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伝説の終わり──もうひとつの始まり
【89】身命を賭して(1)
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「俺さ、明日鴻嫗城の王になるんだよ……って言ったらさ。なんて返してくれていたんだろうね」
鴻嫗城の裏にある石碑。これは、戦没者の慰霊碑だ。沙稀はそっと、左手を添える。
「わりと最近まで……俺もさ、ここに眠るんだろうなって思っていたんだよ。すまなかった、言えなくて。岩、皆……」
まぶたを閉じれば戦火を駆け抜けたときだけでなく、稽古のときや食事のとき、風呂のときなど圧倒するほどの記憶が押し寄せてくる。冷たく罵ってきた者たちも、庇ってやさしくしてくれた者たちも、皆平等に懐かしい。隠さなければと恐れることがない今ならば、皆と腹を割って話し、笑い合えるような気がしてくる。
けれど、それは勝手な想像だ。
「ありがとう……仲間で、いてくれて」
ゆっくりとまぶたをひらき、まばたきをすれば数粒の雫がポタポタと落ちて。すっと慰霊碑から離した左手で恥じるように拭い、見上げる。
空は、すっきりと晴れていて。風がサラリと、リラの長い髪を揺らしていった。
「この平和を、守っていく」
弔いであり、誓い。
日の沈んだころ、大臣を先頭に沙稀と恭良は地下へと向かう。これから、懐迂の儀式が始まる。
宮城研究施設を通り過ぎ、治療室の方へと進む。黙々と歩く最中、恭良が沙稀の手を握る。
「どうしたの?」
沙稀がやさしく声をかけたが、恭良は口を一文字に結んで首を横に振る。けれど、ぎゅっと強く握られた手は素直なもので、恐怖を伝えてきた。沙稀は握り返すと、ぐっと恭良を引き寄せる。
「もし、懐迂で恐怖を感じたら、俺を思い出して」
耳元で囁いて抱きしめる。
「必ず、迎えに行くから」
すっと背中に恭良の腕が沙稀の背中に回り、今度はそちらの手が強く服を握った。
「うん」
消えてしまいそうなほどの声に、沙稀が近づくように頬を寄せた──そのとき。
「沙稀様」
すこし離れたところから、大臣が呼ぶ。もちろん、沙稀は気づいていたが、すこし屈んで恭良の顎の下で唇を這わせた。今度は耳をつんざく勢いで大臣が呼ぶ。
「沙稀様!」
どこか怒りを含んでいるような声に沙稀が苦笑いし、恭良はくすりと笑って、
「行こう」
と、沙稀は恭良の手を引いていく。
「これから向かうのは、身を清める場ですよ」
「はい」
ムッとしているような大臣に、パッとなるような弾む声で返事をしたのは恭良。沙稀は幸せそうに愛しい人の横顔を眺めた。
「では、恭良様はこの先のお部屋で、沙稀様はこちらのお部屋でこれから身を清めて頂きます。ご存知かとは思いますが、申し上げます。それぞれ懐迂から聖なる水を頂き、ご用意してありますので隅々までよく浴びて下さい。時間の目安はニ十分。早すぎても、遅すぎてもなりません。終わりましたら、白い布がありますのでその布で身を包み、あちらの角にいらして下さい」
奥の右に大臣は右手を向ける。ふたりが首肯したのを確認し、
「そうです。ここから先は懐迂の儀式が終わり目覚めるまで言葉を発してはなりません。例え、身を清める水がどんなに冷たくても、です」
と告げて身を右の壁へと寄せる。
沙稀と恭良は一度、視線を合わせ微笑み合い、一歩を踏み出す。そうして、沙稀は手前の部屋へ、恭良は奥の部屋へと入っていった。
それを見届け、大臣は先ほど自ら示した場所へと向かう。
先に姿を現したのは、沙稀だった。いつもしっかりと止めている金属製の髪留めも外し、後ろ髪を左側へとまとめている。恭良がとなりにいたときの、あれだけやわらかかった表情はどこへ行ったのか。大臣の前で足を止めたが、目を合わせようとしない。
大臣は大臣で、沙稀が言葉を発せない状態だと理解しているため、場を取り繕おうともしない。そんな気まずさが漂うところに、ぺたぺたと響く足音。恭良のものだ。
大臣は寒そうな恭良を見るなり、
