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初めての発情
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開け放たれた窓からイングリッシュガーデンを彩るハーブの香りが風に乗って憂璃の鼻先をくすぐる。
「お待たせ。今日は昨日椿からリクエストをもらっていたローストビーフとベビーリーフのオープンサンドと、具沢山ミネストローネです。こっちの容器はサンドウィッチに食べる直前にかけてくださいね」
「いつもありがとうございます、玲司さん」
養い親である椿の親友だという寒川玲司から受け取った保温バッグと保冷バッグは思っていたよりも重く、体がよろけそうになる。アルファは健啖なのは一緒に暮らした三年の間にいやというほど知らされていたものの、あのギリシャ彫刻のどこに収まるか謎の量に苦笑いしか出てこない。
「いいえ。閑古鳥が寝泊りしてた頃から注文いただけてたので、正直こちらも助かってましたよ。和食は苦手だったので、栄養に偏りが出ないか心配でしたけどね」
「玲司さんのご飯はどれも美味しくて、いつも以上に椿さんが食べ過ぎるから、太っちゃわないか心配になりますけど」
今も手に持ち手が食い込み痛いほどの量も、マンションに帰って椿に出したら、瞬殺でなくなってしまうだろう。特に今日は椿の部下の壱岐も一緒だから、二人が喧嘩しないように仲裁しなくてはならない。
「玲司さん、これ……あ、憂璃君。いらっしゃいませ」
「桔梗さん、こんにちは」
お腹を空かせたアルファたちが暴れる前に店を辞しようと踵を返した途端、優しい声が追いかけて聞こえ、自然と足を止め振り返る。
彼は寒川桔梗。昨年玲司と番となり婚姻を結んだオメガの青年だ。
白いシャツに黒のスラックスとロングタブリエを纏った桔梗は、玲司に愛されているというのが全身から滲み出ていて、憂璃は羨ましいなと胸の内でひとりごちる。
「ああ、そうでした。ありがとう、桔梗君」
「玲司さん、ときどきうっかりさんになりますよね」
「申し訳ありません、こちらは憂璃君に。凛からこの間の診察で出すのを忘れてた緊急抑制剤だそうです」
「あ……」
薬袋にブルーのインクで「おくすり」「寒川総合病院」とあり、黒のゴシック体で憂璃の名前と処方日が記されていた。
玲司の言う「凛」というのは、彼の実弟であり、寒川総合病院のオメガ科で医師をしている綺麗なオメガ男性。憂璃は昨年の秋頃に初めての発情期が来た。
成熟すると発情期も定期的になるそうだが、まだ一回目のヒートしか経験したことのない憂璃の体は不安定で、次の発情期がいつになるか分からないのもあり、緊急抑制剤は常に持ち歩くよう伝言された。
「あ、ありがとうございます。もうじき椿さんが起きる時間なので、そろそろ……」
「引き止めてごめんね」
「いえ、お薬ありがとうございます、桔梗さん。玲司さんもまた」
「ええ、気をつけて帰ってくださいね」
羞恥に白い肌を真っ赤に染めて、憂璃は逃げるように店をあとにした。
たぶん、二人は感づいてないと思うけど、中には緊急抑制剤の他に避妊薬が入っていた。
椿の性格を知っている凛ですら、アルファとオメガの二人暮らしは間違いが起こりやすいと思っているのだろう。
万が一、百万が一と怖い顔で話す凛が処方してくれた薬は、抑制剤と一緒にお守りで持ち歩こう。
(椿さんと僕が、だなんてまずありえないけども)
胸がぎゅっと痛くなる。
憂璃はアプローチの途中で足を止め、ハーブの癒し効果のある空気を肺いっぱいに吸い込む。十六の時に椿からプレゼントされた白いネックプロテクターは、薄く、装着感がないとうたわれているのに、一年経った今でも苦しさしかない。
不意に数ヵ月前に憂璃を本当の意味でオメガの体となったあの日のことを思い出していた。
◇◆◇
三年前、椿に買われた憂璃は、とてもじゃないが余程の変人か嗜虐趣味ですらも憐れむほどにやせ細っており、なにやら思うところがあった椿によって引き取られ、はなみずき駅近くのマンションで二人一緒に生活するようになった。
