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第一章「最初の一冊」
第19話「女と問い掛け」
しおりを挟む「……私……綺麗……?」
ハッキリと聞こえたその台詞が、俺の思考を停止させる。まるで動画の再生速度を極端に遅くしたような感覚。少しでも油断すれば呼吸すら出来なくなりそうな大きな緊張感が俺の体を包み込む。
ここ最近俺が見ていたあの夢。何度も同じ光景を見ている事自体ずっと違和感はあった。そして、あの屋敷で聞かされたじいちゃんや、先祖の不思議な能力。
もしかして俺が見ていたのは……? と思い始めていた所に、いつもの夢がより鮮明に、更に自分自身が見ているかのような今までにない感覚に確信を得た。
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現実離れしたその能力に、いつの間にか自分が見ていた光景が古い過去の話か、それともまだ見ぬ遠い未来かもと勝手に決め付け、いま現在起きているという可能性を捨ててしまっていた。
思えば、鷹見さんが出てきた怪奇図書内の事件と、あの光景には似た部分があった。
(何で気付かなかったんだ!)
今更自分に憤っても何も解決しない。緊張から動きを止めていた体を奮い立たせる。
(やれる事をしないと)
鷹見さんとカミラさん宛てにメッセージを送ろうとするが指が震えて上手く文章が打てない。
俺の頭の中は、あの夢でいっぱいになっていた。
呼吸が出来ない苦しさも、顔に感じた包丁の痛みも、まるでつい先ほど経験した事のように思い出せる。
気付けば、また首と顔を無意識に触っていた。そこにはやはり何の痕もない。
何とか見付けた事を伝えるメッセージを送った後、ビルの壁に背を預けながら、ゆっくりと路地の先にある開けた場所に近付いていく。
(あれは……)
暗くてハッキリとしないが、誰かの背中が視界に入る。膝立ちの体勢で誰かと喋っているのが見えた。
「俺は悪くない!」
「…………」
「元はと言えばお前が自分……」
「ねぇ?」
「な、なんだよ!」
男に語りかける女性の声はとても落ち着いていた。
人がそんなに通らないような入り組んだ暗い路地裏。普段なら1人で歩く事も避けそうなそんな場所で、淡々と落ち着いた調子で喋る女性は、かえって不気味に見えた。
「……私……綺麗……?」
「そんなの知るか!」
「……あ?」
男が知らないと叫んだ瞬間、女の周りの空気が一気に変わる。
重苦しい雰囲気と、緊張感。本来感じる筈だった夏の蒸し暑さは消え去り、体の芯から凍えるような強烈な寒気が襲ってくる。
今いるこの場所だけ季節が変わったかのような錯覚に、恐怖を感じながらも体を何とか動かした。
壁の影に隠れながら、顔を少し出して状況を確認する。そこには膝立ちの人物の前に、もう1人誰かが立っているのが見えた。
膝立ちの人物は恐らく林道だろう。あの服装は先ほど連れていかれる時に着ていた。
その前にいるのは細身の女性の様だ。暗くて何となくのシルエットしか見えないが、先ほどの会話での声音も合わせて、間違いないだろう。
(あの白いのは……マスクか?)
帽子を目深に被っているからか、ここからでは顔は全く見えないが、顔の横から白い何かが垂れ下がっている。いや、そんな事より今何かが光ったような?
(っ……!?)
暗闇の中でもハッキリと自らの存在を示すように、僅かな光りすら綺麗に反射するそれが、女の右手に握られていた。
(包丁……)
そう心の中で呟いた瞬間。俺の心臓が再び早鐘のようにドクドクと激しく鳴り始める。からだに纏わりつく恐怖に負けて、その場に座り込んでしまいたくなるが、今の状況がそれを許してはくれない。
「あんたのせいで、私は!」
突然の怒声に身がすくむ。先ほどから聞こえて来ていた女の声は何処か落ち着いた雰囲気だった。
だからこそ、余計不気味に感じていたのだが、今のは違う。明確な敵意が込められたその声からは、怒りが溢れ出ている。
今まで淡々と喋っていた女性の初めての感情的な声を聞いて、何故か俺は少し冷静になっていた。
怪奇関連であるなら、工事現場で出会った幽霊のような話の通じない相手が、きっとまた出てくると思っていたからだろう。
林道とのやり取りから、女性は少なからず会話が出来るのだけは伝わってくる。
(鷹見さんや、カミラさんは?)
辺りを確認してみるが、メッセージを送った2人の姿はまだ見当たらない。やはり文章だけで伝えられた場所に向かうのは中々難しいのだろう。
冷静に考えてみると、林道の姿も直接確認していないのに、会話だけで決め付けて見付けたとメッセージを送っていた事に気付く。
まぁ、こんな入り組んだ場所に他に誰かがいるとは思えないが、自分でも知らない内に動揺していたのかもしれない。
そんな事を考えている間に、女が一歩林道に近付いた。
(どうする?)