「恭良様からです。突き当りのお部屋へ。布を取り、懐迂に身を委ねて下さい」
と、案内をする。恭良は力強くうなずき、沙稀に微笑んでから一直線に向かう。
恭良の姿が見えなくなると、沙稀は足を動かす。だが、大臣は声をかけずにはいられなかった。
「沙稀様、大丈夫だとは思っておりますが……純潔は、順守して下さったのですよね?」
大臣は沙稀を信用しないわけではない。だが、恭良に沙稀の素性を話したあとから、ふたりがより親密になったのは明らかだった。懐迂は純潔の者以外が入ったら最後。飲み込んで、決して還さない。聖なる泉を汚したとみなして、激怒する。
沙稀はピタリと立ち止まると、大臣に向き直った。無表情の沙稀は大臣をじっと見たが、目を逸らすと──おもむろにバッと両手を広げる。
彼にとっては潔白の証明だが、大臣は咄嗟に目を閉じ、顔をそむけた。
沙稀にとっては、不快そのものだ。疑念を晴らすには一番の方法だろうという手段を取ったにも関わらず、疑いをかけた本人は確認する気がないのだから。
数秒経っても顔を向けない大臣に、沙稀は諦めをつける。バッと音を立てて白い布で体を覆うとともに半回転し、手前の懐迂への扉へと歩き出す。
懐迂へ繋がる部屋はふたつ、扉の間は五メートルほど。沙稀が部屋に入ると、目の前には大きな玉座のようなものが扉に背を向けて置かれていた。上半身部分が二十度くらい角度がついていて正面は暗く、深い闇が広がっている。足元には泉。
ゆっくり歩くと、どうやら床も傾斜になっているらしい。腰かければ、足首くらいまでは泉に浸るだろう。泉を視界で追えば、部屋は恭良の入った部屋と繋がっているようだ。泉の手前で、となりとの壁が途切れている。その奥は、闇だ。
暗い闇を──泉の奥を見て過るのは、もし、意識だけの存在となった懐迂の中で互いに会えなければ、二度と懐迂からは解放されないということ。広がる泉から、水の音は聞こえない。恐らく、懐迂に入った意識の中に音も存在しないのだろう。
──必ず、恭良を見つける。
沙稀は迷うことなくベッドに体を横たえ、身を包んでいた布を上にかけて瞳を閉じる。
となりの部屋では、恭良も同じように。
ほどなくして、ふたりは眠るように意識の深くへと潜っていく。
鴻嫗城の裏にある石碑。これは、戦没者の慰霊碑だ。沙稀はそっと、左手を添える。
「わりと最近まで……俺もさ、ここに眠るんだろうなって思っていたんだよ。すまなかった、言えなくて。岩、皆……」
まぶたを閉じれば戦火を駆け抜けたときだけでなく、稽古のときや食事のとき、風呂のときなど圧倒するほどの記憶が押し寄せてくる。冷たく罵ってきた者たちも、庇ってやさしくしてくれた者たちも、皆平等に懐かしい。隠さなければと恐れることがない今ならば、皆と腹を割って話し、笑い合えるような気がしてくる。
けれど、それは勝手な想像だ。
「ありがとう……仲間で、いてくれて」
ゆっくりとまぶたをひらき、まばたきをすれば数粒の雫がポタポタと落ちて。すっと慰霊碑から離した左手で恥じるように拭い、見上げる。
空は、すっきりと晴れていて。風がサラリと、リラの長い髪を揺らしていった。
「この平和を、守っていく」
弔いであり、誓い。
日の沈んだころ、大臣を先頭に沙稀と恭良は地下へと向かう。これから、懐迂の儀式が始まる。
宮城研究施設を通り過ぎ、治療室の方へと進む。黙々と歩く最中、恭良が沙稀の手を握る。
「どうしたの?」
沙稀がやさしく声をかけたが、恭良は口を一文字に結んで首を横に振る。けれど、ぎゅっと強く握られた手は素直なもので、恐怖を伝えてきた。沙稀は握り返すと、ぐっと恭良を引き寄せる。
「もし、懐迂で恐怖を感じたら、俺を思い出して」
耳元で囁いて抱きしめる。
「必ず、迎えに行くから」
すっと背中に恭良の腕が沙稀の背中に回り、今度はそちらの手が強く服を握った。
「うん」
消えてしまいそうなほどの声に、沙稀が近づくように頬を寄せた──そのとき。
「沙稀様」
すこし離れたところから、大臣が呼ぶ。もちろん、沙稀は気づいていたが、すこし屈んで恭良の顎の下で唇を這わせた。今度は耳をつんざく勢いで大臣が呼ぶ。
