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嫌悪する存在

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 秋槻学園は初等部から大学まで最長十六年を過ごす、巨大な学園都市だ。
 広大な敷地には職員の宿舎だけでなく、外資系のスーパーマーケットが入っており、あまりにも広く歩くには適していないのもあって、学園専用の循環バスが走ってるほどだ。

 憂璃が勤める図書委員の仕事は、高等部の中にある施設ではなく、隣接する大学部の敷地内にある大きな図書館での業務だった。
 基本的な業務は本の貸出や返却受付に、返却本を棚に戻したり、簡単な掃除だったり。

「柊君、返却されたこの本たち、書架に戻してもらえるかしら」
「あ、はい。こちらのカート全部でいいですか?」
「ええ、今日は返却本が多くて大変だと思うけど、お願いね」

 大学職員で司書のオメガ女性に、憂璃は快諾した。
 初等部と中等部にはそれぞれの校舎に図書室があるものの、高等部になると隅々と教育を行き届かせたいとのことから、場所を取る図書館を大学のものと併用という形にしたそうだ。
 大学との間にあるその場所は徒歩十分ほどで、道程の小道には四季さまざまな植物が目を楽しませ、憂璃は高等部に入ってからというもの二年の間図書委員を勤めている。
 きっと三年になっても同じ委員に就くだろう。
 多少の懸念事項はあったものの、それよりも好きのほうが優っていた。

 もともと憂璃は本の好きな子供だった。
 最初は母が与えてくれた一冊の絵本。母にしてみれば気まぐれの産物だったが、憂璃はとても嬉しくて、気づけばつなぎ目が剥がれるほど読み込んだ。
 小学校からは春の街の外にある学校だったので、初めて図書室に入った時には、目の前の全部が本だと教師に教えられ、貪るように読んだ記憶がある。
 のめり込みすぎて下校時間を忘れてしまって、怒られたことは数回あった。
 知らない世界を知るのは楽しい。同時に憂璃の世界が狭いと知って悲しくもなった。

 だから憂璃は本を読んだ。
 埋められなかった隙間を必死で埋めるように。
 重なった本の分だけ、憂璃の知識が広がるのを感じた。

 おかげで椿に引き取られるまでの小学校から中学校までの間、憂璃は成績優秀生徒として、高校の推薦も複数来ていた。結局は椿の元に行ったことにより、無試験で秋槻学園に入学することになったのだが──

 憂璃は慣れた足取りでカートを押し、返却本を棚に戻していく。二年目ともなると、ほとんど迷わず何がどこにあるか理解していた。

 少しだけ埃の匂いをまとわせる古い本たちの匂いを吸い込むと、ワクワクとした気持ちが湧き上がる。

 迷路のような館内を歩きながら、今日はなにか本を借りようかなと考えていると「憂璃」と背後から声が掛かる。
 またか、と憂璃の柳眉が嫌悪に歪む。こういう風に同じ人物から声をかけられるのは初めてではないからだ。

「おい、憂璃待てよ」

(さっさと用事を終わらせてしまおう)

 軽薄そうな男の声を聞かなかったことにして、憂璃はカートにある本を次々と棚に差し込んでいく。
 どうしてこうも人気ない場所にきた途端、この人は自分に声を掛けてくるのだろう、と溜息がこぼれそうになるも、そんな行動を起こせば憂璃が男の声が聞こえたことになるので、淡々と作業を続ける。
 背後から漂う男の香りは不快の一言でしかなく、好きな本の匂いがかき消され鼻に皺が寄る。

 軽薄な男──茶咲真矢ささしんやは、秋槻学園大学部に所属の学生だ。彼はなんの思惑があってかは知らないが、憂璃が図書委員に任命され図書館で手伝うようになってすぐ、やたらと声をかけてくる人物だった。
 本人は自分がアルファであるのを自慢げに話し、それをステータスとして色んなオメガを侍らせてるのを耳が腐るほど聞かされていた。きっと珍しい見た目の憂璃をコレクションのひとつに加えたいのだろう。
 ある意味クズの極みだ。

 今のところは駆け引きが楽しいようで、強引にしてこないのが幸いだが、彼の家が出てくると厄介極まりない。
 茶咲の父親は玉霞会の第三次団体のひとつをまとめているからだ。
 一次団体である玉霞会はまともなシノギをして生計を立てているが、巨大な組織の弊害というべきか、三次団体のひとつである茶咲組は、影で薬物売買だけでなく法を無視した取引をしているらしい。茶咲の言葉の端々からでも父親が違法な手法で懐を潤し、自分はその恩恵に与ってると自慢げにしているのに辟易する。
 まっとうなシノギであれば玉霞会も看過していたかもしれないが、そのラインはとっくに超えている。
 というのも、茶咲組は目立ちすぎたのだ。故に警察に目をつけられたため粛清として処分をするとのこと。
 これは憂璃が壱岐からの指南で知った情報で、茶咲には憂璃が椿と関係あるのを知らないはず。でなければ、茶咲がこんな風にあからさまな態度で憂璃に迫ることはないからだ。

