279 / 374
『第二部【後半】幻想と真実』 未来と過去に向かって
【10】異例の事態
しおりを挟む
数日後、庾月が十六歳の誕生日を迎え、庾月は留と入籍した。盛大な挙式も懐迂の儀式も行われず、世間には庾月の相手が伏せられたまま『婚姻』という事実だけが後日公表された。
異例の事態に、世界中がどよめく。
これらは叔の意向によるものだ。懐迂の儀式を聞き、叔は危険だと感じただろう。庾月の結婚相手が留だと知れたら否が応でも注目される。そのことに関しても、同等の危機感を覚えたのだろう。
大臣は叔の意向に従ったのだ。それが、結婚を認める条件だと叔から提示され、庾月に懇願されたから。
懐迂は長い間、庾月の憧れた儀式だった。
それでも、庾月が叔の思いを受け止めたのは、留と天秤にかけられたからに違いない。
ただ、留の叔に対する思い、その逆の思いの深さに庾月が感銘を受けた──ということも、少なからず影響があっただろう。
叔の意向のはずなのに、庾月も留も叔の意向に従いたいと大臣に頭を下げた。庾月に頭を下げられたら──大臣に異論は言えなかった。
瑠既は前もって叔と色々と話していたのだろう。大臣が異論を唱えない姿を見ても、黙ったきりだった。
叔の前では、瑠既は帰城の前の感覚に戻るのか。貴族だと、叔と一線を引きたくないのか。
沙稀が他界してから、鴻嫗城の長兄という立場で支え続けてきた。ふたつの立場で揺れ、口を閉ざすしかなかったのかもしれない。
盛大な挙式も懐迂の儀式も行われず入籍したふたりの幸せは、傍から見れば理解に苦しむことだったかも知れない。
だが、ふたりにとっては間違いなく、これまでの人生で一番幸せな日だった。
颯唏は鴻嫗城の剣士が着る規定の稽古着を身に着け、轢と剣の稽古に励んでいた。それぞれ利き腕に十字のマークが付いている。轢は右、颯唏は左だ。
本来、颯唏は右利きだった。けれど、数多くの沙稀の遺品に合わせるように、次第に剣を左手で扱うようになっていた。
それほどまでに、『何も変わらない』一日。けれど、颯唏の心持ちはズシリと重い。
鴻嫗城の継承者が結婚をしたというのに、帰城さえしなかった。それを、誰もが容認した。颯唏はまだ九歳だ。正論を盾にして異論を唱えたところで、『子どもの意見』。継承者でもない。言わなくても、颯唏の意見が通らないのは、目に見えている。言うだけ無駄で、誰もを困らせるだけだ。
昼になり、ふたりは羅凍の指示で止まる。現在、この場を仕切っているのは颯唏の護衛の羅凍だ。剣士たちとも気さくに話し、ともに料理をする羅凍がこの場に馴染むのは、はやかった。
轢はそんな羅凍を遠目に見、動作が停止した颯唏を見る。浮かない表情だ。
「そんなに元気がないのは……大好きな『姉上』が行ってしまったから?」
轢はからかうように言う。
すると、颯唏の唇があからさまにとがった。
轢は眉を下げて笑う。
「なんだよっ! 轢兄だって……いつかは婿に行くんだろ。行くんなら、はやく行けばいい」
ムキになったような声に、轢は目を丸くする。
「俺、まだ年齢足らないよ?」
「あっそ」
視線を逸らした颯唏。一方の轢は、何かが引っかかる。
「ん? ……あ、そうだったんだ。ごめん、俺、気がつかなくて」
「何のこと?」
「そう思ってだんだ。俺が……」
「思ってないよ。轢兄と姉上が一緒になればよかったのになんて……」
ハッとして颯唏は言葉を止めた。昔から漠然と思っていたことを口にしてしまったと思ったのだろう。
兄と慕う人物が、本当に兄になればいいと願っていたのはいつからだったのか。颯唏自身が気づいていなかった思いが言葉に出て、颯唏は気まずそうにしている。
颯唏は、ゆっくりと顔を動かす。
轢は眉を下げて笑いを堪えていた。
視線が合い、どちらともなく騒ぎ出す。それは、兄弟がじゃれるそのもので、羅凍も剣士たちも朗らかな視線を送った。
数分が経ち、羅凍も剣士たちも、もう稽古場にはいない。今ごろ、料理当番の誰かが食事を作っている。