はなみずき駅は街の中心から七駅ほどの場所にある閑静な生活特化地域だった。
駅を挟んで南側に商店街があり、夕方近くになると買い物客で活気づいている。北側には広大な敷地を有する秋槻学園があり、憂璃はそこの高等部二年生だ。あと一ヶ月もすれば高校三年生になるが……
引き取られる前、憂璃は義務教育中で授業料も免除だったのもあり、毎日学校に通っていたものの、アルビノという体質のせいで外で活発に走り回ることもできなかった。高校三年になろうという今でも体育の授業に参加できず、さらに白さに磨きがかかっている。オメガクラスに入ってるから、そんなに目立たないものの、不健康さが先に立ち、商品価値が下がって椿に迷惑がかかってしまうのを恐れている。
(そうならないように、椿さんが僕と一緒に住んでくれているのだろうけど)
椿の本来の住居は、春の街がある北関東圏の純和風の武家屋敷で生活していたそうだ。
そこは彼の実家であり、北関東を纏める玉霞会の総本山ともいえる場所だった。
沢山の人間が二十四時間稼働しているあの場所では、憂璃が落ち着いて生活できないだろうと椿の配慮で、現在のマンションに移り住んでいた。基本は椿と憂璃のふたりで生活しているが、来た当初はあまりの広さに何度か迷ったこともある。
後に椿の秘書で若頭補佐をしている壱岐の話では、若頭である椿には本来組を持つことを許されているものの、下手に手を広げるよりかはビジネスの拡大をもって組織に貢献したいとのことで、椿は特例中の特例との話だった。
ヒートが来るまでは午前中に通いの家政婦が椿の実家から派遣されていた。ベータの中年女性で、和食が得意な人だった。しかし、憂璃にヒートが来てからというもの、椿は壱岐以外の人間を部屋に招くことはなかった。
この三年の──憂璃にヒートが来てから生活が変化したのは、通いの人間が来なくなっただけではない。
越してきた当時、高層階のワンフロア全てが椿の部屋だと知り、憂璃は愕然としたものだ。そうやって説明をされると、憂璃が何度も遭難したのも頷ける。
椿は椿の寝室から遠く離れた客室のひとつを憂璃にあてがい、そこで生活をするように言った。
そこは母と住んでいたアパートの一室とは雲泥の差で、無垢の木が敷かれたフローリングにベージュとモスグリーンでまとめられたシンプルな寝室は、どこかホッとさせる雰囲気があった。
(これだけ物理的に距離があれば、僕がヒートになった時でも迷惑をかけることもないだろうし)
リビングルームを挟んで対にある憂璃の寝室と椿のプライベートルームでは、どちらかが意図して近づかない限りは間違いは起こらないはずだ。
家政婦もベータの女性と聞いてたし、椿に迷惑をかけずに一刻も早く彼の商品として成長しなくてはと誓う。
心の奥に微かな痛みを感じたが、憂璃は首をかしげただけにとどめ、無視することにした。
気のせいだと自分に言い聞かせて。
憂璃が十六になるまでは、学校に通い、商品価値を上げるために派遣された家庭教師によって様々な知識を叩き込まれた。
他にもベータの家政婦からは掃除に洗濯、果ては料理にお茶やお花の指導まで。
椿は一体どんな人物に憂璃を売り渡すつもりなのだろう、と思いつつも、知らなかった知識を与えられるまま吸収していった。
そして、十六歳になった日。
普段から外泊の多い椿が、珍しく憂璃が学校から帰宅するとリビングにいて、難しい顔で書類を見ていたけど、憂璃の姿を認めた途端、厳しい顔が緩んでうっすらと笑みを浮かべて迎えてくれた。これから外で食事をしようと誘ってくれたのだ。
ドクン、と憂璃の胸が激しく高鳴る。
引き取られてからというもの、日を追うごとに椿は憂璃に甘い表情を見せてくれるようになったからだ。
時には蜜のように甘い笑みと声で。
時にはメープルシロップの煙草の残り香がある手で。
時には彼の名前と同じ匂い椿の優しい香りで。
彼が極道の若頭だと頭では理解していても、彼の優しさに触れた憂璃が恋に落ちるのに時間はかからなかった。
だけどこの想いを言葉にしてはいけなかった。
憂璃は自分が椿の管理する商品だと痛感していたから。
誕生日はホテルの夜景が綺麗に見えるレストランで食事をし、仮想でも椿とデートのようなことができたのが嬉しかった。