(さっさと諦めてくれればいいのに……。決して彼に惹かれることはないのだから)

 不快で醜悪な匂いに包まれ、憂璃は本を棚に戻し終えてカートを押してカウンターに戻ろうとすると、グッと肩を強く掴まれ痛みに顔を歪める。
 なし崩しに振り返ると、茶咲のニヤケた顔が近くにあり、背筋がゾワリとわななく。

「は、離してくださいっ」
「やっと俺に気づいてくれた。ホント、憂璃はツンデレだよな。そんなにオレの気を引きたいのか」
「……は?」

 なにを世迷言を言っているのだろう。または寝言か。

「馬鹿なことを言ってないで離してください。みだりにオメガ生徒に触れるのは禁止されてるはずです」
「それは、オメガ側が拒否した場合だろう? 憂璃は恋人のオレを独り占めしたくてワザとやってるんだろうが」
「僕は拒否をしてますし、あなたの恋人でもありません!」

 学園の規則で、番のいないオメガに気軽に触れていはいけない、というのがある。
 それは不用意にアルファの匂いを付けてしまわないようにとの配慮からくるものだ。
 しかし、この学園は裕福な子息、令嬢が通う学校で、そういった子供たちは昔から婚約者が存在しているのもあり、番うことを約束したオメガは限定的なアルファとの接触を許されていた。
 広大な秋槻学園のどこかに発情ヒートになったオメガをアルファが肉体的に介抱する施設があるらしい。寮生ではない憂璃には関係ない場所であるも、時折発情ヒート後のクラスメイトがアルファの匂いをまとわせ授業を受けているのを目撃しているのもあり、あながち都市伝説ではないのだろう。

 しかし、茶咲は憂璃の番でもなければ、恋人と認めたわけでもない。

「茶咲さん。なにか勘違いをされているようなので、はっきりと言います。僕、ずっと好きな人がいるんです。決してあなたではありません。ですので、もう僕に構わないでいただけますか」
「はぁ?」
「ですから、僕はあなたが好きではない、と言ったんです。まだ業務中なので失礼します」

 毅然と憂璃の言った意味が理解できていないのか、茶咲は眉を歪めたまま怪訝な顔をしている。
 まだ脳内処理ができてない内に、茶咲の拘束をほどき、憂璃はそそくさとカートを押して人の大勢いるカウンターへと逃げ込んだ。

 あんな言い方をすればプライドの高いアルファの男は憤怒するのは分かっていた。けど、二年近くあれやこれやと業務の邪魔をしてきた上に、いつの間にか憂璃があの男の恋人の位置に勝手に立たされたのだ。
 椿を思い慕っている憂璃からすれば、とっくに怒りをぶちまけても良かったほどだ。
 これまでずっと我慢してきたのは、図書館職員や委員のみんなが憂璃がオメガであっても公平に接してくれて、アルファの人の対応がきた時にはさりげなく代わってくれたりしてくれる仲間に迷惑をかけたくなかったから。
 学園自体の規則や体制はアルファとオメガの接触を無駄に禁じてる雰囲気があるが、まったく交流していない訳ではなく、どのバースも社会に出た時に戸惑わないよう、細かな対応をしてくれている。
 椿が選んでくれたこの学校に入る事ができて憂璃は幸せだし、感謝もしている。
 だからこそ、茶咲のような愚劣な人物に屈したくないのだ。

「柊君、顔色悪いわよ」
「……すみません。また、あの方が……」

 憂璃に返却本を片付ける業務を頼んできた司書が、顔色を悪くする憂璃を心配して声をかけてくる。チラリと逃げてきたほうに視線を向けると、本棚の間から茶咲のじっとりとした視線が憂璃の全身を舐め、吐き気がこみ上げてくる。

