あまく、とろけて、開くオメガ

藍沢真啓/庚あき

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フェロモン安定剤

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 衝撃的なできごとから数日後。
 固かった桜の蕾はここ数日の暖かさにゆるりと薄紅の花をほころばせ、枝々に春の色をまといだす。

「こんにちは」
「いらっしゃいませ……って、憂璃君、体は大丈夫なの?」

 療養で学校を休校している間に春休みに突入した憂璃は、ずっと傍に付き添ってくれる椿と共に壱岐の運転で、玲司と桔梗のいる『La maison』に昼食を取るため出向いていた。
 以前来た時よりも庭のハーブは緑を濃くし、可憐な花が光を受けて輝いているようだ。
 『La maison』の前庭は長年春の街の狭いアパートで暮らしていた憂璃にとって夢のような場所だった。
 春の街周辺には小さな公園があったけども、街自体が繁華街なのもあり、花の匂いどころか生ゴミの臭いや香水や化粧の混じった酷い臭いしかしなかったからだ。
 そんな生活環境で育ったこともあり、憂璃は植物が好きだった。本の次に、ではあるが。

 ランチタイムからティータイムの閑散時間を狙って来たからか、店内にはふたり以外誰もいない。表向きはフィナンシャル・プランナーに会社を経営しているとはいえ、その実は玉霞会の若頭である椿は、親友に迷惑をかけないよう、人の少ない時間を狙ってきたようだ。
 今日はプライベートでシャツにノーネクタイではあるもののカジュアルジャケットを羽織り、下はブラックデニムというラフスタイルであったが、アルファらしい精悍な美貌と、何度かマスコミに取り上げれられ周知されているのも大きい理由なのだろう。下手に注目を集めたくないのも納得できる。

(椿さん、何を着てもかっこいいから)

 憂璃は左肩を固定されてきっちりとした服が着れないのもあり、淡い草色のカットソーに水色のロングパーカーとスキニージーンズ姿で、壱岐はいつもと同じように濃紺のスーツ姿だった。
 憂璃が姿を見せた途端、桔梗は駆け寄り心配げな眼差しを向けてくる。多分、凛から話が行ったのかもしれないな、と思い、大丈夫です、と憂璃はふわりと微笑んだ。

「……え?」
「どうかしましたか、桔梗さん」
「え、あ、ううん。ごめんね、なんでもないんだ」

 桔梗は首をかしげながらも、三人を奥のソファ席へと案内する。
 椿や壱岐には苦でもないが、オメガで身長が低く肩を固定された憂璃には、カウンターに片手で座るのが大変だったので、桔梗の自然な気遣いは素直に嬉しい。
 フカフカなソファに腰を下ろすと、思わず溜息がこぼれ落ちていた。

 入院したその夜、二回目のヒートがやってきた。
 たまたま憂璃が病院に入ってたのが幸いし、凛によってすぐに処置してくれたおかげで、最初の時のような淫蕩に頭の中が支配されることもなく、様子見を含めて五日ほどで退院することができた。
 肩は脱臼していたらしく、しばらく固定となり、生活が不便……というより、椿や壱岐の食事をどうしようと悩んでいたが、それもすぐに解消した。
 というのも、入院した日から椿がずっと憂璃の傍に居たからだ。

「椿さん。傍にいてくれるのは嬉しいんですけど、本当にお仕事は大丈夫なんですか?」
「あ? あぁ、うちの会社は基本がリモートワーク推奨でな。打ち合わせもネット会議でほぼ事足りる」
「……そうなんですね」
「カシラは元々ワーカホリック気味ですから、丁度良かったかもしれません。外に出ると付き合いやなんだでお酒を浴びるほど嗜みますから」

 浴びるほど……それは体に悪いな、と憂璃は内心で頷く。

「それから憂璃さん、食事は心配しなくても大丈夫です。朝は私がなんとかしますし、昼と夜は玲司さんがこちらに特別にデリバリーしてくれるとおっしゃってましたよ」
「そうなんですか?」
「ええ。三人前増える位なら特に問題ないそうです。それに、気分転換に外で食事するのもいいでしょう、ってカシラもおっしゃってますし」
「おい」
「今回の件でカシラは憂璃さんを傍から離したのを後悔しているんです。あと前々からカシラのオーバーワークなのを注意していたんですけど、これを機会におふたりで一緒に居てもらえると、私も管理が楽で助かります」

 にこやかに話す壱岐の言葉に、居心地が悪そうに椿が眉をひそめる。
 もしして、椿が自宅で仕事すると決めたのも、商品である自分が外で関わった人間に襲われたから、監視の名目もあるのかも、と喜びに膨らんだ気持ちがすうと小さくなるのを感じた。