颯唏と轢は傭兵に属してはいない為、彼らの食事を口にすることも、料理をすることもない。鴻嫗城のシェフが用意する食事を摂る。
食堂に入ったふたりは、あたたかな食事を口にする。
「で……轢兄、いつ結婚すんの?」
「そうだなぁ……予定ないなぁ」
どこかぼんやりしたまま轢は答える。『ああ、美味しいね』と料理を口にし、微笑む。この様子が、颯唏には適当に答えているように感じた。
「好きな人くらい、いるでしょ?」
颯唏は苛々を含め、頬張る。
「ん~……颯唏が一人立ちするまでは、安心して結婚できないかなぁ」
「何それっ」
照れるような颯唏の声に、轢は笑う。
「本当だよ。今は女の子に興味が持てなくて」
「アブナイ言い方だよ、轢兄……」
「ははっ、本当だね。でもさ、俺にはまだまだ『自分の家族』を持つ余裕がないんだ。さっきも言ったけど、年齢が足りないっていうのもあるけどね」
颯唏は不思議そうに首をかしげる。
「まだ、沙稀様から教わったことを颯唏に伝えきれてない」
颯唏の手がピタリと止まる。水で流し込むと、恨めしそうな視線を轢に送る。
「そんなに父上を慕うなら……轢兄が父上の息子ならよかったのにね」
「沙稀様が聞いたら悲しむよ」
「知らないよ」
颯唏の言葉は素っ気ない。けれど、轢には颯唏の不機嫌な理由がわからない。ただただ、颯唏がかわいらしいと微笑む。
「俺は颯唏が産まれてくれて、感謝してるよ。……ほら、俺末っ子でしょ。それに上は姉上だけ。できれば、男兄弟がほしかったから」
颯唏はにこにこと笑う轢にキョトンをする。だが、それは一瞬で、
「ふ~ん」
と、無関心に言ったが、照れ隠しに過ぎないのは轢にお見通しだろう。
「冷める前に食べよ」
「そうだね」
ふたりのフォークが再び動き出す。
黙々と食べ始めた颯唏だが、数年前に轢から聞いた言葉がふと浮かぶ。
『このごろ、思うんだ。本当は……颯唏のことを、すごくかわいがりたかっただろうなって』
この言葉を聞いて、颯唏は妙に父が恋しくなり、号泣してしまっていた。そんな颯唏を轢は、何も聞かずに宥めてくれた。
「ねぇ……」
颯唏は呟く。ずっと誰かに聞きたいと思っていたことを言葉にする決意して。
「父上の命日は……本当に、俺の誕生日と違ったのかな……」
異例の事態に、世界中がどよめく。
これらは叔の意向によるものだ。懐迂の儀式を聞き、叔は危険だと感じただろう。庾月の結婚相手が留だと知れたら否が応でも注目される。そのことに関しても、同等の危機感を覚えたのだろう。
大臣は叔の意向に従ったのだ。それが、結婚を認める条件だと叔から提示され、庾月に懇願されたから。
懐迂は長い間、庾月の憧れた儀式だった。
それでも、庾月が叔の思いを受け止めたのは、留と天秤にかけられたからに違いない。
ただ、留の叔に対する思い、その逆の思いの深さに庾月が感銘を受けた──ということも、少なからず影響があっただろう。
叔の意向のはずなのに、庾月も留も叔の意向に従いたいと大臣に頭を下げた。庾月に頭を下げられたら──大臣に異論は言えなかった。
瑠既は前もって叔と色々と話していたのだろう。大臣が異論を唱えない姿を見ても、黙ったきりだった。
叔の前では、瑠既は帰城の前の感覚に戻るのか。貴族だと、叔と一線を引きたくないのか。
沙稀が他界してから、鴻嫗城の長兄という立場で支え続けてきた。ふたつの立場で揺れ、口を閉ざすしかなかったのかもしれない。
盛大な挙式も懐迂の儀式も行われず入籍したふたりの幸せは、傍から見れば理解に苦しむことだったかも知れない。
だが、ふたりにとっては間違いなく、これまでの人生で一番幸せな日だった。
颯唏は鴻嫗城の剣士が着る規定の稽古着を身に着け、轢と剣の稽古に励んでいた。それぞれ利き腕に十字のマークが付いている。轢は右、颯唏は左だ。
本来、颯唏は右利きだった。けれど、数多くの沙稀の遺品に合わせるように、次第に剣を左手で扱うようになっていた。
それほどまでに、『何も変わらない』一日。けれど、颯唏の心持ちはズシリと重い。
