あまく、とろけて、開くオメガ

藍沢真啓/庚あき

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市居杏

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 ごめん、と目が覚めた憂璃に告げられた母の言葉。

「ずっと憂璃に……みんなに嘘をついてたんだ」

 とても思春期の子供を持っているとは思えない若々しい美貌の生みの親は、はらはらと涙を流しながら口を開いたのだった。


 学校の数学教師であるアルファの男に注射を打たれた憂璃は、次に目を覚ましたのは以前も見たことのある白い天井と壁で、微かに香る薬と花の匂いにここが病院だと気づいた。

「憂璃!」

 うっすらと目を開くと椿の顔が覗き込んできて、そのいつもとは違う姿にギクリと体がこわばってしまう。
 人と対面する仕事をしているせいか常に身だしなみを整えており、スーツもシャツも憂璃が来てからは壱岐に手入れの方法を教えてもらい、シャツも三日おきにクリーニングに出して椿に不快感を与えないようにしていた。
 それがどうだろう。
 覗き込んでくる椿の髪は乱れ、顎にはうっすらと髭も生え、目の下にも濃い隈が浮かんでいる。……それに、とてもやつれていた。
 あぁ、きっと彼は自分を心配してほとんど寝てもいないのだろう。それは商品の安否を案じてる姿ではない……きっと……

「つばきさ……み、ず」
「ああ、水だな」

 声を出したくても喉で詰まってしまい思わず咳き込む。水を要求すれば椿は慌てて常温にしてあったペットボトルの蓋を開け憂璃に向けてくれる。
 起きないと飲めない、と憂璃は布団から両腕を抜き、ゆっくりと椿に向かって手を伸ばす。

「すまない。ベッドを起こそうか」

 そう尋ねる椿へと憂璃は首をのろりと横に一度往復させる。そして再び椿へと腕を伸ばすと、椿は仕方ないなと苦笑しつつも、憂璃の腕を首へ回させ、そっとあてがった大きな手が背中を起こしてくれた。
 温かくて、微かに香る甘い花の匂い。思わず鼻先を太い首に擦りつける。
 とても良い匂い。数学教師は椿の匂いに吐き気がすると言ったが、憂璃にとっては一番安心できる香りで、椿の吸う煙草の香りよりも大好きな匂いだ。

「憂璃……?」
「つば、きさ……あの、ね」

 この体勢なら途切れた声であっても、きっと憂璃の言葉は届くだろうと、長年秘めていた思いを告げようと口を開いた途端、入口からコンコンと入室を伺うノック音が聞こえてきた。
 チッ、と舌打ちする椿は対応しようと入口に向かう。その大きな背中を見て、もしかして椿も同じ気持ちでいてくれたのかもしない、と憂璃の胸はトクンと小さく高鳴った。

「お……まえ」

 カーテンが隔てているため誰かはわからないが、椿が息を詰めるようすに、あまり招かざる客なのかもしれない。

「椿さん、どうか……」

 したのか、と問う前にカーテンが横に引かれ、壱岐と椿、椿を押して中に入ろうとする人物に、憂璃は「おかあさん」とたどたどしく呟いていた。



 ただでさえ静かな病室が、今は更に沈黙に満ち満ちており、はたから見れば葬式もしくは通夜のようである。

「……大丈夫?」
「え?」

 空気に溶けそうな小さな声が憂璃に向けられる。まさかそれが自分に対してだとは思えず、憂璃は怪訝な声をこぼしてしまう。

「だからっ、大丈夫か……って」

 少し高めな叫びが発せられたものの、椿の眼光にすぐに小さく萎んでいく母の声。

「はい、大丈夫です。ご心配おかけしました」

 憂璃はそう言って頭をペコリと下げる。母は「そ、それならいいけど」とそっぽを向いて唇を尖らせていた。
 母は普段は外に出ている時間が多く、あまり憂璃とは交流をしてこなかったけども、憂璃が体調を崩して寝込んだりしていると、当たり前のように傍にいてくれて、体に優しい食事を用意してくれてたのを思い出す。
 ぶっきらぼうだけど本質は世話焼きな母。どうしてずっと忘れていたのだろう。

