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還
【52】右手と左手で記すもの
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数日かけて訃報の連絡を出し終わった悠穂は、忒畝の部屋で意外な物を見つけた。ゆっくりと数枚を捲り、パタリと閉じて自室に持って行く。
自室へと向かう悠穂は、ぼんやりしながら妊娠が判明した日のことを思い出していく。
忒畝に報告をした夜、鷹がどこか呆然としていた。
「どうしたの?」
悠穂が声をかけると鷹は我に返り、忒畝に我が子を三番目に抱かせてくれと言われたと話した。
「お義兄さんって、あぁんなに無邪気に笑う人だったんだなぁ……『忒畝君主』じゃなくて、初めて『お義兄さん』を知った気がした……」
「そう? よかった。お兄ちゃんって、ちょっと……かわいいでしょ?」
兄を自慢するように悠穂は言う。その笑顔が眩しそうに鷹は微笑み、
「ああ。悠穂と同じだ」
と、となりに座った悠穂の肩に手を回す。
「もう、鷹ったら」
鷹の手を悠穂は軽く叩き、照れて笑う。鷹も一緒に笑い、悠穂の頬を愛おしそうに触れる。
「本当に。俺、お義兄さんまで大好きになっちまう」
「それはうれしいけど、妬いちゃうかも」
悠穂は頬にある鷹の手を包み、クスクスと笑った。
あの日が昨日のことのようなのに、もう、ずい分昔のことだったような気もする。
自室へと着いた悠穂はじっくりと読み始める。けれど、少し読むと止まり、何かを思い起こしているかのようにまぶたを閉じた。
そうして再び読み始め、時には目尻を指でなぞり、時には天を仰ぐ。
何度読む手を止めても、読むのを止めようとはしない。
悲痛な表情を幾度となく浮かべているのに、指先は読み進めるほど愛おしそうに頁に触れる。
悠穂がすべてに目を通すのには、時間がかかった。そうして、読み終わると息を殺すように抱き締める。
翌日、悠穂は赤子を抱くようにそれを両腕に包み、充忠の職場へと向かう。ノックをして入室すると、充忠は忙しそうに書類の山を片していた。
「あれ? 悠穂ちゃん」
忒畝のやりかけの物でも見つけたのかと冗談を言う充忠に、悠穂は一冊の手帳のような物を差し出す。
「充忠さん、これ」
悠穂の手元に、充忠は一度視線を落とした。
「最近見つけたんだけど……お兄ちゃん、日記を書いていたみたい」
目を見開いた充忠が手に取る。パラパラと頁を捲り、やがて食い入るように見つめた。
「これって……」
「充忠さんも……気がついた?」
眉間に皺を寄せた充忠に、悠穂が悲しく言う。
「悠穂ちゃん、これ……ちょっと預かって読んでも……いいかな?」
「うん」
悠穂は瞳を潤ませ微笑む。
「お兄ちゃんも、喜ぶと思う」
『それじゃあ』と悠穂は退室しようと背を向ける。
「あ、ありがとう!」
元気づけるように充忠が言うと、悠穂は振り返り、
「ゆっくり読んで」
と気遣った。
日付は五年前の十二月十七日──悠水の誕生した日から始まっていた。
充忠は数行読んですぐ、忒畝が遺書のつもりで書いたものだと感じた。──字体が、右手で書いたものだったから。
忒畝は両ききだった。
右手で書く文字は、きれいで読みやすい文字だ。忒畝もそう認識していたのだろう。他人に見せるものは、右手で書いていた。
一方で、左手で書く文字はひどい癖字だった。
人の目に触れるものは、サインしか書かなかった。癖字を逆手に取ったかのように、『確かに忒畝が書いた』という証にしていたのだ。
こんなに癖のひどい文字は『忒畝』にしか書けないと、充忠は常々言ったものだ。
だが、忒畝はあえて癖字を直さなかったのだろう。
ごく近しい者を除き、他人には読めない文字と忒畝自身も認識していたようで、個人的な研究のメモは左手で書いていた。
充忠が目を見張ったのは、途中から左手で記載された文字が混ざっていたからだ。──それも、頁を捲れば捲るほど割合が増え、次第に左手で書く文字ばかりに変化しているとギョッとした。
書かれた癖字を読み解けば、読まないでほしかったのかと想像する言葉たちが並んでいた。この日記を一時期は破棄する思いで忒畝が殴り書きをしたのではないかと疑うほど。