女が林道に何をする気なのかはまだ分からない。鷹見さんには、連絡をしたらその場から離れろと言われた筈だ。こうやって様子を窺う事すら多分怒られると思う。
また一歩、女が近付く。既に右手にある包丁を振るえば、相手を殺せる距離。
それに相手はあの林道だ。今朝、カミラさんと2人で逃げるのを止めた時も、待ってくださいとだけ言う俺たちに、いきなり叫びながら殴り掛かってくるような、そんな男。
そんな奴に自分の命を懸けるなんて出来る訳が……。
「止めてください!!」
気付けば俺は、林道を庇うように女性と林道の間に立っていた。
俺を見た彼女は、身元がバレないようにか、こちらに顔が見えないよう手で覆いながら、凄い速さでマスクを着け直している。まぁ、顔を直接見れた所で、この暗さじゃ朧気にしか見えないとは思うが。
「……お前今朝のガキか?」
背後の林道が質問してくる。正直この人に対しては良い印象は全くない。きっと鷹見さんが言っていたみたいに、手出しせずにその場から離れるのが正解なのだろう。俺もその方がいいのは分かっていた。
(だけど……)
この場から逃げることを考えた瞬間、俺の頭によぎったのは赤い髪の彼女だった。
記憶の彼女は笑っている。その優しい笑顔に、気付けば俺は唇を噛んでいた。
助けられる可能性があるのに、何もしないなんて俺には出来ない。後で死ぬ程後悔するなんて、もう嫌なんだ。だから俺は……。
「逃げて下さい」
「は?」
林道の質問には返さず、一方的に告げる。
「早く!!」
「わ、分かった」
背後で混乱するような返事をした後、この場を立ち去るような音が聞こえた。後は……。
「あんた誰よ? あいつの仲間?」
「違います」
女はこちらを真っ直ぐ見ながら問い掛けてくる。顔の部位でマスクに隠れず、唯一見えるその目は血走ってはいるが、焦った様子は見られない。
(林道が目的じゃない?)
目的の人物に逃げられたら、もう少し動揺しそうな物だが。
「じゃあ何で邪魔するのよ!」
「それは……」
視線の端にゴミを入れる青いポリバケツが見えた。
(何も完全に逃げ切らないといけない訳じゃない)
そうだ。鷹見さんとカミラさんがやって来るまで時間を稼げればいい。それぐらいならきっと俺にも、何とか出来る筈だ。
「すみません!!」
ポリバケツの蓋を取り、女に投げ付ける。俺の突然の行動に、彼女はそれを咄嗟に避けた。
林道も少しは遠くに行けただろう。踵を返し、走って逃げようとした――――その時だった。
「痛っ!」
足に感じる強烈な痛み。振り向くと女が俺の足を左手で掴んでいた。とてもその小さな手から出ているとは思えない凄まじい力だ。足を動かして何とか引き離そうとするが、びくともしない。
「……逃がすわけないでしょ」
小声で女がそう呟いた瞬間、視界が反転する。とてつもない速さで目の前の景色が変わるのを見ながら、自分が足を掴まれたまま宙に振り上げられた事に気付く。
まるでそよ風に揺れる草花のようにあっさりと、俺の体は片手だけで持ち上げられた。
「ぐっ!!」
考える間もなく、背中から硬いコンクリートに叩き付けられる。
「げほっげほっ!!」
強烈な痛みと同時に、割れて空気の漏れ出す風船のように、口から全ての酸素が飛び出したような感覚。
凄まじい痛みだが、まだ意識は飛んでない。何とか足を振りほどいて逃げ……。
「がっ!!」
続けてやって来た急な衝撃に、声にならない短い音が口から出てくる。
今度は顔面からコンクリートにぶつけられた様だ。咄嗟に顔を横に向けて、両手で守ろうとしたが、その甲斐もなく口の中が血の味でいっぱいになる。
「ねぇ、あんた」
いつの間にか女は俺の足を離し、目の前に立っていた。痛みを我慢して、何とか上半身だけ起こして女の方を見る。
「邪魔するなら、あんたも殺すよ?」
そう言う彼女の顔はマスクで殆ど確認出来ない。しかし、その目は心底楽しそうに笑っているように見えた。
そこまで来てやっと気付く。彼女が林道に逃げられて焦らなかったのは、林道が目的の人物じゃなかったからではない。
逃げた所で直ぐに捕まえる自信があったからだ。俺1人の邪魔など、彼女にとっては道端の小さな石ころに過ぎない。万一転ばないよう遠くに蹴って、それで終わり。
余りの情けなさに自分に対して怒りが湧いてくる。カミラさんのような力が俺に少しでもあれば、もっと何とか出来たのかもしれない。
「いや、やっぱ追って来られても面倒だからここで殺しちゃうか! どうせあんな男に味方する奴なんてろくな奴じゃないだろうし……」
女は右手の包丁を軽く振りながら、その場でしゃがんで俺の顔を覗き込んだ。
「じゃ、ばいばーい!」
まるで友達と軽くさよならするようなテンションで、彼女は包丁を振り上げ、それを振り下ろ……。
――ギィンと、何か硬いもの同士がぶつかるような不愉快な音が路地裏に響く。
「…………?」
咄嗟に目を閉じていた俺は、その音を聞いてゆっくりと目蓋を開く。そこには……。
「カミラさん!!」
その人は俺を庇うように、目の前に立っていた。
これで何とかなる! 出会ってから短いが、何度も見た頼りになる彼女の背中。恐怖や不安に駆られていた俺の心は、一気に安心感でいっぱいになる。だが……。
――ドサリと何か重たい物が近くに落ちた。思わずそれを目で追う。
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そこにあったのは、頼りになるメイドの左腕だった……。
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