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皇女シャーロット編
断罪①
しおりを挟む ずるい。あの人はずるい。
何度も何度もそう責めたくなるけれど、そう言って拗ねた顔をしてしまえばあの人の思う壺になってしまう気がする。それが悔しくていつも言い出せない。そうしてこちら側だけが一人でこらえなければいけないような流れを作ってしまうところも、あの人はずるい。
「よくやった、沖田」
高校一年生の夏の地方大会。たったひとつしかない全国大会への出場枠をかけた決勝戦、九回の逆転チャンスの場面。疲労が限界にきていた六番打者の先輩に代わって沖田伊織はバッターボックスに立った。俊足は評価されているし、長打が出せなくても最悪内野安打でも構わない。とにかく打てれば次につながる。相手ピッチャーの疲労も限界だろうし、悪くない勝負はできるはずだ。
伊織は決して自信がなかったわけではない。まだ男としては未成熟な少し小柄の身体でも、この夏の暑さの中で投げ続けてきた三年生ピッチャーから逆転ヒットのひとつは打てると思った。
しかし高校生活のほぼすべての時間を野球に捧げてきた三年生の意地のピッチングは、伊織の何もかもを上回った。蓋を開けてみれば四球目でファーストフライに打ち取られた。そして伊織たち星東学園高校は惜しくも準優勝という結果で夏を終えた。
伊織は泣いた。泣きたくなどなかったのに、言葉にできない思いの代わりとばかりに汗に交じって涙が流れた。
そんな伊織にキャプテンの大須賀が一言声をかけた。大須賀たち三年生の夏を終わらせてしまったのは伊織であると言っても過言ではないのに。
「あの場面で代打出場してバットを振るのはとてつもない勇気が要る。でもお前はそれをやった。ありがとう」
去年は地方大会八位。一昨年は三回戦負け。それを思えば、最後の夏で地方大会の決勝まで来られたことは大須賀たちにとって自画自賛したいほどの成績だろう。だが同時に思うはずだ。あと一歩――あと一歩前に進めれば夢の大舞台に立てたのに、と。
後輩の伊織に声をかけて配慮しつつも、大須賀の視線の中には確かに悔しさがあった。その悔しさを間近で見た伊織は思った。泣いている場合ではない。次の夏はいまこの瞬間から始まっている。自分にはあまりにも足りないものが多すぎて、そしてそれらをすべて得るにはあと二年という時間は短すぎる。一分一秒を惜しまずあらゆる努力に時間を注がねば、今日進めなかった「あと一歩」のその先へたどり着くことは絶対にできない。
伊織たち野球部員はベンチから手早く撤収し、学校へ戻るための貸し切りバスに乗るべく駐車場を目指す。しかし決勝戦だったので、駐車場付近には多くの保護者や在校生、卒業生たちなどがいて、しばらくはねぎらいの言葉が四方八方から飛んできたためになかなかバスに乗れずにいた。
「最後、惜しかったね」
手持無沙汰でバスの近くに立っていた伊織に、ふと一人の女性が声をかけた。制服を着ていないので星東学園高校の生徒ではない。しかしうんと年上にも見えなかったので、もしかしたら卒業生かもしれない。
「……っす」
伊織はなんと返すべきかわからず、途切れ気味の声で短く返事をした。
女性はまだ何か言いたげに伊織を見ている。芸能人になれそうなほど目力があって、長い髪がとてもつややかなその女性は正直に言ってきれいでかわいらしくて、そんな風にじっと見られると無性に気恥ずかしくなってしまうからやめてほしいと伊織は思った。
「大須賀くんたちが気になったから今年も応援に来たんだけど、来年は君を応援しに来るね」
「あ……ざ、っす……」
大須賀たちが気になった? それはどうして? 彼らとあなたはどんな関係なんですか。あなたは星東の卒業生なんですか。次は俺が気になったんですか。応援に来てもらえるのはそれが誰でも嬉しいけど、野球部の応援じゃなくて俺個人の応援なんですか。なんか変な勘違いをしそうになるからやめてもらえますか。
「不器用な人ね。でも、きっと努力できる人ね。あなたみたいな子、私好きよ」
「……っす」
