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甘く、蕩けて、ひらく:後編
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百合と椿の匂いが溶け合い充満する寝室で、ことが終えたばかりの憂璃はそろそろと首の後ろへと手を伸ばす。そこにはやっと血が止まったばかりの噛み跡があった。
皮膚が歯の形に破れ、生傷となっているが、そこは甘美な痺れに溢れていた。
「痛いか?」
背後から憂璃を抱きしめている椿が心配そうに覗っている。
互いに何も身につけていないので、少し高くなった椿の体温がひたすら気持ちが良い。
「少し。でも、幸せの方が強いので平気です」
「……すまない。まさか挙式から三ヶ月もかかるとは思わなかったよ」
春に挙式をしてすぐに、椿はファイナンシャルプランナーの仕事で大きな事業が関わることになり、契約や諸々で中国に三ヶ月単身赴任で不在だった。いつもは壱岐が秘書として付き添うのだが、挙式時に強襲を受けたのを心配した椿により、壱岐は憂璃の護衛として、天竹が秘書として同行することになったのだ。
時々、椿が出張などで不在だったこともあるが、その時は大体体調を崩し、寝込むことが多かったのに、今はよく効く安定剤のおかげか、笑顔で見送ることができた。
そして、椿が不在になってすぐに憂璃が発情期に入り、この時は物理的に時間が取れずに断念。結局は、椿が帰国したその日にタイミングよく憂璃の発情期が始まり、こうして三ヶ月遅れの番契約が果たせたのである。
甘やかされながらも激しい情交に憂璃は滂沱し、ひたすらに快感に喘ぎ身悶えた。
何度も生でナカに子種を注がれ、憂璃の子宮口は貪欲に甘い蜜を飲み込み、小さな絶頂の波に数え切れないほど震えた。
椿の腕の中で、心地よい疲労感と微かな痛みを享受した憂璃は、避妊薬を飲もうとゆっくりと起き上がる。
途中意識が朦朧とする中、椿が口移しで水分やゼリー飲料を与えてくれたが、喉がカラカラに渇いてもいたからだ。
「どうした?」
「あ、避妊薬を飲もうと思って……」
他にも荷物を玄関に放置したままなだれ込むようにベッドに直行したため、散在している服を回収したいし、置きっぱなしのスーツケースにも汚れものがあるだろうから、それも一緒に洗濯に回したい。
椿が帰国してから三日。壱岐には後から自分が処理するから、特に触らずに放置してくれていい、と言ってある。壱岐も椿と一緒で家事が不得手なのもあり、言われたとおり家のあちこちに服や荷物が散在したままだろう。
以前から憂璃が家事のほとんどをこなしてきたが、結婚してからというもの、実母の杏や義母の葵衣、新婚真っ盛りの桔梗から料理から洗濯や掃除などのアドバイスを受けるようになった。
ただ、桔梗に関しては玲司が囲いこんでいるのもあり、どちらかといえば惚気で終始していたが。
いつまでも服を放置しているのも嫌だし、三日掃除をしていないからホコリも溜まっているかもしれない。椿に精子を注がれたおかげでヒートもほとんど収まっている。
そのついでに避妊薬の話をしたのだが、椿がなぜか起き上がり。
「お前はおとなしく寝ていろ。俺が水と薬を持ってきてやるから」
憂璃の頭を撫でて、さっさと部屋を出てしまったのである。
ぼんやりと椿を見送り、内心で避妊薬の話をしたくなかったな、と吐息がこぼれる。
ヒート時の性交における受精率はほぼ百パーセント。更に番契約には百パーセントという数字がたたき出されている。
今回のヒート時も椿が何回か口移しで飲ませてくれたのは気づいていた。
それでも、罪悪感がこみ上げてしまうのだ。
確かに進学したばかりの憂璃には、妊娠をして子育てという余裕は全くない。
入学して四ヶ月ほど経つが、必須科目の基礎講義がほとんどで、休学という選択を取れないのだ。そんな中で妊娠出産をすれば、確実に一年は他の人より出遅れてしまうし、なにより推薦をしてくれた先生たちに申し訳が立たなくなる。
