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『A』
【A-3】
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泣き伏せていたら、周囲の女の人たちが心配をした。オロオロとした。
どうしたのかと聞かれても、恭良は答えられない。わからないのだから、首を横に振るしかなかった。
けれど、それで周囲の女の人たちが納得するわけがない。ヒソヒソと話す声を耳にした。目にした。距離が、とてもつもなく離れて孤立している錯覚を覚えた。
恭良は言い知れぬ不安を覚え、一時手にした感情をまた手放す。皆が望むがままの『お人形』ではなくなっていたと気づいて。
──笑わなきゃ。
ある種の強迫観念だ。
『笑わなくては愛されない』
誰から聞いた言葉だっただろう。教えられた言葉だっただろう。──いや、誰からも聞きも教わりもしていないはずだ。
悲しい理由がわからないまま、恐怖を振り払うように彼女は口角を上げ、無理に笑う。何でもないと言う。心配をかけてごめんなさいと謝る。
彼女の姿は、気丈なものに見えたのだろう。周囲の女の人たちは彼女を取り囲み、抱きしめた。
──やっぱり、笑っているお人形さんはかわいらしくて、皆が好いてくれるのね。
感情なんて要らないと、彼女はまた心の放棄を選ぶ。
翌日、凪裟に会った。気まずそうにする様子を見て、恭良はパッと微笑む。昨日のことなど、さっぱり忘れたように。
すると、凪裟の表情もパッと晴れ、ふたりはまた寄り添うように話し、ともに過ごす。
恭良は楽しそうに過ごすが、心は伴っていない。凪裟と会う前にすっかり戻っていた。
凪裟は気づかなかったのだろう。恭良の振る舞いは『思い込み』からであって、『演技』ではない。
大臣にも心を閉ざした。
ただ、うっすらと恭良は感じる。大臣が時折、悲しそうな瞳を向けると。
大臣は恭良を怒らなくなった。だが、それは無関心ではなく罪悪感のような──恭良には何とも奇妙な感覚だった。
恭良が感情を放棄するようになって数ヶ月。事態は大きく動く。
「きゃぁぁああああ!」
城内に数名の悲鳴が響いた。恭良は足を止め、二階から正面の入り口を覗き見る。
そこには、血にまみれた人が倒れていた。
恭良はおびただしい鮮血に恐怖を覚えるでもなく、じっと見つめる。
──真っ赤な血に包まれているみたい……。
みるみるうちに広がる血だまりを、まるで防壁のようだと眺める。そうして、倒れたときに投げ出されたリラの長い髪に釘付けになる。
──やっぱり、あの人はきれいだ。
なぜか色が変わった髪の毛。顔が見えなくても、あの人は見間違えないと妙な確信がある。しかし、それがどうしてなのかと恭良は疑問に思いもしない。
ただ、あの人をきれいだと思ったのは髪の毛の色ではなかったのか──と、実に悠長にぼんやりと、うっとりと眺める。
食い入るように見つめる色は、クロッカスではない。リラだ。
それでも、きれいだと恭良は再確認する。
ふと、大臣の姿が見えた。
あの人に駆けつける大臣は血だまりに抵抗なく踏み込み、手を、服を血に浸しながら抱き上げている。
恭良は大きく息を吸う。
手すりを放し、突き動かされるかのように一心不乱に走り出す。
──ダメ、またあの人を見失ってしまう!