けれど、癖字が増えていけばいくほど、心情の変化が読み取れる。苦しい思いも、感謝も痛いほどに入り混じっていた。
今年の九月を過ぎたころには、すべての記載が左手によるものになった。筆跡はたどたどしい部分が目立ち、尚、読み解きにくい。
充忠は涙が込み上げる。
いつしか忒畝は、確かに『忒畝』が書いていると示すために、左手でしか書かなくなったのではないか──そんな気持ちでいっぱいになる。
まるで、『生きていたい』と言っているようだった。
悠穂から預かった日記を充忠が読み終わった日、充忠は森へと赴く。
広い道の中、両脇は木々に包まれる。
明るい日差しの中を、ゆっくりと高台へと歩く。
やがて高台の頂上が歩いている位置から見えてくる。──そう、いつもはあそこに忒畝の姿が見えた。忒畝のうしろ姿に安堵のため息をついて、文句を言い、慌てる様子の忒畝に多少の苛々をぶつけたものだ。
懐かしいと、忒畝の姿を浮かべながら充忠は近づく。
ふと、雨が降ってきた。
にわか雨だ。空は青空のまま、日差しは落ちていない。
”いっそのこと、雨が降ってくれればいいのに。僕が涙を落とさないでいられるように”
充忠は座り、花束を置く。
「忒畝……」
はやすぎる友の死を悼んで、視界を空へと向けた。
【忒畝の最後の日記】
------------------------------------
繋がる来世へ
------------------------------------
僕はずっと子どもを育てたいと願っていた。
けれど、子どもに限らずとも人を育てられるのなら、それは幸せなことだ。
僕の研究を継いでくれる人がいるのなら、尚更。
ここは、僕の大好きな場所。
この場所が続いていくことが、僕の幸せだ。
残していってしまう、愛する人たちに。
残したいものを遺せて逝けただろうか。
大切な妹に。
かけがえのない友に。
やさしい思い出の詰まったこの生家で、
僕にできることを。
僕に遺せることを。ひとつでも多く遺せただろうか。
ありがとう。
愛をくれて。
ありがとう。
愛させてくれて。
たくさんの 『ありがとう』 と、
たくさんの 『愛』 を。
また いつか ともに過ごせる時を願って。
忒畝
------------------------------------
忒畝がこの世を去ってから、およそ八年後。克主研究所は、何人かの人員を新しく迎え入れていた。
その中のひとりが、充忠の傍らにいる。
「おい、弥之。何だ。これは」
大きな眼鏡をかけた黒髪の少年が、充忠をチラリと見る。
「何って……どこか間違えた?」
十五歳前後の彼は、充忠の助手──というのは形式上で、実際には充忠が一切の面倒を見ている研究者見習いだ。
弥之は研究員になりたいわけではない。自立しなければならないところを充忠が拾ってきただけだ。
そうして面倒を見ているうち、充忠は弥之に『次期君主になってはどうか』と話した。
弥之は恐れ多いと首を横に振ったが、充忠は『先々代も研究者や君主になりたくてなったわけじゃないらしいから、大丈夫だ』と丸め込み、先を見越した教育をしている。
きょとんとした眼鏡越しの黒目を見つめ、充忠はすぐ近くの椅子を指さす。
「わかった。座れ」
「あらあら、君主代理。ちいさい男の子を苛めないの」
馨民の声に充忠は視線を向けたが、すぐに弥之に視線を戻す。ちょこんと座ったのを確認し、充忠は一から書類の説明を始める。
およそ八年間、克主研究所の君主は不在だ。
けれど、君主が生前の間にその了承を取りつけていると充忠は開き直っている。
ちなみに、充忠は断固として君主代行処理をしないので、馨民が現状も行っている。
充忠は弥之に確認しながら教えると、静かにやり直しを命じた。
その夜、馨民はアップルティーを入れながら充忠に聞く。
「ねぇ、どうして充忠は……弥之に君主になれって言うの?」
ほのかに甘い香りがふたりの自室を包む。
充忠は十歳になった岷音の学習を見ながら答える。
「悠畝前君主なら、弥之に受けさせると思って」
馨民は『へぇ~』と言って、少し考えた。
「じゃあ、もしかして……人事もそういう目線なの?」
「ああ」
充忠は軽くうなづき、
「そうだな。忒畝目線で考えたんじゃ、全ッ然参考にならない」
言い捨てるような口調に、馨民が思わず笑う。
