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魅惑ボイス~女王様は勇者の声に婬れる
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酩酊した頭で入った、いかにも、といった安っぽいピンクの装飾に飾られた狭い部屋を占領するキングサイズのベッド。適当にも程があるだろうと、内心で苦笑してみるものの、頭のどこかで「どうでもいいか」と諦念の気持ちのほうが大きい。
ちらりととなりを見ると、チープな内装に目を瞬かせている美丈夫と目が合う。
(あぁ……アイツよりも背が高いな)
こんな所にもかつての恋心を思い出してしまい、胸がズグンと痛みだす。
先に風呂使うから、とそっけなく言い放ち、これから自分を抱くだろう男を置いて浴室に足を向けた。
一緒に入る選択肢は欠片も浮かばなかった。
なぜなら、俺は恋人じゃない男に抱かれようとしているのだから。
ほぼ会話らしい会話をせずとも、セックスはできるのだな、と今更ながらに実感をする。
「……あっ、あついぃ……っ」
ギシリ、と鈍い軋む音色と振動が背中に伝わると、腹の中を満たす粘り気を帯びた熱が深く隘路を押し開く。その質量に喉を反らして熱い吐息と共に快感の声が溢れ出る。
ここに至るまでに何度も、頭の中で「違う」と、数え切れないほどの項目が積もっていく。
背の高さも。肌から香る匂いも。触れ方も。唇の熱さも。愛撫する順番も。吐き出される吐息の温度も。それから抱きしめる強さも。
違う、そうじゃない、と頭は拒絶するのに、男が自分を大切に扱ってくれるものだから、渇望していた体は素直に男を受け入れ、その熱に俺の体も反応していく。
「あっ……、も、っと、おくぅ……っ」
もっと、とせがむように足を俺の中に熱を埋め込む男の腰に絡めグッと引き寄せると、男は体を倒して俺をぎゅっと抱きしめる。左上腕から左胸にかけて狼を模したトライバルタトゥーが視界いっぱいに広がる。俺の周りには刺青を入れる人間はいなかったけど、熱い肌に浮かぶ狼は俺を守るように口づけてきて、妙に安心感を与えてくれる。
汗の匂いに混じって香るパルファムが、いまごろ結婚式を終えて新妻と初夜を迎えてるだろう元恋人を思い出させ、肉洞を隙間なく満たされる感覚と真逆に、心はどんどんとひび割れたソコから溢れだし、虚しくなっていくのを感じた。
「泣かないで」
「あっ、あぁ、あん……っ、そこっ、やぁ……っ!」
みちみちと肉の輪を拡げ、男の陰毛が臀部の肌を擦りつける。腰を両手で掴まれ、叩きつけるように抽挿されながら、男の先端は禁忌の領域の入口を確実にこじ開けようとする。
「だ、めぇ……、そ、こ、も、はいらな……あぁっ!」
まったく力の入らない腕をつっぱって抵抗するものの、男は俺の腰をグッと掴んで引き寄せ、ナカで存在を主張する熱の塊で禁断の領域へと無断で侵入してきたのである。途端、頭が真っ白に染まり、目の前で火花が散る。これまで経験したことのない壮絶なる快感に、頭も体も追いつかない。
「ひっ……ぐっ」
あまりの衝撃に喉を弓のように反らし、瞠目したまま口をはくりと開く。いままで経験したことのない強すぎる刺激に、眦から涙がひとすじ静かに流れていった。
「大丈夫。もっと気持ちよくなって、嫌なこと全部忘れよう?」
肌を打擲する音と、互いの体液が混じる水音と、熱い吐息の合間に、男の艶ある声が宥めるように囁いてくる。
あんまりにも優しくて、俺を愛してると何度も鼓膜を震わせ、俺は縋るように男の首に腕を回して、滂沱しながらひたすらに喘ぎ続けた――
馴染みのバーで初めて出会った男と、適当に入ったホテルで爛れたセックスをする。
今日一日の事を塗り潰すかのようなドロドロで、獣のような交わり。互いの唾液を交換して、男の体液を大量に注がれ、俺の先端からトロトロと白濁を流し続ける。
清潔感に溢れていたシーツはグチャグチャのベタベタになっていて、俺と男は情交の痕跡が残る波間に荒い息で抱き合う。喘ぎすぎて喉は痛いが、充足感と爽快感に深い息がこぼれる。
「水……いりますか?」
汗で濡れた横髪を指で梳きながら、男がそう聞いてくるのを、小さく頷いて応える。落ち着いた状況で聞くと、結構イイ声をしている。色気があって、深みのある声が眠気を誘う。
キシリ、とスプリングが弾み男が全裸で小型冷蔵庫へと向かうのを、セックス後の疲れで閉じそうになる目蓋の間からぼんやりと眺め、結局男の名前を訊かなかったな、と詮無きことが浮かんだものの、眠気に負けて男が戻ってくる前に意識は深く沈んでいった。
◆
天国と地獄を同時に味わった日から数日後。仕事のためにとある録音スタジオにやってきていた。
「あ、あー。……うん、問題ないみたいだな」
俺──加治瑤は、どこにも掠れのない声に安堵し、休憩室のテーブルに置いた山のような付箋で分厚くなった本を手に取る。しっとりと濡れたB5サイズの厚口上質紙には『魔王は勇者の愛に溺れる』とゴシック体で綴られ、その上には『オリジナルBLドラマCD』と小さく書いてある。
濡れているのはワザとだ。録音マイクにペーパーノイズが入らなようにするための策。俺は先輩からこの方法を教えてもらった。今はここまでする人は少ないらしいけども。癖はそう簡単に変えられない。
俺は芸歴十五年の中堅の声優だ。テレビのアニメにもそこそこ重要キャラを担当することも増えつつあったが、主な仕事は昔からソーシャルネットワークゲームのキャラクターや、それなりに売れ行きがあるBLドラマCDの声を充てるのが多かった。
ただ、割と高圧的な攻めの役柄が多かったせいか、見た目の華奢な容姿と名前の『カジヨウ』を縮めて、いつしかファンや関係者から『女王様』と呼ばれるようになったのは釈然としない。男で女王様とかないだろう、普通。むしろ本名より音数多いのだが!
……それはそれとして、今回もそのBLドラマの収録なんだが、いつも専門用語でいう攻めの声を担当するのが常だった。だが、この仕事に関しては真逆の受け。役は魔王という、特殊な立場なのだ。それで相手が勇者という、RPGにおけるファンタジー世界においては、ありえないカップリングらしいが、最近のBL界隈では、こういった敵同士のあれやこれが人気のようだ。
「……これまで攻め声と言われてた俺が受け……。素が出たらどうしたらいいんだ」
思わず頭を抱えて呟きを吐露する。
この仕事を受けた時は、先日結婚した元恋人との別れを引きずっていて、詳細を確かめないまま快諾してしまったのだ。事務所から何度も確認の連絡が来たものの、長く患っていた失恋の痛みのせいで正直何も考えてなかった。
後悔先に立たずとはこのことだ。
「……やるしか……ないか」
ここで問答していてもどうしようもない。一度引き受けた仕事を、自分都合で辞めるなんてできないし、そんなことしようものなら、次の仕事がなくなってしまう可能性だってある。
この業界は中堅だろうがいつでも綱渡りなのだから。
俺は台本をぎゅっと握り締め、椅子から立ち上がると、収録ブースへと向かう。
あれだけの決意を胸に込めたものの、この数十分後には、役どころか収録すらも逃げたいなどと思うよしももなかったのである。
「はじめまして、加治さん。勇者役の速水正樹です。本日はよろしくおねがいします」
「……」
長めの黒髪をスタイリッシュにまとめ、カットソーにチノパンとハイカットのブーツという音の出なさそうな服装は、声優として特に問題はない。むしろ好印象とも言える。が。
「速水君は、最近頭角を出してる子でね、きっと加治君と共演させたら、成長できると思うんだよね。だからよろしく頼むよ、女王様」
「は……、はぁ」
「色々ご教授お願いしますね、加治さん」
企画プロデューサーと速水という初対面……ではない男に挟まれ、俺は頬を引きつらせて笑うことしかできない。
速水は、元恋人で同業者の白河圭介が女性と結婚式を挙げたその夜、バーでデロンデロンに酔った俺と、ホテルの一室でドロッドロのグッチャグチャなセックスをした相手だったからだ。
しかも翌朝、爆睡してるのを放置して、金だけを置いて逃げ帰ってしまったのである。つまりはヤリ逃げ。三十路近いいい大人がヤリ逃げ……
さっき「はじめまして」とのたまってくれたけど、こいつ、絶対あの時の相手が俺だって気づいてる。大型犬のように人当たりの良さそうな顔をしておいて、視線があの夜を思い出させるような熱を感じるからだ。
どうする。このまま知らぬ存ぜぬでスルーしてしまうか。……うーん。
「速水君……だっけ。はじめまして、よろしく頼むね。俺もまだまだ勉強の途中だから、あんまり役に立たないと思うけど、何か分からないことがあれば、」
「いいえ! 加冶さんに色々教えてもらいたいです! ええ、是非とも」
こちらも初対面を演じつつ、俺よりも立派な先輩がたに教えを乞うほうがいいと暗に匂わせ告げる。ここまで言えば、向こうもあんまり俺が関わりたくないと察知してくれるだろう。というか、察知してくれないと困る。にもかかわらず俺の言葉を遮ってまで明るい声をかぶせてきた。
頼むから察してくれ、と念を送ってたのも通じず。いや、もしかしてスルーされた? むしろ断りづらい雰囲気に持ち込もうとしている?
「親睦を深めるためにも、今日の収録が終わったら食事に行きましょう? ね?」
「お……おぉ?」
それはそれは、女性ならば腰砕けになるほどの魅力的な笑顔でのたまってくれたのだ。プロデューサーからは「うらやましい」とつぶやきが聞こえたけども、かわれるものならかわりたい! 頼むから、プロデューサー権限でそいつを連れて行ってくれ!
「女王様と一緒にご飯! あー、楽しみです!」
「……ぐぅ」
「お楽しみは後でね。それを糧に収録頑張って!」
呪いに近い祈りをプロデューサーに向けたものの、俺は颯爽と強引に速水によって、ブースへと引きずられてしまったのである。プロデューサーはひらひらと手を振って送り出してくれた。
くっそう! 若いイケメン滅んじまえ!