「……で、別室に控えさせてたお前がなぜここにいる」

 壱岐が淹れたコーヒーを啜りながら不躾に椿が問う。その隣で控えている壱岐は苦笑したまま口を開いた。

「あの件で憂璃さんと話したいそうですよ」
「あの件?」

 憂璃は先ほど椿に開けてもらったミネラルウォーターのボトルを両手で包んで首を傾げる。
 ちらりと壱岐が母に目線を投げかけると、母も納得したようにコクリと小さく頷いた。

「ええ、今回の事件のきっかけになった、あなたの実の父親のお話です」


 憂璃の母──市居杏いちいきょうは、自身が両親と同じベータではなくオメガだと判断された日から不幸が始まったといってもいい。
 一般家庭より少しだけ貧しい市居家は、杏がオメガと分かった途端、選択を迫られた。
 この家から一歩も出ず死ぬまでいるか。
 春の街に売られて一生いきていくか。
 もし、この家にいるのなら、抑制剤なぞ買う金なんてないから、発情期になったら部屋から絶対に出るな、との条件も付け加えられた。
 期限は三日。その間に自身で決めろ、と言われた杏は、両親に期待なんてするべきではなかった、と消沈したまま学校へと登校したのである。
 突きつけられた現実に、杏は賢くない頭で必死で考えた。
 家にいれば生活は保証されるが、ほとんど籠の中の鳥状態。
 外に出れば自由は得られるものの、夢だったパティシエを諦め、見知らぬ男たちに抱かれ、オメガという現実を突きつけられる運命。
 杏は心の中で叫んだ。どっちも嫌だ、と。
 そして、自分がオメガである現実を悲観し嘆いた。
 一度春の街に入れば、それまでにかかった費用が借金となり、返済を終えるまでは囚われたまま。
 それは家にいようが外にいようが、場所が違うだけでなんら変わりない。

 だから杏は最後の選択、死んでしまおうと、学校の屋上へと足を向けた。
 授業も終わり、ひとけのない屋上は孤独になった杏を空気が優しく包んでくれた。
 あぁ、こんなに優しいのなら、ひとりで死ぬのも悪くないな、と柵まで歩く。が。
 杏の体に変化が起こる。
 体の内からドクドクと血液が激しく体を巡回し、排泄孔がズクズクと疼いて濡れた感覚がする。首筋から甘酸っぱい匂いがぶわりと広がり、夕暮れの風が香りを攫っていく。
 一度だけ目を通した厚生省から送られたパンフレットにあった発情期の症状と同じだった。
 マズイ、と思ったものの両足は生まれた仔鹿のようにガクガクと震え力が入らず、開かれたまま飲み込めない唾液が滴る口は荒く、今まで存在を感じなかった乳首はピンと勃ちあがり、制服のシャツに触れるだけで悶えるほどの快感が走る。
 空は今にも紺色の空が降りてこようとしている。眼下の運動場もすでに部活が終わっているのか、誰ひとりもいないその場所は、とても不気味に見えた。きっと下校時刻が過ぎて校門も閉じてしまっているのだろう。
 屋上は宿直の教師が最終下校時に施錠にやってくる。この学校の教師は保険医以外はベータかアルファだ。
 ベータならまだしも、アルファなら目も当てられない。一刻も早く立ち去らないと。
 杏はふらふらに足をよろめかせ、屋上から出ようと出入り口に歩む。しかし、ノブに触れる寸前、ガチリと開かれた鉄扉から現れた教師と対峙し、杏は絶望の淵へと落とされた。

 結果を言えば、杏のヒートに誘発されたアルファ教師はラットを発情。そのまま汚いコンクリートの地面に押し倒され散々犯された。
 裕福ではないから大事に着て、と母に言われた学ランも、父に似た栗色の髪と瞳も、どこもかしこもアルファの白濁に汚され、初めて開かれた排泄孔からは精液に混じった鮮血がトロトロと白い足を流れていく。
 外だったのが幸いしたのか、アルファはうなじを噛まなかった。その代わり口止めであられもない姿の杏の写真を何枚も撮り、そのまま杏を放置して立ち去ってしまった。最低最悪だ。杏はすっかり暗くなった空をぼんやりと眺め唾棄する。