鴻嫗城の継承者が結婚をしたというのに、帰城さえしなかった。それを、誰もが容認した。颯唏はまだ九歳だ。正論を盾にして異論を唱えたところで、『子どもの意見』。継承者でもない。言わなくても、颯唏の意見が通らないのは、目に見えている。言うだけ無駄で、誰もを困らせるだけだ。
昼になり、ふたりは羅凍の指示で止まる。現在、この場を仕切っているのは颯唏の護衛の羅凍だ。剣士たちとも気さくに話し、ともに料理をする羅凍がこの場に馴染むのは、はやかった。
轢はそんな羅凍を遠目に見、動作が停止した颯唏を見る。浮かない表情だ。
「そんなに元気がないのは……大好きな『姉上』が行ってしまったから?」
轢はからかうように言う。
すると、颯唏の唇があからさまにとがった。
轢は眉を下げて笑う。
「なんだよっ! 轢兄だって……いつかは婿に行くんだろ。行くんなら、はやく行けばいい」
ムキになったような声に、轢は目を丸くする。
「俺、まだ年齢足らないよ?」
「あっそ」
視線を逸らした颯唏。一方の轢は、何かが引っかかる。
「ん? ……あ、そうだったんだ。ごめん、俺、気がつかなくて」
「何のこと?」
「そう思ってだんだ。俺が……」
「思ってないよ。轢兄と姉上が一緒になればよかったのになんて……」
ハッとして颯唏は言葉を止めた。昔から漠然と思っていたことを口にしてしまったと思ったのだろう。
兄と慕う人物が、本当に兄になればいいと願っていたのはいつからだったのか。颯唏自身が気づいていなかった思いが言葉に出て、颯唏は気まずそうにしている。
颯唏は、ゆっくりと顔を動かす。
轢は眉を下げて笑いを堪えていた。
視線が合い、どちらともなく騒ぎ出す。それは、兄弟がじゃれるそのもので、羅凍も剣士たちも朗らかな視線を送った。
数分が経ち、羅凍も剣士たちも、もう稽古場にはいない。今ごろ、料理当番の誰かが食事を作っている。
颯唏と轢は傭兵に属してはいない為、彼らの食事を口にすることも、料理をすることもない。鴻嫗城のシェフが用意する食事を摂る。
食堂に入ったふたりは、あたたかな食事を口にする。
「で……轢兄、いつ結婚すんの?」
「そうだなぁ……予定ないなぁ」
どこかぼんやりしたまま轢は答える。『ああ、美味しいね』と料理を口にし、微笑む。この様子が、颯唏には適当に答えているように感じた。
「好きな人くらい、いるでしょ?」
颯唏は苛々を含め、頬張る。
「ん~……颯唏が一人立ちするまでは、安心して結婚できないかなぁ」
「何それっ」
照れるような颯唏の声に、轢は笑う。
「本当だよ。今は女の子に興味が持てなくて」
「アブナイ言い方だよ、轢兄……」
「ははっ、本当だね。でもさ、俺にはまだまだ『自分の家族』を持つ余裕がないんだ。さっきも言ったけど、年齢が足りないっていうのもあるけどね」
颯唏は不思議そうに首をかしげる。
「まだ、沙稀様から教わったことを颯唏に伝えきれてない」
颯唏の手がピタリと止まる。水で流し込むと、恨めしそうな視線を轢に送る。
「そんなに父上を慕うなら……轢兄が父上の息子ならよかったのにね」
「沙稀様が聞いたら悲しむよ」
「知らないよ」
颯唏の言葉は素っ気ない。けれど、轢には颯唏の不機嫌な理由がわからない。ただただ、颯唏がかわいらしいと微笑む。
「俺は颯唏が産まれてくれて、感謝してるよ。……ほら、俺末っ子でしょ。それに上は姉上だけ。できれば、男兄弟がほしかったから」
颯唏はにこにこと笑う轢にキョトンをする。だが、それは一瞬で、
「ふ~ん」
と、無関心に言ったが、照れ隠しに過ぎないのは轢にお見通しだろう。
「冷める前に食べよ」
「そうだね」
ふたりのフォークが再び動き出す。
黙々と食べ始めた颯唏だが、数年前に轢から聞いた言葉がふと浮かぶ。
『このごろ、思うんだ。本当は……颯唏のことを、すごくかわいがりたかっただろうなって』
この言葉を聞いて、颯唏は妙に父が恋しくなり、号泣してしまっていた。そんな颯唏を轢は、何も聞かずに宥めてくれた。