プレゼントも渡してくれた。肌も髪も白い憂璃に似合う白いネックプロテクター。
量販されている物とは違い、格段に薄く、首に負担がかからず、安全性は首全体を体温で柔らかくなる金属が使われていて、アルファの獰猛な牙からも守ってくれるとうたわれている代物だそうだ。
明らかにお金のかかった物を渡され、憂璃は戸惑った。
(優しくしないで。これ以上は誤解してしまう。僕が……椿さんに愛されてるって……)
苦く、くるしい想いが溢れて涙が出そうだ。
だが、精一杯去勢を張り、憂璃は「ありがとうございます」と微笑んで、早速とばかりに装着して椿に見せた。
ネックプロテクターと、この日の思い出だけに縋っていれば、例えどんな人間に売られたとしても生きていける。
少なくとも椿の顔に泥を塗るにはいかない。
相手がもし憂璃に好意を寄せてきたら、表面上でも応えよう。
体は誰かのものになっても、心だけは永遠に椿に捧げるのだ。
幸せで、悲しい誕生日。生涯の思い出になるはずだったその日、憂璃と椿の関係に一石が投じられた。
アルコールは入れていないのに、ふわふわした夢心地のまま椿と住むマンションへと到着すると、リビングで椿に「お休みなさい」と言ってあてがわれた寝室へと足を向けようとした。
「あ……っ」
自分の足に足を引っ掛け、憂璃はリビングの床にドタリと崩れる。
「憂璃?」
「……つばきさん……」
座り込んだまま振り返ると、椿が駆け寄ってくるのが見える。
商品が傷ついたら価値が下がるから、椿は自分を心配してくれるのだ。
ズクズクと胸が痛む。
くるしい。
つらい。
もういやだ。
「ぁっ、な、なに……これ」
ドクドクと心臓が脈動する。暴れる速さで胸が、頭がクラクラしてくる。
それに……
(うなじが熱い。火で炙られてるように暑くて痛い)
下半身が溶けそうにムズムズする。中心が硬く張り詰めているのに気づいてしまった。
さらに言えば、普段は気にならない排泄の場所が、何かが欲しくて奥から溢れてくる。
「発情期か?」
意識が朦朧とする中、椿の声が聞こえコクリと頷く。
オメガの本能がアルファと番いたいとフェロモンを出して訴えている。
ああ……いやだ。アルファの椿に迷惑をかけてしまった。
オメガの発情フェロモンにあてられ、アルファはつられて発情になる。人間らしい理性が消え去り、ただひたすらに互いを求め合い肉欲に溺れる獣となる。
ごめんなさい……椿さん……
憂璃は涙をひと粒ポロリとこぼし、匂い椿の甘い香りの中、意識は闇の底へと沈んでいった。
次に目を覚ましたのは、憂璃にあてがわれた部屋ではなかった。
黒とグレイのシックな部屋の中心に憂璃が五人並んでも余る程の広々としたベッドの中心で横たわっていると、大丈夫か、とほのかに甘く優しい香りと声が降ってくる。
のろのろと気怠い目を動かし見ると、どこかホッとしたような椿の顔が憂璃を見ていた。
「心配しなくてもいい。あれから医師を呼んで処置してもらった」
お前はまだ綺麗なままだ、と椿は安心させる意味で言ったのだろうが、憂璃の心は深く沈んでいくのを感じていた。
オメガは発情すると、アルファの精子を求める。どういった仕組みか憂璃には分からないが、アルファのソレにはオメガの発情を抑える効果があるとのこと。
しかし、憂璃は椿に買われた商品であり、椿が率先して体を奪うことは道義に反する。
だが本能がオメガを犯したくてどうしようもなくなる。
椿は獣の本能に覆い尽くされる前に、親友の玲司を通じて医師である凛を呼び、緊急措置として椿の白濁を抑制剤に混ぜて注射したとのことだった。
玲司から渡された抑制剤には、椿の精液を精製したものを使用したフルオーダーメイドのもの。ただでさえ高価な抑制剤の数倍はするという特殊抑制剤を、椿は惜しげもなく憂璃に与えてくれたのだ。
それも自身の精液まで提供して。
こんなに優しく扱われて好きにならないはずがなかった。
だけど、憂璃は椿に買われ、いつかは誰かに売られる身。この思いは箱に閉じ込めて深い海の底に沈めなくてはならない。
痛い。
苦しい。