最悪だ、と口にしなかったのは、俺にもなけなしのプライドがあるからだ。
『女王様、もう一回同じとこ頼むよ』
「す、すみませんっ」
収録は……もうボロボロだった。
そもそも攻めキャラメインだった俺が受けキャラをやっているのだ。しかも魔王。傲岸不遜で俺様なキャラである魔王は、演じるには演じやすかった。が、いざ速水の勇者との濡れ場にはいった途端、それまで好調だった魔王というキャラクターにブレが出てしまったのだ。
マウントを取る雰囲気を出すのは得意だが、取られる演技になれないのもあり、どうしたらいいのか分からない。
というのも。
『っ、な、なにをする!』
『なに……って、キスだよ? まあ、キスで終わらせるつもりもないし、アナタをもっとドロドロに蕩かせて、俺の精液でお腹膨らむまで種付けするけども』
『バッ、バカか、お前。どこの世界に魔王を孕ませようとする勇者がいるんだ!』
『ここに。ほら、舌出してよ。もっとちゅうしてあげる』
アニメなら画面を観ながらの作業が多いため、そちらに集中できるのだが、いかんせん音声だけの収録は息を合わせるために相手との視線が交わりやすい。速水の視線が俺の体をねっとりと這い、視姦されているような気分になる。
同時に速水に抱かれた日の記憶が蘇ってしまい、俺らしくなく何度もリテイクを出すはめになったのは言うまでもない。先輩の俺がリテイク多いとか、泣きそうだ。
『女王様、初の受けだからうまく役が掴みきれてないのかな? まだ予備日に余裕があるから、それまでには頼むよ?』
「……すみません」
『まあ、慣れない立ち位置だと、仕方ないよ。……結構、女王様には期待してたんだけどね』
本人としてはマイクを通らないほどの小声で言ったつもりなのだろう。しっかり俺の耳に届いた呟きに、胸がギュッと締め付けられる。
「本当にすみません。次はちゃんとキャラを掴んでくるので!」
十五年声優という仕事を続けてきて、こんな風に落胆な言葉を突きつけられたのは、ここ数年なかっただけに胸が痛い。
普段の俺とは違いぎこちない演技しかできず、ブースから聞こえてくる監督の言葉を合図に、収録はそうそうに終わりを迎えた。
予備日に改めて収録をすると告げられ、がっくりと肩を落とした俺はスタジオを後にした。いつもなら予備日は余裕持って収録するから、基本はお休みだったのに……ついてない。
複数掛け持ちをしているマネージャーには電話で詳細を伝えると「加治君が珍しいね」と言われ、更に落ち込みながら外へと向かう通路を歩いていると、背後から軽快な足音とともに俺の名を呼ぶ低く甘い声。振り返らずとも分かる。速水だ。
「加冶さん、さっき話してた食事に行きませんか?」
「いや、俺帰るから……」
そっけなく端的に言葉を返すと、好印象な雰囲気が一転、皮肉に唇を歪めて俺を睥睨する。
「いいんですか? 多少俺に慣れておいたほうがいいと思いますけど。あー、それとも自らこれまで培ってきた努力をぶち壊したいとか?」
「……なっ!?」
安易な挑発に煽られ頭に血を昇らせた俺を、速水が強引に連れてきたのは、寂れた雰囲気のある食堂の前だった。
今風な若者といった速水がチョイスするにしては、割と地味な店だ。もっとオシャレな場所を想像していただけに拍子抜けした。
「ここ、鯖味噌定食がおすすめなんです」
ニコニコと速水がメニューを正面に座る俺に差し出してくる。おすすめを言うってことは少なくとも何度か来ているのか。
さすがに公共の場であの晩の話をするわけにもいかず、俺は渋々とメニューを受け取り視線を落とす。正直、さっきの言葉がショックすぎて食欲なんて出てこないが、ここで固辞すれば速水がまたもしつこく誘ってくるに違いない。
「じゃあ……肉じゃが定食で」
淡々と注文をしたら、速水は机に伏せながら「鯖味噌定食で」となぜか涙声で言っていた。意味分からん。
お膳に乗せられた温かそうな肉じゃがを見て、内心で舌打ちをする。そういやこっちは豚肉なのを、ここ数年食べてないからすっかり忘れていた。ちなみに俺は関西出身だ。
「……いただきます」
手を合わせて、副菜のほうれん草の胡麻和えに箸を伸ばす。少しだけ歯ごたえのあるほうれん草に胡麻の香ばしさが食欲を誘う。味噌汁も油揚げと大根で、まるで実家でご飯を食べるようなほっこりとしたチョイスに、思わず口元が綻びる。
「良かった。気に入ってみたいで」
ほう、と安堵の吐息を漏らした速水に、俺はヤツと一緒にいるのを思い出し、自然と苦い顔になってしまう。
「そうだな。店、は気に入った。けど、もう二度と来るつもりはないけど」
「どうしてですか?」
速水は首を傾げながらも、大きく切り分けた鯖の味噌煮を口に入れて咀嚼している。
「これ以上お前とかかわり合いたくないから。俺は他人に弱みを握られるのが嫌いなんだ。まさかお前が同業者だとは思わなかったから、一夜のつもりで抱かれたのに。とんだ誤算だ」
俺はボソボソと吐き捨てるように言って大きなじゃがいもの欠片を口に入れる。芯まで味が染み込み、ホロリと口の中で崩れていく。
人の趣味にあれこれ言うつもりはないけど、タトゥーいれてる声優なんて、俺の周りにはいない。もしかしたら、速水のように普段は見えない場所にいれてるヤツはいるかもしれないが、俺が認識してなければノーカンだ。
「……ケイスケという男の前でなら、あなたは弱みを見せていたんですね、加治さん」
「っ」
淡々とした声から聞こえた名前に、俺の心臓はドクリと跳ねる。
「あの日、あなた泣きながら何度も『ケイスケ』と俺を呼んでました。覚えてないでしょ?」
咀嚼したじゃがいもをゴクリと飲み込む。まさか、速水と寝た日に圭介の名を呼んでいたなんて。
「あの日あなたが言ってた『ケイスケ』って、俺と同じ事務所の白河圭介のことですよね。あなたとは養成所時代からの親友だって雑誌で読んだことがあります」
確かに、昔専門雑誌のインタビューでそんなことを語った覚えがある。だが、あれは少部数で、そうそう簡単に手に入らないものだったと記憶しているが……というか、圭介と同じ事務所なのかコイツ。
俺の所属する事務所は、声優を数人抱えている小さなところだが、圭介やコイツがいるのは、老舗の大手芸能事務所である。声優だけでなく俳優やモデルも所属していて、声優であっても歌のレッスンや演劇の指導とかもあると、以前圭介が話していたのを思い出す。
「俺、昔からの加治さんのファンなんです。公言してないので知ってる人は殆どいませんけど」
「ああ……そう」
同性の声優ファンというのが珍しくて、内心では嬉しいという気持ちがあったものの、いかんせんその相手は俺の隠してる部分を知っているヤツなのだ。素直になれるわけがない。
「あのさ、あんまりそういうのこういう場所でプライベートな話すのやめたほうがいいぞ。どこに耳があるか分からないんだし」
豚肉を避けつつ、人参の甘さや溶ける寸前の玉ねぎを次々と口に放り込みご飯をかっこむ。正直、この店の味は好みだから、できうるなら何度でも通ってみたい。鯖の味噌煮も気になっているのだ。
「あー、そうですね。あなたは有名人ですからね、女王様?」
「それもやめてくれ。俺は男だ。それに声優なんてそこまで万人が知ってるわけじゃない」
「そうですか? あなたらしいと思いますけどね。高潔で孤高で潔癖な女王様。今回の魔王役も似合ってますよ」
にっこりと人当たりの良い笑みを見せるが、速水の細めた目は『俺に抱かれる側ですけどね』と言わんばかりのねっとりとしたものだった。
「仕事のチョイスを間違ったと後悔してるけどな」
味噌汁の残りを喉に流し込む。豚肉を残して皿も茶碗も空っぽになったので、俺は用事が終わったとばかりに席を立つ。台本などを入れてる斜めがけバッグから財布を取り、一万円をテーブルに叩きつけた。
「だが、受けた仕事はちゃんとやる。俺だってプロの声優なんだ。お前がどんな腹積もりで俺に近づいたか知りたくもないし、今後も知る気持ちもないけど、こういったのは今日限りにしてくれ。じゃあな」
俺は唖然としている速水を置いて、さっと踵を返すと店を出て行った。ファンだと言っていたが、これだけキツく啖呵を切ったたのだ。幻滅してくれるに違いない。
胸の中がモヤモヤする。お互い名前を交わさず速水に抱かれた時、とても大切に愛おしそうに扱われて、辛さを忘れることができたのだ。圭介の時ですら感じなかった『愛されセックス』というのを実感できたのに。
悔しさに唇を噛む。
「あれは夢だった。寂しい俺の気持ちが見せた幻だ」
しかし。
店を出てほどなく、息を切らして追いかけてきた速水に手首を取られ、路地裏の暗がりへと連れ込まれてしまった。背中に壁、左右は速水の思っていたよりもがっしりとした両腕に挟まれ身動きが取れない。
「ねぇ、女王様? 俺があなたにあんな風に言われて諦めると思いましたか? それこそ軽く見られたものですね。俺が本気だって、これからたっぷりと思い知らせてあげますよ」
ちょうど受けの練習にもなりますよね、と男でも女でもイチコロな魅惑的な笑みを俺へと向けて。
至近距離で俺へと宣言してきた速水は、グッと精悍で整った顔を近づけてきたと気づいた時には、俺の唇はしっとりとした温かい何かに塞がれた。やめろと抗う前に唇の間を滑り込んできた舌が口の中を蹂躙する。
クチュクチュという音がやけに耳につく。密着した速水の体は熱く、彼のまとうパルファムと体臭の混じった香りが頭をクラクラさせる。
「ふっ、んっ」
飴玉をしゃぶるかのように俺の舌を丹念に舐る。呼吸が塞がれ、鼻から漏れたのは、情欲に染まった艶かしい吐息。
荒々しくも俺の唾液を削り取り、そして速水の唾液が注がれる。コクリ、と喉が上下すると、これまでのキスが嘘のように静かに合わさった唇が離れ、俺たちの間で唾液の銀糸が繋がって音もなく切れる。
ささやかで頼りない糸が切れた途端、俺は背中を壁に擦りつけたまま地面に座り込む。不本意だが腰と膝に力が入らない。速水の濃厚な口づけで俺の腰が砕けてしまったのだ。
「キスひとつで腰が抜けるなんて。可愛いですね、女王様」
「うっさい!」
「そうそう、この近くに俺の家があるんです。さすがに腰に力が入らないまま帰るなんてできないでしょ。少し休憩してからおうちに送りますよ」
「おい、ちょ、ま、待てっ!」
あろうことか速水は、生まれたての小鹿のように足がプルプルして立てない俺を横抱きにしてかかえあげる。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「だって、女王様てば腰砕けで立てないですよね。……それに、もう、我慢できないので」
と、速水は欲にけぶる視線を俺へと落とし、グッと俺の太ももに腰を押し付けてくる。熱く固く質量のあるソレが、チノパン越しにでもはっきりと分かるほど膨らんでいた。
速水の住むマンションの前で、俺は口も目もぱっかり開いたまま唖然としていた。ここまで姫抱っこという羞恥全開で連れられたことすら、もろもろ吹っ飛んでしまった。
「……これ、おまえの、家?」
「ええ、そうですけど」
それが? と、何をにっこにこで言ってんだよ!
どこの事務所に所属したら新人声優の所得でこんな億ションに住めるんだよ、と喚き散らしたい声が喉でぐっと詰まる。だって叫んだら、なにごとかと人が集まるだろう? 俺、今、速水に姫抱っこされたままなんだけど。
なにが楽しくて自分の恥を晒さなくてはならないのだ、と主張したい。
いや、きっと、速水の実家がここで、親がそれなりの地位にいるのだと思う。うん、それなら新人声優だろうが、こんな瀟洒としか言いようのないマンションに住んでいても問題ない。うんうん納得納得。
俺の内心での自問自答には気づかず、速水はスタスタとエントランスを通り抜け、何か小さなカメラに目を向けると、エレベーターホールに繋がる自動ドアがスーと開く。え、まさかの網膜認証?
