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なんでもっと早くこうしなかったのかと
しおりを挟むうさぎは私がそんなことを言うとは思わなかったらしく、ギリギリと掴まれている耳の痛みを忘れたかのようにぽかんとした顔で私を見る。
「帰る……?聞き間違いじゃないよね」
「聞こえなかったのなら、ごほっ、もう一回言ってやる。その長い耳でよ~く聞け。私を……ごほっごほっ、家に帰らせ……ああああ!!」
「っ!?」
私はとんでもないことに気づいてしまった。
「そうだよ!私は帰るんだよ!帰るんだったら別に……ごほっごほっ、部屋の片づけなんてしなくてもよかったんだ!!」
なんということだ。私はやらなくてもいい苦労を一睡もせずにやったんだ。
一人で重いテーブルを部屋の中に運んだ苦労も床に散らばった本、食器、野菜などを元に戻すものや捨てるものに分けた苦労も暗い寒空の下、惨めに思いながら汚れたシーツや下着を洗濯板でごしごしと洗った苦労も全部無駄だったということだ。
頭を掻きむしりたくなる。
散らかった部屋なんてほっぽって、別の部屋で毛布に包まって一晩明かせばよかったんだ。
骨折り損のくたびれ儲けとはこのことだ。たまに込み上げてくる涙を無理やりに引っ込めながら一身に部屋の片づけをしたあの苦労は一体なんだったんだ。
はっ、むしろ笑えるかもな。
「…………いや、笑えない。笑えないわマジで!笑ってたまるか!!」
私は悔しくてたまらず両腕を上下に振り続けた。
「う……く、う」
「おい、目なんか回してないで、ごほっ、私の話をちゃんと聞け!」
「え?えっ……と、か、帰る……なんでそんな……突然?」
「わかりやすく……ごほっ、うっ、説明してやる。うんざりだからだ。ほら、わかりやすいだろ?」
「ちょ……待ってよ……。今ちょっと目が回って……」
うんざり。これ以上の相応しい言葉はない。もう創作物に振り回される毎日なんてたくさんだ。
こんなせかせかした毎日に振り回されるくらいなら リアルの世界のほうが何倍もマシだ。
無心になる?淡々と過ごす?考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しい。
早々にこの世界にうんざりしていたのにどうして私はこの世界になんとか順応しようとしたんだろう。長くいすぎて感覚が麻痺してしまったのか。順応しようと思ったのが間違いだった。私がするべきだったのは順応ではなくこうやってうさぎの耳を掴み上げて帰らせろ、と凄むことだったんだ。
ほんとマジで思う。なんでもっと早くこうしなかったのかと。
「帰らせろや、うさぎ。さっさと。ごほっごほっごほっ、私をこの世界からおさらばさせろ」
「……え……」
「帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ」
「ちょ……待っ……」
「帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせろ帰らせ――」
「……待ってってば。話についていけてないこっちの身にもなってってば。というか、怜忘れたの?」
「あ?」
「僕は僕が仕えている神様の命令があったから、君をこの世界に送ったんだよ。僕の役目は送ったこの世界で契約した期間内に君がヒロインとして攻略キャラクターと交流した記録のキューブを回収して神様に送ること。使い魔である僕にとって神様の命令は絶対だから、その命令に背くことはできないんだよ。それに契約の解除や短縮の決定権は神様が握ってるし……」
「あぁ、そうだったな」
私をこの世界に送り込んだのはうさぎだけど、そう命令したのはうさぎの主である娯楽の神。その理由は、ただ単に己の愉しみを満たすためというしょうもないもの。
つまり娯楽の神は私をこんな世界に閉じ込めた敵であり、もっとも憎むべき対象ということだ。
「……それなら、その娯楽の神に会わせろ」
私の罵倒を受け止めるべき存在はうさぎではなく、その娯楽の神だ。
「……え……会わせる?」
私はうさぎの耳を掴んだ右手に思いっきり力を込めたが、うさぎは表情を歪めずに目をぱちくりとさせていた。それほど私の言葉が衝撃だったみたいだ。
私は構わず続ける。
「その神は私をこんな、ごほっごほっ……、世界に送り込ませた元凶だろ。このままじゃ、埒が明かない。直談判させろ。いや、その前に、ごほっ、文句を言わせろ」
私には文句を言っていい権利があるはずだ。
いや、文句の権利ではなく罵倒の権利といったほうが正しい。
娯楽の神の顔を見た瞬間に考えうる罵倒の言葉をぶつける自信が私にはある。
というか、そうしたい。神だろうがなんだろうが関係ない。
うさぎは私が言った意味をやっと理解したようでさっと青ざめる。
「そ、それは絶対に無理だよ!」
「あ?」
「君が理不尽な扱いをされてるって思うのもわかるし、文句を言いたい気持ちだって理解できる!でも人間が神に直談判だなんて、そんなの……前代未聞だよ!大変なことになる!」
「……」
「それに僕は一介の使い魔として、危害を加えるかもしれない存在から主を守らなくちゃいけない立場にある。そんなことになったら――」
危害を与えるかもしれない存在?私が?
