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王位継承──後編
【50】受け止める者
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それは、昼を過ぎたころ。
恭良の予想していた通り、
「姫の護衛は解任になった」
と沙稀は剣士たちに言っていたのだろう、恭良が顔を出すとざわめきが起きる。
剣士たちのざわめきに疑問符を浮かべた沙稀は振り返ると、青ざめた。それはそうだ。長く護衛をしていても、姫がわざわざ稽古場に姿を現したことなど、一度もない。
「恭姫!」
一歩後退する沙稀に、恭良は笑顔で答える。そのとき、沙稀の背後からは、『よからぬ噂』が今にも聞こえてきそうで。沙稀は慌てて向き直す。
「これから後任の話し合いだ」
苦しい言い訳だが、沙稀は不敵な笑みを浮かべる。この後の言葉で皆は凍りつくのを想定しているかのように。
「俺としては後任を決め兼ねている。調度いい機会かもしれないぞ? 今、この場で俺を打てば、問答無用で選任される」
明らかな煽りだが、これは昨日『こういうことは、きちんと順を追って言えることから、言えるようになってから話すから。面白おかしい噂話にはしてくれるな』と告げた数人に釘を刺しているようなもの。──沙稀の笑顔に畏怖を覚えた面々が、場を収束させていく。
こうして沙稀は日頃と同じく涼しい顔で稽古場を恭良と後にする。これまでと変わらぬ日々のようで異なることはいつくかあって。そのひとつは、恭良とふたりきりになると言葉遣いをたまに指摘されること。
「すこし時間を下さい」
未だ整理がつかぬ頭で、実はこなさないといけない日々の事柄を優先して考えているとは言えず、恭良の頬は不満で膨らむ。
これまで触れなかった頬をつつくでもなく、沙稀は眉を下げて笑う。それに、なぜか無口になったような気もしている。元々、おしゃべりな方でもないのに、更に。
これまでと同じ時間が流れているようで微かに違う空気は、僅かに異なる──いや、大いに異なる関係の表れか。
その夜も恭良が言いだしたように一緒に寝るようになり。広いベッドに体を横たえ、なかなか寝付けないでいる沙稀の両手を、恭良は両手で大事に包む。
「大丈夫。私が傍にいるから。……ね?」
恭良は沙稀の眠れない理由を聞かない。ただ、目の前の彼をやさしく見つめる。微かに震える、さみしそうなリラの瞳。
「はい」
返事をしたものの、気恥ずかしいのか。沙稀は目を泳がせると瞼を閉じる。すっと恭良の首元に近づき、やがて呼吸は寝息に変わる。
恭良の香りに包まれて、沙稀は眠る。すこしずつ深い眠りに。長い長い悪夢の終り。
そんな数日が経ち。ようやく沙稀の頭が回り出す。現状を言わなくてはいけない人がいると。──そう、幼なじみの誄。
誄とはこれまでも度々、直通電話でやりとりをしてきた。もしかしたら、何度か自室にかけてきたかもしれないが、急用であれば大臣を通すだろう。
しかし、心配をかけていてもいけない。尚且つ、恭良には説明ができない。──恭良は沙稀の出生を知らないし、話せもしない。到底、誄が幼なじみだとも言えないわけだ。
恭良は誄を姉と慕っている。度々お茶に誘って楽しいひと時を過ごすとも沙稀は知っている。
恭良から婚約したと話されたくないわけではないが、できれば先に報告しておきたいと浮かぶ。本来は、沙稀と恭良が、瑠既と誄が結婚してこその義姉妹なのだから。
昼食の後の僅かな時間に沙稀は誄に電話をかける。勿論、自室で。
ほどなくして誄は電話に出て、沙稀からの電話に喜んだ。
「ごめん、数日部屋に戻らなかった。もしかして、電話してくれた?」
「いえ……その、お忙しかったんですね。沙稀様、ゆっくり休めていますか?」
恐らく、誄は憎き王が亡くなったと知っている。大臣だろう。戸惑う様子が伺えて、逆に誄は何度か電話をくれたと伝わる。
「心配をかけたね。……ありがとう」
沙稀が元気だったのならいいと誄は言う。
誄はこれまでもそうだ。瑠既が行方不明になって、沙稀と会ってからもそう言った。瑠既のことも『会いたい』とは言わず、行方不明の間も『元気でいてくれたらいい』とまるで祈りかのように。瑠既が間近にいると知っても、『待つ』とまで言っていた。
だからこそ、沙稀は会わせたいと。沙稀にとって、誄は家族のような存在だから。
「誄姫、そろそろ……多分、会えるから」
瑠既は『会うよ。多分、近々』と言っていた。あの言葉は、場の取り繕いではなく本音だと信じたい。
「え……」
誄の息を飲んだような声。誰に、と聞かずとも姿が浮かんだのだろう。──その姿は幼いころのままなのだろう。あの短い髪を見たら、どれだけショックを受けることか。いや、そうであっても。一目でも会わせたいと願ってしまう。
