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若頭補佐の憂鬱

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 そうか、と不機嫌な声が電話を通して聞こえ、壱岐の背筋に冷たいものが伝う。

「……確か、玉霞会のシマでクラブ嬢してたヤツだったか。金は渡したんだろう?」
「もちろんです。十分な金額をアレには渡してますし、その時は納得してました」

 壱岐は憂璃の送迎時に起こったトラブルについて報告したばかりだ。

 絡んできた女は、ベータでありながらそこそこの容姿を持ち、クラブの中でもトップに昇る売上を叩きだしていたものの、同じくらいトラブルも多かった。
 そこで夜の商売でよく見る『色恋』を椿が女に仕掛けたことから関係が始まった。
 椿にとっては仕事の一環で、実際抱いたのも五年のあいだに片手で余る程。憂璃を引き取ってからは没交渉状態で、店にすら顔を出していなかったのだ。

(元はそこそこの金を持った家庭で育っていたというし、過去の栄華が忘れられなかったのか、椿の容姿と財産に個室したかのどちらかだろう。いや、もしかしなくてもあれだけの強欲な女だ。椿を手に入れ、かつ姐になれば自由な金が動かせるとでも思ったのかもしれない。)

 壱岐が椿からの代理で別れの手切れ金として女には七桁の金を渡していた。その時は快諾していたように見えたが、まだまだ搾り取れると算段したのか、今日突然壱岐の前に姿を現し、椿に会わせろと喚き散らかしたのだ。
 椿の掌中の珠である憂璃の送迎をしているのを知っているのは、組の中でも極少数の人間しか把握していないはずなのに、女はどこから情報を手に入れたのだろうか。

「……馬鹿だな。どうせ金に目がくらんだんだろう。ここのところ売上も激減してると報告があったしな。ベータ如きが下手に夢を見なければそれなりに幸せでいられたろうに……な」

 くつくつと嗤う椿の声が耳に届き、思案に沈んでいた意識が戻る。

「それで、他の奴らは今のところ妙な動きをしているヤツはいないんだろうな」

 威圧を感じる声が聞こえ「問題ありません」と返す。
 憂璃が発情期ヒートに入るまで、椿には四人ほど体だけの関係の人間がいた。
 ひとりは、表の会社のひとつで取引のある女アルファ。
 ひとりは、椿が出資するデザイン会社の男オメガ
 ひとりは、よく行っていたバーのバーテンダーで女オメガ。
 最後に、今日トラブルを起こしたベータの女。
 彼らには、付き合いの長さに応じて百万から千万単位で手切れ金を渡してあった。最低額がベータの女だったのだが、どこかで他の愛人たちの金額を知ったのかもしれない。
 部下の天竹に話の出処先を調査をしてもらうよう、頭のメモに書き留める。

「詳細を天竹に依頼して、報告は後日でよろしいでしょうか」
「ああ、構わない。……ところで、いま憂璃はどうしている」

 いつごろ話題が出るかと思っていたが、おもいのほか早く出てきたな、と苦笑する。

「明日も学校がありますからね。もうお休みになっています。……カシラの寝室で」
「……そうか」

 どこか安堵したような甘い声。

「そんなに心配でしたら、明日にでも帰ったらいかがです。今日も一日落ち込んでましたよ」

 椿のため玲司から料理を習いたいと懇願した健気な憂璃を、厳しい顔で椿が反対したのが日曜日の午前中。
 夕方に泣きはらした目でリビングに現れた憂璃は、迷子のように赤い瞳を揺らめかせ不安定に感じた。
 買い物に行けなかったからと、冷蔵庫の材料で作ったロールキャベツ、ホットサラダにはヨーグルトソースがかかり、雑穀米に箸休めの白菜の浅漬けはゆずの香りが爽やかだ。
 少しだけ塩分が多く感じたのは、憂璃が泣いて鼻が詰まっていたのだろうと沈黙した。
 壱岐は丁寧に作られた食事を取りながら、目の前に座る少年を観察する。食事には手をつけずぼんやりとテーブルに視線を留めたまま、悲しげに眉を歪めていた。

