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譲れないもの
★【14】譲れないもの
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沙稀と別れ、自室に戻った忒畝だったが、彼は眠らずにいた。研究に没頭してしまうあまり、睡眠や食事を忘れてしまうことがある彼にとっては、特に気になることではない。
夜がふけていっても、眠気は襲ってこず、幼いころの思い出がよみがえっていた。
「今度会った時は……私を殺して。ごめんね、忒畝」
母が行方不明になる直前、忒畝が聞いた最後の母の言葉だ。誰にも言えない、胸に秘めるしかできない言葉。
両親はとても仲がよかった。今でも理想の夫婦だと忒畝は思っている。憧れそのものだ。
母の失踪──それは、母の過去と繋がる。失踪する前、母はある存在に怯えていた。その存在は最初のころ、なぜか忒畝を怯えさせていた存在だったのに。
忒畝は亡き父の写真を手に取る。
「父さん、僕はどうしたらいいのでしょうか。僕は……父さんが僕を救ってくれたように、僕も救いたいんです」
髪も、瞳も薄荷色の父。若葉を思わせる色彩通り、春のようにとてもあたたかい人だった。写真を眺めれば、父が口癖のように言っていた言葉を思い出す。
「愛しているよ」
──生前、父、悠畝が子どもたちに惜しみなく言っていた言葉。それは言葉だけではなく、深い深い愛情の表れだった。
女悪神の研究をしていた父。それは、母と出会って間もなくから始まったと、後に忒畝は知った。それから、父が必死に忒畝の命を救っていたと知り、母と妹のことも守ろうとしていたと知った。
父に憧れ、その背を追うように必死に学び、君主代理の座を若干十四歳で取得した忒畝。その隣には、いつも笑顔の父がいてくれた。
トントントン
突如鳴ったノックに、忒畝は写真を置き、扉を開ける。すると、
「お兄ちゃん、やっぱり起きてたんだ」
と、高音で可愛らしい声が聞こえた。
「悠穂」
悠穂と呼ばれた少女は瞳を潰してにこりと笑う。
「こんな遅い時間に、どうしたの」
問いかけに瞳がぱっちりと開く。丸く、まだ大人の気配を感じさせないその瞳の色は──アクアだ。そして、髪は白緑色。長い髪を何ヶ所かゴムで留め、一本にまとめている。
えへへと笑う悠穂からは、甘い香りが漂ってきた。
「実はね、アップルパイを焼いたの。なんだかお兄ちゃんが元気ないな~と思って。ねぇ、一緒に食べよう」
後ろに隠していたお手製のアップルパイをド─ンと忒畝の目の前に出す。深夜に焼き立てのアップルパイを見て、忒畝はつい笑ってしまう。
「ありがとう。悠穂の焼いてくれるアップルパイは、母さんの作ってくれたみたいに美味しいから楽しみだよ」
「本当? や~ん、うれしい。じゃ、アップルティ─入れるね」
ぱあっと明るい悠穂の笑顔に、忒畝の重かった影は消えていく。
テ─ブルの上にはあっという間にアップルティ─も並び、部屋はやさしく甘い香りに包まれ、兄妹の夜食会は始まる。
「美味しい」
「ありがとう」
言葉に照れ笑いをする悠穂。アップルパイ好きの彼女は、
「本当だ。美味しい」
と、自画自賛しつつ好物を嗜む。そんな姿を忒畝は微笑ましく眺める。
「そうだ、お兄ちゃん」
ふと思い出したように、悠穂はフォ─クを止めた。
「お兄ちゃんが私を大事に思ってくれているように、私もお兄ちゃんを大事に思ってるんだからね。充忠さんと馨民さんだって一緒だよ。だから……あんまりひとりで何でも抱えこもうとしちゃダメだからね」