そして、ふたりが出会ったなら。それは吉報へ続けばいいとも。大事に見守ってきた、家族になる者と思って接してきた者だから。
「はい……楽しみです」
ちいさく誄が告げた声は、微笑んでいるだろうと想像できて。沙稀は胸をなで下ろす。そうして、言わなくてはと思っていたことを言いにくいと思いつつ伝えると、誄は興奮するように、
「きゃ~!」
と歓喜の悲鳴を上げて、
「うれしいです! 沙稀様、おめでとうございます!」
と、涙声で祝福してくれた。尚もきゃ~きゃ~と受話器から聞こえたが、沙稀には念のために言っておかないといけないことがある。例えそれが、歓喜に水を差すことになろうとも。
「ありがとう。それで、その……すまないが。誄姫との関係は、その、恭姫には幼なじみだとは……言えない、から」
途切れ途切れの沙稀の言葉は終わらないのだが、つまりは。
「あ……そうですよね。沙稀様の出生は、恭姫には……話せないですよ、ね」
ということであり。沙稀は肯定の返事をする。
誄には、それでいいのかと疑問が浮かぶだろう。けれど、言えない。初対面の倭穏が沙稀に対し、恭良を想っているのだろうと指摘したくらいだ。恭良も沙稀を想っていると言ったくらいだ。長年見てきた誄が察していないわけがない。
「でも、本当に……言わないのですか?」
一度言葉を飲み込んだはずの誄が沙稀に問う。──それは、誄も沙稀を大事に思っているからに他ならない。
このまま沙稀が恭良と婚姻すれば、偽りの出生が肯定される。公の事実になる。望んで捨てたものなど、なにひとつなかったけれど、今度は違う。沙稀自ら事実を放棄し、偽りを真実にしなければならない。──それを、誄は理解しているからこそ、沙稀の背を押そうとしてくれている。けれど、答えは。
「ああ、言わない」
沙稀の中では一択だけだ。恭良を守りたいから。
「そうですか」
悲し気な言葉は沙稀の耳を通過する。
「誄姫がこうして受け止めてくれた。それで俺は充分」
恭良と沙稀が結婚すれば、一見、同じ立場に戻るようだが、意味合いがまったく異なる。偽りの出生を自ら肯定しなければならないその辛さを、理解して受け止めてくれた者がいただけで幸せだと沙稀は言ったのだろう。
「これから沙稀様は恭姫と、とっても幸せになるんですから! そうなろうとする沙稀様を私は応援します」
誄はなんとか沙稀を励まそうとする。
これでは当初と目的が逆だと笑いながら、沙稀は礼を言って受話器を置いた。そうして、軽いため息をもらす。──そう、沙稀の出生を知っていて、口外しないように強く釘を刺しておかなければならない人物がいる。
恭良の予想していた通り、
「姫の護衛は解任になった」
と沙稀は剣士たちに言っていたのだろう、恭良が顔を出すとざわめきが起きる。
剣士たちのざわめきに疑問符を浮かべた沙稀は振り返ると、青ざめた。それはそうだ。長く護衛をしていても、姫がわざわざ稽古場に姿を現したことなど、一度もない。
「恭姫!」
一歩後退する沙稀に、恭良は笑顔で答える。そのとき、沙稀の背後からは、『よからぬ噂』が今にも聞こえてきそうで。沙稀は慌てて向き直す。
「これから後任の話し合いだ」
苦しい言い訳だが、沙稀は不敵な笑みを浮かべる。この後の言葉で皆は凍りつくのを想定しているかのように。
「俺としては後任を決め兼ねている。調度いい機会かもしれないぞ? 今、この場で俺を打てば、問答無用で選任される」
明らかな煽りだが、これは昨日『こういうことは、きちんと順を追って言えることから、言えるようになってから話すから。面白おかしい噂話にはしてくれるな』と告げた数人に釘を刺しているようなもの。──沙稀の笑顔に畏怖を覚えた面々が、場を収束させていく。
こうして沙稀は日頃と同じく涼しい顔で稽古場を恭良と後にする。これまでと変わらぬ日々のようで異なることはいつくかあって。そのひとつは、恭良とふたりきりになると言葉遣いをたまに指摘されること。
「すこし時間を下さい」
未だ整理がつかぬ頭で、実はこなさないといけない日々の事柄を優先して考えているとは言えず、恭良の頬は不満で膨らむ。
これまで触れなかった頬をつつくでもなく、沙稀は眉を下げて笑う。それに、なぜか無口になったような気もしている。元々、おしゃべりな方でもないのに、更に。
これまでと同じ時間が流れているようで微かに違う空気は、僅かに異なる──いや、大いに異なる関係の表れか。
その夜も恭良が言いだしたように一緒に寝るようになり。広いベッドに体を横たえ、なかなか寝付けないでいる沙稀の両手を、恭良は両手で大事に包む。
「大丈夫。私が傍にいるから。……ね?」
恭良は沙稀の眠れない理由を聞かない。ただ、目の前の彼をやさしく見つめる。微かに震える、さみしそうなリラの瞳。
「はい」
返事をしたものの、気恥ずかしいのか。沙稀は目を泳がせると瞼を閉じる。すっと恭良の首元に近づき、やがて呼吸は寝息に変わる。