「沙稀様!」
どこか怒りを含んでいるような声に沙稀が苦笑いし、恭良はくすりと笑って、
「行こう」
と、沙稀は恭良の手を引いていく。
「これから向かうのは、身を清める場ですよ」
「はい」
ムッとしているような大臣に、パッとなるような弾む声で返事をしたのは恭良。沙稀は幸せそうに愛しい人の横顔を眺めた。
「では、恭良様はこの先のお部屋で、沙稀様はこちらのお部屋でこれから身を清めて頂きます。ご存知かとは思いますが、申し上げます。それぞれ懐迂から聖なる水を頂き、ご用意してありますので隅々までよく浴びて下さい。時間の目安はニ十分。早すぎても、遅すぎてもなりません。終わりましたら、白い布がありますのでその布で身を包み、あちらの角にいらして下さい」
奥の右に大臣は右手を向ける。ふたりが首肯したのを確認し、
「そうです。ここから先は懐迂の儀式が終わり目覚めるまで言葉を発してはなりません。例え、身を清める水がどんなに冷たくても、です」
と告げて身を右の壁へと寄せる。
沙稀と恭良は一度、視線を合わせ微笑み合い、一歩を踏み出す。そうして、沙稀は手前の部屋へ、恭良は奥の部屋へと入っていった。
それを見届け、大臣は先ほど自ら示した場所へと向かう。
先に姿を現したのは、沙稀だった。いつもしっかりと止めている金属製の髪留めも外し、後ろ髪を左側へとまとめている。恭良がとなりにいたときの、あれだけやわらかかった表情はどこへ行ったのか。大臣の前で足を止めたが、目を合わせようとしない。
大臣は大臣で、沙稀が言葉を発せない状態だと理解しているため、場を取り繕おうともしない。そんな気まずさが漂うところに、ぺたぺたと響く足音。恭良のものだ。
大臣は寒そうな恭良を見るなり、
「恭良様からです。突き当りのお部屋へ。布を取り、懐迂に身を委ねて下さい」
と、案内をする。恭良は力強くうなずき、沙稀に微笑んでから一直線に向かう。
恭良の姿が見えなくなると、沙稀は足を動かす。だが、大臣は声をかけずにはいられなかった。
「沙稀様、大丈夫だとは思っておりますが……純潔は、順守して下さったのですよね?」
大臣は沙稀を信用しないわけではない。だが、恭良に沙稀の素性を話したあとから、ふたりがより親密になったのは明らかだった。懐迂は純潔の者以外が入ったら最後。飲み込んで、決して還さない。聖なる泉を汚したとみなして、激怒する。
沙稀はピタリと立ち止まると、大臣に向き直った。無表情の沙稀は大臣をじっと見たが、目を逸らすと──おもむろにバッと両手を広げる。
彼にとっては潔白の証明だが、大臣は咄嗟に目を閉じ、顔をそむけた。
沙稀にとっては、不快そのものだ。疑念を晴らすには一番の方法だろうという手段を取ったにも関わらず、疑いをかけた本人は確認する気がないのだから。
数秒経っても顔を向けない大臣に、沙稀は諦めをつける。バッと音を立てて白い布で体を覆うとともに半回転し、手前の懐迂への扉へと歩き出す。
懐迂へ繋がる部屋はふたつ、扉の間は五メートルほど。沙稀が部屋に入ると、目の前には大きな玉座のようなものが扉に背を向けて置かれていた。上半身部分が二十度くらい角度がついていて正面は暗く、深い闇が広がっている。足元には泉。
ゆっくり歩くと、どうやら床も傾斜になっているらしい。腰かければ、足首くらいまでは泉に浸るだろう。泉を視界で追えば、部屋は恭良の入った部屋と繋がっているようだ。泉の手前で、となりとの壁が途切れている。その奥は、闇だ。
暗い闇を──泉の奥を見て過るのは、もし、意識だけの存在となった懐迂の中で互いに会えなければ、二度と懐迂からは解放されないということ。広がる泉から、水の音は聞こえない。恐らく、懐迂に入った意識の中に音も存在しないのだろう。
──必ず、恭良を見つける。
沙稀は迷うことなくベッドに体を横たえ、身を包んでいた布を上にかけて瞳を閉じる。
となりの部屋では、恭良も同じように。
ほどなくして、ふたりは眠るように意識の深くへと潜っていく。
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