そしてさもいつものことといった体で、エレベーターに乗り込むと、俺を抱きかかえたまま器用にボタンを押して、硬直する俺に再び微笑みかけると、またも唇を塞いできた。
「ふっ……んっ」
「ねぇ、女王様。もっと気持ちよくしてあげるから、口を開いて?」
冗談じゃない、こんないつ誰に見られるか分からない場所で応じるわけがないだろう。
ぐっと唇を固く閉じていると、トントンと尖った舌先が開けとノックしてくる。いやだ、と更に力を入れて引き絞って抵抗してみせたのだが、速水の片腕がするすると臀部へと滑っていき、パンツの上から俺の秘所に生地ごと指を押し込んできたのである。
「んーっ、んんっ、んーっ!」
やだやだと体を捻って抵抗するものの、速水がしっかりと拘束しているし、俺も不安定な体勢で力が入りきらないしで、なすすべもない。
だんだんと酸欠になってきて、頭がぼんやりして、苦しくてたまらず口を開いた途端、待ってましたとばかりに速水の舌が俺の口の中を自由に泳ぎだす。
ぐちぐちゅと唾液が攪拌する。それが俺の羞恥を更に高めていき、全身が熱く燃えるようだった。
溺れる。
深く、深く、速水の中へと。俺が速水に侵蝕されていく――
「っ、ぃ、やだっ!」
無意識に俺は速水の胸を突き飛ばす。当然ながら抱えられていた俺も弾かれ床に落ちる。床に尻をつき呆然としている速水から逃げるように、俺はふらつく足を叱咤してちょうど開いた扉をこじ開けるようにして飛び出す。
「加治さん!」
扉の隙間から速水の悲痛な声が聞こえたものの、俺はすぐ傍にあった非常口扉を乱暴に開け、体をふらつかせながら慌てて降りた。確実にエレベーターに乗った速水が先回りしてるだろうと思ったが、地上に降りた時には当たり前の日常が風景として流れていた。警戒していたのに肩透かしをくらった気分だ。
初めて速水と寝たときも感じていたことだが、あいつとのキスも体温も気持ちがよい。始めも終わりも圭介で終わらせようとしたのに、速水の存在が俺の決意を揺るがす。
何度も溺れちゃいけないと頭が警鐘を鳴らしている。だが、本能が速水の熱に溺れたいと縋る。
もう、絶対俺から触れることはないけども。
「……まだ、圭介が好きなんだよ……」
だから速水とはビジネス上での付き合い以外はしない。今日みたいに誘われても乗ったりしない。だから、不格好で惨めな女王様のことなんてさっさと忘れて、誰か他の人と……
「っ、なん、だ?」
ツキリ、と胸が痛む。
俺は服の上から胸を掴むと、痛みも速水のことも忘れようと考えながら、昼の街へと紛れ込んだ。
何度も何度も速水との記憶と消そうと努力した。
だがその度にあの夜の熱や吐息、視界を覆う狼の刺青が鮮明によみがえり、俺の胸はじわりと温かくなっていった。
本当は気づいていた。速水を他の人とは違う意味で意識しているのを。だけど、俺はまだ圭介との時間を無様に引きずっていた。
こんなどっちつかずの自分が大嫌いだ。
◆
『女王様、すまないが、もう一度同じところを、今度はもう少し感情を乗せてお願いできるかな』
「あ、はい。すみません」
『さっきのも憂いがあって良かったんだけどね。じゃあ頼むね』
「はい」
ミキサーからの声に俺は跳ねるように顔を上げ反応を返す。監督もディレクターもまだ笑顔でいてくれるが、すでに同じ場所を数回リテイクを食らっていた。まだ他にも収録は残ってるだろうし、時間も無限ではない。次こそは求められるように演じなくては。
ペーパーノイズが入らないように霧吹きで濡らした台本が音もなく歪む。こういった失態はここ数日、どこの収録現場でもやらかしているからだ。
事務所からもとうとうお灸をすえられた。このまま失敗を繰り返せば、仕事も干される可能性が高い、と。
速水と再会して、一緒に昼飯食って、それからヤツのマンションに連れ込まれそうになってから二週間。そろそろ例の収録予備日が近づいていた。
こんな揺れている感情のまま速水と会って、俺はまともに仕事ができるのだろうか。余計なことばかりが脳内を占めて、大事な仕事に影響を与えてしまっていた。
特に今日に限って失敗にへこんでしまう。なぜなら。
「今日は調子が悪いみたいだな」
「……圭介」
長年体の関係があり恋人だと思っていたのに、先日若手の女性声優と結婚した白河圭介が、苦い微笑を浮かべて立っていた。なぜか口の端を青紫色に染めて。当然ながら周囲のスタッフや共演者たちから心配の声をかけられていたが、本人曰く「狼にパンチされたんだ」と冗談を言って周りを湧かせていた。
今日、収録が一緒なのは分かっていたものの、正直ふたりで話すのは落ち着かない気分になる。
「ちょっと早いけど、一旦昼休憩入れてから、リテイクのところからやり直すってさ。久々に一緒にメシ食わないか?」
「あ……いや、俺は……」
今更に自分を捨てた男とは食事なんて取れない。それに、ここ最近の失敗続きで食欲が全く湧かない。
「話があるんだ。だから来てくれ」
囁く声に「へ?」と間抜けな声を出した俺の腕を引き、圭介先導でブースを出る。周囲を見渡すと、ぼんやりしすぎて気付かなかったが、スタッフだけでなく他のキャストたちの姿もなかった。
圭介と速水は同じプロダクション所属の先輩と後輩の関係にある。
俺は圭介に腕を引かれながら、強引なのはプロダクション仕込みなのだろうか、と遠い目をしながらドナドナされていると。
「ここ入ろうぜ。前に教えてもらって来たんだけど、瑤も絶対気にいると思うから」
ガラガラと古びた引き戸を開ける圭介。いや、ここが美味しいのは知ってる。この間速水が俺を連れてきてくれた場所だったから。
いらっしゃいませ、と女将は明るい声で俺たちを迎え入れたのだが、俺を引っ張る圭介の顔を見た途端「え」と何とも言いようがない顔を一瞬したものの、そこは長年客商売をしている技で、お好きなところをどうぞ、と案内してくれた。
まだ昼前なのもあり、テーブルはどこも空いていて、俺と圭介は一番端のテーブルに向かい合って座る。
圭介は鯖味噌定食を、俺は赤魚の一夜干し定食を注文し、店員が立ち去るのを確かめると「話って?」と切り出す。
お冷をクピリクピリと飲みながら、圭介が言葉を発するのを待っている。まだ圭介と別れてから半年も経っていないのに、心は妙に凪いでいる。
原因は分かっているんだ。速水とのことで頭が埋め尽くされているから。
先日、強引に路地裏で速水にキスをされ、そこから彼の家の傍まで行ったあと、俺の脳内を占めているのは圭介と別れた悲しみよりも、速水の獰猛な獣を思わせる欲情に滲んだ目。狩猟犬のような青い炎をまとった身を焦がしそうな熱い瞳。
そういや犬ってハスキーとかは狼が祖先とか言ってたな、と思い出させるほどの、獲物を見据える捕獲者の瞳に、逃げ帰った俺は発情し、しこたま自室で自慰をしてしまった。なんとも情けない話だが、あの時脳裏を埋め尽くしていたのは、速水との一夜の情事だった。
「瑤?」
「え?」
圭介からの問いかけに顔をあげた途端、なぜか元恋人の頬が赤く色づく。いったい何なんだ。と、いうか。
「あのさ、さっきから聞こう聞こうと思ったんだけど、その顔の傷どうしたんだ?」
まさか新婚そうそう夫婦喧嘩というのはないだろうなと思いつつも、腫れは引いてるものの唇の端にある青紫のアザは、見ているこっちのほうが痛々しい。
圭介の言った「狼」という単語が、俺の脳内にある人物を浮かび上がらせたからだ。
「あ、ああ。実は俺からの話にも関係してるんだが、瑤、お前速水正樹って新人を知ってるか?」
鼓動がドクリと跳ねる。
「あ……うん、他の仕事で共演してるけど……。それが圭介のソレとどういった関係が」
「んー、どうしたもんか……」
あえて深い接触はないと前置きしたにもかかわらず、圭介はどうにも言い淀んでいる。こいつは意外と語彙力のないヤツだった。
言いあぐねる圭介の言葉を待っていると、おまたせしました、の言葉と共に注文した食事がそれぞれの前に置かれる。今日の味噌汁は豆腐とネギのシンプルなもの。小鉢はひじきの白和えで美味しそうだ。
「あのさ、まだるっこしいのは嫌いだから、明け透けに言わせてもらうけど、お前、速水と寝ただろう」
「っ、ごフッ!」
味噌汁飲んでる時になんてことを聞いてくるのだ!
びっくりして気管支に入った味噌汁を体が外に排出しようと、ゴホゴホと噎せる俺に、やっぱりと圭介がご飯をひと口頬張る。まだ唇の傷が痛むのか、顔をしかめながらも白米を噛み締めている。
「なるほろ、なるほろ」
「なっ、なにを、ごほっ、いきなりっ」
実は、とご飯を咀嚼しながら圭介が話してくれたのは、速水が圭介に対して暴挙に出た経緯だった。
先日速水と圭介が同じ現場だったという。なんでもネット小説のアニメ化だそうで、圭介の所属する声優が多く出演していたが、それでも速水はかなり目立った存在と話す。更にいえば事務所イチオシ声優らしくて、人気声優である圭介とは何度かアフレコ現場で顔を合わせたこともあるようだ。
そこで、なぜかずっと普段は温厚な速水から剣呑な視線を感じたらしい。アフレコ自体はつつがなく終了したものの、理由もわからないし先輩として指導しようと収録後速水を呼び出し、ふたりで近くの公園で話すことにした。そこで出会い頭一発殴られたとのこと。
「……は?」
「あれはさすがに俺もびっくりよ」
あのバカ、先輩声優殴るなんてどうかしている。
さすがに意味もなく睨まれ殴られたことに激昂し、圭介も反撃にでたそうだが。というか、お前武闘派じゃないだろう。結局、速水から顔と腹の二発を食らわされ、その速水が放った言葉は、俺が圭介の結婚式の夜ずっと圭介の名を呼びながら泣き続けていたこと。あんなに優しい人を自分都合で傷つけたのが許せないと言ったそうだ。……もうなにしてくれちゃってんの、あのバカ。
すぐに圭介は速水が俺に好意を寄せて、尚且つ体の関係があったと気づいたようだ。
「確かに俺にも悪い部分はあったと思うんだよな。ちょうど声優としてスランプになってたところに男同士の恋愛の話がきて、お前を巻き込んだって。でもお前も悪いんだぞ。お前んナカ、めっちゃ気持ちよくてノンケだった俺がハマったくらいだし」
「ちょ、おまっ、こんな所でっ」
明け透けにもほどがある。誰が耳をそばだてるか分からない場所で、人を巻き込んで性癖話をするな!
というか、俺を捨てて結婚したことについての反省はないのかと呆れてしまう。良くも悪くも自由なのだ、圭介は。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。客も多くなってるし、みんなメシに夢中になっててこっちにまで意識向いてないようだし」
窘めた俺に圭介は目線で周囲を見渡し告げる。確かに昼時の食堂は人の声が混じり合って聞き取りにくい上に、短い休憩時間を食事だけで費やす人はほぼおらず、かっ込むように食べている奴らが多い。
「そ、それでも、人のセクシュアル話を口にするのはよせ」
唇を尖らせ、不貞腐れながら白和えを口に運ぶ。お、ひじきのは初めて食べたけど、これはこれで旨いな。
「ごめんごめん。まあ、速水の話に戻るんだけど。あいつ、公式に知られてないけど、うちのプロダクション社長の息子なんだと。で、これ以上お前を悲しませるのなら、父親を使って俺の仕事を奪うとか言い出してさ」
「え?」
「酷くね? 俺、新婚さんなのに、養う術奪うとか言い切られちゃうし。そもそも、嫁紹介したの速水だってのに」
「は?」
つらつらと食事をしながら話す圭介の爆弾発言の連続に、ほぐした赤魚の身が箸からポロリと皿に落ちたまま硬直する。
速水が圭介の所属するプロダクションの社長子息?
圭介との別れの原因が速水?
「長年お前が好きで、同じ業界に入って、お前と共演できるまで登りつめて、しかもお前抱いたとか、執着攻めって怖いわぁ」
「……」
「まあ、嫁にはお前と関係あったって話したら『リアルBLキタコレー!』って大喜びされたけど……って、おーい」
圭介が呆然としている俺の前で手を振るけども、もう情報過多すぎて脳内フリーズしたまま反応が返せない。
「つまり、俺がお前から離れたのは、直接手を下してないものの速水が原因。理由は、お前を好きすぎによる執着からくるもの。そのあたりのちゃんとした理由は、本人から聞くといいぞ」
そう言って圭介は、痛みに顔をしかめながらも、大きな口を開けて白米を口に入れる。
俺は小さく頷き、機械のように食事を続けるしかできなかった。
頭の中は目の前の元恋人ではなく速水のことでいっぱいだった。圭介の言葉を信じるのなら、あの日バーで会ったのも偶然ではないのかもしれない。