「どうしたの、急に」
「急でもなんでもないの。ほら、いつもお父さんも言っていたでしょ? 大事な人には、いつだってどんな時だって、大事なことを伝えないといけないって。『いつでも言えるから言わないは間違いで、いつでもなんてない』って」
また父の声が聞こえてきそうな気がした。いや、声は聞こえなくとも、父を思い出すだけで心がおだやかになる。
「ありがとう。僕も困るようなことがあったら、みんなに助けてもらうよ」
「約束だよ? 絶対の」
「うん、約束。絶対ね」
悠穂は忒畝の言葉に満足気な表情を浮かべ、食べる意気込みを新たにアップルパイに視線を移した。
翌日、忒畝は恭良たちと挨拶を交わし、見送っていた。忒畝の背後には、半立体の彫刻が顔を出している。
「お忙しい中、ありがとうございました」
礼を言うのは恭良だ。続いて沙稀と凪裟は会釈をする。
「こちらこそ。遠くから来てもらったのだから、ゆっくりしていってもらえたらよかったんだけど」
「充分ゆっくりさせて頂きました。それと、いつものアップルティ─も美味しかったです」
「それはよかった」
「今度は是非、こちらでもゆっくりしていって下さいね。忒畝君主が今度いらっしゃるときは……お姉様の挙式のときなのかしら。きっとウエディングドレス姿もすてきなんですよ」
恭良は、うっとりと妄想に浸る。ほんのりと染まる頬。
「楽しみなんですね、恭姫は」
「うん」
弾む声は、語尾に音符でもついていそうだ。
「ああ、あの噂の誄姫?」
「はい。お兄様の婚約者様なので、お姉様と呼ばせて頂いているんです」
「鴻嫗城に最も近い、鐙鷃城の姫君。美人と名高く、公の場には一切姿を現さないので、年々、噂は広まっているようですね」
忒畝の質問に恭良が答え、沙稀が補足する。凪裟は、忒畝を前にして大人しい。
「お姉様は、本当にきれいな方なんですよ。ね? 沙稀」
「そうですね」
唐突な同意を求める言葉に対して、沙稀はおだやかに答える。すると、ようやく凪裟が口を開く。
「沙稀は知っているの?」
「それは……恭姫の側近ですから」
沙稀の回答は理由としては不足している気がしたが、凪裟は敢えて言わないことにした。
「そう言われると、一度お目にかかりたくなるね」
「一度会ったら、絶対忘れられない人になりますよ」
恭良のお姉様自慢は止まらない。
船の時間を考慮した沙稀は、凪裟に声をかける。そのさりげない言葉は、恭良の耳にきちんと入り、
「あっ」
と、恭良は声を上げた。改めて、恭良は忒畝に深く一礼する。沙稀と凪裟も続き、三人は帰路へと向かう。
遠ざかっていく三人の背中。仲がよいその賑やかな姿を見て、忒畝は咄嗟に声をかける。
「沙稀」
走り出した忒畝に、沙稀は振り返り駆け寄る。すでに出入口に近い恭良と凪裟とは距離が離れ、走り出したふたりはホ─ルの真ん中辺りで足を止める。
悩むような表情の忒畝が口を開く。
「沙稀が恭良を守っているように、僕にも守りたい人がいる。これは譲れない。望んで敵対しようとは思っていないけれど、僕だって守るためなら手段は選ばない。これだけは覚えておいて」
昨夜のような雰囲気ではなく、沙稀の前にいるのは、ただ、必死な忒畝だ。
誰にでも踏み込んでほしくないことがある。それに踏み込めば、誰でも必要以上に警戒をする。忒畝にとっては、昨夜のことだったのだろう。
「承知しておく。ただ、俺はできれば忒畝とは敵対したくない。可能であれば今のまま、よい友であろう」
しっかりと忒畝の気持ちを受け止め、沙稀は微笑んで手を差し出す。その行動は忒畝には意外だったのか、一瞬息を飲んだ。