上擦った声が出そうになって、伊織はそれを必死で呑み込んだ。それほど年齢が離れているわけではないだろうが、妙に大人びていて独特の雰囲気をただよわせるその女性に対しては何をどんな風に答えてもこちらが子供扱いされるだけのような気がして、少しの隙も見せたくなかった。
「またね、沖田伊織くん」
伊織のフルネームを呼んで、女性はふっと消えるようにいなくなってしまった。
これが彼女との初対面だった。
◆◇◆◇◆
「まだスタメンになれないの?」
それから約一年後。高校二年生になって最初の土曜日の練習時間中にその人はやって来た。
フェンス越しに立つ私服のその人は、名前を濱田透子さんと言うらしい。去年の夏の地方大会決勝戦後に声をかけられた伊織が後日大須賀に尋ねたところ、彼女が星東の卒業生であること、父親がプロ野球に関わりのある仕事をしているので大の野球好きであることを教えてもらった。伊織より三つ年上の大学生であることも。
「はあ……今はまだ流動的なんっすよ。一年生も入った直後ですし」
透子と会うのは今日が二回目ではない。去年の夏以降、透子は思い出したようにふらっと星東学園高校の野球部の練習を見に訪れては、伊織を呼び止めて一言二言声をかけてきた。おかげでまったく知らない人ではなく、「知人」と呼ぶ程度には彼女との仲が深まってしまった。
しかし、透子はふわっと風に乗ってどこかへ飛んでいってしまうタンポポの綿毛のように掴みどころがない。自由気ままで、ゆったりと話しているのにその会話内容はよく飛躍するので伊織は呆れ声でため息をついてしまう。しかしそんな透子の魅力にはついつい引き込まれてしまう。
「もたもたしてないで早く試合に出てよね」
だから、レギュラーになれるかもスターティングメンバーに入れるかも、まだまだ流動的でわからないと言っているのに。伊織の返事を聞いているのかいないのか、透子はマイペースにそう要望すると踵を返して颯爽と立ち去ってしまった。
◆◇◆◇◆
「濱田さん、俺、レギュラーになりました。三番ショートっす」
「ふーん、そう」
それから夏に向けて、透子はわりとコンスタントに星東学園高校の野球部の応援に顔を出していた。そして夏の地方大会初戦を数日後に控えたその日、グラウンド近くに現れた透子を見つけた伊織は思わず駆けていってそう報告した。しかし透子は軽くほほ笑んだだけだった。
「今年は勝てそう?」
「勝ちますよ。最後までずっと」
成人はしていてもただの女子大生。まだ社会に出たことがない、子供の延長線のような立場。年齢だってたかが三つしか違わない。それなのに、透子はやけに大人だと思える。高校生の伊織には決して超えられない壁の向こうにいるような気がする。
そんな透子に少しでも良く見られたくて、子供だと思われたくなくて、伊織は気取って余裕がある風に答えた。でもそんな青臭い自分を悟られないように必死だった。
そんな風に伊織が必死こいていることなど、きっと透子にはお見通しなのだろう。伊織一人が彼女にどんどん惹かれていって、余裕をなくして理性をなくして、彼女に会えるたびに喜びと焦燥にまみれていることを彼女は知っているはずだ。知っていてまるでお預けでもするようにじらすから、本当に透子はずるい。
「試合のある日、全部教えて。これ、私の連絡先。それと、私のこと、名字じゃなくて名前で呼んでね」
透子はそう言ってフェンス越しに小さなメモ用紙を伊織に渡した。そして美しい唇をふっと上げて笑みを残すと、ヒールの音をリズムよく慣らしながら去っていく。普段はそこにあるのが当たり前で特に気にもしないフェンスを、伊織は初めて邪魔だと思った。
一回戦、二回戦、三回戦――地方大会を順調に勝ち上がっていく。試合の日程は、透子に言われたとおり事前に連絡アプリで教えておいた。しかし伊織が確認した限りでは、どの試合でも透子の姿は見えなかった。試合中は当然のごとく試合に集中しているので観客席すべてを確認できていないが、しかし試合前も試合後も、どこにも透子はいなかった。
(試合に出てよねと言ったのはあなたの方なのに)
つのるばかりの片思いはいつまで続くのだろう。いったいいつまで、めったに会えない彼女の姿に夜も眠れなくなるほど胸を焦がせばいいのだろう。