だけどホテルに行って抱かれる選択をしたのは俺だ。一夜限りの相手だと分かってたから、盛大に泣きながら圭介を思って何度も名前を呼んだ。
でも、体は速水があたえる熱にドロドロに蕩かされて、最後のあたりは記憶が途切れるほどに速水を求め続けていた。きっとその時には……多分。
時折圭介の軽い口調の話に頷きながらも食事を続ける。ほとんど空になった皿を眺めながら、次はアイツと一緒に鯖の味噌煮を食べようかな、と思い馳せていた。
胸はモヤモヤするものの、どこかスッキリした気分で、なんとか収録を終えた俺は速水の住むマンションへと向かうが、ヤツの部屋がどこにあるか分からず、エントランスのソファに腰を下ろしたまま数時間。そもそもどえらいセキュリティがあるから、簡単に入れないし。
何度かコンシェルジュの人に不審げな視線を投げかけられたものの、住人の速水と待ち合わせしていると言えば、怪訝なようすは崩さないものの納得してくれた。最後あたりには冷えるからと熱いコーヒーまで提供してくれた。
空がすっかり紺色に染まり、街灯の明かりがポツポツと周囲に瞬く頃、エントランスで立ち尽くして驚愕する速水の姿を認めた。
「加治……さん?」
艶があって低く響く声がたゆたって俺の耳に届く。振り返らずとも分かる。どこか戸惑いを含んだ速水の声だ。
「よう」
「……どう、して」
振り返り、なんでもないように片手を挙げて反応する。
そりゃ驚くのは当然だ。あの日、逃げた俺が速水の前に普通に現れたのだから。
「圭介から全部話は聞いた。だから、お前に会いに来たんだ」
淡々と告げた言葉に、速水はヒクリと肩を揺らす。その目はどこかたよりなさげで、彼が自分よりも年下だというのを思い出させた。
「……ここで話すか?」
「いえ、あなたは嫌かもしれませんが、俺の部屋で……」
「分かった」
こわばった腰を伸ばして速水と共にエレベーターに乗り込む。あの時は恥ずかしい格好で抱き上げられたままキスされて意識が朦朧として気付かなかったけど、こげ茶と薄茶の壁紙は落ち着いた雰囲気で、微かにウッディなルームフレグランスが香ってくる。同じエレベーターでも、俺の住むマンションのソレとは雲泥の差だ。
でも、ここで速水とグチャグチャなキスをしたのを思い出してしまい、そっと唇を指でなぞる。
圭介とは一緒に住んでいた時期もあり、キスもセックスもそれなりに交わしていた。にも関わらず、俺の体も唇もすっかり速水の記憶に上書きされていて、隣から香る速水の匂いを感じた途端、全身が熱くなり腰が期待にズグリと疼く。
きっと速水の部屋に入ったら、俺は速水に抱かれるだろう。
俺はそれを無意識に期待して、ヤツの部屋に行くと告げた。
嫌悪感は全くなく、むしろ初めて抱かれた時を思い出して、体は熱を孕む。
『泣かないで』
あの時、速水は何度も滔々と涙する俺の目に、額に、唇にとキスの雨を降らし、虚しい心を埋めるようにナカを奥深くまで政略していた。
あの時点は体は速水に全てを塗り替えられていたのに、心だけが圭介のことでいっぱいだった俺を、速水は自分へと向くようにと行動したのだろう。
翻弄された俺は何度も自問自答した。圭介に傷つけられたから、速水を圭介の代わりにしようとして、惹かれたのでは、と。
だがすぐに、あんな強烈な印象を残した男が圭介の代わりになるわけがない、と。
それなら俺は速水が好きなのかと問えば、心はまだ圭介との思い出に比重があり、長年の恋慕を打ち消せるはずもなかった。だけど速水のことを思えば、心臓は早く脈を打ち、彼の熱を体が求める。
圭介の時もそうだったが、流され体質の自分を叱りつつ、俺は自分が本当にどっちを求めているのか考え続けた。
結局、ぼんやりとしている時でも脳裏に浮かぶのは、さまざまな表情を俺に見せた、たった数回しか会っていない速水だった――
まさか、こんな短期間で長年付き合ってた男の影よりも鮮烈な目の前の男に染められるとは。
「俺、お前が好きみたいだ。速水」
「っ!」
速水の服の裾を指先で掴んで、床を見つめたまま呟くように告白する。
正直、こんな年齢になっても好きだと言うのは恥ずかしい。むしろ演技ではなく、素で告白するのが初めてなのだ。
顔が熱くて、真っ赤になってるに違いない。
「あ、あの……んんぅっ!」
返事がなくて顔を上げたら、いきなり目の前が暗くなって息が塞がれる。噛み付かれるようにキスをされてると気づいたのは、歯列を割りヌルリと入り込んできた舌が俺の舌を扱くように絡みついてきたから。相手は言わずもがな速水である。
「んっ……ふ、ぁ……ちょ……と……っ、んんっ」
グチュグチャと唾液が捏ねられる音を遮るように、エレベーターが目的階に到着したと軽やかな音色で知らせてくる。速水は俺の腰を引き寄せ、それでも深く甘やかな口づけを止めるつもりはなく、引きずられるようにして小さな箱から出た。
速水の部屋に着くまでの十数メートルの間も、俺たちは互いを求めるようにキスを続けていた。こんなに激しく誰かを求めたのは初めてだ。
そして、こんなにも誰かに対して発情したのも初めてだった。
唾液を交わすキスをしながら、速水は手探りで鍵を出して玄関ドアを開く。俺を抱き込んだまま中に入り、そのままドアに俺の背中を押し付け密着したまま、目眩がしそうなキスを再開させた。
「んぅ……ちょ、んっ……ま、って……ふ、……んんっ」
速水の大きな手が俺の後頭部に回り、髪の中をまさぐりながら息を付かせぬキスを繰り返す。角度が変わるときに空いた隙間から入る空気を求めるようにして、俺はハフハフと呼吸をして訴えるも、速水は獰猛にキスをしながら俺の服の裾から手を差し込んで肌をねっとりと這わせる。
他人の手が俺の体をまさぐる。ただそれだけなのに、俺の官能が掴まれて引きずり出される。気持ちいい。だけど足りなくて、自然と上がった腕で速水の首を引き寄せ、もっとと腰をヤツの昂ぶるソコに擦りつけてはしたなくねだる。
「腰、揺れてますね。気持ちいいですか?」
「たりない……もっと、欲しい……」
「仰せのままに、女王様」
速水はクスリと微笑む。壮絶なほどの色気をまとい、欲情にけぶる瞳を見ただけで、俺の中心が一層膨らむ。ああ……俺はこの大型犬のような皮をかぶった獣に食われるのか。
恐怖はなく、歓喜だけが俺を凄く満たしていく。
与えていたばかりの俺が初めて求められる喜び。それで食い尽くされて骨しか残らなくても本望だ。
俺は速水に横抱きにされ、長い廊下をぼんやりと眺めながら、そんな風に考えていた。
億ションだと外観から分かっていたが、寝室も驚くほどに広い。
シックな内装の部屋の中心に、キングサイズのベッドが存在を主張している。他にはノートパソコンが置かれた小さなテーブルと椅子、豪華なオーディオラックがある、至ってシンプルな部屋だった。
ベッドに俺をゆっくりと降ろす速水。背中を包むベッドの柔らかさに、ほうと吐息がこぼれる。
「瑤さん」
ギシ、とスプリングの軋む音がし、速水が俺に覆いかぶさり見下ろしてくる。その双眸は今にも喉元に食らいつかんばかりにギラギラと煌き、喉が期待にコクリと鳴った。
もう俺も我慢の限界をとっくに超えていたからだ。
「速水……」
「苗字じゃなくて、名前で呼んでくれますか。正樹です」
「まさき……」
精悍な頬に手を伸ばして、ソロリと撫でながら俺だけに獣性を見せる男の名を呼ぶ。呼応するように正樹から「瑤さん」と囁きが落ち、俺は静かに目を閉じた。
呼び合うように唇が重なる。舌が唇を割って入ってきて、歯茎をなぞる。くすぐったさに肩を竦めると、グッと正樹の舌が深く押し込まれる。まるで性交のような口づけに、背筋に快感が走り、喉を仰け反らせてしまった。こんなにエロいキスなど経験したことがない。
「イっちゃいました? かわいい」
「ばか……」
「馬鹿ですよ。あなた限定でね」
頬にチュッと唇を落とされ、俺の顔は恥ずかしさに赤くなる。こいつ、プライベートで臆面もなく甘いセリフが吐けるな。
そう言うと、鎖骨にキスをしていた正樹の顔がふと上がって。
「十五年の想いが叶うんです。馬鹿にならなくてどうするって言うんですか」
甘く笑み崩れた正樹の顔に、俺は「十五年?」と呟いていた。
俺の声優デビュー作は、社会現象にもなった某RPGゲームの中ボス役だった。ちなみに、少し前に現在の事務所に入り、デビューをしていた圭介は主役の勇者役。あいつはそれをきっかけに一気にスターダムへと駆け上っていった。あの頃は親友の飛躍に胸がざわついた。羨望や嫉妬を圭介に感じていた。……今となっては事務所の力だろうな、とは思っているけども。
ちなみに俺の役名は『魔王の配下2』。中盤で消えるだけの雑魚キャラだったが、なぜかイケメン魔族だったからか、ユーザーにそれなりに人気のあったキャラクターだった。二次創作の同人誌で、俺の担当したキャラが魔物たちにモブレされて孕ませられるといったのがあるのを知った時、軽くめまいがしたのも懐かしい思い出だ。
「瑤さん、あのゲームの完成パーティに出席されてましたよね」
「あ、ああ……、圭介に誘われて」
一応、俺も出演者だから招待状はもらっていた。しかし、いわゆる『モブ』扱いの俺が参加するのは癪で、不参加に丸をつけてたのを、圭介が強引に俺をパーティに引っぱり出したのだ。
「俺もあのパーティに出席してたんです。白河さんの所属事務所の社長、俺の父なんで」
「知ってる……圭介に聞いた」
スルスルと会話をしながら正樹の唇が下へと降りていき、いつの間にか開かれたシャツの胸元にある飾りをチュッと吸い付く。
「ん、ぁっ」
直截的な刺激を受け、俺の体はビクリと跳ねる。吸われた乳首は濡れた舌にコロコロと転がされ、反対の方も指の腹で刺激に勃ちあがる。
「や、っ、そ、れ……きも、ちぃ……あぁ、んっ!」
胸を正樹に押し付けるように反らして快感に喘いでいると、脇を滑る手が流れるように臀部へと行き、そしてあわいの奥で震える蕾へと指が伸びてくる。
「だめ、だっ! そこ、きたな……ひぅっ」
「瑤さんの体はどこも綺麗ですよ。痛くないように慣らしますから、もうちょっと力を抜いてくださいね」
「ひ、う、んんっ!」
引き絞った中心を解くように、正樹の指が周囲をクルクルと撫でる。あの時の正樹の長大な楔を思い出した体は、丹念に解していく快感に中心を綻ばせていく。
ツプリ、と指が一本入ってくる。異物感よりも指一本分でも空洞が埋められた歓喜に、自然と襞が中へと導くように蠢く。
「……はぁ……、瑤さんのナカ、俺の指を美味しそうに舐めしゃぶって、めちゃめちゃエロいです……」
「あっ、あ、あんっ」
「入口はキュウキュウと俺の指を噛んでて、ナカはトロトロになってて、俺の指をドンドン奥に飲み込んでいってる。ね、分かります?」
「ゃぁ……んっ! あ、ぁ、いわなっ……んぅ」
時折乳首をカリと噛んで愛撫をして、どこからか取り出したのか、俺のナカをローションを足しながら長い指を増やしていく。正樹は意地悪に一番いいところを外して、ナカをグチグチと押し広げる。
やだ。足りない。もっと太くて、熱いモノに貫かれたい。
正樹は俺を傷つけないようにしてくれてるけど、俺はもう限界だった。
「まさ……きぃ……も、きて……、おまえが……ほしぃ」
「本当に? キツかったら、絶対言ってね。瑤さん、割と我慢して何も言わないから」
そうかな、と荒い息を整えながら首を傾げる。そんな不思議そうな顔をする俺の額に軽くキスをした正樹は、着ていた服をバサバサと脱いでいく。意外と豪快な脱ぎ方をするな。呆然と眺めていると、今度は中途半端な俺の服を脱がせ、床に散在する正樹の服の上へと重なる。
全裸の正樹はどこにも無駄なものが一切なかった。薄く上気した左胸に形骸化した狼。獲物に食らいつくように口を開き、俺を食べ尽くしてしまいそう。
しなやかな筋肉をまとった下半身には、そそり立ち先端から雫を溢れさせ、まるで餌を前にし涎を垂らす犬のようだ。
あまりにも立派な正樹のソレを見た俺は、コクリと期待に唾を飲み込む。
足の間に陣取った正樹は俺の足を大きく拡げ、本当に大丈夫? と気遣う質問をしてくる。あれだけ強引な男が、こんな時には俺を大事にしてくれる。
「正樹……はやく。慰めのセックスじゃなく、恋人のセックス……しよ?」
俺は両腕を伸ばし、正樹の首を抱きしめると、触れるだけの口づけをした。
「愛してますよ、俺だけの女王様」
その言葉と共に正樹の切っ先が俺の蕾をこじ開け、グプリと先端を沈めていった。