そして、忒畝はうなづくと手を伸ばす。
ふたりの握手は、友の証。例え、いつか敵対してしまっても、友であったことを忘れずにいようと。
【キャラクター紹介】
悠穂
夜がふけていっても、眠気は襲ってこず、幼いころの思い出がよみがえっていた。
「今度会った時は……私を殺して。ごめんね、忒畝」
母が行方不明になる直前、忒畝が聞いた最後の母の言葉だ。誰にも言えない、胸に秘めるしかできない言葉。
両親はとても仲がよかった。今でも理想の夫婦だと忒畝は思っている。憧れそのものだ。
母の失踪──それは、母の過去と繋がる。失踪する前、母はある存在に怯えていた。その存在は最初のころ、なぜか忒畝を怯えさせていた存在だったのに。
忒畝は亡き父の写真を手に取る。
「父さん、僕はどうしたらいいのでしょうか。僕は……父さんが僕を救ってくれたように、僕も救いたいんです」
髪も、瞳も薄荷色の父。若葉を思わせる色彩通り、春のようにとてもあたたかい人だった。写真を眺めれば、父が口癖のように言っていた言葉を思い出す。
「愛しているよ」
──生前、父、悠畝が子どもたちに惜しみなく言っていた言葉。それは言葉だけではなく、深い深い愛情の表れだった。
女悪神の研究をしていた父。それは、母と出会って間もなくから始まったと、後に忒畝は知った。それから、父が必死に忒畝の命を救っていたと知り、母と妹のことも守ろうとしていたと知った。
父に憧れ、その背を追うように必死に学び、君主代理の座を若干十四歳で取得した忒畝。その隣には、いつも笑顔の父がいてくれた。
トントントン
突如鳴ったノックに、忒畝は写真を置き、扉を開ける。すると、
「お兄ちゃん、やっぱり起きてたんだ」
と、高音で可愛らしい声が聞こえた。
「悠穂」
悠穂と呼ばれた少女は瞳を潰してにこりと笑う。
「こんな遅い時間に、どうしたの」
問いかけに瞳がぱっちりと開く。丸く、まだ大人の気配を感じさせないその瞳の色は──アクアだ。そして、髪は白緑色。長い髪を何ヶ所かゴムで留め、一本にまとめている。
えへへと笑う悠穂からは、甘い香りが漂ってきた。
「実はね、アップルパイを焼いたの。なんだかお兄ちゃんが元気ないな~と思って。ねぇ、一緒に食べよう」
後ろに隠していたお手製のアップルパイをド─ンと忒畝の目の前に出す。深夜に焼き立てのアップルパイを見て、忒畝はつい笑ってしまう。
「ありがとう。悠穂の焼いてくれるアップルパイは、母さんの作ってくれたみたいに美味しいから楽しみだよ」
「本当? や~ん、うれしい。じゃ、アップルティ─入れるね」
ぱあっと明るい悠穂の笑顔に、忒畝の重かった影は消えていく。
テ─ブルの上にはあっという間にアップルティ─も並び、部屋はやさしく甘い香りに包まれ、兄妹の夜食会は始まる。
「美味しい」
「ありがとう」
言葉に照れ笑いをする悠穂。アップルパイ好きの彼女は、
「本当だ。美味しい」
と、自画自賛しつつ好物を嗜む。そんな姿を忒畝は微笑ましく眺める。
「そうだ、お兄ちゃん」
ふと思い出したように、悠穂はフォ─クを止めた。
「お兄ちゃんが私を大事に思ってくれているように、私もお兄ちゃんを大事に思ってるんだからね。充忠さんと馨民さんだって一緒だよ。だから……あんまりひとりで何でも抱えこもうとしちゃダメだからね」
「どうしたの、急に」
「急でもなんでもないの。ほら、いつもお父さんも言っていたでしょ? 大事な人には、いつだってどんな時だって、大事なことを伝えないといけないって。『いつでも言えるから言わないは間違いで、いつでもなんてない』って」