「何よ~、それ」
笑い声混じりの馨民の声に、充忠も笑った。──未だ忒畝がいるかのように。
自室へと向かう悠穂は、ぼんやりしながら妊娠が判明した日のことを思い出していく。
忒畝に報告をした夜、鷹がどこか呆然としていた。
「どうしたの?」
悠穂が声をかけると鷹は我に返り、忒畝に我が子を三番目に抱かせてくれと言われたと話した。
「お義兄さんって、あぁんなに無邪気に笑う人だったんだなぁ……『忒畝君主』じゃなくて、初めて『お義兄さん』を知った気がした……」
「そう? よかった。お兄ちゃんって、ちょっと……かわいいでしょ?」
兄を自慢するように悠穂は言う。その笑顔が眩しそうに鷹は微笑み、
「ああ。悠穂と同じだ」
と、となりに座った悠穂の肩に手を回す。
「もう、鷹ったら」
鷹の手を悠穂は軽く叩き、照れて笑う。鷹も一緒に笑い、悠穂の頬を愛おしそうに触れる。
「本当に。俺、お義兄さんまで大好きになっちまう」
「それはうれしいけど、妬いちゃうかも」
悠穂は頬にある鷹の手を包み、クスクスと笑った。
あの日が昨日のことのようなのに、もう、ずい分昔のことだったような気もする。
自室へと着いた悠穂はじっくりと読み始める。けれど、少し読むと止まり、何かを思い起こしているかのようにまぶたを閉じた。
そうして再び読み始め、時には目尻を指でなぞり、時には天を仰ぐ。
何度読む手を止めても、読むのを止めようとはしない。
悲痛な表情を幾度となく浮かべているのに、指先は読み進めるほど愛おしそうに頁に触れる。
悠穂がすべてに目を通すのには、時間がかかった。そうして、読み終わると息を殺すように抱き締める。
翌日、悠穂は赤子を抱くようにそれを両腕に包み、充忠の職場へと向かう。ノックをして入室すると、充忠は忙しそうに書類の山を片していた。
「あれ? 悠穂ちゃん」
忒畝のやりかけの物でも見つけたのかと冗談を言う充忠に、悠穂は一冊の手帳のような物を差し出す。
「充忠さん、これ」
悠穂の手元に、充忠は一度視線を落とした。
「最近見つけたんだけど……お兄ちゃん、日記を書いていたみたい」
目を見開いた充忠が手に取る。パラパラと頁を捲り、やがて食い入るように見つめた。
「これって……」
「充忠さんも……気がついた?」
眉間に皺を寄せた充忠に、悠穂が悲しく言う。
「悠穂ちゃん、これ……ちょっと預かって読んでも……いいかな?」
「うん」
悠穂は瞳を潤ませ微笑む。
「お兄ちゃんも、喜ぶと思う」
『それじゃあ』と悠穂は退室しようと背を向ける。
「あ、ありがとう!」
元気づけるように充忠が言うと、悠穂は振り返り、
「ゆっくり読んで」
と気遣った。
日付は五年前の十二月十七日──悠水の誕生した日から始まっていた。
充忠は数行読んですぐ、忒畝が遺書のつもりで書いたものだと感じた。──字体が、右手で書いたものだったから。
忒畝は両ききだった。
右手で書く文字は、きれいで読みやすい文字だ。忒畝もそう認識していたのだろう。他人に見せるものは、右手で書いていた。
一方で、左手で書く文字はひどい癖字だった。
人の目に触れるものは、サインしか書かなかった。癖字を逆手に取ったかのように、『確かに忒畝が書いた』という証にしていたのだ。
こんなに癖のひどい文字は『忒畝』にしか書けないと、充忠は常々言ったものだ。
だが、忒畝はあえて癖字を直さなかったのだろう。
ごく近しい者を除き、他人には読めない文字と忒畝自身も認識していたようで、個人的な研究のメモは左手で書いていた。
充忠が目を見張ったのは、途中から左手で記載された文字が混ざっていたからだ。──それも、頁を捲れば捲るほど割合が増え、次第に左手で書く文字ばかりに変化しているとギョッとした。
書かれた癖字を読み解けば、読まないでほしかったのかと想像する言葉たちが並んでいた。この日記を一時期は破棄する思いで忒畝が殴り書きをしたのではないかと疑うほど。
けれど、癖字が増えていけばいくほど、心情の変化が読み取れる。苦しい思いも、感謝も痛いほどに入り混じっていた。
今年の九月を過ぎたころには、すべての記載が左手によるものになった。筆跡はたどたどしい部分が目立ち、尚、読み解きにくい。
充忠は涙が込み上げる。