それに……授業料を出してくれてる椿にも迷惑をかけてしまう。
多分、椿は子供を優先すればいい、と言ってくれるだろうけど、椿が不在の間に壱岐から秘書の心得や仕事についてを教えてもらい、憂璃本人も早く椿に恩返しがしたいと考えているのだ。
いずれは大好きな椿との間に子供が欲しいとは思う。だけど『今』ではない。
憂璃は少し膨らんだ下腹部をそっと撫でる。
もしかしたら今この時にも椿との子供が実を結ぼうとしているかもしれない。それを切り捨てようとしているのは、憂璃自身。
憂璃は心の中で何度も「ごめんね」と謝る。母の杏は父の久志と結ばれた時に、憂璃を宿していたけども命をかけて憂璃を産み落としてくれた。
それなのに自分は……と考えてしまい、いつしか赤い目からほとほとと涙が静かに流れる。
「憂璃、薬の前に何か食べたほうが……憂璃?」
部屋に入ってきた椿が、ボロボロ泣いている憂璃を認めた途端、ギョッとした顔になり、慌てて駆け寄ってくる。
「どうした。気分でも悪くなったか?」
「ち……がぅ」
「それじゃどうして……」
ぎゅうっと抱きしめられ、憂璃は広い胸にもたれながら椿の仄かな香りを吸い込む。揺れて不安定になった心が少しずつ落ち着きを戻し、ポツポツと自分が命の取捨選択をしている罪悪感や、子供を早く欲しがってるだろう椿の期待に答えられない自分が不甲斐なくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになっているなどをこぼしていく。
取り留めない言葉を、椿は憂璃の頭を撫でながら額や目尻にキスを落とし、それでも最後まで口を挟むことなく聞いてくれた。
「命の取捨選択か……。まあ、避妊するというのは、そういった意味に取っても仕方ないよな」
椿はしばらく憂璃の頭を撫でながら思案していたようだが、何か結論がついたのか「ドン引きされるかもしれないけどな」と前置きをして口を開く。
「アルファの性質かもしれんが、正直、俺はまだ見ぬ子供より憂璃のが大事だし、優先したいのも憂璃のみだ。憂璃はまだ大学に入ったばかりで、学校も休学できる状況じゃないのは話を聞いて知ってたしな。それに、憂璃は複数同時で何かするの苦手だろう? まずは自分の身を固めてから子供のことを考えればいいじゃないか。それについては俺は特に反対しないからな」
「椿さん……」
「それにな、結婚してすぐに三ヶ月も離れてたんだ。もうちょっと新婚生活を実感させてくれ」
ちゅ、と憂璃の額にキスを落とし、ニヤリと笑う。
微妙にズレていた互いの恋心がようやく一致してからというもの、椿の憂璃に対する溺愛は他者が見ても一目瞭然といったように、やたらと甘くなっていた。
多忙な中、時間をひねり出しては憂璃の送迎をし、会食もよほどの理由がない限りは昼間にやり、以前は壱岐を含めて三人で食事することが多かったが、今ではふたりで取るのが日常と化していた。
多分椿は出会ってからの三年のすれ違い時間をやり直そうとしてるのでは、と考える。
だけど、あの互いに平行線だった時間があってからこそ、憂璃は今の幸せを実感しているのだから、そこまで気にしなくてもいいのに。
そう思うものの、椿の溺愛は心地よくて、憂璃は椿の胸の中でコクリと頷いた。
離れたくない。離したくない。引き裂くのが子供であっても、椿は誰にも渡さない。
「……と、憂璃のメンタルが少し不安定になってるから、気に留めておいてくれ」
目の前の白衣を着た儚げな容姿をしたオメガの医師に告げる。
「まあ、あの子は気にしいだからね。次の診察でそれとなく聞き出しておく。あ、これいつもの特別発情抑制剤と避妊薬。……っていうかさ、もう番契約したんだから必要ないんじゃない?」
儚げ美人医師──寒川凛は思い出したようにパソコンのキーボードを叩く手を止め、傍らに置いておいた薬袋を取り椿に渡す。
