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兄と罪、罪と弟
【64】侵蝕(1)
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オフホワイトの壁の上部は血が這ったように赤く、一本の太い線が走っている。その下には、一切の光を拒むかのような黒のカーテンがしっかりと窓を覆う。広い机の上にあるビーカーやフラスコなどの実験道具の数々を一見すれば、黒魔術が行われそうな雰囲気だ。
この一室にいるのは、男女のふたり。漆黒の髪を下でひとつにまとめた男性が、闇夜を思わせる色彩を髪に持つ女性の頬をなで、顎をクイッと上げる。
「プロポーズをしたのに、『羅凍は?』って言ったんだよ。ひどいと思わない?」
鮮やかに色づく花びらから、蝶が蜜を吸うように唇は重なる。──これが恋人や婚約者だったなら、甘美なものだろう。けれど、断続的に続く口づけは、甘いがそこはかとなく冷たい。
彼女は拒否をしないが、それは明かりが消えるまでのことだった。暗がりになった途端、彼女は一歩後退し戸惑いを見せる。
「そ、それはもしかしたら、だけど。緊張していただけじゃない?」
傷つけないために言葉を選んだのか、ぎこちなく途切れる言葉。
「緊張……」
思案しながら男性は、離れた一歩を踏み出す。すると、彼女はまた一歩後退し──それは繰り返され、距離は離れていかない。
「だって、ほ、ほら。お付き合いを始めた人の自宅に招かれたら、浮かれるものよ。思考が回らなくなってもおかしくないわ。それに凪裟さんって、羅凍と面識があったんでしょ? 好きな人とふたりだけだと緊張してしまって、面識のある羅凍に……そう、ただ助けを求めたかっただけなんじゃないかしら?」
「好きな人?」
後退と前進が、一歩一歩と積み重なりながら、他と縮まっていく距離は生じていて。それは、彼女の背後。いつの間にか、二人掛けのソファーが彼女の背後に迫っている。
「そう! だって、捷羅のこと凪裟さんは……きゃ!」
高い声を上げた彼女の視界は、グルリと縦軸に回る。
彼女のブーツがソファーの足に当たり、バランスを崩してソファーにその身を横たえた。それでも、男性は一歩を踏み出す。
彼女には男性と距離を離す術はない。横たえた体に、覆いかぶさる男性を拒む術もなく──。
「どうなんだろう? 凪裟さんには、意中の人がいたようだから」
「え?」
男性の影が彼女を覆い、一呼吸する間だけ唇が触れ合う。
「結婚する前から他に好な人がいると知っていた方が、楽だと思わない?」
囁かれた言葉に彼女は悲しみを浮かべる。拒否はできないと諦めたのか、男性を受け入れるかのように、彼の頬へと伸びていく彼女の右手。
「それって……」
同じ悲劇を彼が招くとは考えにくい。瞳を揺らす彼女に、男性は微笑む。
「俺とは正反対に位置するような人。羅凍も憧れているようだし……男女を虜にする魅力を持つ人に勝てるなんて、思ってないよ」
言葉が出なくなった彼女は、思考を停止させたのか。それとも──。
彼女の胸元の金具に、男性は手を伸ばす。金具を外し緑のマントが離れていけば、白いワンピースの上にはくっきりとした谷間が現れ──男性は新雪積もるふたつの山の間に顔を沈めていく。
夜になれば冷え冷えとする時季なのに、男女の熱はジリジリと増していく。時季に反して、今夜は熱帯夜だ。
サッパリとした朝を捷羅は自室で迎えていた。鏡の前で入念に首元や耳元を見る。哀萩とは長い関係だ。大丈夫だという安心が捷羅にはある。
けれど、初めての相手でもなければ、嫉妬をするような相手でもないと高を括り足元をすくわれるわけにはいかない。
憂さ晴らしのお陰で、泡と消えてしまったら困ることがある。
今日もよく晴れた。そう、昨日もよく晴れて──どうにもできない天候だけは味方をしてくれたのに、努力でどうにかできるだろうと思っていたことは、どうにもできなかった。
昨夜はいつの間にか夕食が凪裟に運ばれていたし、朝食を誘おうとしたら先手を食ってしまった。どうにもこうにも、うまく事が運ばない。
縁がなかったと諦めればいいと思う反面、凪裟でなければと思ってしまう己を鏡に見てしまって、捷羅は長い息を吐く。
焦ってはいけない。
情で走ってはいけない。
うまく話を進めなくてはいけない。
『いけない』だらけの言葉で縛って、それを大丈夫と言うかのように、捷羅は姿見の中の自らに向かって優雅に微笑む。