「ねぇ……」
颯唏は呟く。ずっと誰かに聞きたいと思っていたことを言葉にする決意して。
「父上の命日は……本当に、俺の誕生日と違ったのかな……」
0
お気に入りに追加
37
あなたにおすすめの小説
彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
【完結】え、別れましょう?
須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」
「は?え?別れましょう?」
何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。
ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?
だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。
※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。
ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
皇太子の子を妊娠した悪役令嬢は逃げることにした
葉柚
恋愛
皇太子の子を妊娠した悪役令嬢のレイチェルは幸せいっぱいに暮らしていました。
でも、妊娠を切っ掛けに前世の記憶がよみがえり、悪役令嬢だということに気づいたレイチェルは皇太子の前から逃げ出すことにしました。
本編完結済みです。時々番外編を追加します。
「お姉様の赤ちゃん、私にちょうだい?」
サイコちゃん
恋愛
実家に妊娠を知らせた途端、妹からお腹の子をくれと言われた。姉であるイヴェットは自分の持ち物や恋人をいつも妹に奪われてきた。しかし赤ん坊をくれというのはあまりに酷過ぎる。そのことを夫に相談すると、彼は「良かったね! 家族ぐるみで育ててもらえるんだね!」と言い放った。妹と両親が異常であることを伝えても、夫は理解を示してくれない。やがて夫婦は離婚してイヴェットはひとり苦境へ立ち向かうことになったが、“医術と魔術の天才”である治療人アランが彼女に味方して――
宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました
悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。
クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。
婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。
そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。
そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯
王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。
シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯
公爵夫人は愛されている事に気が付かない
山葵
恋愛
「あら?侯爵夫人ご覧になって…」
「あれはクライマス公爵…いつ見ても惚れ惚れしてしまいますわねぇ~♡」
「本当に女性が見ても羨ましいくらいの美形ですわねぇ~♡…それなのに…」
「本当にクライマス公爵が可哀想でならないわ…いくら王命だからと言ってもねぇ…」
社交パーティーに参加すれば、いつも聞こえてくる私への陰口…。
貴女達が言わなくても、私が1番、分かっている。
夫の隣に私は相応しくないのだと…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる