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過去からの使者

【46】天秤

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 黎馨レイカはただ、忒畝トクセを受け入れるように抱き締め返す。──ふたりはしばらく強く抱き合い、自然と唇を重ねる。恋人同士が長年の時を経て再会をしたかのように。
 次第に加熱し、どちらともなくお互いを求め合う。感じる快楽に夢中になり、堕ちていきそうな感覚に陥ったところで、忒畝トクセはふと自我を取り戻す。すぐに黎馨レイカから離れると、行動を恥じて顔を背ける。
「ごめん」
 動揺し、他に言葉が選べない。しかし、一方の黎馨レイカは至って冷静で、おだやかに微笑む。
「いいえ。ずっと、私もお会いしたかったですから」
 包み込むようなやわらかい言葉に、忒畝トクセは違和感を覚える。まるで、会えばこうなると彼女は知っていたかのようで。
 忒畝トクセは落ち着きを取り戻そうと、
「紅茶を入れてくるね」
 黎馨レイカを残して流しへと向かう

 手慣れた作業をしながら、先ほどまでの感情と感覚を忘れようとする。同時に、自身を戒める。自我を保つようにと。
 彼はゆっくりアップルティーの香りを嗅ぐ。日頃の自分を取り戻すように、父が愛飲していた過去を思い出しつつ、この思い出こそが自身の記憶だと認識する。
 自我をしっかりと取戻し、準備した紅茶を運ぶ。
「お待たせ」
「ありがとうございます」
 黎馨レイカは何事もなかったかのように、優雅に微笑む。相手がそうしてくれるのだからと、忒畝トクセも同じようにと努め、振る舞う。
 テーブルに置いたカップから、心落ち着くアップルティーの香りがほのかに揺れる。互いにひと口含んだあと、おもむろに黎馨レイカが口を開いた。
「あの……忒畝トクセ様は、その……どのくらい覚えていらっしゃいますか?」
 戸惑う口調は、先ほどの礼がまるで覚えていたことに対するもののようで。忒畝トクセは目を見開き、黎馨レイカの第一声を思い出す。──あれは、忒畝トクセに過去生の記憶があっても、なくてもおかしくない発言だったと。
 そう気がつけば、落ち着いていると見えていた黎馨レイカが、途端に緊張しているように見えるからふしぎだ。
 だからこそ、忒畝トクセはにっこりと微笑む。
「断片的に……かな。教会で育ったこと、焼き印が胸元辺りにあったこと……あとは、昔呼ばれていた名前と、その名前で生きていたときは黎馨レイカが奥さんだったこと。他には、何かの戦いがあったような、でも、僕は立ち入っていない。それはハッキリしているけれど、ぼんやりしていることが多いから『明確な情報』というには、不十分に思う」
「そうでしたか」
 少し残念そうに黎馨レイカは言い、
「実は私は……琉菜磬ルナセ様の願いを叶えたくて、時空を超えて忒畝トクセ様に会いに来たのです」
 と、耳を疑うような発言をする。
 時空を超えて──確かに、そうだ。そうでなければ、忒畝トクセが過去生の琉菜磬ルナセとして生きていたときの妻が、目の前にいるなどあり得ない。
「信じられなくても、理解はしていただけていると思います。すでに忒畝トクセ様は、私の存在をご存知だったのですから」
 目を伏せ、静かにティーカップを置く。忒畝トクセも同様に置き、うなづいて肯定する。
『体液に治癒の持つ、あの女』と、竜称カミナ黎馨レイカのことを言っていた。黎馨レイカに会ってすぐに、それを忒畝トクセは実感している。本来なら、体内の毒素が微弱でも発生し苦痛を伴う行為で、夢中になる快楽を得た。あの快楽は、治癒を受けたからに他ならない。数日間、重みの取れなかった体が、以前に戻ったような感覚さえある。──この事実がある以上、彼女は桁外れの得意体質だと表現してもいいだろう。それならば、常識の範囲で彼女のことを考えようとする方が、無理があるとも言える。
「詳しい話を私がするよりも、忒畝トクセ様に私の生まれた時代を『見て』いただいた方がいいと……私は思っています」
黎馨レイカの生まれた時代を、僕が『見る』?」
 常識の範囲を超えすぎていて、忒畝トクセは繰り返すように確認する。すると、
「はい」
 と、黎馨レイカは真剣に答える。
「安心して下さい。私のように時空を超えていただくわけではありません。私が手を握り、念を送れば……忒畝トクセ様は夢を見るような感覚に陥り、傍観できるのです。ただ、見ていただきたい場面だけをお見せすることも……できないと思います。時代をさまよいながら、一部は断片的に、無関係な場面も見えるかもしれません」
 黎馨レイカの目的はハッキリとせず、忒畝トクセは迷う。信用できないわけではない。仮にも前世の妻。忒畝トクセを悪いようにはしないだろう。だが、目的が明確でなければ、やはり返答はしにくい。
 忒畝トクセの迷いを察知したのか、黎馨レイカはふと、興味を引く話しを始める。
忒畝トクセ様の仰った『戦い』は、女悪神ジョアクシンの血を継ぐ者たちの悲劇です。琉菜磬ルナセ様は、彼女たちと同じく女悪神ジョアクシンの血を継いでいらっしゃいました。同じ血を継ぐ者として彼女たちを救いたいと、切に琉菜磬ルナセ様は願っておられたのです」
「それが、僕と会うことと……どう関係が?」
琉菜磬ルナセ様の願いは……忒畝トクセ様も同じなのではないですか?」
 逼迫ヒッパクする表情を浮かべる黎馨レイカの言葉は、忒畝トクセの心の奥深くをグッとつかむ。
 厳密に言えば、違う。──違う? 同じ? 忒畝トクセはわからなくなる。
 忒畝トクセの救いたい人、守りたい人は妹であり、母であり。──しかし、その他にも確かに女悪神ジョアクシンの血を継ぐ者が、現代にもまだいる。
 その人たちを、忒畝トクセは救いたいのか。守りたいのか。それとも、関係ないと切り捨てられるのか。
 自問自答を繰り返しても、忒畝トクセに答えは出ない。だからこそ──。
「同じ……と言えるのか、今の僕にはわからない。ただ、黎馨レイカが僕に過去を、黎馨レイカと生きた時代のことを見せようと思うからには。そのあとには、僕の望む答えを……君は持っている、ということなんだね?」
 忒畝トクセにとっては一種の駆け引きだ。過去生、琉菜磬ルナセの感情は今でも忒畝トクセの感情を支配するように波打つ。これが、過去生の生きた時代を目の当たりにしたら、どうなるのか。──それは、自我の消滅もあり得るとも考えられる。ただし、自我の消滅と、妹を守る手立てを得ることのふたつを天秤にかけたとき、忒畝トクセの選ぶ方に迷いはない。
 黎馨レイカ忒畝トクセの言葉を噛み締めるように、一度ティーカップを見つめる。そして、再び忒畝トクセをまっすぐ見る。
「はい」
 力強く答えるその姿は、忒畝トクセから返事をもらうには充分だった。
「わかった」
 忒畝トクセは立ち上がる。歩き始める忒畝トクセに、黎馨レイカはオロオロと立ちあがる。
「と、忒畝トクセ様?」
 慌てて呼ばれた名に、忒畝トクセは振り向くとやさしく微笑む。
「紹介したい人たちがいる。おいで、黎馨レイカ