だけど、あとどれだけの時間が残されているか分からないけど、誰かに買われ椿から離れるその時まで、少しだけ特別な存在でいたいと願うしかできなかった。
「お待たせ。今日は昨日椿からリクエストをもらっていたローストビーフとベビーリーフのオープンサンドと、具沢山ミネストローネです。こっちの容器はサンドウィッチに食べる直前にかけてくださいね」
「いつもありがとうございます、玲司さん」
養い親である椿の親友だという寒川玲司から受け取った保温バッグと保冷バッグは思っていたよりも重く、体がよろけそうになる。アルファは健啖なのは一緒に暮らした三年の間にいやというほど知らされていたものの、あのギリシャ彫刻のどこに収まるか謎の量に苦笑いしか出てこない。
「いいえ。閑古鳥が寝泊りしてた頃から注文いただけてたので、正直こちらも助かってましたよ。和食は苦手だったので、栄養に偏りが出ないか心配でしたけどね」
「玲司さんのご飯はどれも美味しくて、いつも以上に椿さんが食べ過ぎるから、太っちゃわないか心配になりますけど」
今も手に持ち手が食い込み痛いほどの量も、マンションに帰って椿に出したら、瞬殺でなくなってしまうだろう。特に今日は椿の部下の壱岐も一緒だから、二人が喧嘩しないように仲裁しなくてはならない。
「玲司さん、これ……あ、憂璃君。いらっしゃいませ」
「桔梗さん、こんにちは」
お腹を空かせたアルファたちが暴れる前に店を辞しようと踵を返した途端、優しい声が追いかけて聞こえ、自然と足を止め振り返る。
彼は寒川桔梗。昨年玲司と番となり婚姻を結んだオメガの青年だ。
白いシャツに黒のスラックスとロングタブリエを纏った桔梗は、玲司に愛されているというのが全身から滲み出ていて、憂璃は羨ましいなと胸の内でひとりごちる。
「ああ、そうでした。ありがとう、桔梗君」
「玲司さん、ときどきうっかりさんになりますよね」
「申し訳ありません、こちらは憂璃君に。凛からこの間の診察で出すのを忘れてた緊急抑制剤だそうです」
「あ……」
薬袋にブルーのインクで「おくすり」「寒川総合病院」とあり、黒のゴシック体で憂璃の名前と処方日が記されていた。
玲司の言う「凛」というのは、彼の実弟であり、寒川総合病院のオメガ科で医師をしている綺麗なオメガ男性。憂璃は昨年の秋頃に初めての発情期が来た。
成熟すると発情期も定期的になるそうだが、まだ一回目のヒートしか経験したことのない憂璃の体は不安定で、次の発情期がいつになるか分からないのもあり、緊急抑制剤は常に持ち歩くよう伝言された。
「あ、ありがとうございます。もうじき椿さんが起きる時間なので、そろそろ……」
「引き止めてごめんね」
「いえ、お薬ありがとうございます、桔梗さん。玲司さんもまた」
「ええ、気をつけて帰ってくださいね」
羞恥に白い肌を真っ赤に染めて、憂璃は逃げるように店をあとにした。
たぶん、二人は感づいてないと思うけど、中には緊急抑制剤の他に避妊薬が入っていた。
椿の性格を知っている凛ですら、アルファとオメガの二人暮らしは間違いが起こりやすいと思っているのだろう。
万が一、百万が一と怖い顔で話す凛が処方してくれた薬は、抑制剤と一緒にお守りで持ち歩こう。
(椿さんと僕が、だなんてまずありえないけども)
胸がぎゅっと痛くなる。
憂璃はアプローチの途中で足を止め、ハーブの癒し効果のある空気を肺いっぱいに吸い込む。十六の時に椿からプレゼントされた白いネックプロテクターは、薄く、装着感がないとうたわれているのに、一年経った今でも苦しさしかない。
不意に数ヵ月前に憂璃を本当の意味でオメガの体となったあの日のことを思い出していた。
◇◆◇
三年前、椿に買われた憂璃は、とてもじゃないが余程の変人か嗜虐趣味ですらも憐れむほどにやせ細っており、なにやら思うところがあった椿によって引き取られ、はなみずき駅近くのマンションで二人一緒に生活するようになった。
はなみずき駅は街の中心から七駅ほどの場所にある閑静な生活特化地域だった。
駅を挟んで南側に商店街があり、夕方近くになると買い物客で活気づいている。北側には広大な敷地を有する秋槻学園があり、憂璃はそこの高等部二年生だ。あと一ヶ月もすれば高校三年生になるが……