いつしか忒畝は、確かに『忒畝』が書いていると示すために、左手でしか書かなくなったのではないか──そんな気持ちでいっぱいになる。
まるで、『生きていたい』と言っているようだった。
悠穂から預かった日記を充忠が読み終わった日、充忠は森へと赴く。
広い道の中、両脇は木々に包まれる。
明るい日差しの中を、ゆっくりと高台へと歩く。
やがて高台の頂上が歩いている位置から見えてくる。──そう、いつもはあそこに忒畝の姿が見えた。忒畝のうしろ姿に安堵のため息をついて、文句を言い、慌てる様子の忒畝に多少の苛々をぶつけたものだ。
懐かしいと、忒畝の姿を浮かべながら充忠は近づく。
ふと、雨が降ってきた。
にわか雨だ。空は青空のまま、日差しは落ちていない。
”いっそのこと、雨が降ってくれればいいのに。僕が涙を落とさないでいられるように”
充忠は座り、花束を置く。
「忒畝……」
はやすぎる友の死を悼んで、視界を空へと向けた。
【忒畝の最後の日記】
------------------------------------
繋がる来世へ
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僕はずっと子どもを育てたいと願っていた。
けれど、子どもに限らずとも人を育てられるのなら、それは幸せなことだ。
僕の研究を継いでくれる人がいるのなら、尚更。
ここは、僕の大好きな場所。
この場所が続いていくことが、僕の幸せだ。
残していってしまう、愛する人たちに。
残したいものを遺せて逝けただろうか。
大切な妹に。
かけがえのない友に。
やさしい思い出の詰まったこの生家で、
僕にできることを。
僕に遺せることを。ひとつでも多く遺せただろうか。
ありがとう。
愛をくれて。
ありがとう。
愛させてくれて。
たくさんの 『ありがとう』 と、
たくさんの 『愛』 を。
また いつか ともに過ごせる時を願って。
忒畝
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忒畝がこの世を去ってから、およそ八年後。克主研究所は、何人かの人員を新しく迎え入れていた。
その中のひとりが、充忠の傍らにいる。
「おい、弥之。何だ。これは」
大きな眼鏡をかけた黒髪の少年が、充忠をチラリと見る。
「何って……どこか間違えた?」
十五歳前後の彼は、充忠の助手──というのは形式上で、実際には充忠が一切の面倒を見ている研究者見習いだ。
弥之は研究員になりたいわけではない。自立しなければならないところを充忠が拾ってきただけだ。
そうして面倒を見ているうち、充忠は弥之に『次期君主になってはどうか』と話した。
弥之は恐れ多いと首を横に振ったが、充忠は『先々代も研究者や君主になりたくてなったわけじゃないらしいから、大丈夫だ』と丸め込み、先を見越した教育をしている。
きょとんとした眼鏡越しの黒目を見つめ、充忠はすぐ近くの椅子を指さす。
「わかった。座れ」
「あらあら、君主代理。ちいさい男の子を苛めないの」
馨民の声に充忠は視線を向けたが、すぐに弥之に視線を戻す。ちょこんと座ったのを確認し、充忠は一から書類の説明を始める。
およそ八年間、克主研究所の君主は不在だ。
けれど、君主が生前の間にその了承を取りつけていると充忠は開き直っている。
ちなみに、充忠は断固として君主代行処理をしないので、馨民が現状も行っている。
充忠は弥之に確認しながら教えると、静かにやり直しを命じた。
その夜、馨民はアップルティーを入れながら充忠に聞く。
「ねぇ、どうして充忠は……弥之に君主になれって言うの?」
ほのかに甘い香りがふたりの自室を包む。
充忠は十歳になった岷音の学習を見ながら答える。
「悠畝前君主なら、弥之に受けさせると思って」
馨民は『へぇ~』と言って、少し考えた。
「じゃあ、もしかして……人事もそういう目線なの?」
「ああ」
充忠は軽くうなづき、
「そうだな。忒畝目線で考えたんじゃ、全ッ然参考にならない」
言い捨てるような口調に、馨民が思わず笑う。
「何よ~、それ」
笑い声混じりの馨民の声に、充忠も笑った。──未だ忒畝がいるかのように。
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