「ごめんなさい、椿さん。あと……ありがとうございます」
「……気にするな」

 渋面を解き、椿が微笑を浮かべて憂璃の頭を撫でてくれる。

(あ……これ、夢で感じたのと一緒だ)

 怪我をして病室で眠っていた時に見た夢を思い出してしまい、恥ずかしさに俯きながらも、椿の手を甘受する。
 椿に引き取られた当初はまともに手入れされておらずパサパサで枝毛だらけだった髪も、壱岐が持ち込んだとても良い香りのするシャンプーとトリーメントのおかげで、今や艶もあり指通りの良いしなやかな髪となっていた。
 肌もアザや傷があった場所もすっかり目立たなくなり、同級生の藤田からは「天然ビスクドールみたいな肌だね」と賞賛してくれた。あまり嬉しくない褒め言葉ではあるが……
 肩は凛から脱臼は癖になりやすいから、と固定するサポートは一ヶ月は着用するようにと厳命された。おかげで今日は三人で玲司の店に訪問した訳だが。

「桔梗さん、今日のランチはどんなのですか?」

 予定より長くなってしまった入院を終え、寒川総合病院からその足でふたりに会いに来た憂璃のお腹は空腹で、今にも鳴き出してしまいそうである。

「えっとね、鰆のポワレ桜風味と、菜の花とホタルイカのサラダとそら豆のクリームスープのセットと、クレソンとベーコンの和風オムライスのセットだね。こっちもホタルイカのサラダとそら豆のスープがついてくるよ」

 春らしいメニューに、憂璃は喜色を示す。

「憂璃はどっちにするか?」

 椿からの問いに、右手を顎に添えてうーんと唸る。
 どっちも魅力的だし、春野菜のメニューはいつでも食べれる代物でもない。

「鰆のポワレも桜風味というのが気になるし、クレソンとベーコンの組み合わせも気になっちゃって……」
「そうか……じゃあ桔梗君」
「はい」
「ポワレのセットをひとつと、オムライスのセットを。壱岐はどうする?」

 メニューを眺めていた壱岐は、そうですね、と呟き、オムライスをもうひとつ、と言い。

「あ、オムライスはひとつだけ大盛りでお願いします。それから、小皿をご用意していただけますか?」

 てきばきと注文をした壱岐の言葉に、桔梗はぱちくりと一回瞬きをしたものの、壱岐の意図を察したのか「承知いたしました。少しお待ちください」と、三人の前にレモン水の入ったグラスを置いて立ち去る。
 憂璃は自然と桔梗の姿を目で追う。
 カウンター奥にある厨房に桔梗の澄んだ声が今しがた告げた内容を復唱し、微かに「わかりました」と玲司の返事がすぐに返ってくる。
 どこも飾り気のない、当たり前の普通の番の姿がそこにあり、憂璃は憧憬の眼差しを送っていた。

 いつか自分を買ってくれる人が優しい人であればいい。
 そうしたら玲司と桔梗のような穏やかな関係に発展して過ごすことができるかもしれないから。
 だけど……本当はずっと椿の傍にいたい。
 そう願うのは烏滸がましいことなのだろうか。


「お待たせしました、鰆のポワレのセットと、オムライスセットふたつです」

 玲司と桔梗が並んでそれぞれの前に皿を置く。
 白い皿の中心に皮が香ばしく焼かれた魚に緑の葉が細かく刻まれたソースが掛かっている。
 ボイルしたアスパラガスと人参が目に鮮やかだ。
 サラダも菜の花の緑とホタルイカの赤が目を引き、黄身のそぼろがポイントとなっている。
 そら豆のクリームスープも具沢山で、見ただけで美味しそうなランチに、憂璃の喉がコクリと鳴る。
 それにしても、と憂璃は自分の食事の皿から椿と壱岐の皿に視線を移す。
 一見すると普通のオムライスに見えるが、黄色の卵にかかっているのはケチャップの赤ではなく、トロリとした和風ベースの餡がかかっている。豊かな鰹だしがふんわりと湯気に乗って漂っている。こちらも美味しそうだ。

「おい、玲司。お前たちもこれから昼食だろう? せっかくだから一緒に取ればいいんじゃないか」
「……そうですね。桔梗君、プレートをclauseにしてくれますか?」
「あ、はい」