「番の:精液を精製した|抑制剤のほうが体調も安定すると言ったのはお前だろう、凛。実際、自我が崩壊するまで俺を求める憂璃を見てみたい気もするが、その後の反動で自傷されても困るし、なにより、余計なアルファ避けに効果的なんだよ、コレは」
三ヶ月分の薬がたっぷり詰まった薬袋を受け取りながらニヤリと笑う。ずっしり重さのある紙袋の薬は、憂璃が突発的にヒートに入ってからというもの、毎日服用しているものだ。
元は一部の特級家系の更に一部の人間しか知らないが、バース性を変える研究を寒川製薬がしていた過去があり、この抑制剤はその副産物としてできたものだ。
薬価も高く一般にまでは回らないものの、効果は絶大で、オメガの番を大切にしているアルファに需要が高い。
しかも一般的な抑制剤と比べると、個体に合わせて調製されているから、オメガの体にも負担がかからず、安定的に過ごせるという。さらに言えば通常は一週間ほどかかる発情期も、平均的な統計で見れば約三日程度で終わる。
(そう言えば、秋槻紘の弟の番が元はベータだったという話だったな。玲司の友人という話だし、あながち臨床実験に加担してる可能性が大きいかもしれない。そのおかげで憂璃が楽に発情期を過ごせているのだから、凛の好奇心もあながち需要があるのかもな)
じっと凛と見ながら内心で感謝を述べる椿に、凛は「なに?」と首を傾げる。
凛のバース性に関する好奇心は昔も今も変わらず、それは凛自身の秘密に起因してるのかもしれない。
「いや。そろそろ憂璃の大学の授業が終わるな、と思っただけだ」
「ふうん。相変わらず仲の良いことで」
「新婚だからな、当然だ」
凛の揶揄に肩を竦めて答えると、看護師から次の患者さんがお待ちです、と釘を刺してくる。
「ああ、そんな時間。……じゃあ、次は憂璃君も一緒に診察に来てください。その時にオメガの臨床心理士を紹介しますので」
「頼んだ。その前にその臨床心理士のデータを送ってくれ」
別に疑ってはいないが、オメガというのは基本的に強いアルファに惹かれる性質を持っている。自分には憂璃以外目が向かないし、すでに番契約を終えているのだ。秋波を送られても対処に困る。
凛の紹介だからないとは思うものの、前もって下調べだけはしておきたい。
「あんまり憂璃君を束縛すると、いつか逃げちゃうかもよ?」
「違うぞ、凛」
「何が?」
「俺が憂璃を束縛しているわけではない。憂璃が俺を縛っているんだ」
なにそれ、とキョトンとしている凛に微笑み、椿は大量の抑制剤が入った袋を小脇にかかえて診察室を後にした。
今日、壱岐は椿の代理で事務処理を頼んでいたため、椿は自分で車のハンドルを取り運転をする。
途中赤信号で車を停車させると、スーツの懐からいつもの煙草を取り出し咥える。火をつけて一口吸えば甘く、トロリとした香りが車内に充満した。
憂璃と番契約をしても、椿の『後天性フェロモン異常症』は相変わらずだった。
憂璃が椿の匂いを感知したのも、憂璃と椿が運命の番だったという奇跡によるもので、今後も数値は変わらないと凛からも言われていた。
今日の診察は、憂璃の代理というよりも、椿が前回検査した結果を聞きに行ったのが本質だったのである。
本格的に治療するつもりがあるなら、脳神経外科を紹介すると言われたが、椿はそれを断った。
理由は簡単だ。憂璃だけに感じていれば困ることではないからだ。
「憂璃にだけ認識できていれば問題ない。俺を縛るのは憂璃だけで十分だからな」
甘やかで、蕩けそうな、芳醇な匂いを放つ百合の花。
周囲は椿が憂璃をがんじがらめにしていると言うが、事実、椿の:フェロモン(匂い)を覆い尽くすほどの:フェロモン(匂い)で縛っているのだ。
無意識の束縛は甘美で、心地が良い。
だから椿は最愛の番が絡め取る甘い罠に自ら落ちる。
「椿さんっ」
大学の駐車場に車をすべり込ませると、彗と一緒の憂璃が椿を見つけ駆けてくる。
可憐で蠱惑的な香りで番を惑わせる清廉な花。
「おかえり、憂璃。愛してる」