恭良にとっての唯一の恐怖。廊下を駆け抜け、階段を転げるように降り、人混みを無理にかき分けてあの人が倒れていた場所へと向かう。
けれど、恭良が着いたころには、血だまりと、ポツンポツンと垂れた血痕が残っているだけだった。
「姫様!」
何人かの使用人たちが寄って来て、
「恭良様!」
凪裟が現れ、抱きしめられる。
震える凪裟に抱きしめられたからではない。凪裟が泣いていたからでもない。
ワンワンと泣き出した恭良を、周囲はショッキングな光景を目にしたからだと誤解し、慰めた。
目の前であの人が大臣に連れ去られ、丸一日が過ぎた。ようやく使用人からも凪裟からも解放された恭良は、大臣の部屋へと向かう。
母の好きだったという中庭が左側に見える廊下を歩いていると、廊下の突き当りにある正面の部屋から大臣が出て来た。
「大臣!」
恭良が駆け寄る。
大臣はとても驚いたようだった。
「恭良様?」
恭良は大臣に手を伸ばす。昨日、あの人を抱いていたはずの両腕を、両腕でグッとつかむ。
「あの人はっ? あの人はどこにいるの?」
「あの人……とは?」
大臣の疑問に、恭良はハッとする。あの人の名前を、恭良は聞いたことがないから。
狼狽しそうになった恭良だったが、ふと、凪裟が口にしていた名前を思い出す。
「『沙稀』……沙稀は?」
大臣はもっと目を開いて恭良を見た。
「どうして、その名を?」
「どうしてでもいいでしょ! とにかく、どこにいるのっ!」
恭良は大臣の両腕を激しく揺らす。
とにかく恭良は必死だった。こうしなければ、二度と会えないような気がしていたから。
ふっと、恭良が驚くことが起きる。
催促する恭良を、ギュッと大臣は抱き寄せていた。
「わかりました。お連れ致します」
恭良はこのとき、生まれて初めて『生きている』と肯定された気がした。
それなのに、どうしようもなく不安が沸いてくる。大臣の声がどうしてか悲しそうに聞こえて、諦めにも近い声にも聞こえていたから。
数秒で大臣の腕がスルリと離れ、恭良は言葉を失いつつ見上げる。すると、大臣はエスコートすると申し出るかのように恭良へ手を差し伸べた。
長い廊下を歩き、一度、外へと出る。ここで左手へ行けば中庭だが、大臣は中庭には目もくれず、渡り廊下を歩く。
地下へと行く──恭良は直感で感じる。地下には様々な施設があるが、その多くは医療に関わりが深いものだ。
納得がいった。治療室にあの人がいるのだろうと。
血があれだけ流れていたのだ。大臣は『連れ去った』のではなく、『治療を受けさせるために連れて行った』。
どうしてか、こんなにかんたんで当たり前のことを恭良は丸一日もの間、思い浮かべることができなかったのだ。
ぎゅっと大臣の手を握る。
大臣は心配そうな顔を一度向けたが、すぐに戻し黙々と歩き続けた。
案の定、辿り着いたのは治療室だ。
恭良は息を飲む。
この光景を知っている。
以前に、中庭からあの人が見えた場所だ。室内の窓からは、中庭が見える。
中庭から見ていたときに、どこかと考えれば検討のつきそうな場所だった。それなのに、恭良は『行きたい』と考えなかった。
眠り続けている姿を眺め、『来てくれないか』と無理な願いを秘めていただけだ。
「私、しばらくここにいてもいいかしら」
目の前で眠っている姿は、以前に中庭から見ていたときと酷似している。何本も、何本もチューブが体に刺され、深く深く眠っている。
「はい」
大臣は恭良に何も聞かなかった。
扉が、大臣が出て行ったと伝えてきた。
恭良は、恐る恐る右手を伸ばす。生きてほしいと願って。
右手で触れた手は、冷たかった。
──生きているんだよね?
話しかけていいのかと戸惑い、声に出ない。
──苦しいのかな。……痛いのかな。
右手で触れた手を握る。
けれど、その手は動かない。動かない手を、恭良は引き寄せる。冷たい手を温めようと、恭良は両手で包み頬にあてる。
「い……沙稀」
名乗られたわけでも、声を交わせたわけでも、瞳に映してもらえたわけでもない。だから恭良は戸惑いながら、その名前を口にした。
初めて名前を呼べ、涙がこぼれる。
