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期待
【16】期待
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散らばった書類を目にして、ため息を吐く。一度、深呼吸をして忒畝は書類を拾い、整えていく。ふと、自身も昼食を取っていないのに気づき、食堂へと早足で向かう。
心配させてしまう人がいる。その一心だ。
昼食後に食堂を出て、香りに囚われる。視界でたどれば、クロッカスの髪が優雅に揺れて、遠のいていく。向かう先は、図書室だろうか。
数秒、見とれるようにしていた忒畝は、ためらうように視線を逸らし職場へと向かう。
誄宛ての書類を一度退かして、吹っ切るかのように職務を遂行していった。
結局、忒畝が誄宛ての書類を再び手にしたのは、夕食のあと。ある程度の用意をざっくりとして、自室に持ち帰り整える。
深いため息が出る。書類は、最低限よりもすこし多い程度。誄に恥をかかさず、大臣が見ても不足がなく──近々、また誄が来るであろう用事を残すもの。
会いたいと願っている。今でなくても、今日でなくてもいい。また、会えるという事実が、どうしてもほしい。
──どうかしている。
忒畝は書類をパサリと置いて、席を立つ。ストールを外し、上着を脱ぎ、浴室へと向かう。
誄は黎馨ではないし、忒畝は琉菜磬ではないと──過去生の想いに同化しているだけだとシャワーを浴び、現世は現世だと切り離すことに努める。
ただ、胸の奥に引っかかって残るものがある。黎馨は克主研究所に生まれるはずだったと言っていた。そういう未来を見ていたと。
そんな光景を望むかのように想像して、ああ、幻想だと笑う。
──現世は、現在だ。
誄は克主研究所に生まれていない。接点を探す方が難しい。恋人でもない。それに、独身でもない。
これが現状だ。
ザバっと浴槽を出て、衣服を纏う。しっかりとストールを巻き、上着まできちんと着て机に向かう。時刻は九時過ぎ。
──朝一の船が出るまで、まだまだ時間はある。
気がつけば深夜の一時を回っていた。手元には一通りの書類が用意できている。すべて渡せば、あとは代理人でも済むほど、しっかりしたものだ。
これらを渡せば、終わる──そう思い渡しに行こうとしてから、ずいぶん経ち、こんな時間になっていた。
誄は来ない。来るわけがない。忒畝は鍵を渡しておいて、自室を正確に教えていない。だから、来なくて当然なのだ。
もっとはやくに整った書類を持って行き、鍵と交換すればよかっただけなのに──それができなかった。
とはいえ、早朝でいい。早朝に誄を訪ね渡し、鍵をふたつ預かって見送ればいい。それだけだ。
ふうっと息を吐く。寝るなら、はやいに越したことはない。忒畝がベッドに向かおうとした、そのときだった。
鍵が、カチャリと音を立てた。
コンコン
疑うように忒畝は扉を見つめる。ドクンドクンと鼓動を強く感じていると、静かに扉が開いていった。
──どうして……。
ふわりと浮かんだのは、クロッカスの長い髪。ゆっくりと開くまぶたからは、宝石のような美しい瞳。艶やかな唇が、ちいさなちいさな声を含みながら言葉を紡ぐ。
「忒畝様。まだ……起きていらしたのですね」
パタリと閉まる扉。ふたりだけの空間になり、深い悲しみと絶望、愛おしさが忒畝の中であふれて、一気に混ざり合う。
誄には、部屋を教えていない。方向を伝えただけだ。でも、それだけで誄は推測できたのだろう。
高貴な生まれだ。貴族なのだから。ほぼ外出したことがない箱入りだからと言っても、よく出入りしていたのは、あの鴻嫗城。尚且つ、熟知しているのだろう、あの鴻嫗城を。
誄は賢い。あの恭良が姉と慕うほど。ならば、克主研究所の構造など、推測は容易かったのか。
誄は一歩も動かない。
忒畝は──誄を部屋に入れないように、返事をすることもできた。今、書類を手に取って渡し、鍵を受け取って返すこともできた。感情のまま冷たくすることも、感情を隠すように冗談を言うことも選べた。あれもこれもと選択肢は数多くあって、何が最善であるか、最も何を選んではいけないのかをも判断でき、理屈や道理も、善悪も──正論は出ていて、それを選ぶのが常であるのに、踏みつぶした。
