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思い出
【34】名前(1)
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年始の華やかな雰囲気が落ち着いたころ、鴻嫗城に一本の電話が入った。常務的に出た大臣だったが、恭しく礼をし、電話を取り次ぐ。
その電話は剣士の稽古をつけていた沙稀へと繋がる。
「はい」
取り次いだ返事を短くすると、受話器からは羅凍の声。沙稀の印象とは裏腹な声色で、意外な内容が鼓膜を揺らしていく。
「え……」
その内容は、沙稀から言葉を奪った。
「ごめん。本来なら、伝えないべきだ。だけど……」
羅凍の声は途切れ、どちらも声を発せられない。沙稀が脳内で羅凍の言葉を再生し、かみ砕いていると、再び羅凍の声が聞こえてきた。
「ただ……心配をしないでほしくて」
「ああ、わかった」
沙稀は意味をさほど理解しないまま返すしかなかった。間もなく、電話は切れる。
受話器を置いてから、耳をただ通過していった話の内容の意味を、じんわりと理解する。
『子どもが男だと断定されれば、流産したことにされる』
断定されればと言っていたが、わざわざ連絡をくれたのだ。断定されたのだろう。
今更ながら、羅凍が突然結婚した意味を知る。同時に、ずっと前から羅凍は自らの立場をこういうものだと思っていたと気づき、苦しい。
昔、羅凍は度々言っていた。
『兄になにかなければ、結婚の話は来ない』好都合だと言いたげだったが、結婚をするもしないも、自らの意思で叶うものではなかったということだ。貴族とはそういうもの──だが、羅凍には自由でいてほしかったと願ってしまう。
ふと、羅凍と反対の位置にいる、同じく旧友のことも心配になる。凪裟は、どうだったのだろうか。凪裟は、知っていたのだろうか。
玄が羨ましいと言っていたのは、知らなかったからではないのか。羅暁城に嫁ぐ前、検査を受けたと言っていた。結果は、つまり──今になって、健康診断のようなものと例えた、自らの発言を悔いる。
羅暁城は、他の高位である城と同様に男系。当然、男子を所望するだろう。
我が子と羅凍が認められるのは、娘の場合のみ。しかし、羅凍が望むのはどちらだろうか。それに、今回は娘だったとしても、男子が生まれるまで同じことが繰り返されるだけだ。年月が重なれば『後継者』という重圧は、増していく。──そう沙稀が感じているように。
何が最良なのか、沙稀に答えは出せなかった。
沙稀の心情は複雑で、稽古は自主的なものに切り替えた。剣が交わる音と光景を見ながら、指導とは程遠い内容で頭が埋め尽くされていた。
それからしばらくしてから、変化が起きる。──誄があまり顔を出さなくなった。
鐙鷃城の宮城研究施設の設立は、順調に進んでいる。その分、瑠既も忙しい──はずだが、瑠既は鴻嫗城に顔を出しては相変わらず沙稀に構う。
瑠既は飄々としているが、沙稀の気にするようなことを口にしない。だからこそ、沙稀は瑠既の背を見て、漠然と渦巻く。
──もし、瑠既と立場が逆なら、きっと俺は余計なことを言っていただろう。
瑠既はああ見えても繊細だ。振る舞いが大きく変わっても、人の本質はそうそう変わらない。何も考えていないふりをしているだけだ。
ポツンとひとりになって、沙稀はひとりで羅暁城に行ったときの感覚が蘇る。そこから早送りして、ズキンと胸が痛み、止まる。
恭良が泣いていた。鴻嫗城に戻りすこし経ったころだ。
びっくりした沙稀が寄り添うと、恭良はポツリポツリと詫びの言葉をこぼした。
何に対しての謝罪かわからなかった。
だが、繰り返される言葉に、沙稀は話の輪郭をぼんやりと見る。
「恭良のせいではないよ」