また父の声が聞こえてきそうな気がした。いや、声は聞こえなくとも、父を思い出すだけで心がおだやかになる。
「ありがとう。僕も困るようなことがあったら、みんなに助けてもらうよ」
「約束だよ? 絶対の」
「うん、約束。絶対ね」
悠穂は忒畝の言葉に満足気な表情を浮かべ、食べる意気込みを新たにアップルパイに視線を移した。
翌日、忒畝は恭良たちと挨拶を交わし、見送っていた。忒畝の背後には、半立体の彫刻が顔を出している。
「お忙しい中、ありがとうございました」
礼を言うのは恭良だ。続いて沙稀と凪裟は会釈をする。
「こちらこそ。遠くから来てもらったのだから、ゆっくりしていってもらえたらよかったんだけど」
「充分ゆっくりさせて頂きました。それと、いつものアップルティ─も美味しかったです」
「それはよかった」
「今度は是非、こちらでもゆっくりしていって下さいね。忒畝君主が今度いらっしゃるときは……お姉様の挙式のときなのかしら。きっとウエディングドレス姿もすてきなんですよ」
恭良は、うっとりと妄想に浸る。ほんのりと染まる頬。
「楽しみなんですね、恭姫は」
「うん」
弾む声は、語尾に音符でもついていそうだ。
「ああ、あの噂の誄姫?」
「はい。お兄様の婚約者様なので、お姉様と呼ばせて頂いているんです」
「鴻嫗城に最も近い、鐙鷃城の姫君。美人と名高く、公の場には一切姿を現さないので、年々、噂は広まっているようですね」
忒畝の質問に恭良が答え、沙稀が補足する。凪裟は、忒畝を前にして大人しい。
「お姉様は、本当にきれいな方なんですよ。ね? 沙稀」
「そうですね」
唐突な同意を求める言葉に対して、沙稀はおだやかに答える。すると、ようやく凪裟が口を開く。
「沙稀は知っているの?」
「それは……恭姫の側近ですから」
沙稀の回答は理由としては不足している気がしたが、凪裟は敢えて言わないことにした。
「そう言われると、一度お目にかかりたくなるね」
「一度会ったら、絶対忘れられない人になりますよ」
恭良のお姉様自慢は止まらない。
船の時間を考慮した沙稀は、凪裟に声をかける。そのさりげない言葉は、恭良の耳にきちんと入り、
「あっ」
と、恭良は声を上げた。改めて、恭良は忒畝に深く一礼する。沙稀と凪裟も続き、三人は帰路へと向かう。
遠ざかっていく三人の背中。仲がよいその賑やかな姿を見て、忒畝は咄嗟に声をかける。
「沙稀」
走り出した忒畝に、沙稀は振り返り駆け寄る。すでに出入口に近い恭良と凪裟とは距離が離れ、走り出したふたりはホ─ルの真ん中辺りで足を止める。
悩むような表情の忒畝が口を開く。
「沙稀が恭良を守っているように、僕にも守りたい人がいる。これは譲れない。望んで敵対しようとは思っていないけれど、僕だって守るためなら手段は選ばない。これだけは覚えておいて」
昨夜のような雰囲気ではなく、沙稀の前にいるのは、ただ、必死な忒畝だ。
誰にでも踏み込んでほしくないことがある。それに踏み込めば、誰でも必要以上に警戒をする。忒畝にとっては、昨夜のことだったのだろう。
「承知しておく。ただ、俺はできれば忒畝とは敵対したくない。可能であれば今のまま、よい友であろう」
しっかりと忒畝の気持ちを受け止め、沙稀は微笑んで手を差し出す。その行動は忒畝には意外だったのか、一瞬息を飲んだ。
そして、忒畝はうなづくと手を伸ばす。
ふたりの握手は、友の証。例え、いつか敵対してしまっても、友であったことを忘れずにいようと。
【キャラクター紹介】
悠穂
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