一歩、二歩、動き出せば思考をかんたんに感情が塗りつぶしていく。結果を見据えて行動を選ぶ彼が、すべてを投げ捨てるようにして求めるのは、ただひとり。
忒畝は扉の前まで辿り着く。迷いがないわけでもないのだろう。目を合わせても、すぐに外す。言葉を出そうにも、決め兼ねているのか。発したい言葉と、発すべき言葉がどうにも噛み合わないのか。
好きとは言えない。裏切ることになる。誄をずっと姉と慕い、忒畝をもずっと慕っている恭良を。
万が一、誄が忒畝と同じ気持ちだとしても言わないだろう。長年待ち続けていた瑠既に向け続ける言葉だから。
右手を微かに上げる。鍵を催促しようとする姿は──この期に及んでも、『忒畝』だ。
チリン、とかわいらしい鈴の音が鳴った。
忒畝の部屋の鍵についたちいさな林檎のキーホルダーが動いたが、それは、誄が動いたからで──忒畝は誄を見なかったが、重ねられた唇の感触で誄を認識した。
とろけそうな甘い香りに包まれる。
誄を試したつもりでいたのに、忒畝は自身が試されていた感覚に囚われていた。
強い感情は、忒畝を苦しめる。苦しみは自業自得だと噛み締め、心の中で泣いて、笑った。
誄が眠りについたころ、忒畝は吐き気と痛みに耐えて体を起こす。すやすやと眠る誄を眺め、愛おしくなでる。
──彼女を求めるなんて、僕は……愚かだ。
忒畝の視界が歪む。諦めるという選択肢はより身近になったのに、程遠い言葉になっている。
『想いが叶えば、気持ちが消えてくれるかもしれない』と思っていたのは、間違いだったと痛感する。誄を抱きながら感じたのは、蝕まれていく苦痛。気の遠くなるような吐き気。耐えがたいのに耐えたのは、それら以上に彼女を欲したから。誄を離したくないという想いが、どんどん強くなっていったから。
求め求められ、喜びを感じ、すぐに幻だと崩れ去る。チラつく男の影に悔しさが沸いて、嫉妬して、彼女に弄ばれているだけだと思い直し、それでも放したくなくて、離れないようになればいいと願った。
彼女は、愛を囁かなかった。ある種、誠実かもしれない。名を呼ばれる度に、忒畝が勝手に愛を囁かれているように感じただけだ。悦びの声を聞いて、満足に浸っただけだ。まったくもって、愚かでしかない。
失望する。彼女を手に入れたいという、叶わぬ願いを抱いてしまったことに。
頬を伝った涙は、苦痛なのか、誄への想いなのか、忒畝に判断はつかなかった。突如、口元を抑え忒畝は風呂場へと駆け込む。
咽び、嘔吐き、苦しみから逃れるように吐き出す。呼吸を整えながらようやく瞼を開ければ、群青と呼ぶべき濃く青い色が落ちている。
予想できた事態だ。だが、目の当たりにして忒畝は己の体を改めて思い知る。体内が焼けるような苦痛に、力が抜ける。
黎馨と会い、血液は一般的な青と呼べる色に一度は戻った。だからこそ、血清が作れた。けれど、今度は自ら死期を早める行為をした。報いは受けるべきだと、忒畝は己を戒める。
最悪なことをしたと、自覚している。
過分な書類の用意に、大臣は疑うだろうか。
恭良は誄の変化に気づくだろうか。
瑠既は、誄の肌を見るだろうか。
ため息がもれる。
充忠にしても、馨民にしても、悠穂でも鷹でも誰であれ、忒畝の愚行に気づけば失望するだろう。
浅はかな行為で何人もの人を傷つける結果になったと、胸が痛む。
──何もなかったと、できればいい。
体調は、すこぶる悪い。きっと、顔色もあからさまに悪い。自らが招いた結果のせいで、また過度な心配も仕事の負担もさせたくはない。
体が冷える。無理に動いてシャワーを浴びる。無理は体に返ってきて、咳き込み嘔吐く。
何とかベッドに横たわると、容易に心は奪われ、すぐとなりで眠っている幸せを噛みしめ、眠りに落ちていく。
忒畝が起きたのは、朝日が顔を出してからだった。すぐとなりに眠っていた人はいない。飛び起きたが、苦痛に苛まれ駆け出すことはできず。苦しい中でも無心でいたはずの人を探し、目についたのは用意したはずの残っている書類で。