と口にしたが、本当は『俺のせいだ』と言いたかった。
「また機会があるさ」
とも続けたが、婚礼後の儀式以上の機会がないのは明白で。
瑠既を見送った廊下で、長く息がもれる。
わかっているのだ、瑠既も。だからこそ気を遣っていないふりをして、気遣ってくれている。忙しく、しかも慣れていないだろうに、わざわざ毎日のように顔を出して、沙稀が追い詰めないようにとしてくれている。
月日が流れ、鐙鷃城に宮城研究施設が設立したころ、瑠既と誄の間には娘が産まれた。
誄は初産の直後だからと、瑠既だけが鴻嫗城に足を運んでいた。今日は娘の名の報告だけで、お披露目はまた今度の機会だ。
沙稀と大臣のふたりに、瑠既は誇らしげに命名書を広げる。だが、それを見たふたりは、瑠既とは対照的な表情になった。
「瑠既様。なんですか、この命名は!」
「え? そんなにいけなかった?」
「当たり前でしょう? 『留妃姫』から名を頂いた貴男が、知らないはずありませんよね?」
祖母の正式の名は『留』。鴻嫗城では、子の名の最後に『き』をつけるのが通例だ。だが、祖母にはそれがなかった。
沙稀と瑠既にとっては、幼かったころ、ふたりを男女関係なく孫としてとてもかわいがってくれた、やさしい祖母。特に留は、瑠既に鴻嫗城の歴史や仕来りを教えていた。だからこそ、留が抱えて生きてきた名の重みを、瑠既が忘れるなど、大臣にはあり得ないと訴えている。
「え~っと……俺も、この子も鐙鷃城の人間なわけだから」
「何ですか。実家に来て、言い訳はそれですか?」
大臣の思っていた通り、瑠既は忘れていない。
しかし、敢えてのことなら尚更だと大臣は憤る。
「沙稀様も、何とか仰って下さい!」
大臣は命名紙を指す。
「『黎』……ああ、まぁ、大臣が怒る理由はわかる」
「そうでしょう? 瑠既様、貴男はかわいいかわいい娘が産まれたにも関わらず、嫡子と認めないおつもりですか?」
「え?」
渋い表情を浮かべた瑠既に、沙稀はサラリと告げる。
「確かに、そう解釈されてもおかしくないようなことをしたね」
言葉とは裏腹に、その表情は厳しくない。
沙稀には誤解を招くような事態になると瑠既がわかっていた気がして、真意を聞こうとする。
「何か、理由があったんじゃないのか?」
「鐙鷃城に倣っただけだ。誄姫も、誄姫のご両親も『跡取りだ』って喜んでくれたよ?」
半ば開き直ったような瑠既に、沙稀も大臣も呆気にとられる。
由緒正しき、永い歴史を持つ鴻嫗城。──どこへ行っても鴻嫗城の仕来りを守るのが当たり前だと、沙稀も大臣も思っていたのだろう。
大臣にとっても、沙稀にとっても、鴻嫗城を守っていく上で重要であり、重い事柄だ。けれど、はっきりと瑠既との認識の差が明らかになってしまった。
「そうですか」
悔しそうに大臣は呟く。
了承したくはないが、納得したと返事をするしかない。ずっと鴻嫗城で育ってきた沙稀と違い、瑠既は俗世で育ってきたと認めざるを得ないのだ。城育ちではなくても、差異が出るようなことは、もっと違うことだと思っていたのかもしれない。
「誄姫も、ご存知なのでしょう?」
「まぁ、ふたりで決めたから」
幾つかの候補から『黎』を選んだのは、誄だ。本当は、その候補に『き』を入れた名前もあった。けれど、瑠既は、誄が『黎』と選んだときの笑顔がうれしくて、命名すると決めた。
後ろめたい気持ちはあった。
母にも、祖母にも、沙稀にも、大臣にも。瑠既は自身の名の由来を、忘れたことはない。
だが、『黎』と名を報告したとき、誄の両親の喜びようは大変なもので。瑠既は結局、一言も鴻嫗城の仕来りを言いだせず、婿になったからと鐙鷃城の通例に従い──今に至る。
「わかりました。手続きは進めます。……しかしながら、今回だけにして下さいね」