捷羅は自室を出て、正面入り口へと急ぐ。手前に見えてきた階段を下っていくと、凪裟の姿が見えてきた。
「凪裟さん!」
弾む声に応えるかのように、クロッカスの髪の毛はフワリと舞い、大きなクロッカスの瞳は捷羅を捉える。
凪裟は一息呑むと、深々と頭を下げた。
「おはようございます」
「お、おはようございます。あの、わざわざ送っていただくことになって、その……」
ふたりに漂う空気はどこかぎこちない。
「来てくださったときと同じく、船着き場までですけどね。近くまでで申し訳ないですが」
「そんなこと! 私が来るときと同じように、船の乗り換えの合間に緋倉で朝食をとると言って、予定よりも一本はやい船に乗ることになって……予定が早まってしまったのに、送っていただくなんてその、甘えてしまって……」
楓珠大陸から梛懦乙大陸に出る船は、正午が最終便。安全パイを選びたいと考えれば、凪裟は無難な行動を選択しただけだ。そのくらいは捷羅も理解している。だからこそ、無理強いはしない。
「わずかな時間でも、私が勝手にいたいだけです。気にしないでください」
行きましょうと、捷羅は一歩を踏み出す。──手は、差し出せなかった。いつになく勇気が必要で。
ジワリと増す緊張なのか、ジワリと増す痛みなのか。確かなのは、プロポーズを流された痛みが未だボディーブローのようにジワリジワリと精神を蝕んでいること。
失いたくない──その恐怖がチラリと脳裏を走る。
城を出て城下町までの長い一本道をゆっくり歩いていても、凪裟はどこか落ち着かない様子。昨夜の哀萩の言葉を思い出し、頭をひねる。まさか、本人に『好きなのか』とは聞けない。期待はあれど、可能性は低い。ならば、わざわざ玉砕することはないわけで。
──何を期待しているんだろうな。
捷羅にとっては、結婚はただ単に形式だ。それに、表面上だけでも幸せを取り繕うことができればそれでいい。
両想いなんて、奇跡だ。奇跡が起こるなんて信じていない。誰かに愛してもらえるとも、思っていない。
愛は幻想だ。愛がなくても子が授かることもあるし、無事に生まれることもある。本能に身を任せればいいだけのこと。
一喜一憂するような、心なんて要らない。
「検査の結果は、私から連絡しますね」
「あ……はい」
間を持たせるように、捷羅は電話をする口実をこぎつける。ただ、話は一言だけで終わってしまって──折角来てもらったのに、凪裟はなぜかソワソワとしているばかりで──捷羅には凪裟の気持ちが見えず、焦る。
『俺たちは、付き合っているんですよね?』
つい、言葉が出そうになり、ハッとする。
この一室にいるのは、男女のふたり。漆黒の髪を下でひとつにまとめた男性が、闇夜を思わせる色彩を髪に持つ女性の頬をなで、顎をクイッと上げる。
「プロポーズをしたのに、『羅凍は?』って言ったんだよ。ひどいと思わない?」
鮮やかに色づく花びらから、蝶が蜜を吸うように唇は重なる。──これが恋人や婚約者だったなら、甘美なものだろう。けれど、断続的に続く口づけは、甘いがそこはかとなく冷たい。
彼女は拒否をしないが、それは明かりが消えるまでのことだった。暗がりになった途端、彼女は一歩後退し戸惑いを見せる。
「そ、それはもしかしたら、だけど。緊張していただけじゃない?」
傷つけないために言葉を選んだのか、ぎこちなく途切れる言葉。
「緊張……」
思案しながら男性は、離れた一歩を踏み出す。すると、彼女はまた一歩後退し──それは繰り返され、距離は離れていかない。
「だって、ほ、ほら。お付き合いを始めた人の自宅に招かれたら、浮かれるものよ。思考が回らなくなってもおかしくないわ。それに凪裟さんって、羅凍と面識があったんでしょ? 好きな人とふたりだけだと緊張してしまって、面識のある羅凍に……そう、ただ助けを求めたかっただけなんじゃないかしら?」
「好きな人?」
後退と前進が、一歩一歩と積み重なりながら、他と縮まっていく距離は生じていて。それは、彼女の背後。いつの間にか、二人掛けのソファーが彼女の背後に迫っている。
「そう! だって、捷羅のこと凪裟さんは……きゃ!」
高い声を上げた彼女の視界は、グルリと縦軸に回る。
彼女のブーツがソファーの足に当たり、バランスを崩してソファーにその身を横たえた。それでも、男性は一歩を踏み出す。
彼女には男性と距離を離す術はない。横たえた体に、覆いかぶさる男性を拒む術もなく──。
「どうなんだろう? 凪裟さんには、意中の人がいたようだから」
「え?」
男性の影が彼女を覆い、一呼吸する間だけ唇が触れ合う。