椿の唐突な愛の言葉に頬を朱に染め、椿を誘うような匂いを伸ばしてくる。
それは。
甘く、蕩けて、花開く、憂璃という花、そのものだった。
end
皮膚が歯の形に破れ、生傷となっているが、そこは甘美な痺れに溢れていた。
「痛いか?」
背後から憂璃を抱きしめている椿が心配そうに覗っている。
互いに何も身につけていないので、少し高くなった椿の体温がひたすら気持ちが良い。
「少し。でも、幸せの方が強いので平気です」
「……すまない。まさか挙式から三ヶ月もかかるとは思わなかったよ」
春に挙式をしてすぐに、椿はファイナンシャルプランナーの仕事で大きな事業が関わることになり、契約や諸々で中国に三ヶ月単身赴任で不在だった。いつもは壱岐が秘書として付き添うのだが、挙式時に強襲を受けたのを心配した椿により、壱岐は憂璃の護衛として、天竹が秘書として同行することになったのだ。
時々、椿が出張などで不在だったこともあるが、その時は大体体調を崩し、寝込むことが多かったのに、今はよく効く安定剤のおかげか、笑顔で見送ることができた。
そして、椿が不在になってすぐに憂璃が発情期に入り、この時は物理的に時間が取れずに断念。結局は、椿が帰国したその日にタイミングよく憂璃の発情期が始まり、こうして三ヶ月遅れの番契約が果たせたのである。
甘やかされながらも激しい情交に憂璃は滂沱し、ひたすらに快感に喘ぎ身悶えた。
何度も生でナカに子種を注がれ、憂璃の子宮口は貪欲に甘い蜜を飲み込み、小さな絶頂の波に数え切れないほど震えた。
椿の腕の中で、心地よい疲労感と微かな痛みを享受した憂璃は、避妊薬を飲もうとゆっくりと起き上がる。
途中意識が朦朧とする中、椿が口移しで水分やゼリー飲料を与えてくれたが、喉がカラカラに渇いてもいたからだ。
「どうした?」
「あ、避妊薬を飲もうと思って……」
他にも荷物を玄関に放置したままなだれ込むようにベッドに直行したため、散在している服を回収したいし、置きっぱなしのスーツケースにも汚れものがあるだろうから、それも一緒に洗濯に回したい。
椿が帰国してから三日。壱岐には後から自分が処理するから、特に触らずに放置してくれていい、と言ってある。壱岐も椿と一緒で家事が不得手なのもあり、言われたとおり家のあちこちに服や荷物が散在したままだろう。
以前から憂璃が家事のほとんどをこなしてきたが、結婚してからというもの、実母の杏や義母の葵衣、新婚真っ盛りの桔梗から料理から洗濯や掃除などのアドバイスを受けるようになった。
ただ、桔梗に関しては玲司が囲いこんでいるのもあり、どちらかといえば惚気で終始していたが。
いつまでも服を放置しているのも嫌だし、三日掃除をしていないからホコリも溜まっているかもしれない。椿に精子を注がれたおかげでヒートもほとんど収まっている。
そのついでに避妊薬の話をしたのだが、椿がなぜか起き上がり。
「お前はおとなしく寝ていろ。俺が水と薬を持ってきてやるから」
憂璃の頭を撫でて、さっさと部屋を出てしまったのである。
ぼんやりと椿を見送り、内心で避妊薬の話をしたくなかったな、と吐息がこぼれる。
ヒート時の性交における受精率はほぼ百パーセント。更に番契約には百パーセントという数字がたたき出されている。
今回のヒート時も椿が何回か口移しで飲ませてくれたのは気づいていた。
それでも、罪悪感がこみ上げてしまうのだ。
確かに進学したばかりの憂璃には、妊娠をして子育てという余裕は全くない。
入学して四ヶ月ほど経つが、必須科目の基礎講義がほとんどで、休学という選択を取れないのだ。そんな中で妊娠出産をすれば、確実に一年は他の人より出遅れてしまうし、なにより推薦をしてくれた先生たちに申し訳が立たなくなる。
それに……授業料を出してくれてる椿にも迷惑をかけてしまう。
多分、椿は子供を優先すればいい、と言ってくれるだろうけど、椿が不在の間に壱岐から秘書の心得や仕事についてを教えてもらい、憂璃本人も早く椿に恩返しがしたいと考えているのだ。
