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固い誓い
【61】見つめる闇(1)
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羅凍が鴻嫗城に来てから二年と数ヶ月が経った。
本来なら、喜びに包まれる瞬間に立ち会えず、ただ眠り続けた友人を悼む。
大臣から双子の兄と聞いていた瑠既を初めて見たのは、新しい命が誕生して間もなく。けれど、そのあとの激しく落胆した姿を目にし、羅凍は訃報を耳にしても悲しみに打ちしがれることはできなかった。
長いリラの髪が幻影に揺れている。
ちいさく遠くに見えていたように感じていた姿。けれど、近づけば大きく、容易く声をかけるのを戸惑う存在だった。
雰囲気とは真逆で、気さくだった。やさしかった。いつも、気にかけてくれていた。
羅凍は沙稀と入れ替わるように生まれた命を思う。
──息子の稽古……なんて、つけたかったに決まっている。
蓮羅の稽古を楽しそうにつけていた沙稀を、羅凍は思い返す。
「自信があるからしていると……思っている?」
あれは、羅凍が何気なく言った言葉に対し、驚いたように沙稀が言った言葉だ。沙稀が蓮羅に稽古をつけたあと、訓練を続ける様子をふたりで見ていたときのこと。
「違うの?」
羅凍にはさっぱりわからず、聞き返す。すると、沙稀は笑った。けれど、一瞬で苦笑いに変わっていた。
「自信がないから……飛び込んでいくしかないんだよ」
蓮羅の姿を見ながら言っていた言葉だったが、まるで沙稀自身のことを言っているようだった。
沙稀と長い年月をともにし、色々話してきたと思っていた羅凍だが、実はまったく沙稀のことを知らないのではないかと感じた一言だった。
出会った当時から沙稀は剣士の最高峰で、傭兵であっても貴族と違わない気高さがあった。どことなく放つ他人を拒む雰囲気は、戦いを生き抜いてきたからこそとも思えたし、無口な態度も生業特有なものかと思っていた。
けれど、話しかければまるで違っていて、羅凍はどんどん沙稀に惹かれたものだ。笑うのが苦手だと知ればかわいいとも思い、剣を握れば勇ましかった。
結婚してから出身が明るみになれば、謙虚さが際立ってこれまで感じていた内面の対局を理解できていた──つもりでいたのに、沙稀はどれほどの闇を抱え、それを感じさせないでいたのだろう。
──俺は、助けたかったのに……。
羅凍は遺影を見上げる。沸々と湧き上がってくる後悔は、羅凍に何かを呼びかけているようだった。
──誰を? 沙稀様を? ……何から?
飾られた写真はただただ、幸せそうだ。
出会ったころの固い雰囲気が嘘かのように。
──沙稀様は幸せだった。結婚してからは朗らかに笑うことも増えて。……それなのに、何だ? この思いは。
羅凍は自問自答を繰り返す。
──わからない。だけど、救うことが幸せを奪うことだったのなら……そうわかっていても、『救う』覚悟が……俺にあっただろうか。
漠然と思った、雲をつかむような感覚。
羅凍は細い糸を手繰り寄せるように己に問う。
──それとも、俺に……見捨てることができただろうか。
そう思ったとき、プツンと糸は切れてしまったようだった。
羅凍は霧に囲まれてしまった感覚に陥る。
──変わらない。何があろうと。俺は……救いたいと願うだろう。
『それなら……』ちいさく呟き、ぐっと息を吸う。
「貴男の代わりに、俺が……貴男の守ってきた鴻嫗城をお守り致します」
羅凍の瞳は涙を溜めないまま、ただ熱くなった。強く拳を握りしめて。
──これで救えなかった罪が、少しでも償えるのなら。