「結婚する前から他に好な人がいると知っていた方が、楽だと思わない?」
囁かれた言葉に彼女は悲しみを浮かべる。拒否はできないと諦めたのか、男性を受け入れるかのように、彼の頬へと伸びていく彼女の右手。
「それって……」
同じ悲劇を彼が招くとは考えにくい。瞳を揺らす彼女に、男性は微笑む。
「俺とは正反対に位置するような人。羅凍も憧れているようだし……男女を虜にする魅力を持つ人に勝てるなんて、思ってないよ」
言葉が出なくなった彼女は、思考を停止させたのか。それとも──。
彼女の胸元の金具に、男性は手を伸ばす。金具を外し緑のマントが離れていけば、白いワンピースの上にはくっきりとした谷間が現れ──男性は新雪積もるふたつの山の間に顔を沈めていく。
夜になれば冷え冷えとする時季なのに、男女の熱はジリジリと増していく。時季に反して、今夜は熱帯夜だ。
サッパリとした朝を捷羅は自室で迎えていた。鏡の前で入念に首元や耳元を見る。哀萩とは長い関係だ。大丈夫だという安心が捷羅にはある。
けれど、初めての相手でもなければ、嫉妬をするような相手でもないと高を括り足元をすくわれるわけにはいかない。
憂さ晴らしのお陰で、泡と消えてしまったら困ることがある。
今日もよく晴れた。そう、昨日もよく晴れて──どうにもできない天候だけは味方をしてくれたのに、努力でどうにかできるだろうと思っていたことは、どうにもできなかった。
昨夜はいつの間にか夕食が凪裟に運ばれていたし、朝食を誘おうとしたら先手を食ってしまった。どうにもこうにも、うまく事が運ばない。
縁がなかったと諦めればいいと思う反面、凪裟でなければと思ってしまう己を鏡に見てしまって、捷羅は長い息を吐く。
焦ってはいけない。
情で走ってはいけない。
うまく話を進めなくてはいけない。
『いけない』だらけの言葉で縛って、それを大丈夫と言うかのように、捷羅は姿見の中の自らに向かって優雅に微笑む。
捷羅は自室を出て、正面入り口へと急ぐ。手前に見えてきた階段を下っていくと、凪裟の姿が見えてきた。
「凪裟さん!」
弾む声に応えるかのように、クロッカスの髪の毛はフワリと舞い、大きなクロッカスの瞳は捷羅を捉える。
凪裟は一息呑むと、深々と頭を下げた。
「おはようございます」
「お、おはようございます。あの、わざわざ送っていただくことになって、その……」
ふたりに漂う空気はどこかぎこちない。
「来てくださったときと同じく、船着き場までですけどね。近くまでで申し訳ないですが」
「そんなこと! 私が来るときと同じように、船の乗り換えの合間に緋倉で朝食をとると言って、予定よりも一本はやい船に乗ることになって……予定が早まってしまったのに、送っていただくなんてその、甘えてしまって……」
楓珠大陸から梛懦乙大陸に出る船は、正午が最終便。安全パイを選びたいと考えれば、凪裟は無難な行動を選択しただけだ。そのくらいは捷羅も理解している。だからこそ、無理強いはしない。
「わずかな時間でも、私が勝手にいたいだけです。気にしないでください」
行きましょうと、捷羅は一歩を踏み出す。──手は、差し出せなかった。いつになく勇気が必要で。
ジワリと増す緊張なのか、ジワリと増す痛みなのか。確かなのは、プロポーズを流された痛みが未だボディーブローのようにジワリジワリと精神を蝕んでいること。
失いたくない──その恐怖がチラリと脳裏を走る。
城を出て城下町までの長い一本道をゆっくり歩いていても、凪裟はどこか落ち着かない様子。昨夜の哀萩の言葉を思い出し、頭をひねる。まさか、本人に『好きなのか』とは聞けない。期待はあれど、可能性は低い。ならば、わざわざ玉砕することはないわけで。
──何を期待しているんだろうな。
捷羅にとっては、結婚はただ単に形式だ。それに、表面上だけでも幸せを取り繕うことができればそれでいい。
両想いなんて、奇跡だ。奇跡が起こるなんて信じていない。誰かに愛してもらえるとも、思っていない。
愛は幻想だ。愛がなくても子が授かることもあるし、無事に生まれることもある。本能に身を任せればいいだけのこと。
一喜一憂するような、心なんて要らない。
「検査の結果は、私から連絡しますね」
「あ……はい」
間を持たせるように、捷羅は電話をする口実をこぎつける。ただ、話は一言だけで終わってしまって──折角来てもらったのに、凪裟はなぜかソワソワとしているばかりで──捷羅には凪裟の気持ちが見えず、焦る。
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