圧迫感にハクリと息が止まり、喉を反らして熱に耐える。比べちゃいけないんだろうけど、圭介のモノよりも太く、奥の奥まで隘路を割って挿ってくる。慎重に俺のナカをかき分け、奥の行き止まりまで辿り着いた途端、俺の先端から白濁が迸った。
「ご、ごめ……」
「どうして謝るんですか。感じてくれて嬉しいですよ」
にっこり微笑んで、正樹が「動きますよ」と宣言し、ゆるゆると腰を動かし始める。
襞が正樹のモノを絡めているせいか、正樹が腰を引く度に内蔵が引きずり出される感覚に全身がわななく。そして、今度は奥まで突くと、たまらず声が溢れ出る。
汗を散らせ、無心で俺のナカを蹂躙する正樹。隘路を開く熱にひたすら甘い声で喘ぐ俺。
淫靡な匂いと雰囲気に支配された寝室が、俺たちの楽園となる。
「すき……まさ、き……すきぃ」
「愛してる。俺の、女王様! あなただけが俺の唯一です!」
ああ、幸せだ。
ただただ一直線に、十五年もの時間をかけて俺のことを想い続けてくれた正樹。
こんなに真っ直ぐに想いをぶつけてくれた男を、どうして嫌いになれない。
広い寝室は、俺と正樹の呼吸音と、湿った肌がぶつかり合う淫靡な音。ふしだらで、本能的な空間なのに、俺たちは幸せに微笑み合う。
何度もナカに正樹の熱を注がれ、俺も何度も吐き出して。
互いの匂いを数多に染み付け、キスを交わしてく。
それは偶然にも、俺と正樹が共演する魔王と勇者の愛交のようで。
「愛してる。俺の勇者」
『はい、オーケーです。女王様の受け声、絶対ユーザーさんが悶えると思いますよ!』
ブースから高揚した賛辞の言葉に、俺はありがとうございますと言って応える。
「お疲れ様です。共演できて楽しかったです」
隣から聞こえる正樹の声。
「ああ、ありがとう」
俺も楽しかった、とブースには聞こえない音量で囁くと、正樹は嬉しそうに破顔してくれた。
お疲れ様でした、と正樹がおひやのグラスを差し向けてくるので、俺も同じようにグラスを掲げカチンと合わせる。
そのタイミングでそれぞれの前に鯖味噌定食の膳が置かれ、ふわりと味噌の香ばしい香りが漂い出す。
「お、うまそう」
「冷める前に食べちゃいましょうか」
「そうだな」
正樹がにこやかに割り箸をパキンと割って手を合わせる。俺も手を合わせて「いただきます」とつぶやき、しじみの味噌汁が入った椀に口を寄せた。
出汁の効いた汁が喉を通り、充足感に思わずため息を漏らす。堪能している俺の前ではパクパクと鯖味噌とご飯を交互に口の中に収めている正樹の姿。恋人になってから何度か食事を共にしているが、彼が予想以上に健啖なのに驚くばかりだ。
「本当にうまそうに食うよな、お前」
「それは当然でしょ? だって、好きな人と一緒に食べるご飯は最高にうまいですから」
「っ!」
ニコニコと断言する正樹に瞠目し、俺は恥ずかしさから椀へと顔を俯かせたまま「ばか」と小さく呟いた。
その後、単発だった勇者と魔王はシリーズとなり、ツンな魔王がワンコ勇者にトロトロに蕩かされる濡れ場シーンが人気となり、俺と正樹の共演が一気に増えた。
そして、気づけば俺はマンションを引き上げ、正樹と同棲するようになっている話については、また別の話。
END
ちらりととなりを見ると、チープな内装に目を瞬かせている美丈夫と目が合う。
(あぁ……アイツよりも背が高いな)
こんな所にもかつての恋心を思い出してしまい、胸がズグンと痛みだす。
先に風呂使うから、とそっけなく言い放ち、これから自分を抱くだろう男を置いて浴室に足を向けた。
一緒に入る選択肢は欠片も浮かばなかった。
なぜなら、俺は恋人じゃない男に抱かれようとしているのだから。
ほぼ会話らしい会話をせずとも、セックスはできるのだな、と今更ながらに実感をする。
「……あっ、あついぃ……っ」
ギシリ、と鈍い軋む音色と振動が背中に伝わると、腹の中を満たす粘り気を帯びた熱が深く隘路を押し開く。その質量に喉を反らして熱い吐息と共に快感の声が溢れ出る。
ここに至るまでに何度も、頭の中で「違う」と、数え切れないほどの項目が積もっていく。
背の高さも。肌から香る匂いも。触れ方も。唇の熱さも。愛撫する順番も。吐き出される吐息の温度も。それから抱きしめる強さも。
違う、そうじゃない、と頭は拒絶するのに、男が自分を大切に扱ってくれるものだから、渇望していた体は素直に男を受け入れ、その熱に俺の体も反応していく。
「あっ……、も、っと、おくぅ……っ」
もっと、とせがむように足を俺の中に熱を埋め込む男の腰に絡めグッと引き寄せると、男は体を倒して俺をぎゅっと抱きしめる。左上腕から左胸にかけて狼を模したトライバルタトゥーが視界いっぱいに広がる。俺の周りには刺青を入れる人間はいなかったけど、熱い肌に浮かぶ狼は俺を守るように口づけてきて、妙に安心感を与えてくれる。
汗の匂いに混じって香るパルファムが、いまごろ結婚式を終えて新妻と初夜を迎えてるだろう元恋人を思い出させ、肉洞を隙間なく満たされる感覚と真逆に、心はどんどんとひび割れたソコから溢れだし、虚しくなっていくのを感じた。
「泣かないで」
「あっ、あぁ、あん……っ、そこっ、やぁ……っ!」
みちみちと肉の輪を拡げ、男の陰毛が臀部の肌を擦りつける。腰を両手で掴まれ、叩きつけるように抽挿されながら、男の先端は禁忌の領域の入口を確実にこじ開けようとする。
「だ、めぇ……、そ、こ、も、はいらな……あぁっ!」
まったく力の入らない腕をつっぱって抵抗するものの、男は俺の腰をグッと掴んで引き寄せ、ナカで存在を主張する熱の塊で禁断の領域へと無断で侵入してきたのである。途端、頭が真っ白に染まり、目の前で火花が散る。これまで経験したことのない壮絶なる快感に、頭も体も追いつかない。
「ひっ……ぐっ」
あまりの衝撃に喉を弓のように反らし、瞠目したまま口をはくりと開く。いままで経験したことのない強すぎる刺激に、眦から涙がひとすじ静かに流れていった。
「大丈夫。もっと気持ちよくなって、嫌なこと全部忘れよう?」
肌を打擲する音と、互いの体液が混じる水音と、熱い吐息の合間に、男の艶ある声が宥めるように囁いてくる。
あんまりにも優しくて、俺を愛してると何度も鼓膜を震わせ、俺は縋るように男の首に腕を回して、滂沱しながらひたすらに喘ぎ続けた――
馴染みのバーで初めて出会った男と、適当に入ったホテルで爛れたセックスをする。
今日一日の事を塗り潰すかのようなドロドロで、獣のような交わり。互いの唾液を交換して、男の体液を大量に注がれ、俺の先端からトロトロと白濁を流し続ける。
清潔感に溢れていたシーツはグチャグチャのベタベタになっていて、俺と男は情交の痕跡が残る波間に荒い息で抱き合う。喘ぎすぎて喉は痛いが、充足感と爽快感に深い息がこぼれる。
「水……いりますか?」
汗で濡れた横髪を指で梳きながら、男がそう聞いてくるのを、小さく頷いて応える。落ち着いた状況で聞くと、結構イイ声をしている。色気があって、深みのある声が眠気を誘う。
キシリ、とスプリングが弾み男が全裸で小型冷蔵庫へと向かうのを、セックス後の疲れで閉じそうになる目蓋の間からぼんやりと眺め、結局男の名前を訊かなかったな、と詮無きことが浮かんだものの、眠気に負けて男が戻ってくる前に意識は深く沈んでいった。
◆
天国と地獄を同時に味わった日から数日後。仕事のためにとある録音スタジオにやってきていた。
「あ、あー。……うん、問題ないみたいだな」
俺──加治瑤は、どこにも掠れのない声に安堵し、休憩室のテーブルに置いた山のような付箋で分厚くなった本を手に取る。しっとりと濡れたB5サイズの厚口上質紙には『魔王は勇者の愛に溺れる』とゴシック体で綴られ、その上には『オリジナルBLドラマCD』と小さく書いてある。
濡れているのはワザとだ。録音マイクにペーパーノイズが入らなようにするための策。俺は先輩からこの方法を教えてもらった。今はここまでする人は少ないらしいけども。癖はそう簡単に変えられない。
俺は芸歴十五年の中堅の声優だ。テレビのアニメにもそこそこ重要キャラを担当することも増えつつあったが、主な仕事は昔からソーシャルネットワークゲームのキャラクターや、それなりに売れ行きがあるBLドラマCDの声を充てるのが多かった。
ただ、割と高圧的な攻めの役柄が多かったせいか、見た目の華奢な容姿と名前の『カジヨウ』を縮めて、いつしかファンや関係者から『女王様』と呼ばれるようになったのは釈然としない。男で女王様とかないだろう、普通。むしろ本名より音数多いのだが!
……それはそれとして、今回もそのBLドラマの収録なんだが、いつも専門用語でいう攻めの声を担当するのが常だった。だが、この仕事に関しては真逆の受け。役は魔王という、特殊な立場なのだ。それで相手が勇者という、RPGにおけるファンタジー世界においては、ありえないカップリングらしいが、最近のBL界隈では、こういった敵同士のあれやこれが人気のようだ。
「……これまで攻め声と言われてた俺が受け……。素が出たらどうしたらいいんだ」
思わず頭を抱えて呟きを吐露する。
この仕事を受けた時は、先日結婚した元恋人との別れを引きずっていて、詳細を確かめないまま快諾してしまったのだ。事務所から何度も確認の連絡が来たものの、長く患っていた失恋の痛みのせいで正直何も考えてなかった。
後悔先に立たずとはこのことだ。
「……やるしか……ないか」
ここで問答していてもどうしようもない。一度引き受けた仕事を、自分都合で辞めるなんてできないし、そんなことしようものなら、次の仕事がなくなってしまう可能性だってある。
この業界は中堅だろうがいつでも綱渡りなのだから。
俺は台本をぎゅっと握り締め、椅子から立ち上がると、収録ブースへと向かう。
あれだけの決意を胸に込めたものの、この数十分後には、役どころか収録すらも逃げたいなどと思うよしももなかったのである。
「はじめまして、加治さん。勇者役の速水正樹です。本日はよろしくおねがいします」
「……」
長めの黒髪をスタイリッシュにまとめ、カットソーにチノパンとハイカットのブーツという音の出なさそうな服装は、声優として特に問題はない。むしろ好印象とも言える。が。
「速水君は、最近頭角を出してる子でね、きっと加治君と共演させたら、成長できると思うんだよね。だからよろしく頼むよ、女王様」
「は……、はぁ」
「色々ご教授お願いしますね、加治さん」
企画プロデューサーと速水という初対面……ではない男に挟まれ、俺は頬を引きつらせて笑うことしかできない。
速水は、元恋人で同業者の白河圭介が女性と結婚式を挙げたその夜、バーでデロンデロンに酔った俺と、ホテルの一室でドロッドロのグッチャグチャなセックスをした相手だったからだ。
しかも翌朝、爆睡してるのを放置して、金だけを置いて逃げ帰ってしまったのである。つまりはヤリ逃げ。三十路近いいい大人がヤリ逃げ……
さっき「はじめまして」とのたまってくれたけど、こいつ、絶対あの時の相手が俺だって気づいてる。大型犬のように人当たりの良さそうな顔をしておいて、視線があの夜を思い出させるような熱を感じるからだ。
どうする。このまま知らぬ存ぜぬでスルーしてしまうか。……うーん。
「速水君……だっけ。はじめまして、よろしく頼むね。俺もまだまだ勉強の途中だから、あんまり役に立たないと思うけど、何か分からないことがあれば、」
「いいえ! 加冶さんに色々教えてもらいたいです! ええ、是非とも」
こちらも初対面を演じつつ、俺よりも立派な先輩がたに教えを乞うほうがいいと暗に匂わせ告げる。ここまで言えば、向こうもあんまり俺が関わりたくないと察知してくれるだろう。というか、察知してくれないと困る。にもかかわらず俺の言葉を遮ってまで明るい声をかぶせてきた。
頼むから察してくれ、と念を送ってたのも通じず。いや、もしかしてスルーされた? むしろ断りづらい雰囲気に持ち込もうとしている?
「親睦を深めるためにも、今日の収録が終わったら食事に行きましょう? ね?」
「お……おぉ?」
それはそれは、女性ならば腰砕けになるほどの魅力的な笑顔でのたまってくれたのだ。プロデューサーからは「うらやましい」とつぶやきが聞こえたけども、かわれるものならかわりたい! 頼むから、プロデューサー権限でそいつを連れて行ってくれ!
「女王様と一緒にご飯! あー、楽しみです!」
「……ぐぅ」
「お楽しみは後でね。それを糧に収録頑張って!」
呪いに近い祈りをプロデューサーに向けたものの、俺は颯爽と強引に速水によって、ブースへと引きずられてしまったのである。プロデューサーはひらひらと手を振って送り出してくれた。
くっそう! 若いイケメン滅んじまえ!
