完結まで9話【女神回収プログラム ～三回転生したその先に～】姫の側近の剣士の、決して口外できない秘密は

希望と恋

【３０】憧れ

　周囲の視線を感じ、哀萩アイシュウは羅凍ラトウに座るようにと促す。グルリと店内を見渡した羅凍ラトウは、慌てて座った。
　哀萩アイシュウはからかうように小声で言う。
「嘘がよかったの？」
「違う」
　横に首を振る羅凍ラトウ。よほど恥ずかしかったのか、顔を上げようとしない。
　哀萩アイシュウは楽しそうに笑いながら、またからかうように小声で言う。
「冗談がよかったんなら、冗談にしてもいいよ」
「嫌だ。そうじゃなくて……っていうか、え？　本当に？　え、本当にいいの？」
　うれしさのあまり混乱し始めた羅凍ラトウに対し、彼女は冷静だ。からかうでも笑うでもなく、ただ呟く。
「髪」
　そう言われて、初めて羅凍ラトウは意識する。決別する気はあったのに、城を出るとき『切る』という選択肢が浮かんでいなかった。
「切ればいい？」
　貴族が生家との絶縁を願うなら、真っ先にすると判断したのだろう。意思表示が足らなかったとばかりに、迷いがなさそうに言う。
　その様子がおかしかったのか、哀萩アイシュウはクスクスと笑う。自身が『貴族』だと意識しない彼にとって長髪は、単に幼少期からの慣例と感じたのかもしれない。
「私、羅凍ラトウの髪も好きだから。羅凍ラトウが気にしないなら、切らないで」
　楽しそうに笑う彼女を前に、羅凍ラトウは耳を疑う。
「『も』？　『も』って何。いや、言わなくていい。聞きたいけど……聞きたいけど、言わなくていい」　
　混乱し、何を言っているかさえ把握できていないようだ。明らかに動揺する羅凍ラトウを前に、彼女は無邪気に笑う。眉を下げ、うれしそうに。

　いつの間にかパフェを堪能するより、再会したうれしさを堪能したふたり。喫茶店を出て歩き始めると、どちらともなく、手を繋ぐ。
　羅凍ラトウは夢見心地だ。
「俺、からかわれてるだけでもいいやって思える。いや、嫌だけど。そうじゃない方がそりゃ、うれしいけど……」
　幸せに動揺する羅凍ラトウを見上げ、彼女はいたずらな笑みを浮かべた。
「じゃあ、からかってるだけにしようかな」
　途端に手を離し、彼女が走り出す。
　羅凍ラトウは『あ』と声にならぬ声を上げ、彼女の背中を追う。すぐに追いつき、うしろから抱き締める。
「捕まえた。本気だと言わせてやる」
　幸せすぎて怖くなる。
　ふざけてじゃれ、彼女と笑い合う。そんなわずかな時間が過ぎて、ふと笑いが止まったとき──向かい合った彼女の無防備さに羅凍ラトウは気づく。
　彼女との関係性が変わった。
　今更ながら意識した羅凍ラトウは、ドキリとして彼女から手をパッと離した。
「どうしたの？」
　何度か、これまでに似たようなことを体験した気がした。ドクドクと鼓動を感じながら羅凍ラトウが思い返してみれば、これまでに彼女が突然離れたことが何度かあった。
　羅暁ラトキ城で過ごしていたときは羅凍ラトウが気づかなかった間を、彼女は感じていたのだろう。今は、立場が逆になっただけで──そう考えると、苦笑いするしかない。
「ううん」
　とはいえ、彼女が出て行く前の羅凍ラトウなら、この間に気づいていたら迷わずに隙をついただろう。惜しいと後悔しても遅い。
　それに、咄嗟に離れてしまったのは、心の片隅に罪悪感があるからだということまで、気づいてしまった。
「そういえば、となりの家に……父上がいるんだよね」
　あからさまに羅凍ラトウの顔色が曇る。
「あ～……」
　哀萩アイシュウが手を繋ぎ直し、大袈裟に振って歩き始める。羅凍ラトウも、従ってゆっくりと歩く。
「今日は……不在にするって」
　父の配慮、つまり思考を読まれていたと思えば、羅凍ラトウが素直に喜べなくても仕方ない。
「そう……」
　つくづく親子だ──と、羅凍ラトウは笑う。ただ、今日は父のことも忘れ、ふたりだけで過ごせる幸せを満喫しようと決める。
「鍋が食べてみたい」
「何それ」
　彼女が笑う。
「いいじゃん。食べてみたいんだ」
　城内で鍋は出ない。だからと言って、城下町で食べられるものでもない。貴族と離れたところでは、度々食べられるものだと羅凍ラトウは聞いていたが、耳にしていただけだ。
　どんな味なのかは、想像がつかない。ただ、彼女は知っているはずだし、彼女と食べるならおいしいと妙な確信を持っている。
「じゃあ、今晩は鍋で決まりね！」
　鍋は冬の定番だもんねと、羅凍ラトウの知らないことを楽しそうに言う。
　やっぱり、哀萩アイシュウが好きだと胸が高鳴る。