大臣のため息交じりの言葉に、瑠既は同意する。
「はい。決める前に一応、伝えておいた方がよかったね」
「そうですね、却下できましたから」
その電話は剣士の稽古をつけていた沙稀へと繋がる。
「はい」
取り次いだ返事を短くすると、受話器からは羅凍の声。沙稀の印象とは裏腹な声色で、意外な内容が鼓膜を揺らしていく。
「え……」
その内容は、沙稀から言葉を奪った。
「ごめん。本来なら、伝えないべきだ。だけど……」
羅凍の声は途切れ、どちらも声を発せられない。沙稀が脳内で羅凍の言葉を再生し、かみ砕いていると、再び羅凍の声が聞こえてきた。
「ただ……心配をしないでほしくて」
「ああ、わかった」
沙稀は意味をさほど理解しないまま返すしかなかった。間もなく、電話は切れる。
受話器を置いてから、耳をただ通過していった話の内容の意味を、じんわりと理解する。
『子どもが男だと断定されれば、流産したことにされる』
断定されればと言っていたが、わざわざ連絡をくれたのだ。断定されたのだろう。
今更ながら、羅凍が突然結婚した意味を知る。同時に、ずっと前から羅凍は自らの立場をこういうものだと思っていたと気づき、苦しい。
昔、羅凍は度々言っていた。
『兄になにかなければ、結婚の話は来ない』好都合だと言いたげだったが、結婚をするもしないも、自らの意思で叶うものではなかったということだ。貴族とはそういうもの──だが、羅凍には自由でいてほしかったと願ってしまう。
ふと、羅凍と反対の位置にいる、同じく旧友のことも心配になる。凪裟は、どうだったのだろうか。凪裟は、知っていたのだろうか。
玄が羨ましいと言っていたのは、知らなかったからではないのか。羅暁城に嫁ぐ前、検査を受けたと言っていた。結果は、つまり──今になって、健康診断のようなものと例えた、自らの発言を悔いる。
羅暁城は、他の高位である城と同様に男系。当然、男子を所望するだろう。
我が子と羅凍が認められるのは、娘の場合のみ。しかし、羅凍が望むのはどちらだろうか。それに、今回は娘だったとしても、男子が生まれるまで同じことが繰り返されるだけだ。年月が重なれば『後継者』という重圧は、増していく。──そう沙稀が感じているように。
何が最良なのか、沙稀に答えは出せなかった。
沙稀の心情は複雑で、稽古は自主的なものに切り替えた。剣が交わる音と光景を見ながら、指導とは程遠い内容で頭が埋め尽くされていた。
それからしばらくしてから、変化が起きる。──誄があまり顔を出さなくなった。
鐙鷃城の宮城研究施設の設立は、順調に進んでいる。その分、瑠既も忙しい──はずだが、瑠既は鴻嫗城に顔を出しては相変わらず沙稀に構う。
瑠既は飄々としているが、沙稀の気にするようなことを口にしない。だからこそ、沙稀は瑠既の背を見て、漠然と渦巻く。
──もし、瑠既と立場が逆なら、きっと俺は余計なことを言っていただろう。
瑠既はああ見えても繊細だ。振る舞いが大きく変わっても、人の本質はそうそう変わらない。何も考えていないふりをしているだけだ。
ポツンとひとりになって、沙稀はひとりで羅暁城に行ったときの感覚が蘇る。そこから早送りして、ズキンと胸が痛み、止まる。
恭良が泣いていた。鴻嫗城に戻りすこし経ったころだ。
びっくりした沙稀が寄り添うと、恭良はポツリポツリと詫びの言葉をこぼした。
何に対しての謝罪かわからなかった。
だが、繰り返される言葉に、沙稀は話の輪郭をぼんやりと見る。
「恭良のせいではないよ」
と口にしたが、本当は『俺のせいだ』と言いたかった。
「また機会があるさ」
とも続けたが、婚礼後の儀式以上の機会がないのは明白で。
瑠既を見送った廊下で、長く息がもれる。