もどかしくても、しかし伊織は透子のことを考えてしまう。野球に専念する傍らで、忘れた頃に登場してはこの心をそっとなでていく透子が忘れられない。ああ、こんな風に思わせるなんて本当にあの人はずるい。
そしてその年の地方大会、星東学園高校野球部は準決勝で敗退した。今年の伊織は泣かなかった。その代わり、もっと自分自身に対して修羅になろうと決意した。残り一年を絶対に後悔しないように。その決意の証として、せっかく登録した透子の連絡先を連絡アプリから消し去った。それから、彼女から連絡が来ないように自分のアカウントも作り直した。
◆◇◆◇◆
「お疲れ様。頑張ったね」
それから一年後。高校三年生になった伊織にとって最後のチャンス。奇しくも二年前の決勝戦と同じ相手に、星東学園高校は敗れた。最後の九回裏、伊織がバッターボックスに立つことはなかったが、とられたリードをそのまま死守される形で星東は惜敗した。そして二年前と同じように、帰りのバスに乗り込む前のほんのわずかな時間に透子がふらっと現れて、伊織にそう声をかけたのだった。
「いたんすか」
「ええ」
「今日だけの応援なんて……薄情ですね」
スタメンになって試合に出てと、試合のある日は教えてと、そう言ってまるで応援してくれているかのような素振りを見せていたのは透子の方なのに。それなのに、見に来たのが高校野球生活最後の負け試合だけなんて。
「薄情なのは伊織の方でしょ。連絡先も変えちゃって」
透子はそっぽを向き、唇を尖らす。
確かに、彼女の連絡先を消去しただけでなくアカウントを作り直してまで彼女とのつながりを絶ったのは自分の方だ。そこまでしてでも野球に集中しないと、全国大会出場という目標が果たせないと思ったからだ。
けれど、そこまでして続けた努力でも報われはしなかった。ラストチャンスの今年もとうとう最後の一歩を進むことは能わず、伊織の高校野球生活は幕を閉じた。
終わりのない悔しさに途方に暮れて、すっかり疲れて空っぽになってしまった伊織は透子を睨んだ。ずっと言えなかった非難をすっと口に出していた。
「見に来なかったくせに……俺が負ける瞬間だけは見てたんっすね」
初めて彼女を責めた。
子供だと思われたくなくて素直に拗ねることのできなかったこれまでの時間が嘘のように、伊織は怒りにも似た棘のある言葉を透子に投げつけていた。
「ずっと見ていたわ。伊織が私を見つけられなかっただけよ」
「俺だって探しましたよ! 透子さんがいないかといつだって……。でもそんな風にあなたを気にしてたら決勝で勝つことはできないと思って……それで連絡先を変えたんです」
透子に惹かれて彼女のずるさに丸め込まれて、ずっと我慢を強いられているような気持ちだった。彼女のことを特別に想っている自覚はしていたけれど大人びた彼女に真面目に取り合ってもらえる気がしなくて、せめて幼い自分を見せないように大人ぶって一歩も二歩も引いていた。それでも彼女を求めて、そんな自分の中の二律背反を消しきれないまま野球に打ち込んで、けれど彼女はずっと自分のことを見ていて、自分が彼女を見つけられなかっただけだなんて。そんなの――ずるいじゃないか。
「伊織、見て」
「……」
「私を見て」
「……」
「伊織――」
何度も彼女が呼ぶので、伊織はしぶしぶ透子を見つめた。
「伊織、好きよ。不器用だけど一生懸命なあなたが好きよ」
「……ずるい」
「伊織だって言葉に出して言ってくれないもの。ずるいわ」
映画館のスクリーンに映ったワンシーンのようにきれいなほほ笑み。
愛をささやく、張りと潤いのある魅力的な唇。
たまらなく魅了される、彼女のすべて。
ずっと大人びて見えていたはずの表情にまぎれて、子供のようにあどけなく、人懐っこくて無邪気なかわいらしさが見える。そのおかげで、伊織は自分の中で大暴れする悔しさをどうにかおとなしくさせることができた。
「俺の方が好きっす」
「誰のことを?」
「言わせるんですか。ほんと、ずるい人っすね」
「聞きたいのよ。言わない伊織もずるい人よ?」
つかず離れず、微妙な距離をとっていた自分たち。
でも伊織が思うよりもずっと近くに、彼女はいてくれたのかもしれない。