 憂璃が椿に依存しているのを、壱岐は随分前から気づいていた。
 依存がいつしか恋に変わっていったのも。
 同時に、椿が憂璃と初めて対面した時、彼が憂璃に惹かれているのにも気づいていた。そして椿と憂璃が運命だという絆で結ばれているのだろうと。
 しかし壱岐はあえて沈黙した。同じアルファでありながら椿は上流アルファらしく頭の回転がはやく、直感力に優れている。壱岐が口にしなくても自覚してるだろうと思ったからだ。

が原因で拗らせまくってますけどね……)

 憂璃は椿が経営している玉之浦フィナンシャルを、消費者金融業者だと思っているようだが、実際は違う。金に関わる仕事は間違いないが規模がまったく違う。

 椿のメインの仕事は、不動産関連のビジネスを展開している。主に法人向けを相手にしているため、取引相手は企業や政治家であり、動く金額も巨額である。
 あの憂璃との出会いで渡された名刺は、椿のフロント企業のもので、嘘偽りないものだ。
 玉之浦フィナンシャル代表であり、コンサルタントとして、彼の持つ美貌と合わせて表で羨望を集めている。

 そもそも玉霞会は稼ぎ頭の椿を始め組長も他の組員もシノギはどれも真っ当で、中にはグレイゾーンな仕事もあるものの、ほとんどがホワイトな仕事で稼いでいるのだ。
 というのも、椿の父親が最愛の妻である姐に顔を背ける仕事はできない、と。
 元々、旧態的な意味での『極道』の玉之浦家は、幼馴染と婚姻を結ぶその前に、高らかに両親へと宣言したという。

 椿の母は、名家、珠城たましろ家の長男で、生粋のオメガだ。
 そう、互いのバース性は真逆ではあるものの、ふたりの母はオメガの男性だった。

 壱岐は幼少期に、自分にあとを託して相談役に収まった義父に養子として引き取られ、椿ともその頃からの付き合いである。
 当時から利発で賢い子供だった。故に幼い頃からアルファだと断定されて、将来の組長から甘い汁を吸い取ろうと、色んな人間が椿に近づいてきた。
 中には小学生の椿の自室に、愛人の女を全裸で潜り込ませてたりして、これは本人というより組長が怒髪天となり、姐は静かに怒りの炎を燃え上がらせていた。子供だった壱岐は、ふたりの様子にしばらくうなされてしまったほどだ。
 のちに愛人をけしかけた馬鹿者は破門となり、現在は何をして生きているのか定かではない。
 撤回しない限り、破門状は全国の組に通達され、対象者は組織に関係なく二度と極道の門をくぐることができないからだ。

 この一件で組長も姐も息子の椿を溺愛しているのを知っているにも拘らず、利益を目論む連中は盲目なのか、似たようなことが何度か続き、椿が童貞を捨てたのは小学五年のころだった。
 相手は壱岐も知らない。ナンパされたから、適当なベータの女と寝てきたと嘯く椿の横顔は、自分のせいで両親に迷惑をかけている慙愧から悔しげに歪んでいた。

 女に金。単純な人間ほど、目に見える分かりやすい行動でその後もたびたび椿に擦り寄ってきた。
 活発だった椿は歳を追うごとに明るかった表情は深く沈み、次第に壱岐以外の人間を傍に置かなくなっていった。誰が敵で誰が味方か、次の日には掌を返す連中を信用していなかったから当然な措置だろう。
 利益目的の人間たちは、以前のように近づくことができなくなり、歯噛みした。
 だから──あのようなが起こってしまったのだ。

「壱岐?」

 訝る椿の声に壱岐はハッとなり、慌てて「すみません、カシラ」と謝罪を入れる。椿は怒ることなく、いいや、と落ち込む壱岐をとどめる。

「すまないな。俺の我が儘でお前を振り回してる自覚はあるんだが」
「いいえ、私こそぼんやりしてて申し訳ありません」
「いや、それも含めて。お前にばかり負担をかけてる」