 桔梗がパタパタと店の外に出るのを見送り、玲司は準備してきますのでお先に、と言い残しキッチンに向かう。

「じゃあ冷める前に食うか」

 椿が一番にスプーンを手にし、なぜか小皿を次に取る。端を少し取り分けると、その皿を憂璃の前に置く。

「え?」
「気になってたんだろう? そっちは残ったら俺が食うから、気にせずに食え」

 ほら、と小さなスプーンも一緒に渡され憂璃は戸惑う。
 なぜなら、これまで何度も椿と食事に出かけることはあったものの、大皿料理は別にしてもこのように料理をシェアすることなんてなかったからだ。
 椿はマナーに厳しい。
 それは憂璃が誰かに売られても困らないように、椿自ら立ち振る舞いの指導をしてくれていた。
 その椿が料理を取り分けたり、残ったら自分が食べると言い、憂璃が困惑するのは当然だった。

「どうした。早く食わないと冷めるぞ」
「え、うん。い、いただきますっ」

 焦ってしまってスプーンが皿と触れ合ってカチャカチャ鳴るし、掬ったスプーンから卵やご飯がポロポロこぼれて、正直マナーとしては落第点レベルだったが、椿は決して嗜めることなく穏やかな眼差しで憂璃を見守ってくれた。

 鰆は皮がじっくりと焼かれパリパリで、桜の葉の塩漬けをソースに使っているのが桜風味なのだろう。口の中いっぱいに春の香りが広がり、心までウキウキしてしまう。
 椿がよそってくれたオムライスも、クレソンの苦味とベーコンの脂の甘みが醤油ベースのご飯に絡まり、卵にかかっていた餡は優しい味で、とても満足だった。

 それから玲司と桔梗も自分たちの食事を持ってきて和気あいあいと昼食を楽しんだ。

 食後には憂璃だけに苺とふわふわの生クリームが挟まれたロールケーキが提供され、ふたりからは「退院祝いですよ」と言ってもらい、ありがたく頂いた。フカフカのスポンジケーキに雲のような食感の甘さ控えめなクリームが舌の上ですっと溶けていく。苺の酸味が口の中をさっぱりとさせ、皿の上のケーキはあっと今に空となっていた。
 満腹になってお腹をさする憂璃を、椿や壱岐だけでなく玲司も桔梗も微笑ましく見ている。

「あ、そうだ。すみませんが、お冷のおかわりをお願いしてもいいですか? できればレモン水じゃなくて普通のお水がいいんですけど……」

 ふと、何かを思い出したのか玲司に言ったあと、憂璃は「壱岐さん、お薬お願いします」と壱岐に話かける。壱岐もすぐに鞄の中から薬袋を取り出し、中から水色と白のカプセルが個装されたシートが出てくる。
 玲司が水を取りに席を外してる間に、壱岐の指がパチリとカプセルを包装から押し出す。途端に桔梗は眉をしかめたものの、そそくさと椅子から立ち上がり「すみません、玲司さんのお手伝いをしてきます」と厨房へと消えていった。

 不審な桔梗の行動に椿は怪訝な顔をしたが、直後に玲司が戻ってきたため、受け取った水のグラスを憂璃に手に渡す。
 同時に壱岐から渡されたカプセルを、憂璃は抵抗もなく口に含み、水で喉に流し込む。
 玲司は桔梗から何か吹き込まれたのか「そのお薬は怪我のですか?」と憂璃に尋ねる。

「このお薬ですか? これは凛先生から処方された、フェロモンを安定させるものだそうです。僕、まだヒートが安定していないので……」

 憂璃が説明するのを「そうでしたか」と納得する返答をしていたものの、鋭い眼差しはひたりと椿に据えられていた。


    ◇◆◇

 椿たちが食事を終え、また夜に壱岐が夕食を受け取ると約束をし、彼らが退店してしばらく。

「玲司さんも気づいてましたよね」

 皿を洗う玲司の横でグラスを磨く桔梗の呟くような声に、玲司は「ええ」とため息まじりに言葉を返す。

「あれ、フェロモン安定剤って憂璃君は言ってましたけど、あれだけ玉之浦さんの圧を感じる薬って一体……」
「うーん、十中八九、凛の開発したものだと思うんですよね。ただ」
「ただ?」

 首を傾げて言葉を促す桔梗に、玲司は困ったように笑みを浮かべて。

「外野があれこれ言うのも野暮ですし、凛も椿もなにか考えがあって憂璃君にあの薬を服用させているのでしょう。僕たちはしばらくは静観したほうが良いと思いますよ」

 愛おしい番の額に唇を寄せ、小さな熱を与える。

(……まあ、他のアルファを牽制するには有効ではあるんですけどね)

 玲司は濡れた手をタオルで拭うと、華奢な番をそっと抱きしめながら苦笑するしかなかった。
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