完結まで5話【女神回収プログラム ～三回転生したその先に～】姫の側近の剣士の、決して口外できない秘密は

過去からの使者

【４３】かすかな違和感

　鴻嫗トキウ城での出来事に心を痛めたまま、忒畝トクセは低くなった太陽を見ていた。これから夕刻を迎える。赤い夕陽が街を照らせば、あっという間に夜がやってくることだろう。
　船は楓珠フウジュ大陸、緋倉ヒソウへと到着し、忒畝トクセは悠穂ユオと降りて帰路へと向かう。途中、街並みでひとつの貼り紙が目についた。

『しばらくの間、休業します』

　宿屋──綺アヤだ。ふと、浮かんできたのは、人懐っこく話しかけてきた明るい声。行きの船で会い、船に乗る前に会ったと話しかけてきた女性のこと。
　一緒にいた男──瑠既リュウキと鴻嫗トキウ城に行くと言っていたが、鴻嫗トキウ城では会わなかった。

　──感じる胸騒ぎが、気のせいだといい。
　あの女性──倭穏ワシズと綺アヤの関連性を忒畝トクセは知らない。ただ、宿屋で踊り子をしていると聞いて、あの性格は職業柄なのかと思ったのを覚えていた。
　妙な胸のざわつきに、つい、妹の手を握る。
「お兄ちゃん？」
　ふしぎそうな声に、忒畝トクセは妹の存在を噛み締める。心情とは裏腹に、やさしい笑みを浮かべ、『今』を意識する。
「すぐに日は落ちてしまう。森を抜けるなら夜を迎える前がいい。急ごう、みんなが待っていてくれる」
　妹は弾む声が聞こえそうなほどに笑顔を浮かべる。そして感じる、握り返される手の、力強さ。
「そうだね！　馨民カミンさんにも、充忠ミナルさんにも……きっとたくさん心配をかけちゃった。はやく帰らなくっちゃ！」
　引っ張られる手に、景色は流れていく。
　感じる風はどこかあたたかい。春はまだだというのに。

　景色は街から土の道になり、草が茂ってきたと思えば、木々多く。そこは木の葉が触れ合い、風が囁き合う場へと変わっていった。
　どこの城や建物の中よりも、変わりゆく森の中の方が迷わないと言ったら。忒畝トクセは変わっていると誰もが言うかもしれない。いや、彼を知っている者に言わせれば、忒畝トクセらしいと笑うのかもしれない。
　そろそろ克主ナリス研究所に着く──と、悠穂ユオと一緒になって足を弾ませていたら、時間の概念は飛んで行ってしまった。景色は確かに目にしていたのに、まるで一瞬で移動してきたような感覚を持つ。

「よう」
「お帰りなさい！」
　充忠ミナルは痺れを切らすような、馨民カミンは今にも駆け出しそうな。そんなふたりを見て、悠穂ユオがうれしそうに言う。
「ただいま帰りました！」
　それを聞いて、忒畝トクセはにっこりと笑い、
「ただいま。心配をかけて、ごめんね」
　と言う。そのころには、出迎えていたふたりに挟まれて、忒畝トクセは無事に帰宅したと安堵する。
　和やかな会話は通り過ぎていって、日常に戻ったような錯覚を覚える。そう、錯覚だと忒畝トクセは自覚していた。
　わずかばかりに流れる会話を楽しみ、忒畝トクセは職務へと戻る。

　仕事はさほど残っていなかった。残っているのは、忒畝トクセにしか裁量できないものだけだ。期待を裏切らない君主代理の判断に、
「頼りになるな」
　と、感謝や感心よりも、誇らしく思う。パラパラと書類に目を通し、着々と処理を済ませていく。
　悠穂ユオを連れて帰ってこられたことで、親友の気持ちに報うことはできた。だが、本来なら四戦獣シセンジュウのことも話すべきだろうという気持ちが、忒畝トクセのどこかでくすぶっている。まだ四戦獣シセンジュウのことを話すとは、決断できずにいて。
　もし、克主ナリス研究所が鴻嫗トキウ城のように奇襲されたのなら、忒畝トクセの大事な人たち全員が危険にさらされることになる。それを少しでも防ぐには、充忠ミナルにも馨民カミンにも話した方がいいのかもしれない。
　しかし、竜称カミナを昔から研究所内で見かけること、そもそも母がいたときも、いなくなったあとも竜称カミナは忒畝トクセにしか接触してこなかった。ただ一度、竜称カミナが忒畝トクセ以外の人物にも接触したのは、母に──母が、姿を消す直前だけ。今回の悠穂ユオの件は、竜称カミナから接触されたわけではない。
　それを考慮するなら、やはり四戦獣シセンジュウが克主研究所ココに奇襲をしかけてくるとは考えにくい。言い換えるなら、克主研究所ココは安全だとも言える。わざわざ充忠ミナルや馨民カミンに言って、余計な心配をかけたくはない。