次第に、拳は震え、羅凍の表情は悔しさで滲んでいった。
冷たい空気が流れる。
ヒタリ、ヒタリとちいさな足音が部屋に響いて止まる。
「私の傍にずっといてくれるって言ってくれてたのに……どうして」
詰まる呼吸がちいさな声を消し、言葉は一度途切れた。
「どうして? どうしてどこかへ行ってしまったの?」
クロッカスの髪が、肩に揺れる。悔しそうに。
白いドレスが揺れ始める。
死者が横たわるベッドへと向かっていく。──右手には、赤いリボンを握って。
ベッドの前に着くと、横たわる体の右耳部分から奥へと右手を入れた。
数十本のリラの髪を赤いリボンで結ぶ。そうして、またフラフラと白いドレスを揺らし、輝く物を右手で取る。
虚ろな瞳で口角をにこりと上げ、ベッドへと足を戻す。抜け殻からリボンで結んだ束をつかむと、ためらわずに根本からリラの髪を切り落とした。
ハサミを無造作に置き、サラリとしたリラの髪の束を両手で大切にすくうように持ち上げる。
「沙稀、貴男は……私に偽っていたのは、誕生日と年齢だけではなかったのね」
赤いリボンの結び目をそっと頬につける。懐かしむように閉じた瞳からは、涙がいくつもいくつも流れ落ちた。
「貴男は……いったい『誰』だったの」
その姫は『偽り』の姫になった。高貴な者のみが持ち得るクロッカスの色彩を持ちながら。
但し、彼女の心は彼女の愛した人物によって守られていた。クロッカスの色彩を失った『正統なる後継者』によって。
「私は、沙稀を疑うことはないわ」
これまでも、恭良はそうだった。沙稀が落ち込んでいるときに限って、恭良は毎回こう言う。
とてつもなくショックなことを知って崩壊寸前であったのに、恭良はもう乗り越えていた。
沙稀は改めて、これからも恭良を『鴻嫗城の姫』をして敬意を払っていこうと決意する。恭良の強さが壊れないよう包み込み、抱き締めた。
その夜もふたりはひとつのベッドで横たわる。恭良に抱き締められ、少しずつ眠れるようになり、ようやく沙稀は彼女を抱き締めて眠れるようになっていた。
あたたかさに安心するかのように、彼女が先に寝入っていることも増え、この日も先に眠った恭良を見、沙稀は照れて笑う。
日頃は『きれいだ』としか思えないのに、腕の中で眠る彼女は妙にかわいらしかった。
やっと彼女を『恭良』と名前だけで呼べるようになり、彼にはひとつ決意したことがあった。
愛おしい人の頬をそっと撫で、沙稀はベッドから出る。
彼女に、渡したいと思っていた物を用意しようと、ようやく決意できたのだ。
一枚の用紙を沙稀はテーブルの上に置く。用紙に印字されたいくつかの枠を眺め、握った万年筆を近づけていく。
書こうとした手が、微かに震えた。
これから書こうとしているものは、何年も何年も己を示すものとして書けなかったものだ。
昔はもっと、喜べると思っていた。今とは違う感覚で、このときを迎えると思っていた。
この用紙に自らの意思で筆を走らせることなど、数年前からはないと思っていた。ただ最近は、どう書いたらいいのかと書くことに迷っていた。
しかし、勇気を出してくれた彼女に報いるためにも、どうにか記入したいと望んでいた。
──恭良に……渡したい。
力強く万年筆を握り、沙稀はていねいに一文字ずつを書いていく。止まらずに、誕生日を一月四日と書いた。
じっくりと書き終えたころ、
「沙稀?」
と、恭良の声が聞こえた。沙稀は自然と微笑み、声のもとへと歩いていく。
横になったままの姿が白いレースの間から微かに見える。恭良はベッドに横たわり、布団に包まっていた。
「起きちゃった?」
「うん。寂しかった」
かわいらしいと、沙稀はうれしさを隠しきれなくなる。
「どうして笑っているの?」