いずれは大好きな椿との間に子供が欲しいとは思う。だけど『今』ではない。
憂璃は少し膨らんだ下腹部をそっと撫でる。
もしかしたら今この時にも椿との子供が実を結ぼうとしているかもしれない。それを切り捨てようとしているのは、憂璃自身。
憂璃は心の中で何度も「ごめんね」と謝る。母の杏は父の久志と結ばれた時に、憂璃を宿していたけども命をかけて憂璃を産み落としてくれた。
それなのに自分は……と考えてしまい、いつしか赤い目からほとほとと涙が静かに流れる。
「憂璃、薬の前に何か食べたほうが……憂璃?」
部屋に入ってきた椿が、ボロボロ泣いている憂璃を認めた途端、ギョッとした顔になり、慌てて駆け寄ってくる。
「どうした。気分でも悪くなったか?」
「ち……がぅ」
「それじゃどうして……」
ぎゅうっと抱きしめられ、憂璃は広い胸にもたれながら椿の仄かな香りを吸い込む。揺れて不安定になった心が少しずつ落ち着きを戻し、ポツポツと自分が命の取捨選択をしている罪悪感や、子供を早く欲しがってるだろう椿の期待に答えられない自分が不甲斐なくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになっているなどをこぼしていく。
取り留めない言葉を、椿は憂璃の頭を撫でながら額や目尻にキスを落とし、それでも最後まで口を挟むことなく聞いてくれた。
「命の取捨選択か……。まあ、避妊するというのは、そういった意味に取っても仕方ないよな」
椿はしばらく憂璃の頭を撫でながら思案していたようだが、何か結論がついたのか「ドン引きされるかもしれないけどな」と前置きをして口を開く。
「アルファの性質かもしれんが、正直、俺はまだ見ぬ子供より憂璃のが大事だし、優先したいのも憂璃のみだ。憂璃はまだ大学に入ったばかりで、学校も休学できる状況じゃないのは話を聞いて知ってたしな。それに、憂璃は複数同時で何かするの苦手だろう? まずは自分の身を固めてから子供のことを考えればいいじゃないか。それについては俺は特に反対しないからな」
「椿さん……」
「それにな、結婚してすぐに三ヶ月も離れてたんだ。もうちょっと新婚生活を実感させてくれ」
ちゅ、と憂璃の額にキスを落とし、ニヤリと笑う。
微妙にズレていた互いの恋心がようやく一致してからというもの、椿の憂璃に対する溺愛は他者が見ても一目瞭然といったように、やたらと甘くなっていた。
多忙な中、時間をひねり出しては憂璃の送迎をし、会食もよほどの理由がない限りは昼間にやり、以前は壱岐を含めて三人で食事することが多かったが、今ではふたりで取るのが日常と化していた。
多分椿は出会ってからの三年のすれ違い時間をやり直そうとしてるのでは、と考える。
だけど、あの互いに平行線だった時間があってからこそ、憂璃は今の幸せを実感しているのだから、そこまで気にしなくてもいいのに。
そう思うものの、椿の溺愛は心地よくて、憂璃は椿の胸の中でコクリと頷いた。
離れたくない。離したくない。引き裂くのが子供であっても、椿は誰にも渡さない。
「……と、憂璃のメンタルが少し不安定になってるから、気に留めておいてくれ」
目の前の白衣を着た儚げな容姿をしたオメガの医師に告げる。
「まあ、あの子は気にしいだからね。次の診察でそれとなく聞き出しておく。あ、これいつもの特別発情抑制剤と避妊薬。……っていうかさ、もう番契約したんだから必要ないんじゃない?」
儚げ美人医師──寒川凛は思い出したようにパソコンのキーボードを叩く手を止め、傍らに置いておいた薬袋を取り椿に渡す。
「番の:精液を精製した|抑制剤のほうが体調も安定すると言ったのはお前だろう、凛。実際、自我が崩壊するまで俺を求める憂璃を見てみたい気もするが、その後の反動で自傷されても困るし、なにより、余計なアルファ避けに効果的なんだよ、コレは」