わかっているのだ、瑠既も。だからこそ気を遣っていないふりをして、気遣ってくれている。忙しく、しかも慣れていないだろうに、わざわざ毎日のように顔を出して、沙稀が追い詰めないようにとしてくれている。
月日が流れ、鐙鷃城に宮城研究施設が設立したころ、瑠既と誄の間には娘が産まれた。
誄は初産の直後だからと、瑠既だけが鴻嫗城に足を運んでいた。今日は娘の名の報告だけで、お披露目はまた今度の機会だ。
沙稀と大臣のふたりに、瑠既は誇らしげに命名書を広げる。だが、それを見たふたりは、瑠既とは対照的な表情になった。
「瑠既様。なんですか、この命名は!」
「え? そんなにいけなかった?」
「当たり前でしょう? 『留妃姫』から名を頂いた貴男が、知らないはずありませんよね?」
祖母の正式の名は『留』。鴻嫗城では、子の名の最後に『き』をつけるのが通例だ。だが、祖母にはそれがなかった。
沙稀と瑠既にとっては、幼かったころ、ふたりを男女関係なく孫としてとてもかわいがってくれた、やさしい祖母。特に留は、瑠既に鴻嫗城の歴史や仕来りを教えていた。だからこそ、留が抱えて生きてきた名の重みを、瑠既が忘れるなど、大臣にはあり得ないと訴えている。
「え~っと……俺も、この子も鐙鷃城の人間なわけだから」
「何ですか。実家に来て、言い訳はそれですか?」
大臣の思っていた通り、瑠既は忘れていない。
しかし、敢えてのことなら尚更だと大臣は憤る。
「沙稀様も、何とか仰って下さい!」
大臣は命名紙を指す。
「『黎』……ああ、まぁ、大臣が怒る理由はわかる」
「そうでしょう? 瑠既様、貴男はかわいいかわいい娘が産まれたにも関わらず、嫡子と認めないおつもりですか?」
「え?」
渋い表情を浮かべた瑠既に、沙稀はサラリと告げる。
「確かに、そう解釈されてもおかしくないようなことをしたね」
言葉とは裏腹に、その表情は厳しくない。
沙稀には誤解を招くような事態になると瑠既がわかっていた気がして、真意を聞こうとする。
「何か、理由があったんじゃないのか?」
「鐙鷃城に倣っただけだ。誄姫も、誄姫のご両親も『跡取りだ』って喜んでくれたよ?」
半ば開き直ったような瑠既に、沙稀も大臣も呆気にとられる。
由緒正しき、永い歴史を持つ鴻嫗城。──どこへ行っても鴻嫗城の仕来りを守るのが当たり前だと、沙稀も大臣も思っていたのだろう。
大臣にとっても、沙稀にとっても、鴻嫗城を守っていく上で重要であり、重い事柄だ。けれど、はっきりと瑠既との認識の差が明らかになってしまった。
「そうですか」
悔しそうに大臣は呟く。
了承したくはないが、納得したと返事をするしかない。ずっと鴻嫗城で育ってきた沙稀と違い、瑠既は俗世で育ってきたと認めざるを得ないのだ。城育ちではなくても、差異が出るようなことは、もっと違うことだと思っていたのかもしれない。
「誄姫も、ご存知なのでしょう?」
「まぁ、ふたりで決めたから」
幾つかの候補から『黎』を選んだのは、誄だ。本当は、その候補に『き』を入れた名前もあった。けれど、瑠既は、誄が『黎』と選んだときの笑顔がうれしくて、命名すると決めた。
後ろめたい気持ちはあった。
母にも、祖母にも、沙稀にも、大臣にも。瑠既は自身の名の由来を、忘れたことはない。
だが、『黎』と名を報告したとき、誄の両親の喜びようは大変なもので。瑠既は結局、一言も鴻嫗城の仕来りを言いだせず、婿になったからと鐙鷃城の通例に従い──今に至る。
「わかりました。手続きは進めます。……しかしながら、今回だけにして下さいね」
大臣のため息交じりの言葉に、瑠既は同意する。
「はい。決める前に一応、伝えておいた方がよかったね」
「そうですね、却下できましたから」
応援ありがとうございます!
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