「俺も透子さんのことが好きっす」
何度も何度もそう責めたくなるけれど、そう言って拗ねた顔をしてしまえばあの人の思う壺になってしまう気がする。それが悔しくていつも言い出せない。そうしてこちら側だけが一人でこらえなければいけないような流れを作ってしまうところも、あの人はずるい。
「よくやった、沖田」
高校一年生の夏の地方大会。たったひとつしかない全国大会への出場枠をかけた決勝戦、九回の逆転チャンスの場面。疲労が限界にきていた六番打者の先輩に代わって沖田伊織はバッターボックスに立った。俊足は評価されているし、長打が出せなくても最悪内野安打でも構わない。とにかく打てれば次につながる。相手ピッチャーの疲労も限界だろうし、悪くない勝負はできるはずだ。
伊織は決して自信がなかったわけではない。まだ男としては未成熟な少し小柄の身体でも、この夏の暑さの中で投げ続けてきた三年生ピッチャーから逆転ヒットのひとつは打てると思った。
しかし高校生活のほぼすべての時間を野球に捧げてきた三年生の意地のピッチングは、伊織の何もかもを上回った。蓋を開けてみれば四球目でファーストフライに打ち取られた。そして伊織たち星東学園高校は惜しくも準優勝という結果で夏を終えた。
伊織は泣いた。泣きたくなどなかったのに、言葉にできない思いの代わりとばかりに汗に交じって涙が流れた。
そんな伊織にキャプテンの大須賀が一言声をかけた。大須賀たち三年生の夏を終わらせてしまったのは伊織であると言っても過言ではないのに。
「あの場面で代打出場してバットを振るのはとてつもない勇気が要る。でもお前はそれをやった。ありがとう」
去年は地方大会八位。一昨年は三回戦負け。それを思えば、最後の夏で地方大会の決勝まで来られたことは大須賀たちにとって自画自賛したいほどの成績だろう。だが同時に思うはずだ。あと一歩――あと一歩前に進めれば夢の大舞台に立てたのに、と。
後輩の伊織に声をかけて配慮しつつも、大須賀の視線の中には確かに悔しさがあった。その悔しさを間近で見た伊織は思った。泣いている場合ではない。次の夏はいまこの瞬間から始まっている。自分にはあまりにも足りないものが多すぎて、そしてそれらをすべて得るにはあと二年という時間は短すぎる。一分一秒を惜しまずあらゆる努力に時間を注がねば、今日進めなかった「あと一歩」のその先へたどり着くことは絶対にできない。
伊織たち野球部員はベンチから手早く撤収し、学校へ戻るための貸し切りバスに乗るべく駐車場を目指す。しかし決勝戦だったので、駐車場付近には多くの保護者や在校生、卒業生たちなどがいて、しばらくはねぎらいの言葉が四方八方から飛んできたためになかなかバスに乗れずにいた。
「最後、惜しかったね」
手持無沙汰でバスの近くに立っていた伊織に、ふと一人の女性が声をかけた。制服を着ていないので星東学園高校の生徒ではない。しかしうんと年上にも見えなかったので、もしかしたら卒業生かもしれない。
「……っす」
伊織はなんと返すべきかわからず、途切れ気味の声で短く返事をした。
女性はまだ何か言いたげに伊織を見ている。芸能人になれそうなほど目力があって、長い髪がとてもつややかなその女性は正直に言ってきれいでかわいらしくて、そんな風にじっと見られると無性に気恥ずかしくなってしまうからやめてほしいと伊織は思った。
「大須賀くんたちが気になったから今年も応援に来たんだけど、来年は君を応援しに来るね」
「あ……ざ、っす……」
大須賀たちが気になった? それはどうして? 彼らとあなたはどんな関係なんですか。あなたは星東の卒業生なんですか。次は俺が気になったんですか。応援に来てもらえるのはそれが誰でも嬉しいけど、野球部の応援じゃなくて俺個人の応援なんですか。なんか変な勘違いをしそうになるからやめてもらえますか。
「不器用な人ね。でも、きっと努力できる人ね。あなたみたいな子、私好きよ」
「……っす」
上擦った声が出そうになって、伊織はそれを必死で呑み込んだ。それほど年齢が離れているわけではないだろうが、妙に大人びていて独特の雰囲気をただよわせるその女性に対しては何をどんな風に答えてもこちらが子供扱いされるだけのような気がして、少しの隙も見せたくなかった。