──やっと、会えた。
感謝で強く心を動かされ、いくつも涙が滑り落ちていく。
日頃は神様なんて信じない。願いごともしないし、願ったところで叶うなんて思いもしない。なのに、今だけは信じてみたくなる。
願いを叶えてくれるのなら、その代償に何を求められてもいいと思うほど、すがりたくなる。
──どうか、すこしでも痛みが引きますように。
──どうか、すこしでも苦しみが軽くなりますように。
恭良は初めて願う。
ゆっくりと瞳を開け、横たわる姿を目に焼きつける。これが、最後になってもいいと、出会いを代償に捧げても構わないと神に誓う。
また出会え、触れられたから。
「ありがとう。あなたに出会えた。あなたを見られた。それで、充分」
目の前の人が生きてくれることを恭良は願う。
恭良の目の前にいた人は、恭良をその瞳に映してはくれなかったけれど。
手は冷たかったけれど。
声も聞けなかったけれど。
ただ、存在してくれたことが、うれしかった。
恭良が倒れた憧れの人のところへ行ったのは、この日が最初で最後。
さようならと、告げてきたつもりだった。
どうしたのかと聞かれても、恭良は答えられない。わからないのだから、首を横に振るしかなかった。
けれど、それで周囲の女の人たちが納得するわけがない。ヒソヒソと話す声を耳にした。目にした。距離が、とてもつもなく離れて孤立している錯覚を覚えた。
恭良は言い知れぬ不安を覚え、一時手にした感情をまた手放す。皆が望むがままの『お人形』ではなくなっていたと気づいて。
──笑わなきゃ。
ある種の強迫観念だ。
『笑わなくては愛されない』
誰から聞いた言葉だっただろう。教えられた言葉だっただろう。──いや、誰からも聞きも教わりもしていないはずだ。
悲しい理由がわからないまま、恐怖を振り払うように彼女は口角を上げ、無理に笑う。何でもないと言う。心配をかけてごめんなさいと謝る。
彼女の姿は、気丈なものに見えたのだろう。周囲の女の人たちは彼女を取り囲み、抱きしめた。
──やっぱり、笑っているお人形さんはかわいらしくて、皆が好いてくれるのね。
感情なんて要らないと、彼女はまた心の放棄を選ぶ。
翌日、凪裟に会った。気まずそうにする様子を見て、恭良はパッと微笑む。昨日のことなど、さっぱり忘れたように。
すると、凪裟の表情もパッと晴れ、ふたりはまた寄り添うように話し、ともに過ごす。
恭良は楽しそうに過ごすが、心は伴っていない。凪裟と会う前にすっかり戻っていた。
凪裟は気づかなかったのだろう。恭良の振る舞いは『思い込み』からであって、『演技』ではない。
大臣にも心を閉ざした。
ただ、うっすらと恭良は感じる。大臣が時折、悲しそうな瞳を向けると。
大臣は恭良を怒らなくなった。だが、それは無関心ではなく罪悪感のような──恭良には何とも奇妙な感覚だった。
恭良が感情を放棄するようになって数ヶ月。事態は大きく動く。
「きゃぁぁああああ!」
城内に数名の悲鳴が響いた。恭良は足を止め、二階から正面の入り口を覗き見る。
そこには、血にまみれた人が倒れていた。
恭良はおびただしい鮮血に恐怖を覚えるでもなく、じっと見つめる。
──真っ赤な血に包まれているみたい……。
みるみるうちに広がる血だまりを、まるで防壁のようだと眺める。そうして、倒れたときに投げ出されたリラの長い髪に釘付けになる。
──やっぱり、あの人はきれいだ。
なぜか色が変わった髪の毛。顔が見えなくても、あの人は見間違えないと妙な確信がある。しかし、それがどうしてなのかと恭良は疑問に思いもしない。
ただ、あの人をきれいだと思ったのは髪の毛の色ではなかったのか──と、実に悠長にぼんやりと、うっとりと眺める。
食い入るように見つめる色は、クロッカスではない。リラだ。
それでも、きれいだと恭良は再確認する。
ふと、大臣の姿が見えた。
あの人に駆けつける大臣は血だまりに抵抗なく踏み込み、手を、服を血に浸しながら抱き上げている。
恭良は大きく息を吸う。
手すりを放し、突き動かされるかのように一心不乱に走り出す。
──ダメ、またあの人を見失ってしまう!