引き取られる前、憂璃は義務教育中で授業料も免除だったのもあり、毎日学校に通っていたものの、アルビノという体質のせいで外で活発に走り回ることもできなかった。高校三年になろうという今でも体育の授業に参加できず、さらに白さに磨きがかかっている。オメガクラスに入ってるから、そんなに目立たないものの、不健康さが先に立ち、商品価値が下がって椿に迷惑がかかってしまうのを恐れている。
(そうならないように、椿さんが僕と一緒に住んでくれているのだろうけど)
椿の本来の住居は、春の街がある北関東圏の純和風の武家屋敷で生活していたそうだ。
そこは彼の実家であり、北関東を纏める玉霞会の総本山ともいえる場所だった。
沢山の人間が二十四時間稼働しているあの場所では、憂璃が落ち着いて生活できないだろうと椿の配慮で、現在のマンションに移り住んでいた。基本は椿と憂璃のふたりで生活しているが、来た当初はあまりの広さに何度か迷ったこともある。
後に椿の秘書で若頭補佐をしている壱岐の話では、若頭である椿には本来組を持つことを許されているものの、下手に手を広げるよりかはビジネスの拡大をもって組織に貢献したいとのことで、椿は特例中の特例との話だった。
ヒートが来るまでは午前中に通いの家政婦が椿の実家から派遣されていた。ベータの中年女性で、和食が得意な人だった。しかし、憂璃にヒートが来てからというもの、椿は壱岐以外の人間を部屋に招くことはなかった。
この三年の──憂璃にヒートが来てから生活が変化したのは、通いの人間が来なくなっただけではない。
越してきた当時、高層階のワンフロア全てが椿の部屋だと知り、憂璃は愕然としたものだ。そうやって説明をされると、憂璃が何度も遭難したのも頷ける。
椿は椿の寝室から遠く離れた客室のひとつを憂璃にあてがい、そこで生活をするように言った。
そこは母と住んでいたアパートの一室とは雲泥の差で、無垢の木が敷かれたフローリングにベージュとモスグリーンでまとめられたシンプルな寝室は、どこかホッとさせる雰囲気があった。
(これだけ物理的に距離があれば、僕がヒートになった時でも迷惑をかけることもないだろうし)
リビングルームを挟んで対にある憂璃の寝室と椿のプライベートルームでは、どちらかが意図して近づかない限りは間違いは起こらないはずだ。
家政婦もベータの女性と聞いてたし、椿に迷惑をかけずに一刻も早く彼の商品として成長しなくてはと誓う。
心の奥に微かな痛みを感じたが、憂璃は首をかしげただけにとどめ、無視することにした。
気のせいだと自分に言い聞かせて。
憂璃が十六になるまでは、学校に通い、商品価値を上げるために派遣された家庭教師によって様々な知識を叩き込まれた。
他にもベータの家政婦からは掃除に洗濯、果ては料理にお茶やお花の指導まで。
椿は一体どんな人物に憂璃を売り渡すつもりなのだろう、と思いつつも、知らなかった知識を与えられるまま吸収していった。
そして、十六歳になった日。
普段から外泊の多い椿が、珍しく憂璃が学校から帰宅するとリビングにいて、難しい顔で書類を見ていたけど、憂璃の姿を認めた途端、厳しい顔が緩んでうっすらと笑みを浮かべて迎えてくれた。これから外で食事をしようと誘ってくれたのだ。
ドクン、と憂璃の胸が激しく高鳴る。
引き取られてからというもの、日を追うごとに椿は憂璃に甘い表情を見せてくれるようになったからだ。
時には蜜のように甘い笑みと声で。
時にはメープルシロップの煙草の残り香がある手で。
時には彼の名前と同じ匂い椿の優しい香りで。
彼が極道の若頭だと頭では理解していても、彼の優しさに触れた憂璃が恋に落ちるのに時間はかからなかった。
だけどこの想いを言葉にしてはいけなかった。
憂璃は自分が椿の管理する商品だと痛感していたから。
誕生日はホテルの夜景が綺麗に見えるレストランで食事をし、仮想でも椿とデートのようなことができたのが嬉しかった。
プレゼントも渡してくれた。肌も髪も白い憂璃に似合う白いネックプロテクター。
量販されている物とは違い、格段に薄く、首に負担がかからず、安全性は首全体を体温で柔らかくなる金属が使われていて、アルファの獰猛な牙からも守ってくれるとうたわれている代物だそうだ。