「数日は克主研究所ココにいることになると思うから、紹介しておこうと思って」
黎馨レイカと申します。よろしくお願いします」
 黎馨レイカはおずおずと、充忠ミナル馨民カミンに頭を下げる。──忒畝トクセの職場で急遽開かれた集まり。充忠ミナル馨民カミンには違和感しかない。紹介された黎馨レイカは、忒畝トクセと親しげなのだから尚更。
「あれ……忒畝トクセ、知り合いだったの?」
 特に、馨民カミンはおもしろくない。生まれてからずっと一緒に、忒畝トクセのそばにいて育ってきた。言ってしまえば、馨民カミンの知らない人物は、忒畝トクセも知らない人物だと自負していた部分がある。それに、自負していたのは、忒畝トクセの性格についてもだ。よほどの仲でなければ、忒畝トクセは職場や自室に人を上げない。あの恭良ユキヅキでさえ、入れたことのない部屋だ。
 そんな馨民カミンの心情をよそに、忒畝トクセ黎馨レイカは微笑み合う。
「そう……だね。古くからの知り合い、かな」
 自然と口元がゆるんだ忒畝トクセの表情。これには、充忠ミナルも言葉を失う。
「忙しいところ急に呼んだのに、ふたりとも来てくれてありがとう。これから黎馨レイカを案内してくるね」
 忒畝トクセが立ち上がると、黎馨レイカも立ち上がり、
「ありがとうございました」
 と深くお辞儀をする。充忠ミナル馨民カミンはふたりの背を見送るしかないが、そのうしろ姿は今にも手を繋いで寄り添いそうな雰囲気を漂わせている。
 扉が閉まり、ふたりの姿が見えなくなると、馨民カミンは苛立ちを隠さない。
「何あの態度」
「さぁ。……まぁ、俺としては祝福できるけど」
 充忠ミナルはやっと言葉を出す。しかし、となりで頬を膨らませる馨民カミンの熱は下がらない。
「そんな様子じゃ、『忒畝トクセが誰かと付き合う』ってなったら、まずはお前の面接に合格しないとダメそうだな」
 馨民カミンの頬は更に膨らんだが、怒りの矛先を充忠ミナルに向けるには、充分すぎる冗談だった。



 克主ナリス研究所を軽く案内したあと、忒畝トクセ黎馨レイカ忒畝トクセの部屋にいた。黎馨レイカに言われるがまま忒畝トクセはベッドに横になり、右手を出す。
 黎馨レイカは両膝をつき、忒畝トクセの右手を両手で包む。まぶたを閉じるその姿は、神に祈りを捧げる姿に似ていて──忒畝トクセはその姿を見つめながら、その姿が愛しい妻だと錯覚に陥り、過去へと眠りに落ちるように意識を放った。
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