なんとか立ち上がりフラリフラリと机まで辿り着けば、数枚の書類が残っており、鍵がていねいにふたつ置いてある。
また来ると示唆し、彼女は華麗に立ち去っていた。
心配させてしまう人がいる。その一心だ。
昼食後に食堂を出て、香りに囚われる。視界でたどれば、クロッカスの髪が優雅に揺れて、遠のいていく。向かう先は、図書室だろうか。
数秒、見とれるようにしていた忒畝は、ためらうように視線を逸らし職場へと向かう。
誄宛ての書類を一度退かして、吹っ切るかのように職務を遂行していった。
結局、忒畝が誄宛ての書類を再び手にしたのは、夕食のあと。ある程度の用意をざっくりとして、自室に持ち帰り整える。
深いため息が出る。書類は、最低限よりもすこし多い程度。誄に恥をかかさず、大臣が見ても不足がなく──近々、また誄が来るであろう用事を残すもの。
会いたいと願っている。今でなくても、今日でなくてもいい。また、会えるという事実が、どうしてもほしい。
──どうかしている。
忒畝は書類をパサリと置いて、席を立つ。ストールを外し、上着を脱ぎ、浴室へと向かう。
誄は黎馨ではないし、忒畝は琉菜磬ではないと──過去生の想いに同化しているだけだとシャワーを浴び、現世は現世だと切り離すことに努める。
ただ、胸の奥に引っかかって残るものがある。黎馨は克主研究所に生まれるはずだったと言っていた。そういう未来を見ていたと。
そんな光景を望むかのように想像して、ああ、幻想だと笑う。
──現世は、現在だ。
誄は克主研究所に生まれていない。接点を探す方が難しい。恋人でもない。それに、独身でもない。
これが現状だ。
ザバっと浴槽を出て、衣服を纏う。しっかりとストールを巻き、上着まできちんと着て机に向かう。時刻は九時過ぎ。
──朝一の船が出るまで、まだまだ時間はある。
気がつけば深夜の一時を回っていた。手元には一通りの書類が用意できている。すべて渡せば、あとは代理人でも済むほど、しっかりしたものだ。
これらを渡せば、終わる──そう思い渡しに行こうとしてから、ずいぶん経ち、こんな時間になっていた。
誄は来ない。来るわけがない。忒畝は鍵を渡しておいて、自室を正確に教えていない。だから、来なくて当然なのだ。
もっとはやくに整った書類を持って行き、鍵と交換すればよかっただけなのに──それができなかった。
とはいえ、早朝でいい。早朝に誄を訪ね渡し、鍵をふたつ預かって見送ればいい。それだけだ。
ふうっと息を吐く。寝るなら、はやいに越したことはない。忒畝がベッドに向かおうとした、そのときだった。
鍵が、カチャリと音を立てた。
コンコン
疑うように忒畝は扉を見つめる。ドクンドクンと鼓動を強く感じていると、静かに扉が開いていった。
──どうして……。
ふわりと浮かんだのは、クロッカスの長い髪。ゆっくりと開くまぶたからは、宝石のような美しい瞳。艶やかな唇が、ちいさなちいさな声を含みながら言葉を紡ぐ。
「忒畝様。まだ……起きていらしたのですね」
パタリと閉まる扉。ふたりだけの空間になり、深い悲しみと絶望、愛おしさが忒畝の中であふれて、一気に混ざり合う。
誄には、部屋を教えていない。方向を伝えただけだ。でも、それだけで誄は推測できたのだろう。
高貴な生まれだ。貴族なのだから。ほぼ外出したことがない箱入りだからと言っても、よく出入りしていたのは、あの鴻嫗城。尚且つ、熟知しているのだろう、あの鴻嫗城を。
誄は賢い。あの恭良が姉と慕うほど。ならば、克主研究所の構造など、推測は容易かったのか。
誄は一歩も動かない。
忒畝は──誄を部屋に入れないように、返事をすることもできた。今、書類を手に取って渡し、鍵を受け取って返すこともできた。感情のまま冷たくすることも、感情を隠すように冗談を言うことも選べた。あれもこれもと選択肢は数多くあって、何が最善であるか、最も何を選んではいけないのかをも判断でき、理屈や道理も、善悪も──正論は出ていて、それを選ぶのが常であるのに、踏みつぶした。
一歩、二歩、動き出せば思考をかんたんに感情が塗りつぶしていく。結果を見据えて行動を選ぶ彼が、すべてを投げ捨てるようにして求めるのは、ただひとり。