　コンコンコン

　扉から聞こえてきた音に、手を止める。すると、返事もしていないのに扉は開く。
「やっぱり。こんなことだと思った」
　馨民カミンだ。両手で持ち直すお盆の上からは、湯気が立ち上っている。
「あ」
　今更ながら、夕飯を食べに行かなかったと気づく。いつも同じ時間に食事をする忒畝トクセを気遣って、馨民カミンは夕飯を持ってきてくれていた。いつもの時間に食堂にいないということは、食べていないのだろうと推測して。
「もう……相変わらず集中すると時間を忘れるんだから」
　忒畝トクセの目の前の机を馨民カミンはジッと見たが、そこには書類が広がっている。
「ああ、ごめんね？　あっちで構わないよ」
　忒畝トクセが言うのは、背にある簡素でちいさなテーブル。視界に入らない上、離れているそこは置いたら最後。いつ食べるのかと苦言を呈したくなるような場所。
　作業を再開する忒畝トクセを横目で見ると、馨民カミンは言われた通りに従う。毎度のことだ。持ってきてくれた食事を、忒畝トクセがすぐに手をつけることは、まずない。
　珍しく今日は──馨民カミンのちいさなため息が聞こえた気がした。
「どうかした？」
　近くに戻ってきた馨民カミンに、忒畝トクセは声をかける。すると、
「ううん。私の方こそ、ごめんなさい。邪魔しちゃった」
　と、そそくさと扉に駆け寄る。急ぐようにノブを回し、ヒラリと身を廊下に出す。
「おやすみなさい」
　彼女は何も悪いことをしていないのに、眉を下げて申し訳なさそうに笑う。
「うん。おやすみ」
　だからこそ、忒畝トクセは満面の笑顔を返す。そうして、扉はゆっくりと閉まる。



　結局、忒畝トクセが食事を口にしたのは深夜だった。職場から自室へと持って行き、温度には無頓着で口へと運ぶ。彼は、折角持ってきてもらった感謝の念だけ食べているにすぎない。
　──何も起きなかった。
　安堵で疲労感が襲ってくる。それは、倒れ込みそうなほど強烈な感覚。意識を切れさせてしまえば、目の前の食器と食べ物を散乱させかねないわけで。
　申し訳なさを感じつつも、食事は適当に終わらせる。立って汗を流す程度の風呂に入り、早々に眠りにつく。



　忒畝トクセが眠りについて、数時間が経ったころ。ふと、忒畝トクセの意識は戻ってきた。
　──誰かが部屋の中にいる。
　かすかな違和感。空気の匂いがなんとなく違うというか、固さが違うというか。直感的に感じるものだ。気を張って、誰の気配だろうと考えてみても答えに辿り着けない。得体の知れない誰か──その気配はどこかと思考を切り替えたときだった。
　スッと下から左側の腰に腕が回され、反射的に瞳を開ける。そのときには、体をよじ登られるように首の右側にも手を回されていた。次の瞬間には上から覆いかぶさる影が、忒畝トクセの視界をより奪う。

　声にならぬ声が出る。

　唇を伝う生ぬるい弾力のあるもの。顔に触れる息づかい。
　忒畝トクセは首を動かし逃れようとするが、いつの間にか腰にあった腕が頭に回されていて、自由に首を動かせない。可能な限り抗うも、唇の周囲を舌が這う。
　──動けないなら、動かすしかない。
　上に覆い被さっている相手は、忒畝トクセの右足をまたいでいる。体は多少くの字になっているはずだ。相手の脇腹辺りに手は届くだろう。足とともに左側に倒せば、相手の態勢を崩し、身の自由を確保できるかもしれないと忒畝トクセは考える。
　そこで、抵抗を止める。相手の油断を誘うために。口内を好き放題されるのは本望ではないが、これ以上、好きにさせないための犠牲だ。
　相手の体に触れると、やわらかくしっとりとして忒畝トクセは手を戻しそうになる。相手は、裸の女だ。