三ヶ月分の薬がたっぷり詰まった薬袋を受け取りながらニヤリと笑う。ずっしり重さのある紙袋の薬は、憂璃が突発的にヒートに入ってからというもの、毎日服用しているものだ。
元は一部の特級家系の更に一部の人間しか知らないが、バース性を変える研究を寒川製薬がしていた過去があり、この抑制剤はその副産物としてできたものだ。
薬価も高く一般にまでは回らないものの、効果は絶大で、オメガの番を大切にしているアルファに需要が高い。
しかも一般的な抑制剤と比べると、個体に合わせて調製されているから、オメガの体にも負担がかからず、安定的に過ごせるという。さらに言えば通常は一週間ほどかかる発情期も、平均的な統計で見れば約三日程度で終わる。
(そう言えば、秋槻紘の弟の番が元はベータだったという話だったな。玲司の友人という話だし、あながち臨床実験に加担してる可能性が大きいかもしれない。そのおかげで憂璃が楽に発情期を過ごせているのだから、凛の好奇心もあながち需要があるのかもな)
じっと凛と見ながら内心で感謝を述べる椿に、凛は「なに?」と首を傾げる。
凛のバース性に関する好奇心は昔も今も変わらず、それは凛自身の秘密に起因してるのかもしれない。
「いや。そろそろ憂璃の大学の授業が終わるな、と思っただけだ」
「ふうん。相変わらず仲の良いことで」
「新婚だからな、当然だ」
凛の揶揄に肩を竦めて答えると、看護師から次の患者さんがお待ちです、と釘を刺してくる。
「ああ、そんな時間。……じゃあ、次は憂璃君も一緒に診察に来てください。その時にオメガの臨床心理士を紹介しますので」
「頼んだ。その前にその臨床心理士のデータを送ってくれ」
別に疑ってはいないが、オメガというのは基本的に強いアルファに惹かれる性質を持っている。自分には憂璃以外目が向かないし、すでに番契約を終えているのだ。秋波を送られても対処に困る。
凛の紹介だからないとは思うものの、前もって下調べだけはしておきたい。
「あんまり憂璃君を束縛すると、いつか逃げちゃうかもよ?」
「違うぞ、凛」
「何が?」
「俺が憂璃を束縛しているわけではない。憂璃が俺を縛っているんだ」
なにそれ、とキョトンとしている凛に微笑み、椿は大量の抑制剤が入った袋を小脇にかかえて診察室を後にした。
今日、壱岐は椿の代理で事務処理を頼んでいたため、椿は自分で車のハンドルを取り運転をする。
途中赤信号で車を停車させると、スーツの懐からいつもの煙草を取り出し咥える。火をつけて一口吸えば甘く、トロリとした香りが車内に充満した。
憂璃と番契約をしても、椿の『後天性フェロモン異常症』は相変わらずだった。
憂璃が椿の匂いを感知したのも、憂璃と椿が運命の番だったという奇跡によるもので、今後も数値は変わらないと凛からも言われていた。
今日の診察は、憂璃の代理というよりも、椿が前回検査した結果を聞きに行ったのが本質だったのである。
本格的に治療するつもりがあるなら、脳神経外科を紹介すると言われたが、椿はそれを断った。
理由は簡単だ。憂璃だけに感じていれば困ることではないからだ。
「憂璃にだけ認識できていれば問題ない。俺を縛るのは憂璃だけで十分だからな」
甘やかで、蕩けそうな、芳醇な匂いを放つ百合の花。
周囲は椿が憂璃をがんじがらめにしていると言うが、事実、椿の:フェロモン(匂い)を覆い尽くすほどの:フェロモン(匂い)で縛っているのだ。
無意識の束縛は甘美で、心地が良い。
だから椿は最愛の番が絡め取る甘い罠に自ら落ちる。
「椿さんっ」
大学の駐車場に車をすべり込ませると、彗と一緒の憂璃が椿を見つけ駆けてくる。
可憐で蠱惑的な香りで番を惑わせる清廉な花。
「おかえり、憂璃。愛してる」
椿の唐突な愛の言葉に頬を朱に染め、椿を誘うような匂いを伸ばしてくる。
それは。
甘く、蕩けて、花開く、憂璃という花、そのものだった。
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