「あぁ、茶咲君ね。あの子、ここに出入り禁止の処罰を受けてるのに、どうやって入ってるのかしら」
「え? そうなんですか?」

 この図書館だけでなく、学校に入るときですら、生徒手帳代わりの身分を証明する電子カードが発行される。これは高等部から大学部へ移動する際ゲートにてスキャンし、入退時間を打刻し不正侵入を避けている役割も果たしている。
 他にもこのカード一枚あれば、学園内の敷地にあるスーパーなどで買い物した時に記録がされ、後日引き落としで会計を済ませることができる。
 噂では過去に処分された履歴も残されるようだから、司書の話ももっぱら嘘ではないのかもしれない。

「ええ。以前からオメガの子に必要以上に近づいたりするものだから、あちこちから苦情が出ちゃってね、業を煮やした学園側が処分したって話なんだけど……」

 一応図書館側から学園に進言するけど、との司書からの言葉に、憂璃は首をゆるゆると振って断る。
 学園に苦情を申し立てても、逆に茶咲の逆鱗に触れる可能性がある。
 茶咲は本人はわからないものの実家は裏社会の人間なのだ。学園側に迷惑をかける訳にもいかないし、もし、学園側から保護者である椿の耳に届いてしまったら、各方面に憂璃の悪印象を与えてしまう結果になる。
 なんとしてもそれだけは避けたい。

「ご心配おかけしてすみません。どうにもならなくなったら、僕から先生に相談してみます」
「そう? でも、無理はだめよ」
「ありがとうございます」

 頬に手を添えて首を傾げる司書に、憂璃は微笑んでみせる。

(なるべく誰かと一緒にいるようにすれば大丈夫。はっきりと拒否を言ったし、まともな人間なら、もう僕に近づこうとは思わないだろう)

 司書は「なにかあったらすぐに言うのよ」と憂璃に残し、自分の仕事をするために離れていった。
 その後はバックヤードで返却本の消毒や簡単な補修などをし過ごす。おかげで茶咲に絡まれることもなく、穏やかな時間を送ることができた。

 夕方五時になると、閉館と同時に図書委員の仕事も終わる。
 憂璃は司書やスタッフに挨拶をし、玄関ホールで待つ壱岐の元へと向かう。まばらではあるものの、人の気配も多いし大丈夫だろう。
 この図書館は元が別の場所に経っていた旧時代の西洋建築を移築し、リノベーションした建物だ。和洋折衷の名残を残す見事な欄間に、飴色の柱や階段、モザイク模様の精緻な床は、見ていて溜息がこぼれ落ちる。

(本もだけど、古いものが好きなんだな、僕)

 色んな感情や記憶が染み込んで静かに時を刻むものが好きなのかもしれない、と憂璃はゆるりと廊下を歩きながら感慨深く思い馳せていると。

「!?」

 不意に横道から細く黒い影が伸び、憂璃の腕を掴む。突然のことに一瞬硬直したものの、触れる見知らぬ体温に怖気が走る。
 一体誰だ、困惑する頭で必死に逃れようと体をじたばたと動かし暴れる。嫌だ! 気持ち悪い! キモチワルイ!

(嫌だ、椿さんじゃない人に触れられるのは嫌だ!)

 不意に謎の手がコートを着ていた暴れ続ける憂璃の体をねっとりと這い回る。
 全身の産毛がゾワリと逆立ち、頭がズキズキと痛みだす。

「……やっとふたりきりになれたね、憂璃」

 耳元で荒い息と共に囁かれた声。湿り気が肌を這い嫌悪に粟立つ。
 気持ち悪い、きもちわるい、キモチワルイ──!!
 耐え切れず憂璃は全身から溢れるように悲鳴を上げていた。

「──っ!」

 まさか憂璃がここまでの拒否を示すと思わなかったのだろう。
 茶咲は憂璃を床に叩きつけるように投げ、慌てて逃げようとする。アルファのとっさの力で投げ出された憂璃は、磨かれた石の床に全身を跳ねさせゴツリと頭に衝撃が襲う。

 オメガの体はゆっくりと作り替えられ、骨も細く全体的に華奢になっていく。反してアルファは骨も太く、筋肉も発達し、オメガにとってアルファの暴挙は嵐のように理不尽に振り回され傷つく。

(……助けて。椿さ……ん……)

 体がズクズクと痛む。特に肩のあたりが熱くて痛みの塊みたいなものが暴れているよう。
 倒れた時に頭でも打ったのか、だんだんと意識が霞んでくるのが分かる。

 また椿に迷惑をかけてしまう、と混濁する頭の中で浮かび、悲しくて辛くて涙があふれてくる。
 悔しい。こんな簡単なことアルファの男ですら上手くあしらえないなんて。

「憂璃さん!」

 壱岐の叫ぶ声が聞こえ、かろうじて残っていた意識が闇へと落ちていった──
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