぜか大きく見えた弟の背中。
ふと、男が歩いてきた方向の先に、『弟がいる』──なぜか、瑠既はそんな気がした。
男が歩いてきただろう道を辿ると、地下へと続いていた。地下には実験施設や装置がある。瑠既は普段、あまり来ない場所だ。
空気が徐々に冷たい風に変わる。橙の光が揺れ、静かに歩く足音が響く。
「はぁはぁはぁ……」
過呼吸気味に息が乱れているのを感じ、壁に手をつく。胸を抑え、呼吸を整える。これは、瑠既にとってはいつものことだ。
苦しさのあまり俯き、目をつぶる。呼吸が整い始めると、つぶった目をうっすらと開けた。──そのとき、眩しい光を目にした。
その光はひとつのドアの前でこぼれ、廊下に広がっていた。ドアの前に視線を移すと、そのドアは少しだけ開いている。
導かれるように、フラリと光へ向かっていく。
ドアを覗くと、ふしぎと人の気配はなかった。だが、瑠既は足を止めない。
「いる」
弟がいると、妙な確信があった。一足、また一足と部屋へ入っていく。
部屋に入るにつれて、冷たい空気がどこからか流れ込んできた。どうやらここは、研究施設で使うものを保管する場所のようだ。見上げると、薬品や液体などが陳列され、冷やされている。
キョロキョロと見渡していた瑠既が、何気なく視線を下げる。そこには、大きな冷凍室があり、妙に目についた。
冷たい冷気が視線の先から流れてくる。
ジッと一点を見ていた瑠既だったが、ふと我に返る。
「こんなところまで、いつの間に……」
普段は近寄らないこの部屋の、ずいぶん奥深くまで入ってきてしまっていた。
「ここにいると思ったのは、勘違いだ」
言い聞かせるように言って、部屋を出ようと思ったときだった。何かが視界に入った。目を疑いながら振り返ると──そこに弟はいた。
信じられなかった。夢であってほしかった。夢なら、目覚めてほしかった。
視線が止まったのは、冷凍室に入っている大きなクリアケ─ス。それを見て、瑠既の目の前は一瞬で真っ白になった。
声にならぬ声。もはやそれは、うめき声だ。
涙は滲んで、流れた。
両手を冷凍室につける。ひんやりと冷たい感覚を両手で感じながら、信じられぬ光景をジッと見つめる。冷凍室の大きなクリアケ─スの中で、ただ静かに横たわっていた姿を。
「なんで……こんな……」
言葉を忘れてしまったかのように、瑠既は途切れ途切れに呟いた。
横たわっているのは、双子の弟だった。クロッカスの長い、長い髪の──瑠既と同じ色、長さの髪を持つ双子の弟の姿。いつも腰につけている剣は、ない。恐らくこの中に入る前も、今のように眠っていたのだろう。弟は眠るときだけ腰から剣を外していた。
視界に弟を映して、寒気に襲われた。途端に体の芯が寒くなっていく。力が抜けて、しゃがみ込む。
震え、すっかり冷えてしまった両手で己の体を包むように抱く。
目覚めたときの、体の違和感の正体がわかった。弟の感覚は双子ゆえに伝わってきたのだと。
『瑠既!』
夢で聞こえたあの声は、確かに弟が助けを求め、叫んだものだ。窮地に追い込まれ、弟は頼りにならないこの兄を呼んでくれていた。それなのに、助けられなかったと奥歯を噛む。
「……稀ぃ」
悔しいなんてものではない。情けないどころではない。ごめんと謝っても、すまされない。懺悔と後悔が募るが、それらはどれも言葉にはならなかった。
瑠既は弟に手を伸ばす。
どんなときも支えてくれていたのに、助けてくれたのに、何もできない。どうしたらいいのかも、わからない。弟に申し訳なくて、様々な想いで胸がいっぱいになる。
弟はやさしかった。その分、瑠既がわがままを言えたり、母に甘えられたりした。弟の方が兄のようで、瑠既はうれしかった。そのくらい、甘えん坊だった。
弟のいる空間は居心地がよく、安心できた。──それなのに今は。弟が目の前にいるのに、まったく違う。弟は遠くに離れてしまっているかのようだ。いつも一緒の弟と、離れる日が来るなど想像したこともない。
うずくまって泣いた。恐怖も忘れて。泣いて泣いて、ようやく弟のためにできることは何かと考えた。
「助けたい」
気持ちはそれだけだった。ただ、どうしたら助けられるのかはわからなかった。ひとりでは、何もできない。
誰かに助けを求めなければ。──しかし、誰と、答えは出ない。少なくとも、あの男には助けを求められない。
それならば、ここを出るしかない。ここを出れば、すぐ近くに婚約者の幼なじみがいる。その両親だって、きっと力を貸してくれる。
──ここを出よう。
ただ、問題があった。もし、弟をこのようにしたのが、あの男だったなら。正門から出るのは危険だ。──正門から出られないのであれば、もうひとつ出入口を使うしかない。ここには、限られた人しか知らない裏門がある。
瑠既は何とか立ちあがる。
「俺が助けなきゃ」
重く冷えた体で、瑠既は歩き始めた。
何とか瑠既は裏門に着いた。だが、体力は限界に近い。うな垂れたように歩いていると、声が聞こえた。
「瑠既様!」
顔を上げると、三十代前半の男がいた。瞳が瑠既たちよりも桃色がかっている紫。長く、ひとつにまとまった髪は瞳よりも薄い色をしている。一週間前までここにいた、双子の教育係の大臣だ。
大臣がここを不在にしたのは、噂が原因だ。涼舞城が攻め込まれたという噂。その確認と、事実なら援護のために、大臣はしばらく留守にしていた。
涼舞城は双子の父の生家だというが、瑠既も弟も行ったことはない。──それは父の死が関係している。父は双子が生まれる前に、他界していた。双子の生家であるここ──鴻嫗城で、汚名を着せられて。
大臣がすぐに帰城しなかったのは、涼舞城は噂通り攻められていたということだ。大臣が援護をしていたお蔭か、体制は優勢になったという噂を双子は耳にしていた。だからこそ、弟は大丈夫だと言ったのだろう。そろそろ、大臣が戻ってくるはずだと思って。双子が生まれたときから、教育係としてそばにいた大臣。双子の信頼は厚い。
その大臣を目の前にして、瑠既は安堵した。
「……っ、大臣っ」
声にならぬ声で求め、泣いた。大臣は駆け寄り、抱き締める。
「申し訳ありません。貴男たちのもとから、離れるべきではありませんでした」
寝間着で裸足のままの瑠既を見て、何かが城内で起こっていると大臣は察知した。顔をしかめる。いつも一緒にいる双子が、片方しかいない。しかも、決してひとりで外を出歩くようなことがない瑠既が、ぼろぼろの状態で裏門にいた。どんな思いでここまでひとりで歩いてきたのかを想像するだけで、大臣の胸は詰まる。
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