「うれしいからだよ」
ふて腐れたように言う彼女に、沙稀はやさしく返し、気恥ずかしそうに言う。
本来なら、喜びに包まれる瞬間に立ち会えず、ただ眠り続けた友人を悼む。
大臣から双子の兄と聞いていた瑠既を初めて見たのは、新しい命が誕生して間もなく。けれど、そのあとの激しく落胆した姿を目にし、羅凍は訃報を耳にしても悲しみに打ちしがれることはできなかった。
長いリラの髪が幻影に揺れている。
ちいさく遠くに見えていたように感じていた姿。けれど、近づけば大きく、容易く声をかけるのを戸惑う存在だった。
雰囲気とは真逆で、気さくだった。やさしかった。いつも、気にかけてくれていた。
羅凍は沙稀と入れ替わるように生まれた命を思う。
──息子の稽古……なんて、つけたかったに決まっている。
蓮羅の稽古を楽しそうにつけていた沙稀を、羅凍は思い返す。
「自信があるからしていると……思っている?」
あれは、羅凍が何気なく言った言葉に対し、驚いたように沙稀が言った言葉だ。沙稀が蓮羅に稽古をつけたあと、訓練を続ける様子をふたりで見ていたときのこと。
「違うの?」
羅凍にはさっぱりわからず、聞き返す。すると、沙稀は笑った。けれど、一瞬で苦笑いに変わっていた。
「自信がないから……飛び込んでいくしかないんだよ」
蓮羅の姿を見ながら言っていた言葉だったが、まるで沙稀自身のことを言っているようだった。
沙稀と長い年月をともにし、色々話してきたと思っていた羅凍だが、実はまったく沙稀のことを知らないのではないかと感じた一言だった。
出会った当時から沙稀は剣士の最高峰で、傭兵であっても貴族と違わない気高さがあった。どことなく放つ他人を拒む雰囲気は、戦いを生き抜いてきたからこそとも思えたし、無口な態度も生業特有なものかと思っていた。
けれど、話しかければまるで違っていて、羅凍はどんどん沙稀に惹かれたものだ。笑うのが苦手だと知ればかわいいとも思い、剣を握れば勇ましかった。
結婚してから出身が明るみになれば、謙虚さが際立ってこれまで感じていた内面の対局を理解できていた──つもりでいたのに、沙稀はどれほどの闇を抱え、それを感じさせないでいたのだろう。
──俺は、助けたかったのに……。
羅凍は遺影を見上げる。沸々と湧き上がってくる後悔は、羅凍に何かを呼びかけているようだった。
──誰を? 沙稀様を? ……何から?
飾られた写真はただただ、幸せそうだ。
出会ったころの固い雰囲気が嘘かのように。
──沙稀様は幸せだった。結婚してからは朗らかに笑うことも増えて。……それなのに、何だ? この思いは。
羅凍は自問自答を繰り返す。
──わからない。だけど、救うことが幸せを奪うことだったのなら……そうわかっていても、『救う』覚悟が……俺にあっただろうか。
漠然と思った、雲をつかむような感覚。
羅凍は細い糸を手繰り寄せるように己に問う。
──それとも、俺に……見捨てることができただろうか。
そう思ったとき、プツンと糸は切れてしまったようだった。
羅凍は霧に囲まれてしまった感覚に陥る。
──変わらない。何があろうと。俺は……救いたいと願うだろう。
『それなら……』ちいさく呟き、ぐっと息を吸う。
「貴男の代わりに、俺が……貴男の守ってきた鴻嫗城をお守り致します」
羅凍の瞳は涙を溜めないまま、ただ熱くなった。強く拳を握りしめて。
──これで救えなかった罪が、少しでも償えるのなら。
次第に、拳は震え、羅凍の表情は悔しさで滲んでいった。
冷たい空気が流れる。
ヒタリ、ヒタリとちいさな足音が部屋に響いて止まる。
「私の傍にずっといてくれるって言ってくれてたのに……どうして」