「またね、沖田伊織くん」
伊織のフルネームを呼んで、女性はふっと消えるようにいなくなってしまった。
これが彼女との初対面だった。
◆◇◆◇◆
「まだスタメンになれないの?」
それから約一年後。高校二年生になって最初の土曜日の練習時間中にその人はやって来た。
フェンス越しに立つ私服のその人は、名前を濱田透子さんと言うらしい。去年の夏の地方大会決勝戦後に声をかけられた伊織が後日大須賀に尋ねたところ、彼女が星東の卒業生であること、父親がプロ野球に関わりのある仕事をしているので大の野球好きであることを教えてもらった。伊織より三つ年上の大学生であることも。
「はあ……今はまだ流動的なんっすよ。一年生も入った直後ですし」
透子と会うのは今日が二回目ではない。去年の夏以降、透子は思い出したようにふらっと星東学園高校の野球部の練習を見に訪れては、伊織を呼び止めて一言二言声をかけてきた。おかげでまったく知らない人ではなく、「知人」と呼ぶ程度には彼女との仲が深まってしまった。
しかし、透子はふわっと風に乗ってどこかへ飛んでいってしまうタンポポの綿毛のように掴みどころがない。自由気ままで、ゆったりと話しているのにその会話内容はよく飛躍するので伊織は呆れ声でため息をついてしまう。しかしそんな透子の魅力にはついつい引き込まれてしまう。
「もたもたしてないで早く試合に出てよね」
だから、レギュラーになれるかもスターティングメンバーに入れるかも、まだまだ流動的でわからないと言っているのに。伊織の返事を聞いているのかいないのか、透子はマイペースにそう要望すると踵を返して颯爽と立ち去ってしまった。
◆◇◆◇◆
「濱田さん、俺、レギュラーになりました。三番ショートっす」
「ふーん、そう」
それから夏に向けて、透子はわりとコンスタントに星東学園高校の野球部の応援に顔を出していた。そして夏の地方大会初戦を数日後に控えたその日、グラウンド近くに現れた透子を見つけた伊織は思わず駆けていってそう報告した。しかし透子は軽くほほ笑んだだけだった。
「今年は勝てそう?」
「勝ちますよ。最後までずっと」
成人はしていてもただの女子大生。まだ社会に出たことがない、子供の延長線のような立場。年齢だってたかが三つしか違わない。それなのに、透子はやけに大人だと思える。高校生の伊織には決して超えられない壁の向こうにいるような気がする。
そんな透子に少しでも良く見られたくて、子供だと思われたくなくて、伊織は気取って余裕がある風に答えた。でもそんな青臭い自分を悟られないように必死だった。
そんな風に伊織が必死こいていることなど、きっと透子にはお見通しなのだろう。伊織一人が彼女にどんどん惹かれていって、余裕をなくして理性をなくして、彼女に会えるたびに喜びと焦燥にまみれていることを彼女は知っているはずだ。知っていてまるでお預けでもするようにじらすから、本当に透子はずるい。
「試合のある日、全部教えて。これ、私の連絡先。それと、私のこと、名字じゃなくて名前で呼んでね」
透子はそう言ってフェンス越しに小さなメモ用紙を伊織に渡した。そして美しい唇をふっと上げて笑みを残すと、ヒールの音をリズムよく慣らしながら去っていく。普段はそこにあるのが当たり前で特に気にもしないフェンスを、伊織は初めて邪魔だと思った。
一回戦、二回戦、三回戦――地方大会を順調に勝ち上がっていく。試合の日程は、透子に言われたとおり事前に連絡アプリで教えておいた。しかし伊織が確認した限りでは、どの試合でも透子の姿は見えなかった。試合中は当然のごとく試合に集中しているので観客席すべてを確認できていないが、しかし試合前も試合後も、どこにも透子はいなかった。
(試合に出てよねと言ったのはあなたの方なのに)
つのるばかりの片思いはいつまで続くのだろう。いったいいつまで、めったに会えない彼女の姿に夜も眠れなくなるほど胸を焦がせばいいのだろう。
もどかしくても、しかし伊織は透子のことを考えてしまう。野球に専念する傍らで、忘れた頃に登場してはこの心をそっとなでていく透子が忘れられない。ああ、こんな風に思わせるなんて本当にあの人はずるい。
