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固い誓い
【58】薄れゆく希望(1)
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「相変わらず、幸せそうだな」
瑠既は沙稀に声をかける。
「うるさい。邪魔をするな」
黙々と食べ続ける沙稀に対し、瑠既は恭良の肩を叩く。
「恭良、俺もあげたい」
一瞬にして、沙稀の眉間に皺が寄る。
「お前の手から食を与えられるくらいなら、餓死してやる」
いつの日か聞いたような言葉に、瑠既は顔を上げる。沙稀のベッドから少し離れた場所で、大臣が必死に笑いを堪えている。
「嫌。誰がお兄様にこの権利を譲るものですか」
ふて腐れるような声は恭良。
口を尖らせた瑠既が不服そうに恭良を見る。──彼女は幸せそうにミニトマトのヘタを取った。
「沙稀」
『はい』と、うれしそうに微笑む恭良の手から、赤い実は沙稀の口に運ばれる。
「美味しい?」
沙稀はうなずき、幸せそうに微笑む。
「はいはい、お邪魔しました。また来ます」
瑠既が立ち上がり、退出しようとしたとき、
「俺はお前が来ようが来なかろうが、どちらでも構わないからな」
と、沙稀は言う。
来なくていいとわざわざ言っているようなものだ。ふたりだけの空間を邪魔するなと言いたげに。
瑠既は口を一文字に閉じる。しばらく沙稀を見るが、その横で甲斐甲斐しく世話をする恭良がどうしても視界に入ってくる。
「お前が来るなと言おうが俺は来るし、世話をしようとするんだからな」
瑠既の声に反応したのは、恭良だった。けれど、それは一瞬で。恭良の視界はすぐに沙稀に戻る。
「それでもいいですけど……お姉様は悲しませないで下さいね、お兄様」
「お前も、庾月を寂しがらせるな」
冷たく返答し、瑠既は大臣を無理に連れて退室する。
沙稀の意識が戻ってから一週間。現在、沙稀の部屋に入れる人物は限られている。
医師以外は恭良、瑠既、大臣の三人だけだ。娘の庾月は、まだ鐙鷃城にいる。恭良が沙稀にべったりすぎるのだ。
「瑠既様……あの言い方は」
「わかってる。沙稀には悪かったと思ってるよ」
地下の廊下を歩くふたりだが、珍しく瑠既が苛立ちを流さずにいる。
「安心しました」
「は?」
「沙稀様のこととなると変わらないのですね、瑠既様は」
悔しそうに瑠既は両手を握る。
「本来なら沙稀は……あんな風にならずに済んだはずだ」
やるせなさを露わにし、急ぐように足を速める。地上に出ると、大臣に別れも言わずに鐙鷃城へと歩いていく。
「未だに……許せないのですね」
大臣は自らが連れて来た男、『世良』を思い浮かべて呟く。
深いため息は、大臣も同じだと言っているようだった。
その後も沙稀は恭良と幸せそうな日々を過ごしていた。瑠既が足しげく顔を出してもお構いなしだ。
そんなある日、瑠既は庾月を連れてきて沙稀を驚かせた。けれど、それは同時に喜びでもあり──沙稀は庾月とふたりだけの時間を要望した。
目を丸くした恭良を尻目に、瑠既はそうだろうと言いたげに恭良と大臣を廊下へと連れ出す。
恭良は廊下に出ると宮城研究施設へと一直線に向かう。大臣も一礼をして職務に戻る。瑠既は『万一に備える』と廊下に残った。
恭良の姿が見えなくなり、瑠既は再び入室。すると、沙稀はあからさまに嫌な顔を向けたが、
「俺もおばあ様から継承をある程度受けているから、多少は役に立てると思うけど?」
と言えば、沙稀は瑠既を空気のように扱った。
沙稀は、庾月に継承しておきたいことがまだまだあるはずだ。瑠既はそれを見越して連れて来た。継承の補助はできるが、勝手に瑠既から後継者に引き継いでいい事柄はない。
こうして瑠既は、たまに庾月を連れて来た。沙稀は度々、庾月とふたりだけの時間を共有する。瑠既は空気となり、沙稀の補助に努めた。
だが、半年も経たないうちに、沙稀の意識が再び落ちる。
翌日、瑠既は鴻嫗城に来なかった。
次の日に瑠既は姿を見せたが、明らかな無理が出ていた。いつでも飄々としていた雰囲気は一切ない。
「沙稀の世話は時間で当番制にしよう」
『用事があるときは、俺が変わるから』と付け加えたが、恭良が反論をする。けれど、瑠既にいつになく厳しく返される。