 負担なんて感じていない。あの事件があってから、壱岐は椿に対してそれまで以上に忠誠を誓うきっかけになったのだ。

 背中に刻まれた白虎から、椿は『鮮血の虎』と呼ばれている。
 獰猛で、食らいついたら相手が血染めになっても離さない。
 揶揄と畏怖が込められていた。

 だけど壱岐は知っている。
 確かに感情を無くし、冷たい印象を振りまいてはいるものの、椿の本質は昔から変わっていない。
 それは椿が今日まで憂璃を大切にこの場所に置いてることからも明らかだ。
 憂璃も椿の奥底にある本当の彼に気づいてるからこそ、椿の寝室で寝るのも抵抗がないのだろう。

「本当に気にしないでください。私は仕事ではカシラの部下ですが、プライベートではあなたの友人ですよ、椿」

 壱岐が唯一、傍にいて仕えたいと思わせた男。
 だからこそ、本人たちは自覚していない小さな恋を支えてあげたいと思うのだ。

「……ありがとう、青磁せいじ

 表では決して呼ばなくなった懐かしい呼び方に、壱岐はふわりと口元を綻ばせる。
 その深い懐に、あの小さな美しい憂璃が包まれるように、と。内心で願い続ける。

「でしたら、明日にはお戻りになって、憂璃さんに謝られては?」
「っ、お前、たまに無理難題を言ってくるな」
「無理難題ではありませんよ。あなたが何に臆してるか分かってるつもりです。これでも長くあなたの傍であなたを見守り続けたのですから」
「……」
「私には、あなたが自覚していない感情にも気づいていますよ」
「おい、それはどういう……」

 このまま友として会話を続けようと、壱岐はテーブルに広がる書類を片手でまとめ、パソコンをスリープモードにする。すると「壱岐さん?」と椿の寝室から微かな声が聞こえ振り返る。そこには、泣きそうな顔で入口に佇む寝衣姿の憂璃がいた。

「どうしましたか?」
「ちょっと喉が乾いて……あ、ごめんなさい。お話中でしたか?」

 ウロウロと視線を彷徨わせる憂璃の目は寝る前よりも赤くなっている。
 また椿が不在なのが寂しくて泣いていたのが明確だ。うなじを噛まれてなくとも深い絆で結ばれてる運命が傍にいないと、オメガは精神的に不安になるのだろう。

「大丈夫ですよ。でしたら、私がホットミルクをお淹れします。蜂蜜はいりますか?」
「少しだけ、お願いします」

 壱岐は「分かりました」と言って立ち上がると、自分が手にしていた携帯端末をそっと憂璃の掌に乗せ「カシラからですよ」と囁いてキッチンへと向かう。
 あの距離なら椿にも誰の手に携帯が渡ったか気づくだろう。
 「も、もしもしっ」と椿に問う憂璃の緊張した声が聞こえ、壱岐はクスリと笑いを漏らす。

 キッチンに入ると、ミルクパンに牛乳を注ぎ火をつける。憂璃はあまり熱いのは好きではないようだから、少し熱い位で丁度良いだろう。
 壱岐は段取りよくカップを温め、ソーサーにバターをたっぷり使ったフィナンシェを置く。三年の間に肉付きは良くなってはいるものの、まだまだ細い憂璃にはカロリーが高いおやつを与えても問題ない。
 すでに歯磨きを終えているだろうが、あとでマウスウォッシュですすげば大丈夫だろう。
 壱岐は対面キッチンからリビングの方に視線を向ける。

(泣いたカラスがもう笑った、とはこのことですね)

 ふたりがどんな会話をしているか分からない。しかし、憂璃の弾ける笑顔を見るに、明日には椿が帰ってくるのだと確信できた。

(それにしても、憂璃さんのことになると直情的になりますね、椿)

 ふつふつと鍋の縁から小さな泡が立つのを認め、火を止めながら壱岐はクスッと笑いをこぼした。

 楽しげに椿と話す憂璃に。

(誰もが感じなくなった椿のフェロモンを、あなたなら見つけると信じていますよ、憂璃さん)

 心の内でそっと願いを呟いていた。
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