詰まる呼吸がちいさな声を消し、言葉は一度途切れた。
「どうして? どうしてどこかへ行ってしまったの?」
クロッカスの髪が、肩に揺れる。悔しそうに。
白いドレスが揺れ始める。
死者が横たわるベッドへと向かっていく。──右手には、赤いリボンを握って。
ベッドの前に着くと、横たわる体の右耳部分から奥へと右手を入れた。
数十本のリラの髪を赤いリボンで結ぶ。そうして、またフラフラと白いドレスを揺らし、輝く物を右手で取る。
虚ろな瞳で口角をにこりと上げ、ベッドへと足を戻す。抜け殻からリボンで結んだ束をつかむと、ためらわずに根本からリラの髪を切り落とした。
ハサミを無造作に置き、サラリとしたリラの髪の束を両手で大切にすくうように持ち上げる。
「沙稀、貴男は……私に偽っていたのは、誕生日と年齢だけではなかったのね」
赤いリボンの結び目をそっと頬につける。懐かしむように閉じた瞳からは、涙がいくつもいくつも流れ落ちた。
「貴男は……いったい『誰』だったの」
その姫は『偽り』の姫になった。高貴な者のみが持ち得るクロッカスの色彩を持ちながら。
但し、彼女の心は彼女の愛した人物によって守られていた。クロッカスの色彩を失った『正統なる後継者』によって。
「私は、沙稀を疑うことはないわ」
これまでも、恭良はそうだった。沙稀が落ち込んでいるときに限って、恭良は毎回こう言う。
とてつもなくショックなことを知って崩壊寸前であったのに、恭良はもう乗り越えていた。
沙稀は改めて、これからも恭良を『鴻嫗城の姫』をして敬意を払っていこうと決意する。恭良の強さが壊れないよう包み込み、抱き締めた。
その夜もふたりはひとつのベッドで横たわる。恭良に抱き締められ、少しずつ眠れるようになり、ようやく沙稀は彼女を抱き締めて眠れるようになっていた。
あたたかさに安心するかのように、彼女が先に寝入っていることも増え、この日も先に眠った恭良を見、沙稀は照れて笑う。
日頃は『きれいだ』としか思えないのに、腕の中で眠る彼女は妙にかわいらしかった。
やっと彼女を『恭良』と名前だけで呼べるようになり、彼にはひとつ決意したことがあった。
愛おしい人の頬をそっと撫で、沙稀はベッドから出る。
彼女に、渡したいと思っていた物を用意しようと、ようやく決意できたのだ。
一枚の用紙を沙稀はテーブルの上に置く。用紙に印字されたいくつかの枠を眺め、握った万年筆を近づけていく。
書こうとした手が、微かに震えた。
これから書こうとしているものは、何年も何年も己を示すものとして書けなかったものだ。
昔はもっと、喜べると思っていた。今とは違う感覚で、このときを迎えると思っていた。
この用紙に自らの意思で筆を走らせることなど、数年前からはないと思っていた。ただ最近は、どう書いたらいいのかと書くことに迷っていた。
しかし、勇気を出してくれた彼女に報いるためにも、どうにか記入したいと望んでいた。
──恭良に……渡したい。
力強く万年筆を握り、沙稀はていねいに一文字ずつを書いていく。止まらずに、誕生日を一月四日と書いた。
じっくりと書き終えたころ、
「沙稀?」
と、恭良の声が聞こえた。沙稀は自然と微笑み、声のもとへと歩いていく。
横になったままの姿が白いレースの間から微かに見える。恭良はベッドに横たわり、布団に包まっていた。
「起きちゃった?」
「うん。寂しかった」
かわいらしいと、沙稀はうれしさを隠しきれなくなる。
「どうして笑っているの?」
「うれしいからだよ」
ふて腐れたように言う彼女に、沙稀はやさしく返し、気恥ずかしそうに言う。
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