　羅凍ラトウはいつの間にか一緒になって笑っていた。



　立ち寄ったことのないような店に何軒か入り、食材を買う。野菜をいくつか買うだけで結構な重さになると初めて知り、重い物をすすんで持ち、ちいさな家の並ぶ方向へと歩く。
　楽しい時間は足早に過ぎて行き、日が暮れ始めていた。
「ここよ」
　こじんまりとした店のような大きさの家だが、彼女がひとりで住んでいるなら、広い方なのだろう。外見のちいささに驚いた羅凍ラトウだが、比較対象が城だったと気づき、反省しながら中に入る。
　自室よりも狭い印象だ。けれど、憧れてきた普通の生活がこういうものだと目の当たりにして、喜びが沸いてくる。
　個室のような鍵を締めると、彼女はすでにキッチンに立っていた。その光景を、羅凍ラトウは胸の中にしっかりと焼きとめる。
　しかし、幸せに浸るのは束の間。彼女の不得意なことを思い出し、キッチンへと向かう。
「座ってていいよ」
　なぜか彼女は得意げだ。だから、羅凍ラトウは『俺もやる』と言った。
「だって、哀萩アイシュウが料理得意じゃないって知ってるし。俺、おいしい物が食べたいから」
　余計な一言に、哀愁アイシュウの言葉が詰まる。
「ん……っとに！　羅凍ラトウは失礼ね」
　彼女は包丁を強く握り、うつむく。
　哀萩アイシュウが怒りを覚えているというのに、羅凍ラトウはなぜか幸せそうに笑う。
「知ってるでしょ？」
　羅凍ラトウは夢心地でフワフワとしていそうだ。それはそうなのかもしれない。哀萩アイシュウと一緒にキッチンに立てる日が来ると、想像したことがなくて。感じたことのないくらい、心が幸せに満たされているのだろう。
　哀萩アイシュウはというと、弾んだ声に顔を上げ──しばらく固まった。
　彼女からすれば、ニ十センチ以上背の高い彼から、幸せが降り注いでいるように感じたのかもしれない。
「ん？」
　羅凍ラトウが首を傾げると、哀萩アイシュウは慌ててまな板に顔を向けた。



　トントントン

　カチャリ、コトン
　野菜を切る音から、鍋のふたを置く音や食器の並ぶ音へと、羅凍ラトウの耳に入ってくる音が変化している。

　幸せを象徴するような音だ。
　おだやかで心地よい時間は過ぎていく。



　食事中、羅凍ラトウは時間が永遠に止まればいいのにと願った。
　誰かと一緒に食事がしたいと望みながら生きてきた。それが、叶った瞬間だ。
　ずっと想いを寄せてきた人と何を食べるかと話し、食材の用意をして、ともに作り、談笑をして食卓を囲む。
　こんなひとときを、過ごせると思っていなかった。

　羅凍ラトウからは、幸せがあふれている。
　幸せそうな彼を、彼女は湯気を挟んで見ていた。
　湯気のお蔭で照れが多少なりとも軽減されたかと思えば、彼女にはおかしいとしか言えない出来事だった。



　夢のような時間だったが、現実だ。
　日はとっぷりと暮れ、時計は眠る時間がやってくると刻々と告げている。

　食事の片づけを終えると、彼女は慣れたように風呂の準備を始める。それが羅凍ラトウには、奇妙な行動に映る。
「先に入る？　それとも、一緒に入る？」
「先に入る！　……いや、やっぱりあとにする」
　一緒には無理だと即答したのに、風呂上りの彼女を想像して直視できないと答えを変える。すると、彼女は後者は冗談だったと笑い流すように、
「じゃあ、お先に」
　と、風呂場へと姿を消す。
　そうして取り残されてから唖然とし、異常に慌てたと振り返る。
　就寝前に風呂に入るのは自然なことで、一般的には自らが用意するのも自然なことだ。──自覚していた以上に、根本が貴族だと嫌気が差す。

　雨の音に似た、シャワーの音が聞こる。

　玄ハルカと同じ部屋となった日の夜の記憶が、いつの間にか羅凍ラトウの脳内で再生し始めていた。