恭良の香りに包まれて、沙稀は眠る。すこしずつ深い眠りに。長い長い悪夢の終り。
そんな数日が経ち。ようやく沙稀の頭が回り出す。現状を言わなくてはいけない人がいると。──そう、幼なじみの誄。
誄とはこれまでも度々、直通電話でやりとりをしてきた。もしかしたら、何度か自室にかけてきたかもしれないが、急用であれば大臣を通すだろう。
しかし、心配をかけていてもいけない。尚且つ、恭良には説明ができない。──恭良は沙稀の出生を知らないし、話せもしない。到底、誄が幼なじみだとも言えないわけだ。
恭良は誄を姉と慕っている。度々お茶に誘って楽しいひと時を過ごすとも沙稀は知っている。
恭良から婚約したと話されたくないわけではないが、できれば先に報告しておきたいと浮かぶ。本来は、沙稀と恭良が、瑠既と誄が結婚してこその義姉妹なのだから。
昼食の後の僅かな時間に沙稀は誄に電話をかける。勿論、自室で。
ほどなくして誄は電話に出て、沙稀からの電話に喜んだ。
「ごめん、数日部屋に戻らなかった。もしかして、電話してくれた?」
「いえ……その、お忙しかったんですね。沙稀様、ゆっくり休めていますか?」
恐らく、誄は憎き王が亡くなったと知っている。大臣だろう。戸惑う様子が伺えて、逆に誄は何度か電話をくれたと伝わる。
「心配をかけたね。……ありがとう」
沙稀が元気だったのならいいと誄は言う。
誄はこれまでもそうだ。瑠既が行方不明になって、沙稀と会ってからもそう言った。瑠既のことも『会いたい』とは言わず、行方不明の間も『元気でいてくれたらいい』とまるで祈りかのように。瑠既が間近にいると知っても、『待つ』とまで言っていた。
だからこそ、沙稀は会わせたいと。沙稀にとって、誄は家族のような存在だから。
「誄姫、そろそろ……多分、会えるから」
瑠既は『会うよ。多分、近々』と言っていた。あの言葉は、場の取り繕いではなく本音だと信じたい。
「え……」
誄の息を飲んだような声。誰に、と聞かずとも姿が浮かんだのだろう。──その姿は幼いころのままなのだろう。あの短い髪を見たら、どれだけショックを受けることか。いや、そうであっても。一目でも会わせたいと願ってしまう。
そして、ふたりが出会ったなら。それは吉報へ続けばいいとも。大事に見守ってきた、家族になる者と思って接してきた者だから。
「はい……楽しみです」
ちいさく誄が告げた声は、微笑んでいるだろうと想像できて。沙稀は胸をなで下ろす。そうして、言わなくてはと思っていたことを言いにくいと思いつつ伝えると、誄は興奮するように、
「きゃ~!」
と歓喜の悲鳴を上げて、
「うれしいです! 沙稀様、おめでとうございます!」
と、涙声で祝福してくれた。尚もきゃ~きゃ~と受話器から聞こえたが、沙稀には念のために言っておかないといけないことがある。例えそれが、歓喜に水を差すことになろうとも。
「ありがとう。それで、その……すまないが。誄姫との関係は、その、恭姫には幼なじみだとは……言えない、から」
途切れ途切れの沙稀の言葉は終わらないのだが、つまりは。
「あ……そうですよね。沙稀様の出生は、恭姫には……話せないですよ、ね」
ということであり。沙稀は肯定の返事をする。
誄には、それでいいのかと疑問が浮かぶだろう。けれど、言えない。初対面の倭穏が沙稀に対し、恭良を想っているのだろうと指摘したくらいだ。恭良も沙稀を想っていると言ったくらいだ。長年見てきた誄が察していないわけがない。
「でも、本当に……言わないのですか?」
一度言葉を飲み込んだはずの誄が沙稀に問う。──それは、誄も沙稀を大事に思っているからに他ならない。
このまま沙稀が恭良と婚姻すれば、偽りの出生が肯定される。公の事実になる。望んで捨てたものなど、なにひとつなかったけれど、今度は違う。沙稀自ら事実を放棄し、偽りを真実にしなければならない。──それを、誄は理解しているからこそ、沙稀の背を押そうとしてくれている。けれど、答えは。
「ああ、言わない」
沙稀の中では一択だけだ。恭良を守りたいから。
「そうですか」
悲し気な言葉は沙稀の耳を通過する。
「誄姫がこうして受け止めてくれた。それで俺は充分」
恭良と沙稀が結婚すれば、一見、同じ立場に戻るようだが、意味合いがまったく異なる。偽りの出生を自ら肯定しなければならないその辛さを、理解して受け止めてくれた者がいただけで幸せだと沙稀は言ったのだろう。
「これから沙稀様は恭姫と、とっても幸せになるんですから! そうなろうとする沙稀様を私は応援します」
誄はなんとか沙稀を励まそうとする。
これでは当初と目的が逆だと笑いながら、沙稀は礼を言って受話器を置いた。そうして、軽いため息をもらす。──そう、沙稀の出生を知っていて、口外しないように強く釘を刺しておかなければならない人物がいる。
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