最悪だ、と口にしなかったのは、俺にもなけなしのプライドがあるからだ。
『女王様、もう一回同じとこ頼むよ』
「す、すみませんっ」
収録は……もうボロボロだった。
そもそも攻めキャラメインだった俺が受けキャラをやっているのだ。しかも魔王。傲岸不遜で俺様なキャラである魔王は、演じるには演じやすかった。が、いざ速水の勇者との濡れ場にはいった途端、それまで好調だった魔王というキャラクターにブレが出てしまったのだ。
マウントを取る雰囲気を出すのは得意だが、取られる演技になれないのもあり、どうしたらいいのか分からない。
というのも。
『っ、な、なにをする!』
『なに……って、キスだよ? まあ、キスで終わらせるつもりもないし、アナタをもっとドロドロに蕩かせて、俺の精液でお腹膨らむまで種付けするけども』
『バッ、バカか、お前。どこの世界に魔王を孕ませようとする勇者がいるんだ!』
『ここに。ほら、舌出してよ。もっとちゅうしてあげる』
アニメなら画面を観ながらの作業が多いため、そちらに集中できるのだが、いかんせん音声だけの収録は息を合わせるために相手との視線が交わりやすい。速水の視線が俺の体をねっとりと這い、視姦されているような気分になる。
同時に速水に抱かれた日の記憶が蘇ってしまい、俺らしくなく何度もリテイクを出すはめになったのは言うまでもない。先輩の俺がリテイク多いとか、泣きそうだ。
『女王様、初の受けだからうまく役が掴みきれてないのかな? まだ予備日に余裕があるから、それまでには頼むよ?』
「……すみません」
『まあ、慣れない立ち位置だと、仕方ないよ。……結構、女王様には期待してたんだけどね』
本人としてはマイクを通らないほどの小声で言ったつもりなのだろう。しっかり俺の耳に届いた呟きに、胸がギュッと締め付けられる。
「本当にすみません。次はちゃんとキャラを掴んでくるので!」
十五年声優という仕事を続けてきて、こんな風に落胆な言葉を突きつけられたのは、ここ数年なかっただけに胸が痛い。
普段の俺とは違いぎこちない演技しかできず、ブースから聞こえてくる監督の言葉を合図に、収録はそうそうに終わりを迎えた。
予備日に改めて収録をすると告げられ、がっくりと肩を落とした俺はスタジオを後にした。いつもなら予備日は余裕持って収録するから、基本はお休みだったのに……ついてない。
複数掛け持ちをしているマネージャーには電話で詳細を伝えると「加治君が珍しいね」と言われ、更に落ち込みながら外へと向かう通路を歩いていると、背後から軽快な足音とともに俺の名を呼ぶ低く甘い声。振り返らずとも分かる。速水だ。
「加冶さん、さっき話してた食事に行きませんか?」
「いや、俺帰るから……」
そっけなく端的に言葉を返すと、好印象な雰囲気が一転、皮肉に唇を歪めて俺を睥睨する。
「いいんですか? 多少俺に慣れておいたほうがいいと思いますけど。あー、それとも自らこれまで培ってきた努力をぶち壊したいとか?」
「……なっ!?」
安易な挑発に煽られ頭に血を昇らせた俺を、速水が強引に連れてきたのは、寂れた雰囲気のある食堂の前だった。
今風な若者といった速水がチョイスするにしては、割と地味な店だ。もっとオシャレな場所を想像していただけに拍子抜けした。
「ここ、鯖味噌定食がおすすめなんです」
ニコニコと速水がメニューを正面に座る俺に差し出してくる。おすすめを言うってことは少なくとも何度か来ているのか。
さすがに公共の場であの晩の話をするわけにもいかず、俺は渋々とメニューを受け取り視線を落とす。正直、さっきの言葉がショックすぎて食欲なんて出てこないが、ここで固辞すれば速水がまたもしつこく誘ってくるに違いない。
「じゃあ……肉じゃが定食で」
淡々と注文をしたら、速水は机に伏せながら「鯖味噌定食で」となぜか涙声で言っていた。意味分からん。
お膳に乗せられた温かそうな肉じゃがを見て、内心で舌打ちをする。そういやこっちは豚肉なのを、ここ数年食べてないからすっかり忘れていた。ちなみに俺は関西出身だ。
「……いただきます」
手を合わせて、副菜のほうれん草の胡麻和えに箸を伸ばす。少しだけ歯ごたえのあるほうれん草に胡麻の香ばしさが食欲を誘う。味噌汁も油揚げと大根で、まるで実家でご飯を食べるようなほっこりとしたチョイスに、思わず口元が綻びる。
「良かった。気に入ってみたいで」
ほう、と安堵の吐息を漏らした速水に、俺はヤツと一緒にいるのを思い出し、自然と苦い顔になってしまう。
「そうだな。店、は気に入った。けど、もう二度と来るつもりはないけど」
「どうしてですか?」
速水は首を傾げながらも、大きく切り分けた鯖の味噌煮を口に入れて咀嚼している。
「これ以上お前とかかわり合いたくないから。俺は他人に弱みを握られるのが嫌いなんだ。まさかお前が同業者だとは思わなかったから、一夜のつもりで抱かれたのに。とんだ誤算だ」
俺はボソボソと吐き捨てるように言って大きなじゃがいもの欠片を口に入れる。芯まで味が染み込み、ホロリと口の中で崩れていく。
人の趣味にあれこれ言うつもりはないけど、タトゥーいれてる声優なんて、俺の周りにはいない。もしかしたら、速水のように普段は見えない場所にいれてるヤツはいるかもしれないが、俺が認識してなければノーカンだ。
「……ケイスケという男の前でなら、あなたは弱みを見せていたんですね、加治さん」
「っ」
淡々とした声から聞こえた名前に、俺の心臓はドクリと跳ねる。
「あの日、あなた泣きながら何度も『ケイスケ』と俺を呼んでました。覚えてないでしょ?」
咀嚼したじゃがいもをゴクリと飲み込む。まさか、速水と寝た日に圭介の名を呼んでいたなんて。
「あの日あなたが言ってた『ケイスケ』って、俺と同じ事務所の白河圭介のことですよね。あなたとは養成所時代からの親友だって雑誌で読んだことがあります」
確かに、昔専門雑誌のインタビューでそんなことを語った覚えがある。だが、あれは少部数で、そうそう簡単に手に入らないものだったと記憶しているが……というか、圭介と同じ事務所なのかコイツ。
俺の所属する事務所は、声優を数人抱えている小さなところだが、圭介やコイツがいるのは、老舗の大手芸能事務所である。声優だけでなく俳優やモデルも所属していて、声優であっても歌のレッスンや演劇の指導とかもあると、以前圭介が話していたのを思い出す。
「俺、昔からの加治さんのファンなんです。公言してないので知ってる人は殆どいませんけど」
「ああ……そう」
同性の声優ファンというのが珍しくて、内心では嬉しいという気持ちがあったものの、いかんせんその相手は俺の隠してる部分を知っているヤツなのだ。素直になれるわけがない。
「あのさ、あんまりそういうのこういう場所でプライベートな話すのやめたほうがいいぞ。どこに耳があるか分からないんだし」
豚肉を避けつつ、人参の甘さや溶ける寸前の玉ねぎを次々と口に放り込みご飯をかっこむ。正直、この店の味は好みだから、できうるなら何度でも通ってみたい。鯖の味噌煮も気になっているのだ。
「あー、そうですね。あなたは有名人ですからね、女王様?」
「それもやめてくれ。俺は男だ。それに声優なんてそこまで万人が知ってるわけじゃない」
「そうですか? あなたらしいと思いますけどね。高潔で孤高で潔癖な女王様。今回の魔王役も似合ってますよ」
にっこりと人当たりの良い笑みを見せるが、速水の細めた目は『俺に抱かれる側ですけどね』と言わんばかりのねっとりとしたものだった。
「仕事のチョイスを間違ったと後悔してるけどな」
味噌汁の残りを喉に流し込む。豚肉を残して皿も茶碗も空っぽになったので、俺は用事が終わったとばかりに席を立つ。台本などを入れてる斜めがけバッグから財布を取り、一万円をテーブルに叩きつけた。
「だが、受けた仕事はちゃんとやる。俺だってプロの声優なんだ。お前がどんな腹積もりで俺に近づいたか知りたくもないし、今後も知る気持ちもないけど、こういったのは今日限りにしてくれ。じゃあな」
俺は唖然としている速水を置いて、さっと踵を返すと店を出て行った。ファンだと言っていたが、これだけキツく啖呵を切ったたのだ。幻滅してくれるに違いない。
胸の中がモヤモヤする。お互い名前を交わさず速水に抱かれた時、とても大切に愛おしそうに扱われて、辛さを忘れることができたのだ。圭介の時ですら感じなかった『愛されセックス』というのを実感できたのに。
悔しさに唇を噛む。
「あれは夢だった。寂しい俺の気持ちが見せた幻だ」
しかし。
店を出てほどなく、息を切らして追いかけてきた速水に手首を取られ、路地裏の暗がりへと連れ込まれてしまった。背中に壁、左右は速水の思っていたよりもがっしりとした両腕に挟まれ身動きが取れない。
「ねぇ、女王様? 俺があなたにあんな風に言われて諦めると思いましたか? それこそ軽く見られたものですね。俺が本気だって、これからたっぷりと思い知らせてあげますよ」
ちょうど受けの練習にもなりますよね、と男でも女でもイチコロな魅惑的な笑みを俺へと向けて。
至近距離で俺へと宣言してきた速水は、グッと精悍で整った顔を近づけてきたと気づいた時には、俺の唇はしっとりとした温かい何かに塞がれた。やめろと抗う前に唇の間を滑り込んできた舌が口の中を蹂躙する。
クチュクチュという音がやけに耳につく。密着した速水の体は熱く、彼のまとうパルファムと体臭の混じった香りが頭をクラクラさせる。
「ふっ、んっ」
飴玉をしゃぶるかのように俺の舌を丹念に舐る。呼吸が塞がれ、鼻から漏れたのは、情欲に染まった艶かしい吐息。
荒々しくも俺の唾液を削り取り、そして速水の唾液が注がれる。コクリ、と喉が上下すると、これまでのキスが嘘のように静かに合わさった唇が離れ、俺たちの間で唾液の銀糸が繋がって音もなく切れる。
ささやかで頼りない糸が切れた途端、俺は背中を壁に擦りつけたまま地面に座り込む。不本意だが腰と膝に力が入らない。速水の濃厚な口づけで俺の腰が砕けてしまったのだ。
「キスひとつで腰が抜けるなんて。可愛いですね、女王様」
「うっさい!」
「そうそう、この近くに俺の家があるんです。さすがに腰に力が入らないまま帰るなんてできないでしょ。少し休憩してからおうちに送りますよ」
「おい、ちょ、ま、待てっ!」
あろうことか速水は、生まれたての小鹿のように足がプルプルして立てない俺を横抱きにしてかかえあげる。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「だって、女王様てば腰砕けで立てないですよね。……それに、もう、我慢できないので」
と、速水は欲にけぶる視線を俺へと落とし、グッと俺の太ももに腰を押し付けてくる。熱く固く質量のあるソレが、チノパン越しにでもはっきりと分かるほど膨らんでいた。
速水の住むマンションの前で、俺は口も目もぱっかり開いたまま唖然としていた。ここまで姫抱っこという羞恥全開で連れられたことすら、もろもろ吹っ飛んでしまった。
「……これ、おまえの、家?」
「ええ、そうですけど」
それが? と、何をにっこにこで言ってんだよ!
どこの事務所に所属したら新人声優の所得でこんな億ションに住めるんだよ、と喚き散らしたい声が喉でぐっと詰まる。だって叫んだら、なにごとかと人が集まるだろう? 俺、今、速水に姫抱っこされたままなんだけど。
なにが楽しくて自分の恥を晒さなくてはならないのだ、と主張したい。
いや、きっと、速水の実家がここで、親がそれなりの地位にいるのだと思う。うん、それなら新人声優だろうが、こんな瀟洒としか言いようのないマンションに住んでいても問題ない。うんうん納得納得。
俺の内心での自問自答には気づかず、速水はスタスタとエントランスを通り抜け、何か小さなカメラに目を向けると、エレベーターホールに繋がる自動ドアがスーと開く。え、まさかの網膜認証?