「お前も大臣も、業務に支障が出ているのが見て余る。それに、俺は短期決戦だとは微塵も思っていない。むしろ、一生涯でもしていく覚悟だ。だからこそ、割り振るべきだと言っている。降りたくなったら、いつでも降りたらいい」
煽りのような言葉に恭良は不満を口に含む。言葉にできないのは、仕事を放棄できないからだ。
「わかりました」
大臣が中和をとる。
「ただし、瑠既様も無理はしすぎないで下さいね。私たちだけで沙稀様をみようとしているのは、私たちの自己満足なのですから」
「わかってるよ」
「もちろん、プロに頼むのもひとつです。できる限り、私たちの後悔が少なくなるよう、力を合わせて努力しましょう」
『ね、恭良様』と大臣が言えば、恭良は渋々うなずいた。
沙稀の意識が戻らなくなり、二年以上の歳月が流れた。
恭良と交代をした大臣は、部屋の掃除を行う。窓を閉め、空気の入れ替えを終える。窓の鍵をかけた、そのとき──。
「大臣」
はっきりと聞こえた声に、大臣は振り返る。声は間違いなく、沙稀のものだ。
大臣が駆け寄ると、沙稀はうっすらと瞳を開けている。
「俺は……」
かろうじて息をしている状態だと判断する。咄嗟に医師を呼ぼうと、大臣が受話器を上げて内線番号を押し始めたとき、また背後から声が聞こえた。
「俺を独房に……連れて行って。そうすれば、きっと……また……」
沙稀の声が徐々に弱々しくなり、消えていく。
すぐさま大臣は短く鳴る受話器を手放す。
「何を言っているのですか! 状態は、わかっていますか?」
大臣が沙稀に声を荒げたときには、沙稀の瞳はすでに閉じていた。
「沙稀様?」
異変を感じ取った大臣は、意識に呼びかけるように強く言葉をかける。
「しっかりなさい! 起きなさい! ……沙稀!」
肩をつかんで大臣は叫んだ。だが、いくら叫んでも、揺らしても、沙稀の意識は戻らない。
医師が来て、バタバタと騒がしくなる。揺らしていた手を医師に引きはがされ、錯乱していたと自覚する。
後ずさりをして壁にぶつかり、その場で尻をつく。医師や看護師に囲まれた光景を、大臣は呆然と見ていた。恐ろしいと手が震えたのは、何年振りだろう。
瑠既は沙稀に声をかける。
「うるさい。邪魔をするな」
黙々と食べ続ける沙稀に対し、瑠既は恭良の肩を叩く。
「恭良、俺もあげたい」
一瞬にして、沙稀の眉間に皺が寄る。
「お前の手から食を与えられるくらいなら、餓死してやる」
いつの日か聞いたような言葉に、瑠既は顔を上げる。沙稀のベッドから少し離れた場所で、大臣が必死に笑いを堪えている。
「嫌。誰がお兄様にこの権利を譲るものですか」
ふて腐れるような声は恭良。
口を尖らせた瑠既が不服そうに恭良を見る。──彼女は幸せそうにミニトマトのヘタを取った。
「沙稀」
『はい』と、うれしそうに微笑む恭良の手から、赤い実は沙稀の口に運ばれる。
「美味しい?」
沙稀はうなずき、幸せそうに微笑む。
「はいはい、お邪魔しました。また来ます」
瑠既が立ち上がり、退出しようとしたとき、
「俺はお前が来ようが来なかろうが、どちらでも構わないからな」
と、沙稀は言う。
来なくていいとわざわざ言っているようなものだ。ふたりだけの空間を邪魔するなと言いたげに。
瑠既は口を一文字に閉じる。しばらく沙稀を見るが、その横で甲斐甲斐しく世話をする恭良がどうしても視界に入ってくる。
「お前が来るなと言おうが俺は来るし、世話をしようとするんだからな」
瑠既の声に反応したのは、恭良だった。けれど、それは一瞬で。恭良の視界はすぐに沙稀に戻る。
「それでもいいですけど……お姉様は悲しませないで下さいね、お兄様」
「お前も、庾月を寂しがらせるな」
冷たく返答し、瑠既は大臣を無理に連れて退室する。
沙稀の意識が戻ってから一週間。現在、沙稀の部屋に入れる人物は限られている。
医師以外は恭良、瑠既、大臣の三人だけだ。娘の庾月は、まだ鐙鷃城にいる。恭良が沙稀にべったりすぎるのだ。
「瑠既様……あの言い方は」
「わかってる。沙稀には悪かったと思ってるよ」
地下の廊下を歩くふたりだが、珍しく瑠既が苛立ちを流さずにいる。
「安心しました」
「は?」