明らかにお金のかかった物を渡され、憂璃は戸惑った。
(優しくしないで。これ以上は誤解してしまう。僕が……椿さんに愛されてるって……)
苦く、くるしい想いが溢れて涙が出そうだ。
だが、精一杯去勢を張り、憂璃は「ありがとうございます」と微笑んで、早速とばかりに装着して椿に見せた。
ネックプロテクターと、この日の思い出だけに縋っていれば、例えどんな人間に売られたとしても生きていける。
少なくとも椿の顔に泥を塗るにはいかない。
相手がもし憂璃に好意を寄せてきたら、表面上でも応えよう。
体は誰かのものになっても、心だけは永遠に椿に捧げるのだ。
幸せで、悲しい誕生日。生涯の思い出になるはずだったその日、憂璃と椿の関係に一石が投じられた。
アルコールは入れていないのに、ふわふわした夢心地のまま椿と住むマンションへと到着すると、リビングで椿に「お休みなさい」と言ってあてがわれた寝室へと足を向けようとした。
「あ……っ」
自分の足に足を引っ掛け、憂璃はリビングの床にドタリと崩れる。
「憂璃?」
「……つばきさん……」
座り込んだまま振り返ると、椿が駆け寄ってくるのが見える。
商品が傷ついたら価値が下がるから、椿は自分を心配してくれるのだ。
ズクズクと胸が痛む。
くるしい。
つらい。
もういやだ。
「ぁっ、な、なに……これ」
ドクドクと心臓が脈動する。暴れる速さで胸が、頭がクラクラしてくる。
それに……
(うなじが熱い。火で炙られてるように暑くて痛い)
下半身が溶けそうにムズムズする。中心が硬く張り詰めているのに気づいてしまった。
さらに言えば、普段は気にならない排泄の場所が、何かが欲しくて奥から溢れてくる。
「発情期か?」
意識が朦朧とする中、椿の声が聞こえコクリと頷く。
オメガの本能がアルファと番いたいとフェロモンを出して訴えている。
ああ……いやだ。アルファの椿に迷惑をかけてしまった。
オメガの発情フェロモンにあてられ、アルファはつられて発情になる。人間らしい理性が消え去り、ただひたすらに互いを求め合い肉欲に溺れる獣となる。
ごめんなさい……椿さん……
憂璃は涙をひと粒ポロリとこぼし、匂い椿の甘い香りの中、意識は闇の底へと沈んでいった。
次に目を覚ましたのは、憂璃にあてがわれた部屋ではなかった。
黒とグレイのシックな部屋の中心に憂璃が五人並んでも余る程の広々としたベッドの中心で横たわっていると、大丈夫か、とほのかに甘く優しい香りと声が降ってくる。
のろのろと気怠い目を動かし見ると、どこかホッとしたような椿の顔が憂璃を見ていた。
「心配しなくてもいい。あれから医師を呼んで処置してもらった」
お前はまだ綺麗なままだ、と椿は安心させる意味で言ったのだろうが、憂璃の心は深く沈んでいくのを感じていた。
オメガは発情すると、アルファの精子を求める。どういった仕組みか憂璃には分からないが、アルファのソレにはオメガの発情を抑える効果があるとのこと。
しかし、憂璃は椿に買われた商品であり、椿が率先して体を奪うことは道義に反する。
だが本能がオメガを犯したくてどうしようもなくなる。
椿は獣の本能に覆い尽くされる前に、親友の玲司を通じて医師である凛を呼び、緊急措置として椿の白濁を抑制剤に混ぜて注射したとのことだった。
玲司から渡された抑制剤には、椿の精液を精製したものを使用したフルオーダーメイドのもの。ただでさえ高価な抑制剤の数倍はするという特殊抑制剤を、椿は惜しげもなく憂璃に与えてくれたのだ。
それも自身の精液まで提供して。
こんなに優しく扱われて好きにならないはずがなかった。
だけど、憂璃は椿に買われ、いつかは誰かに売られる身。この思いは箱に閉じ込めて深い海の底に沈めなくてはならない。
痛い。
苦しい。
だけど、あとどれだけの時間が残されているか分からないけど、誰かに買われ椿から離れるその時まで、少しだけ特別な存在でいたいと願うしかできなかった。
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