そしてさもいつものことといった体で、エレベーターに乗り込むと、俺を抱きかかえたまま器用にボタンを押して、硬直する俺に再び微笑みかけると、またも唇を塞いできた。
「ふっ……んっ」
「ねぇ、女王様。もっと気持ちよくしてあげるから、口を開いて?」
冗談じゃない、こんないつ誰に見られるか分からない場所で応じるわけがないだろう。
ぐっと唇を固く閉じていると、トントンと尖った舌先が開けとノックしてくる。いやだ、と更に力を入れて引き絞って抵抗してみせたのだが、速水の片腕がするすると臀部へと滑っていき、パンツの上から俺の秘所に生地ごと指を押し込んできたのである。
「んーっ、んんっ、んーっ!」
やだやだと体を捻って抵抗するものの、速水がしっかりと拘束しているし、俺も不安定な体勢で力が入りきらないしで、なすすべもない。
だんだんと酸欠になってきて、頭がぼんやりして、苦しくてたまらず口を開いた途端、待ってましたとばかりに速水の舌が俺の口の中を自由に泳ぎだす。
ぐちぐちゅと唾液が攪拌する。それが俺の羞恥を更に高めていき、全身が熱く燃えるようだった。
溺れる。
深く、深く、速水の中へと。俺が速水に侵蝕されていく――
「っ、ぃ、やだっ!」
無意識に俺は速水の胸を突き飛ばす。当然ながら抱えられていた俺も弾かれ床に落ちる。床に尻をつき呆然としている速水から逃げるように、俺はふらつく足を叱咤してちょうど開いた扉をこじ開けるようにして飛び出す。
「加治さん!」
扉の隙間から速水の悲痛な声が聞こえたものの、俺はすぐ傍にあった非常口扉を乱暴に開け、体をふらつかせながら慌てて降りた。確実にエレベーターに乗った速水が先回りしてるだろうと思ったが、地上に降りた時には当たり前の日常が風景として流れていた。警戒していたのに肩透かしをくらった気分だ。
初めて速水と寝たときも感じていたことだが、あいつとのキスも体温も気持ちがよい。始めも終わりも圭介で終わらせようとしたのに、速水の存在が俺の決意を揺るがす。
何度も溺れちゃいけないと頭が警鐘を鳴らしている。だが、本能が速水の熱に溺れたいと縋る。
もう、絶対俺から触れることはないけども。
「……まだ、圭介が好きなんだよ……」
だから速水とはビジネス上での付き合い以外はしない。今日みたいに誘われても乗ったりしない。だから、不格好で惨めな女王様のことなんてさっさと忘れて、誰か他の人と……
「っ、なん、だ?」
ツキリ、と胸が痛む。
俺は服の上から胸を掴むと、痛みも速水のことも忘れようと考えながら、昼の街へと紛れ込んだ。
何度も何度も速水との記憶と消そうと努力した。
だがその度にあの夜の熱や吐息、視界を覆う狼の刺青が鮮明によみがえり、俺の胸はじわりと温かくなっていった。
本当は気づいていた。速水を他の人とは違う意味で意識しているのを。だけど、俺はまだ圭介との時間を無様に引きずっていた。
こんなどっちつかずの自分が大嫌いだ。
◆
『女王様、すまないが、もう一度同じところを、今度はもう少し感情を乗せてお願いできるかな』
「あ、はい。すみません」
『さっきのも憂いがあって良かったんだけどね。じゃあ頼むね』
「はい」
ミキサーからの声に俺は跳ねるように顔を上げ反応を返す。監督もディレクターもまだ笑顔でいてくれるが、すでに同じ場所を数回リテイクを食らっていた。まだ他にも収録は残ってるだろうし、時間も無限ではない。次こそは求められるように演じなくては。
ペーパーノイズが入らないように霧吹きで濡らした台本が音もなく歪む。こういった失態はここ数日、どこの収録現場でもやらかしているからだ。
事務所からもとうとうお灸をすえられた。このまま失敗を繰り返せば、仕事も干される可能性が高い、と。
速水と再会して、一緒に昼飯食って、それからヤツのマンションに連れ込まれそうになってから二週間。そろそろ例の収録予備日が近づいていた。
こんな揺れている感情のまま速水と会って、俺はまともに仕事ができるのだろうか。余計なことばかりが脳内を占めて、大事な仕事に影響を与えてしまっていた。
特に今日に限って失敗にへこんでしまう。なぜなら。
「今日は調子が悪いみたいだな」
「……圭介」
長年体の関係があり恋人だと思っていたのに、先日若手の女性声優と結婚した白河圭介が、苦い微笑を浮かべて立っていた。なぜか口の端を青紫色に染めて。当然ながら周囲のスタッフや共演者たちから心配の声をかけられていたが、本人曰く「狼にパンチされたんだ」と冗談を言って周りを湧かせていた。
今日、収録が一緒なのは分かっていたものの、正直ふたりで話すのは落ち着かない気分になる。
「ちょっと早いけど、一旦昼休憩入れてから、リテイクのところからやり直すってさ。久々に一緒にメシ食わないか?」
「あ……いや、俺は……」
今更に自分を捨てた男とは食事なんて取れない。それに、ここ最近の失敗続きで食欲が全く湧かない。
「話があるんだ。だから来てくれ」
囁く声に「へ?」と間抜けな声を出した俺の腕を引き、圭介先導でブースを出る。周囲を見渡すと、ぼんやりしすぎて気付かなかったが、スタッフだけでなく他のキャストたちの姿もなかった。
圭介と速水は同じプロダクション所属の先輩と後輩の関係にある。
俺は圭介に腕を引かれながら、強引なのはプロダクション仕込みなのだろうか、と遠い目をしながらドナドナされていると。
「ここ入ろうぜ。前に教えてもらって来たんだけど、瑤も絶対気にいると思うから」
ガラガラと古びた引き戸を開ける圭介。いや、ここが美味しいのは知ってる。この間速水が俺を連れてきてくれた場所だったから。
いらっしゃいませ、と女将は明るい声で俺たちを迎え入れたのだが、俺を引っ張る圭介の顔を見た途端「え」と何とも言いようがない顔を一瞬したものの、そこは長年客商売をしている技で、お好きなところをどうぞ、と案内してくれた。
まだ昼前なのもあり、テーブルはどこも空いていて、俺と圭介は一番端のテーブルに向かい合って座る。
圭介は鯖味噌定食を、俺は赤魚の一夜干し定食を注文し、店員が立ち去るのを確かめると「話って?」と切り出す。
お冷をクピリクピリと飲みながら、圭介が言葉を発するのを待っている。まだ圭介と別れてから半年も経っていないのに、心は妙に凪いでいる。
原因は分かっているんだ。速水とのことで頭が埋め尽くされているから。
先日、強引に路地裏で速水にキスをされ、そこから彼の家の傍まで行ったあと、俺の脳内を占めているのは圭介と別れた悲しみよりも、速水の獰猛な獣を思わせる欲情に滲んだ目。狩猟犬のような青い炎をまとった身を焦がしそうな熱い瞳。
そういや犬ってハスキーとかは狼が祖先とか言ってたな、と思い出させるほどの、獲物を見据える捕獲者の瞳に、逃げ帰った俺は発情し、しこたま自室で自慰をしてしまった。なんとも情けない話だが、あの時脳裏を埋め尽くしていたのは、速水との一夜の情事だった。
「瑤?」
「え?」
圭介からの問いかけに顔をあげた途端、なぜか元恋人の頬が赤く色づく。いったい何なんだ。と、いうか。
「あのさ、さっきから聞こう聞こうと思ったんだけど、その顔の傷どうしたんだ?」
まさか新婚そうそう夫婦喧嘩というのはないだろうなと思いつつも、腫れは引いてるものの唇の端にある青紫のアザは、見ているこっちのほうが痛々しい。
圭介の言った「狼」という単語が、俺の脳内にある人物を浮かび上がらせたからだ。
「あ、ああ。実は俺からの話にも関係してるんだが、瑤、お前速水正樹って新人を知ってるか?」
鼓動がドクリと跳ねる。
「あ……うん、他の仕事で共演してるけど……。それが圭介のソレとどういった関係が」
「んー、どうしたもんか……」
あえて深い接触はないと前置きしたにもかかわらず、圭介はどうにも言い淀んでいる。こいつは意外と語彙力のないヤツだった。
言いあぐねる圭介の言葉を待っていると、おまたせしました、の言葉と共に注文した食事がそれぞれの前に置かれる。今日の味噌汁は豆腐とネギのシンプルなもの。小鉢はひじきの白和えで美味しそうだ。
「あのさ、まだるっこしいのは嫌いだから、明け透けに言わせてもらうけど、お前、速水と寝ただろう」
「っ、ごフッ!」
味噌汁飲んでる時になんてことを聞いてくるのだ!
びっくりして気管支に入った味噌汁を体が外に排出しようと、ゴホゴホと噎せる俺に、やっぱりと圭介がご飯をひと口頬張る。まだ唇の傷が痛むのか、顔をしかめながらも白米を噛み締めている。
「なるほろ、なるほろ」
「なっ、なにを、ごほっ、いきなりっ」
実は、とご飯を咀嚼しながら圭介が話してくれたのは、速水が圭介に対して暴挙に出た経緯だった。
先日速水と圭介が同じ現場だったという。なんでもネット小説のアニメ化だそうで、圭介の所属する声優が多く出演していたが、それでも速水はかなり目立った存在と話す。更にいえば事務所イチオシ声優らしくて、人気声優である圭介とは何度かアフレコ現場で顔を合わせたこともあるようだ。
そこで、なぜかずっと普段は温厚な速水から剣呑な視線を感じたらしい。アフレコ自体はつつがなく終了したものの、理由もわからないし先輩として指導しようと収録後速水を呼び出し、ふたりで近くの公園で話すことにした。そこで出会い頭一発殴られたとのこと。
「……は?」
「あれはさすがに俺もびっくりよ」
あのバカ、先輩声優殴るなんてどうかしている。
さすがに意味もなく睨まれ殴られたことに激昂し、圭介も反撃にでたそうだが。というか、お前武闘派じゃないだろう。結局、速水から顔と腹の二発を食らわされ、その速水が放った言葉は、俺が圭介の結婚式の夜ずっと圭介の名を呼びながら泣き続けていたこと。あんなに優しい人を自分都合で傷つけたのが許せないと言ったそうだ。……もうなにしてくれちゃってんの、あのバカ。
すぐに圭介は速水が俺に好意を寄せて、尚且つ体の関係があったと気づいたようだ。
「確かに俺にも悪い部分はあったと思うんだよな。ちょうど声優としてスランプになってたところに男同士の恋愛の話がきて、お前を巻き込んだって。でもお前も悪いんだぞ。お前んナカ、めっちゃ気持ちよくてノンケだった俺がハマったくらいだし」
「ちょ、おまっ、こんな所でっ」
明け透けにもほどがある。誰が耳をそばだてるか分からない場所で、人を巻き込んで性癖話をするな!
というか、俺を捨てて結婚したことについての反省はないのかと呆れてしまう。良くも悪くも自由なのだ、圭介は。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。客も多くなってるし、みんなメシに夢中になっててこっちにまで意識向いてないようだし」
窘めた俺に圭介は目線で周囲を見渡し告げる。確かに昼時の食堂は人の声が混じり合って聞き取りにくい上に、短い休憩時間を食事だけで費やす人はほぼおらず、かっ込むように食べている奴らが多い。
「そ、それでも、人のセクシュアル話を口にするのはよせ」
唇を尖らせ、不貞腐れながら白和えを口に運ぶ。お、ひじきのは初めて食べたけど、これはこれで旨いな。
「ごめんごめん。まあ、速水の話に戻るんだけど。あいつ、公式に知られてないけど、うちのプロダクション社長の息子なんだと。で、これ以上お前を悲しませるのなら、父親を使って俺の仕事を奪うとか言い出してさ」
「え?」
「酷くね? 俺、新婚さんなのに、養う術奪うとか言い切られちゃうし。そもそも、嫁紹介したの速水だってのに」
「は?」
つらつらと食事をしながら話す圭介の爆弾発言の連続に、ほぐした赤魚の身が箸からポロリと皿に落ちたまま硬直する。
速水が圭介の所属するプロダクションの社長子息?
圭介との別れの原因が速水?
「長年お前が好きで、同じ業界に入って、お前と共演できるまで登りつめて、しかもお前抱いたとか、執着攻めって怖いわぁ」
「……」
「まあ、嫁にはお前と関係あったって話したら『リアルBLキタコレー!』って大喜びされたけど……って、おーい」
圭介が呆然としている俺の前で手を振るけども、もう情報過多すぎて脳内フリーズしたまま反応が返せない。
「つまり、俺がお前から離れたのは、直接手を下してないものの速水が原因。理由は、お前を好きすぎによる執着からくるもの。そのあたりのちゃんとした理由は、本人から聞くといいぞ」
そう言って圭介は、痛みに顔をしかめながらも、大きな口を開けて白米を口に入れる。
俺は小さく頷き、機械のように食事を続けるしかできなかった。
頭の中は目の前の元恋人ではなく速水のことでいっぱいだった。圭介の言葉を信じるのなら、あの日バーで会ったのも偶然ではないのかもしれない。
だけどホテルに行って抱かれる選択をしたのは俺だ。一夜限りの相手だと分かってたから、盛大に泣きながら圭介を思って何度も名前を呼んだ。
でも、体は速水があたえる熱にドロドロに蕩かされて、最後のあたりは記憶が途切れるほどに速水を求め続けていた。きっとその時には……多分。
時折圭介の軽い口調の話に頷きながらも食事を続ける。ほとんど空になった皿を眺めながら、次はアイツと一緒に鯖の味噌煮を食べようかな、と思い馳せていた。
胸はモヤモヤするものの、どこかスッキリした気分で、なんとか収録を終えた俺は速水の住むマンションへと向かうが、ヤツの部屋がどこにあるか分からず、エントランスのソファに腰を下ろしたまま数時間。そもそもどえらいセキュリティがあるから、簡単に入れないし。
何度かコンシェルジュの人に不審げな視線を投げかけられたものの、住人の速水と待ち合わせしていると言えば、怪訝なようすは崩さないものの納得してくれた。最後あたりには冷えるからと熱いコーヒーまで提供してくれた。
空がすっかり紺色に染まり、街灯の明かりがポツポツと周囲に瞬く頃、エントランスで立ち尽くして驚愕する速水の姿を認めた。
「加治……さん?」
艶があって低く響く声がたゆたって俺の耳に届く。振り返らずとも分かる。どこか戸惑いを含んだ速水の声だ。
「よう」
「……どう、して」
振り返り、なんでもないように片手を挙げて反応する。
そりゃ驚くのは当然だ。あの日、逃げた俺が速水の前に普通に現れたのだから。
「圭介から全部話は聞いた。だから、お前に会いに来たんだ」