「沙稀様のこととなると変わらないのですね、瑠既様は」
悔しそうに瑠既は両手を握る。
「本来なら沙稀は……あんな風にならずに済んだはずだ」
やるせなさを露わにし、急ぐように足を速める。地上に出ると、大臣に別れも言わずに鐙鷃城へと歩いていく。
「未だに……許せないのですね」
大臣は自らが連れて来た男、『世良』を思い浮かべて呟く。
深いため息は、大臣も同じだと言っているようだった。
その後も沙稀は恭良と幸せそうな日々を過ごしていた。瑠既が足しげく顔を出してもお構いなしだ。
そんなある日、瑠既は庾月を連れてきて沙稀を驚かせた。けれど、それは同時に喜びでもあり──沙稀は庾月とふたりだけの時間を要望した。
目を丸くした恭良を尻目に、瑠既はそうだろうと言いたげに恭良と大臣を廊下へと連れ出す。
恭良は廊下に出ると宮城研究施設へと一直線に向かう。大臣も一礼をして職務に戻る。瑠既は『万一に備える』と廊下に残った。
恭良の姿が見えなくなり、瑠既は再び入室。すると、沙稀はあからさまに嫌な顔を向けたが、
「俺もおばあ様から継承をある程度受けているから、多少は役に立てると思うけど?」
と言えば、沙稀は瑠既を空気のように扱った。
沙稀は、庾月に継承しておきたいことがまだまだあるはずだ。瑠既はそれを見越して連れて来た。継承の補助はできるが、勝手に瑠既から後継者に引き継いでいい事柄はない。
こうして瑠既は、たまに庾月を連れて来た。沙稀は度々、庾月とふたりだけの時間を共有する。瑠既は空気となり、沙稀の補助に努めた。
だが、半年も経たないうちに、沙稀の意識が再び落ちる。
翌日、瑠既は鴻嫗城に来なかった。
次の日に瑠既は姿を見せたが、明らかな無理が出ていた。いつでも飄々としていた雰囲気は一切ない。
「沙稀の世話は時間で当番制にしよう」
『用事があるときは、俺が変わるから』と付け加えたが、恭良が反論をする。けれど、瑠既にいつになく厳しく返される。
「お前も大臣も、業務に支障が出ているのが見て余る。それに、俺は短期決戦だとは微塵も思っていない。むしろ、一生涯でもしていく覚悟だ。だからこそ、割り振るべきだと言っている。降りたくなったら、いつでも降りたらいい」
煽りのような言葉に恭良は不満を口に含む。言葉にできないのは、仕事を放棄できないからだ。
「わかりました」
大臣が中和をとる。
「ただし、瑠既様も無理はしすぎないで下さいね。私たちだけで沙稀様をみようとしているのは、私たちの自己満足なのですから」
「わかってるよ」
「もちろん、プロに頼むのもひとつです。できる限り、私たちの後悔が少なくなるよう、力を合わせて努力しましょう」
『ね、恭良様』と大臣が言えば、恭良は渋々うなずいた。
沙稀の意識が戻らなくなり、二年以上の歳月が流れた。
恭良と交代をした大臣は、部屋の掃除を行う。窓を閉め、空気の入れ替えを終える。窓の鍵をかけた、そのとき──。
「大臣」
はっきりと聞こえた声に、大臣は振り返る。声は間違いなく、沙稀のものだ。
大臣が駆け寄ると、沙稀はうっすらと瞳を開けている。
「俺は……」
かろうじて息をしている状態だと判断する。咄嗟に医師を呼ぼうと、大臣が受話器を上げて内線番号を押し始めたとき、また背後から声が聞こえた。
「俺を独房に……連れて行って。そうすれば、きっと……また……」
沙稀の声が徐々に弱々しくなり、消えていく。
すぐさま大臣は短く鳴る受話器を手放す。
「何を言っているのですか! 状態は、わかっていますか?」
大臣が沙稀に声を荒げたときには、沙稀の瞳はすでに閉じていた。
「沙稀様?」
異変を感じ取った大臣は、意識に呼びかけるように強く言葉をかける。
「しっかりなさい! 起きなさい! ……沙稀!」
肩をつかんで大臣は叫んだ。だが、いくら叫んでも、揺らしても、沙稀の意識は戻らない。
医師が来て、バタバタと騒がしくなる。揺らしていた手を医師に引きはがされ、錯乱していたと自覚する。
後ずさりをして壁にぶつかり、その場で尻をつく。医師や看護師に囲まれた光景を、大臣は呆然と見ていた。恐ろしいと手が震えたのは、何年振りだろう。
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