 なんでオメガというのは、こんなに理不尽な扱いを受けるのだろう。
 アルファには蹂躙され、ベータには汚物を見るように扱われ、汚され犯されティッシュのように捨てられる。
 杏は自分の運命に嘲笑した。
 もう、夢もなにもかもオメガというバース性に奪われた。
 どうせ穢れてしまったのだ。それならひとりでも生きていけるように、春の街に行こう。子供を売ろうとする両親に一銭たりとも与えるのは癪だ。
 杏はのろのろとアルファの精液がついた制服を着て、そのまま自宅へと帰った。
 両親は杏がレイプされたというのに、心配どころか「これだからオメガは」と侮蔑の視線を杏に突き刺した。
 そんな非情なよっつの目を無視して自室に入ると簡単に荷物をまとめ、再び両親の前に立つ。
 もう二度と帰ってこないこと、春の街にはひとりで行くから足代を出せ、と。
 特に抵抗も反対もされず、両親は杏に万札十数枚を裸のまま渡し、杏も別れの言葉もなく家を出た。
 アルファの精が胎内にあるから、ヒートは落ち着いている。
 杏はオメガが運転手のタクシーを呼び寄せ、そのまま春の街へと入ったのだった。

 春の街は名前だけは時折テレビでも流れていたので知っていたが、陰惨な雰囲気はなく、逃走防止用の壁はあるものの、繁華街のように明るく賑わっていた。
 紹介ではなく単独でやってきたオメガは、春の街に入る前に審査を受ける。簡易的な身体検査と面談だ。
 春の街はオメガとアルファのシェルターの意味合いも持っているが、同時に明確な性と金の欲望に溢れている場所でもある。
 比較的、街の住人が外に出入りすることに関して寛容ではあるものの、それが逃走と判断された時点で、命の保障はなくなる。そして、外から来るオメガやアルファが善人とは限らないのだ。それを見極めるための措置だと説明された。
 丁度、街を支配するふたつの名家──玉之浦家と桐龍家の内、玉之浦の当主が来ているというので、彼が直接審査をするとのことだった。
 警備員はラッキーだな、と言っていたが、杏にはどうでも良い話だった。
 どうせどこに行ったってヤることは一緒だ。
 アルファに体を売り、そのお金もほとんどが持って行かれ、最後には使い捨てされる。
 だが、杏の予想は大きく変わっていった。
 玉之浦の当主は最初に杏にお腹は空いてないか、と尋ねた。
 確かに夕方レイプされ、家でも夕飯を食べずにその足でここに来たのだ。当主の言葉に昼にパンと缶コーヒーで済ませた憂璃のお腹が素直な反応をする。
 呵呵と笑う当主は、杏のために食事を取り寄せてくれ、それを食べながらポツポツと生い立ちや今日起こってしまった出来事や、将来の夢を話してしまっていた。

 当主はふむと思案顔になり、それから「君が良ければ、だけど」と前置きした上で語ってくれた言葉は。
 今はアルファとオメガの性の街という印象を与える春の街を、彼らが住みやすく仕事をしやすい街にしたいと言う。
 そこで、杏にはやはり娼館で働いてもらう。だが、そこは給料も良いし、決して娼夫を蔑ろにする場所ではないと保証する。そして、杏にも努力をしてもらい、給料に見合う仕事をして欲しい。
 できれば早くお金を貯めることができたら、杏は街の外の製菓専門学校に入ってパティシエの勉強をするといい。
 修行場所は娼館のレストランでやれば問題ないだろう、と提案してくれたのだ。

 地獄に仏とはこのことを言うのかも、と杏は思った。
 ある意味杏は世間を知らなかった。オメガと発覚するまでは、貧困ではあったものの杏を高校まで行かせてくれた。まだ高校に入ったばかりでバイトもしていない子供だったのだ。
 春の街が本当の意味での地獄だと知るのは、杏が快諾して三大娼館翠蓮館すいれんかんで働き始めてすぐのことだった。

「ま、玉之浦当主には感謝はしてるよ。本当に。まさか裏の部分を言わずに美味しいところだけを提示するとか、ヤクザの手法だもんね」
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