まぁ、間違ってないな。実際、危害を加えるつもりだから。
「私と敵対するって?」
「僕はそんなことしたくない。だから――」
頭の中が急激に冷えていく。
「ああ、わかった」
「へ?」
「そんなに無理だっていうのなら仕方がない。うさぎのその忠誠心はマジで感服するよ。神のためならきっとどんな仕打ちも耐えられるんだろうな。だから私に見せろよ」
私は右手にはうさぎ、左手には火かき棒を握ったまま家の中にずかずかと入った。
「ちょ、ちょっとどうするつもり?」
「……」
私は無言で暖炉の前に立つ。
うさぎを待っている間、寒さに耐えられなかったため暖炉に火を入れた。
暖炉の火はゆらゆらと揺れ、勢いも収まってない。これは好都合だ。
「うさぎ、知ってるか。うさぎに関するこういう言い伝えを。昔々の話。山の中で力尽きている老人を見かねた猿、狐、兎は助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕ってきたが、うさぎは何も採ることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は老人に食べてもらうために焚いていた火の中に飛び込んだ。その姿を見た老人はうさぎを後世まで伝えるためにうさぎを月に昇らせた。実はその老人は神様だった、という話」
「そ、それがどうしたの?」
察しが悪いうさぎだな。
「なんてすばらしい話なんだろうな。マジで涙が出てくるくらいの自己犠牲だ。すばらしけど私は人間だから、そんな兎の気持ちはまったくわからないな。でも、うさぎならそんな自己犠牲の精神の気持ちわからなくもないんじゃない?同じ兎なんだから。気持ちがわからないんだったらうさぎも見習うべきだな。その言い伝えの兎の自己犠牲の精神を」
「ま、まさかっ!」
暖炉の炎を眺めていたうさぎはぎょっとした表情を浮かべた。
うさぎが眺めている火は相も変わらず、勢いはそのままだ。
「私、実はうさぎを待っている間何も食べてなかったんだよな」
「は、ははは……怜、冗談にしてはタチが悪すぎるよ」
乾いた笑顔をみせながらうさぎは身体中から汗をだらだらと流す
。
うさぎの耳を掴んだ掌に湿った感触をしっかりと感じる。
しかし、私はうさぎの耳を放さない。
「うさぎの尊い犠牲で私のお腹は満たされ、怒りもきっと鎮静化するはず。私の怒りが収まるということはうさぎの主である神も守れるということだ。そんなに主を守りたいのならこうするしかないな」
掴んだ耳から水滴が垂れてきた。ポタポタと床に落ちる。
私はそんなうさぎに構わず、火に放り込むように腕をぶんぶん揺らす。
「ちょ……ちょ……」
「さてと、一体どんな味がするのか。不味そうとは思うけど――」
「わ、わかったよ!!神様に怜と会ってほしいって頼んでみるよ!!」
うさぎの張り叫ぶ声が部屋の中に響き渡った。
私は腕をピタッと止め、顔面にうさぎを持っていく。
最初からそう言えばいいんだよ。面倒くさい。
「今すぐ行け。いいか、神が承諾するまで絶対に戻って来るなよ」
「…………わかったって」
うさぎは一気に老化したと思うほどげっそりとしていた。
「………………ごほっ」
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