そしてその年の地方大会、星東学園高校野球部は準決勝で敗退した。今年の伊織は泣かなかった。その代わり、もっと自分自身に対して修羅になろうと決意した。残り一年を絶対に後悔しないように。その決意の証として、せっかく登録した透子の連絡先を連絡アプリから消し去った。それから、彼女から連絡が来ないように自分のアカウントも作り直した。
◆◇◆◇◆
「お疲れ様。頑張ったね」
それから一年後。高校三年生になった伊織にとって最後のチャンス。奇しくも二年前の決勝戦と同じ相手に、星東学園高校は敗れた。最後の九回裏、伊織がバッターボックスに立つことはなかったが、とられたリードをそのまま死守される形で星東は惜敗した。そして二年前と同じように、帰りのバスに乗り込む前のほんのわずかな時間に透子がふらっと現れて、伊織にそう声をかけたのだった。
「いたんすか」
「ええ」
「今日だけの応援なんて……薄情ですね」
スタメンになって試合に出てと、試合のある日は教えてと、そう言ってまるで応援してくれているかのような素振りを見せていたのは透子の方なのに。それなのに、見に来たのが高校野球生活最後の負け試合だけなんて。
「薄情なのは伊織の方でしょ。連絡先も変えちゃって」
透子はそっぽを向き、唇を尖らす。
確かに、彼女の連絡先を消去しただけでなくアカウントを作り直してまで彼女とのつながりを絶ったのは自分の方だ。そこまでしてでも野球に集中しないと、全国大会出場という目標が果たせないと思ったからだ。
けれど、そこまでして続けた努力でも報われはしなかった。ラストチャンスの今年もとうとう最後の一歩を進むことは能わず、伊織の高校野球生活は幕を閉じた。
終わりのない悔しさに途方に暮れて、すっかり疲れて空っぽになってしまった伊織は透子を睨んだ。ずっと言えなかった非難をすっと口に出していた。
「見に来なかったくせに……俺が負ける瞬間だけは見てたんっすね」
初めて彼女を責めた。
子供だと思われたくなくて素直に拗ねることのできなかったこれまでの時間が嘘のように、伊織は怒りにも似た棘のある言葉を透子に投げつけていた。
「ずっと見ていたわ。伊織が私を見つけられなかっただけよ」
「俺だって探しましたよ! 透子さんがいないかといつだって……。でもそんな風にあなたを気にしてたら決勝で勝つことはできないと思って……それで連絡先を変えたんです」
透子に惹かれて彼女のずるさに丸め込まれて、ずっと我慢を強いられているような気持ちだった。彼女のことを特別に想っている自覚はしていたけれど大人びた彼女に真面目に取り合ってもらえる気がしなくて、せめて幼い自分を見せないように大人ぶって一歩も二歩も引いていた。それでも彼女を求めて、そんな自分の中の二律背反を消しきれないまま野球に打ち込んで、けれど彼女はずっと自分のことを見ていて、自分が彼女を見つけられなかっただけだなんて。そんなの――ずるいじゃないか。
「伊織、見て」
「……」
「私を見て」
「……」
「伊織――」
何度も彼女が呼ぶので、伊織はしぶしぶ透子を見つめた。
「伊織、好きよ。不器用だけど一生懸命なあなたが好きよ」
「……ずるい」
「伊織だって言葉に出して言ってくれないもの。ずるいわ」
映画館のスクリーンに映ったワンシーンのようにきれいなほほ笑み。
愛をささやく、張りと潤いのある魅力的な唇。
たまらなく魅了される、彼女のすべて。
ずっと大人びて見えていたはずの表情にまぎれて、子供のようにあどけなく、人懐っこくて無邪気なかわいらしさが見える。そのおかげで、伊織は自分の中で大暴れする悔しさをどうにかおとなしくさせることができた。
「俺の方が好きっす」
「誰のことを?」
「言わせるんですか。ほんと、ずるい人っすね」
「聞きたいのよ。言わない伊織もずるい人よ?」
つかず離れず、微妙な距離をとっていた自分たち。
でも伊織が思うよりもずっと近くに、彼女はいてくれたのかもしれない。
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