淡々と告げた言葉に、速水はヒクリと肩を揺らす。その目はどこかたよりなさげで、彼が自分よりも年下だというのを思い出させた。
「……ここで話すか?」
「いえ、あなたは嫌かもしれませんが、俺の部屋で……」
「分かった」
こわばった腰を伸ばして速水と共にエレベーターに乗り込む。あの時は恥ずかしい格好で抱き上げられたままキスされて意識が朦朧として気付かなかったけど、こげ茶と薄茶の壁紙は落ち着いた雰囲気で、微かにウッディなルームフレグランスが香ってくる。同じエレベーターでも、俺の住むマンションのソレとは雲泥の差だ。
でも、ここで速水とグチャグチャなキスをしたのを思い出してしまい、そっと唇を指でなぞる。
圭介とは一緒に住んでいた時期もあり、キスもセックスもそれなりに交わしていた。にも関わらず、俺の体も唇もすっかり速水の記憶に上書きされていて、隣から香る速水の匂いを感じた途端、全身が熱くなり腰が期待にズグリと疼く。
きっと速水の部屋に入ったら、俺は速水に抱かれるだろう。
俺はそれを無意識に期待して、ヤツの部屋に行くと告げた。
嫌悪感は全くなく、むしろ初めて抱かれた時を思い出して、体は熱を孕む。
『泣かないで』
あの時、速水は何度も滔々と涙する俺の目に、額に、唇にとキスの雨を降らし、虚しい心を埋めるようにナカを奥深くまで政略していた。
あの時点は体は速水に全てを塗り替えられていたのに、心だけが圭介のことでいっぱいだった俺を、速水は自分へと向くようにと行動したのだろう。
翻弄された俺は何度も自問自答した。圭介に傷つけられたから、速水を圭介の代わりにしようとして、惹かれたのでは、と。
だがすぐに、あんな強烈な印象を残した男が圭介の代わりになるわけがない、と。
それなら俺は速水が好きなのかと問えば、心はまだ圭介との思い出に比重があり、長年の恋慕を打ち消せるはずもなかった。だけど速水のことを思えば、心臓は早く脈を打ち、彼の熱を体が求める。
圭介の時もそうだったが、流され体質の自分を叱りつつ、俺は自分が本当にどっちを求めているのか考え続けた。
結局、ぼんやりとしている時でも脳裏に浮かぶのは、さまざまな表情を俺に見せた、たった数回しか会っていない速水だった――
まさか、こんな短期間で長年付き合ってた男の影よりも鮮烈な目の前の男に染められるとは。
「俺、お前が好きみたいだ。速水」
「っ!」
速水の服の裾を指先で掴んで、床を見つめたまま呟くように告白する。
正直、こんな年齢になっても好きだと言うのは恥ずかしい。むしろ演技ではなく、素で告白するのが初めてなのだ。
顔が熱くて、真っ赤になってるに違いない。
「あ、あの……んんぅっ!」
返事がなくて顔を上げたら、いきなり目の前が暗くなって息が塞がれる。噛み付かれるようにキスをされてると気づいたのは、歯列を割りヌルリと入り込んできた舌が俺の舌を扱くように絡みついてきたから。相手は言わずもがな速水である。
「んっ……ふ、ぁ……ちょ……と……っ、んんっ」
グチュグチャと唾液が捏ねられる音を遮るように、エレベーターが目的階に到着したと軽やかな音色で知らせてくる。速水は俺の腰を引き寄せ、それでも深く甘やかな口づけを止めるつもりはなく、引きずられるようにして小さな箱から出た。
速水の部屋に着くまでの十数メートルの間も、俺たちは互いを求めるようにキスを続けていた。こんなに激しく誰かを求めたのは初めてだ。
そして、こんなにも誰かに対して発情したのも初めてだった。
唾液を交わすキスをしながら、速水は手探りで鍵を出して玄関ドアを開く。俺を抱き込んだまま中に入り、そのままドアに俺の背中を押し付け密着したまま、目眩がしそうなキスを再開させた。
「んぅ……ちょ、んっ……ま、って……ふ、……んんっ」
速水の大きな手が俺の後頭部に回り、髪の中をまさぐりながら息を付かせぬキスを繰り返す。角度が変わるときに空いた隙間から入る空気を求めるようにして、俺はハフハフと呼吸をして訴えるも、速水は獰猛にキスをしながら俺の服の裾から手を差し込んで肌をねっとりと這わせる。
他人の手が俺の体をまさぐる。ただそれだけなのに、俺の官能が掴まれて引きずり出される。気持ちいい。だけど足りなくて、自然と上がった腕で速水の首を引き寄せ、もっとと腰をヤツの昂ぶるソコに擦りつけてはしたなくねだる。
「腰、揺れてますね。気持ちいいですか?」
「たりない……もっと、欲しい……」
「仰せのままに、女王様」
速水はクスリと微笑む。壮絶なほどの色気をまとい、欲情にけぶる瞳を見ただけで、俺の中心が一層膨らむ。ああ……俺はこの大型犬のような皮をかぶった獣に食われるのか。
恐怖はなく、歓喜だけが俺を凄く満たしていく。
与えていたばかりの俺が初めて求められる喜び。それで食い尽くされて骨しか残らなくても本望だ。
俺は速水に横抱きにされ、長い廊下をぼんやりと眺めながら、そんな風に考えていた。
億ションだと外観から分かっていたが、寝室も驚くほどに広い。
シックな内装の部屋の中心に、キングサイズのベッドが存在を主張している。他にはノートパソコンが置かれた小さなテーブルと椅子、豪華なオーディオラックがある、至ってシンプルな部屋だった。
ベッドに俺をゆっくりと降ろす速水。背中を包むベッドの柔らかさに、ほうと吐息がこぼれる。
「瑤さん」
ギシ、とスプリングの軋む音がし、速水が俺に覆いかぶさり見下ろしてくる。その双眸は今にも喉元に食らいつかんばかりにギラギラと煌き、喉が期待にコクリと鳴った。
もう俺も我慢の限界をとっくに超えていたからだ。
「速水……」
「苗字じゃなくて、名前で呼んでくれますか。正樹です」
「まさき……」
精悍な頬に手を伸ばして、ソロリと撫でながら俺だけに獣性を見せる男の名を呼ぶ。呼応するように正樹から「瑤さん」と囁きが落ち、俺は静かに目を閉じた。
呼び合うように唇が重なる。舌が唇を割って入ってきて、歯茎をなぞる。くすぐったさに肩を竦めると、グッと正樹の舌が深く押し込まれる。まるで性交のような口づけに、背筋に快感が走り、喉を仰け反らせてしまった。こんなにエロいキスなど経験したことがない。
「イっちゃいました? かわいい」
「ばか……」
「馬鹿ですよ。あなた限定でね」
頬にチュッと唇を落とされ、俺の顔は恥ずかしさに赤くなる。こいつ、プライベートで臆面もなく甘いセリフが吐けるな。
そう言うと、鎖骨にキスをしていた正樹の顔がふと上がって。
「十五年の想いが叶うんです。馬鹿にならなくてどうするって言うんですか」
甘く笑み崩れた正樹の顔に、俺は「十五年?」と呟いていた。
俺の声優デビュー作は、社会現象にもなった某RPGゲームの中ボス役だった。ちなみに、少し前に現在の事務所に入り、デビューをしていた圭介は主役の勇者役。あいつはそれをきっかけに一気にスターダムへと駆け上っていった。あの頃は親友の飛躍に胸がざわついた。羨望や嫉妬を圭介に感じていた。……今となっては事務所の力だろうな、とは思っているけども。
ちなみに俺の役名は『魔王の配下2』。中盤で消えるだけの雑魚キャラだったが、なぜかイケメン魔族だったからか、ユーザーにそれなりに人気のあったキャラクターだった。二次創作の同人誌で、俺の担当したキャラが魔物たちにモブレされて孕ませられるといったのがあるのを知った時、軽くめまいがしたのも懐かしい思い出だ。
「瑤さん、あのゲームの完成パーティに出席されてましたよね」
「あ、ああ……、圭介に誘われて」
一応、俺も出演者だから招待状はもらっていた。しかし、いわゆる『モブ』扱いの俺が参加するのは癪で、不参加に丸をつけてたのを、圭介が強引に俺をパーティに引っぱり出したのだ。
「俺もあのパーティに出席してたんです。白河さんの所属事務所の社長、俺の父なんで」
「知ってる……圭介に聞いた」
スルスルと会話をしながら正樹の唇が下へと降りていき、いつの間にか開かれたシャツの胸元にある飾りをチュッと吸い付く。
「ん、ぁっ」
直截的な刺激を受け、俺の体はビクリと跳ねる。吸われた乳首は濡れた舌にコロコロと転がされ、反対の方も指の腹で刺激に勃ちあがる。
「や、っ、そ、れ……きも、ちぃ……あぁ、んっ!」
胸を正樹に押し付けるように反らして快感に喘いでいると、脇を滑る手が流れるように臀部へと行き、そしてあわいの奥で震える蕾へと指が伸びてくる。
「だめ、だっ! そこ、きたな……ひぅっ」
「瑤さんの体はどこも綺麗ですよ。痛くないように慣らしますから、もうちょっと力を抜いてくださいね」
「ひ、う、んんっ!」
引き絞った中心を解くように、正樹の指が周囲をクルクルと撫でる。あの時の正樹の長大な楔を思い出した体は、丹念に解していく快感に中心を綻ばせていく。
ツプリ、と指が一本入ってくる。異物感よりも指一本分でも空洞が埋められた歓喜に、自然と襞が中へと導くように蠢く。
「……はぁ……、瑤さんのナカ、俺の指を美味しそうに舐めしゃぶって、めちゃめちゃエロいです……」
「あっ、あ、あんっ」
「入口はキュウキュウと俺の指を噛んでて、ナカはトロトロになってて、俺の指をドンドン奥に飲み込んでいってる。ね、分かります?」
「ゃぁ……んっ! あ、ぁ、いわなっ……んぅ」
時折乳首をカリと噛んで愛撫をして、どこからか取り出したのか、俺のナカをローションを足しながら長い指を増やしていく。正樹は意地悪に一番いいところを外して、ナカをグチグチと押し広げる。
やだ。足りない。もっと太くて、熱いモノに貫かれたい。
正樹は俺を傷つけないようにしてくれてるけど、俺はもう限界だった。
「まさ……きぃ……も、きて……、おまえが……ほしぃ」
「本当に? キツかったら、絶対言ってね。瑤さん、割と我慢して何も言わないから」
そうかな、と荒い息を整えながら首を傾げる。そんな不思議そうな顔をする俺の額に軽くキスをした正樹は、着ていた服をバサバサと脱いでいく。意外と豪快な脱ぎ方をするな。呆然と眺めていると、今度は中途半端な俺の服を脱がせ、床に散在する正樹の服の上へと重なる。
全裸の正樹はどこにも無駄なものが一切なかった。薄く上気した左胸に形骸化した狼。獲物に食らいつくように口を開き、俺を食べ尽くしてしまいそう。
しなやかな筋肉をまとった下半身には、そそり立ち先端から雫を溢れさせ、まるで餌を前にし涎を垂らす犬のようだ。
あまりにも立派な正樹のソレを見た俺は、コクリと期待に唾を飲み込む。
足の間に陣取った正樹は俺の足を大きく拡げ、本当に大丈夫? と気遣う質問をしてくる。あれだけ強引な男が、こんな時には俺を大事にしてくれる。
「正樹……はやく。慰めのセックスじゃなく、恋人のセックス……しよ?」
俺は両腕を伸ばし、正樹の首を抱きしめると、触れるだけの口づけをした。
「愛してますよ、俺だけの女王様」
その言葉と共に正樹の切っ先が俺の蕾をこじ開け、グプリと先端を沈めていった。
圧迫感にハクリと息が止まり、喉を反らして熱に耐える。比べちゃいけないんだろうけど、圭介のモノよりも太く、奥の奥まで隘路を割って挿ってくる。慎重に俺のナカをかき分け、奥の行き止まりまで辿り着いた途端、俺の先端から白濁が迸った。
「ご、ごめ……」
「どうして謝るんですか。感じてくれて嬉しいですよ」
にっこり微笑んで、正樹が「動きますよ」と宣言し、ゆるゆると腰を動かし始める。
襞が正樹のモノを絡めているせいか、正樹が腰を引く度に内蔵が引きずり出される感覚に全身がわななく。そして、今度は奥まで突くと、たまらず声が溢れ出る。
汗を散らせ、無心で俺のナカを蹂躙する正樹。隘路を開く熱にひたすら甘い声で喘ぐ俺。
淫靡な匂いと雰囲気に支配された寝室が、俺たちの楽園となる。
「すき……まさ、き……すきぃ」
「愛してる。俺の、女王様! あなただけが俺の唯一です!」
ああ、幸せだ。
ただただ一直線に、十五年もの時間をかけて俺のことを想い続けてくれた正樹。
こんなに真っ直ぐに想いをぶつけてくれた男を、どうして嫌いになれない。
広い寝室は、俺と正樹の呼吸音と、湿った肌がぶつかり合う淫靡な音。ふしだらで、本能的な空間なのに、俺たちは幸せに微笑み合う。
何度もナカに正樹の熱を注がれ、俺も何度も吐き出して。
互いの匂いを数多に染み付け、キスを交わしてく。
それは偶然にも、俺と正樹が共演する魔王と勇者の愛交のようで。
「愛してる。俺の勇者」
『はい、オーケーです。女王様の受け声、絶対ユーザーさんが悶えると思いますよ!』
ブースから高揚した賛辞の言葉に、俺はありがとうございますと言って応える。
「お疲れ様です。共演できて楽しかったです」
隣から聞こえる正樹の声。
「ああ、ありがとう」
俺も楽しかった、とブースには聞こえない音量で囁くと、正樹は嬉しそうに破顔してくれた。
お疲れ様でした、と正樹がおひやのグラスを差し向けてくるので、俺も同じようにグラスを掲げカチンと合わせる。
そのタイミングでそれぞれの前に鯖味噌定食の膳が置かれ、ふわりと味噌の香ばしい香りが漂い出す。
「お、うまそう」
「冷める前に食べちゃいましょうか」
「そうだな」
正樹がにこやかに割り箸をパキンと割って手を合わせる。俺も手を合わせて「いただきます」とつぶやき、しじみの味噌汁が入った椀に口を寄せた。
出汁の効いた汁が喉を通り、充足感に思わずため息を漏らす。堪能している俺の前ではパクパクと鯖味噌とご飯を交互に口の中に収めている正樹の姿。恋人になってから何度か食事を共にしているが、彼が予想以上に健啖なのに驚くばかりだ。
「本当にうまそうに食うよな、お前」
「それは当然でしょ? だって、好きな人と一緒に食べるご飯は最高にうまいですから」
「っ!」
ニコニコと断言する正樹に瞠目し、俺は恥ずかしさから椀へと顔を俯かせたまま「ばか」と小さく呟いた。
その後、単発だった勇者と魔王はシリーズとなり、ツンな魔王がワンコ勇者にトロトロに蕩かされる濡れ場シーンが人気となり、俺と正樹の共演が一気に増えた。
そして、気づけば俺はマンションを引き上げ、正樹と同棲するようになっている話については、また別の話。
END
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