恭良にとっての唯一の恐怖。廊下を駆け抜け、階段を転げるように降り、人混みを無理にかき分けてあの人が倒れていた場所へと向かう。
けれど、恭良が着いたころには、血だまりと、ポツンポツンと垂れた血痕が残っているだけだった。
「姫様!」
何人かの使用人たちが寄って来て、
「恭良様!」
凪裟が現れ、抱きしめられる。
震える凪裟に抱きしめられたからではない。凪裟が泣いていたからでもない。
ワンワンと泣き出した恭良を、周囲はショッキングな光景を目にしたからだと誤解し、慰めた。
目の前であの人が大臣に連れ去られ、丸一日が過ぎた。ようやく使用人からも凪裟からも解放された恭良は、大臣の部屋へと向かう。
母の好きだったという中庭が左側に見える廊下を歩いていると、廊下の突き当りにある正面の部屋から大臣が出て来た。
「大臣!」
恭良が駆け寄る。
大臣はとても驚いたようだった。
「恭良様?」
恭良は大臣に手を伸ばす。昨日、あの人を抱いていたはずの両腕を、両腕でグッとつかむ。
「あの人はっ? あの人はどこにいるの?」
「あの人……とは?」
大臣の疑問に、恭良はハッとする。あの人の名前を、恭良は聞いたことがないから。
狼狽しそうになった恭良だったが、ふと、凪裟が口にしていた名前を思い出す。
「『沙稀』……沙稀は?」
大臣はもっと目を開いて恭良を見た。
「どうして、その名を?」
「どうしてでもいいでしょ! とにかく、どこにいるのっ!」
恭良は大臣の両腕を激しく揺らす。
とにかく恭良は必死だった。こうしなければ、二度と会えないような気がしていたから。
ふっと、恭良が驚くことが起きる。
催促する恭良を、ギュッと大臣は抱き寄せていた。
「わかりました。お連れ致します」
恭良はこのとき、生まれて初めて『生きている』と肯定された気がした。
それなのに、どうしようもなく不安が沸いてくる。大臣の声がどうしてか悲しそうに聞こえて、諦めにも近い声にも聞こえていたから。
数秒で大臣の腕がスルリと離れ、恭良は言葉を失いつつ見上げる。すると、大臣はエスコートすると申し出るかのように恭良へ手を差し伸べた。
長い廊下を歩き、一度、外へと出る。ここで左手へ行けば中庭だが、大臣は中庭には目もくれず、渡り廊下を歩く。
地下へと行く──恭良は直感で感じる。地下には様々な施設があるが、その多くは医療に関わりが深いものだ。
納得がいった。治療室にあの人がいるのだろうと。
血があれだけ流れていたのだ。大臣は『連れ去った』のではなく、『治療を受けさせるために連れて行った』。
どうしてか、こんなにかんたんで当たり前のことを恭良は丸一日もの間、思い浮かべることができなかったのだ。
ぎゅっと大臣の手を握る。
大臣は心配そうな顔を一度向けたが、すぐに戻し黙々と歩き続けた。
案の定、辿り着いたのは治療室だ。
恭良は息を飲む。
この光景を知っている。
以前に、中庭からあの人が見えた場所だ。室内の窓からは、中庭が見える。
中庭から見ていたときに、どこかと考えれば検討のつきそうな場所だった。それなのに、恭良は『行きたい』と考えなかった。
眠り続けている姿を眺め、『来てくれないか』と無理な願いを秘めていただけだ。
「私、しばらくここにいてもいいかしら」
目の前で眠っている姿は、以前に中庭から見ていたときと酷似している。何本も、何本もチューブが体に刺され、深く深く眠っている。
「はい」
大臣は恭良に何も聞かなかった。
扉が、大臣が出て行ったと伝えてきた。
恭良は、恐る恐る右手を伸ばす。生きてほしいと願って。
右手で触れた手は、冷たかった。
──生きているんだよね?
話しかけていいのかと戸惑い、声に出ない。
──苦しいのかな。……痛いのかな。
右手で触れた手を握る。
けれど、その手は動かない。動かない手を、恭良は引き寄せる。冷たい手を温めようと、恭良は両手で包み頬にあてる。
「い……沙稀」
名乗られたわけでも、声を交わせたわけでも、瞳に映してもらえたわけでもない。だから恭良は戸惑いながら、その名前を口にした。
初めて名前を呼べ、涙がこぼれる。
──やっと、会えた。
感謝で強く心を動かされ、いくつも涙が滑り落ちていく。
日頃は神様なんて信じない。願いごともしないし、願ったところで叶うなんて思いもしない。なのに、今だけは信じてみたくなる。
願いを叶えてくれるのなら、その代償に何を求められてもいいと思うほど、すがりたくなる。
──どうか、すこしでも痛みが引きますように。
──どうか、すこしでも苦しみが軽くなりますように。
恭良は初めて願う。
ゆっくりと瞳を開け、横たわる姿を目に焼きつける。これが、最後になってもいいと、出会いを代償に捧げても構わないと神に誓う。
また出会え、触れられたから。
「ありがとう。あなたに出会えた。あなたを見られた。それで、充分」
目の前の人が生きてくれることを恭良は願う。
恭良の目の前にいた人は、恭良をその瞳に映してはくれなかったけれど。
手は冷たかったけれど。
声も聞けなかったけれど。
ただ、存在してくれたことが、うれしかった。
恭良が倒れた憧れの人のところへ行ったのは、この日が最初で最後。
さようならと、告げてきたつもりだった。
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