忒畝は扉の前まで辿り着く。迷いがないわけでもないのだろう。目を合わせても、すぐに外す。言葉を出そうにも、決め兼ねているのか。発したい言葉と、発すべき言葉がどうにも噛み合わないのか。
好きとは言えない。裏切ることになる。誄をずっと姉と慕い、忒畝をもずっと慕っている恭良を。
万が一、誄が忒畝と同じ気持ちだとしても言わないだろう。長年待ち続けていた瑠既に向け続ける言葉だから。
右手を微かに上げる。鍵を催促しようとする姿は──この期に及んでも、『忒畝』だ。
チリン、とかわいらしい鈴の音が鳴った。
忒畝の部屋の鍵についたちいさな林檎のキーホルダーが動いたが、それは、誄が動いたからで──忒畝は誄を見なかったが、重ねられた唇の感触で誄を認識した。
とろけそうな甘い香りに包まれる。
誄を試したつもりでいたのに、忒畝は自身が試されていた感覚に囚われていた。
強い感情は、忒畝を苦しめる。苦しみは自業自得だと噛み締め、心の中で泣いて、笑った。
誄が眠りについたころ、忒畝は吐き気と痛みに耐えて体を起こす。すやすやと眠る誄を眺め、愛おしくなでる。
──彼女を求めるなんて、僕は……愚かだ。
忒畝の視界が歪む。諦めるという選択肢はより身近になったのに、程遠い言葉になっている。
『想いが叶えば、気持ちが消えてくれるかもしれない』と思っていたのは、間違いだったと痛感する。誄を抱きながら感じたのは、蝕まれていく苦痛。気の遠くなるような吐き気。耐えがたいのに耐えたのは、それら以上に彼女を欲したから。誄を離したくないという想いが、どんどん強くなっていったから。
求め求められ、喜びを感じ、すぐに幻だと崩れ去る。チラつく男の影に悔しさが沸いて、嫉妬して、彼女に弄ばれているだけだと思い直し、それでも放したくなくて、離れないようになればいいと願った。
彼女は、愛を囁かなかった。ある種、誠実かもしれない。名を呼ばれる度に、忒畝が勝手に愛を囁かれているように感じただけだ。悦びの声を聞いて、満足に浸っただけだ。まったくもって、愚かでしかない。
失望する。彼女を手に入れたいという、叶わぬ願いを抱いてしまったことに。
頬を伝った涙は、苦痛なのか、誄への想いなのか、忒畝に判断はつかなかった。突如、口元を抑え忒畝は風呂場へと駆け込む。
咽び、嘔吐き、苦しみから逃れるように吐き出す。呼吸を整えながらようやく瞼を開ければ、群青と呼ぶべき濃く青い色が落ちている。
予想できた事態だ。だが、目の当たりにして忒畝は己の体を改めて思い知る。体内が焼けるような苦痛に、力が抜ける。
黎馨と会い、血液は一般的な青と呼べる色に一度は戻った。だからこそ、血清が作れた。けれど、今度は自ら死期を早める行為をした。報いは受けるべきだと、忒畝は己を戒める。
最悪なことをしたと、自覚している。
過分な書類の用意に、大臣は疑うだろうか。
恭良は誄の変化に気づくだろうか。
瑠既は、誄の肌を見るだろうか。
ため息がもれる。
充忠にしても、馨民にしても、悠穂でも鷹でも誰であれ、忒畝の愚行に気づけば失望するだろう。
浅はかな行為で何人もの人を傷つける結果になったと、胸が痛む。
──何もなかったと、できればいい。
体調は、すこぶる悪い。きっと、顔色もあからさまに悪い。自らが招いた結果のせいで、また過度な心配も仕事の負担もさせたくはない。
体が冷える。無理に動いてシャワーを浴びる。無理は体に返ってきて、咳き込み嘔吐く。
何とかベッドに横たわると、容易に心は奪われ、すぐとなりで眠っている幸せを噛みしめ、眠りに落ちていく。
忒畝が起きたのは、朝日が顔を出してからだった。すぐとなりに眠っていた人はいない。飛び起きたが、苦痛に苛まれ駆け出すことはできず。苦しい中でも無心でいたはずの人を探し、目についたのは用意したはずの残っている書類で。
なんとか立ち上がりフラリフラリと机まで辿り着けば、数枚の書類が残っており、鍵がていねいにふたつ置いてある。
また来ると示唆し、彼女は華麗に立ち去っていた。
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