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こんな甘い笑みを見せられたら勘違いしてしまいそうだ
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嵯峨零一は一年前までは大企業の営業部長をしていて、柚希の会社の副社長とは高校時代からの同級生で親友との事で、停滞しがちな営業部の起爆剤として専務の席を用意し、引き抜いたとの噂のある人だ。
その為か、嵯峨は専務という立ち位置にいるにも拘らず、頻繁に営業部に顔を出しては、運営指導をしているからか、普通なら雲の上の存在である筈なのに、柚希はチーフという立場からか、嵯峨からよく声を掛けられていた。
怜悧で冷たい印象のある上司だが、とてもフランクで、仕事も断捨離が上手く、嵯峨が就任してからというもの、営業部の成績はうなぎのぼりである。
「嵯峨専務、どうして、このような場所に」
柚希は不釣り合いな場所に佇む上司を前にして、心臓がドクドクと高鳴る。ボロボロ零れていた涙も驚きで止まった程だ。
「それはこちらの台詞だよ、槻宮君。君こそ、どうしてこんな場所に?」
ヒクリと喉が引き攣って答える事のできない柚希の前に嵯峨は音もなく立ち、すっと差し出された指は、頬を伝うそこへと静かに触れる。
「しかも、君みたいに綺麗な子が泣いてるなんて、何かあったのかな?」
指の腹で目元を拭われたのか、ピリ、と微かな痛みが走る。
「……っ」
「ああ、痛かったね。こんなに真っ赤になって腫れる位泣くなんて……。辛かっただろ?」
そっと肩を引き寄せられ、顔が嵯峨のスーツに押し付けられる。ムスクの似合いそうな上司は、ハーブとラベンダーの香りと微かな煙草の匂いが混じっていた。
小柄な柚希の体はすっぽりと嵯峨の腕に包まれ、雨の中だというのに温かい。
「あ、あの。嵯峨専務っ?」
「ん? どうかした?」
「あの。人目が気になったりしませんか?」
何故、自分は上司に抱き締められているのか分からず、パニックになった柚希は我に返るとモゾモゾと身じろぐ。幾ら周囲が自分達の世界に入って周りに目が向かないラブホテル街とはいえ、嵯峨は男の自分から見ても美丈夫だ。
しかも抱いてるのも同じ男だと知られれば、衆人環視の的になるのは目に見えてる。それなのに嵯峨は周りの事など気にする事もなく、優しい眼差しで柚希の目元を拭っていた。
「何故? 可愛い部下が泣いてるのを慰めてるだけなのに。変な目で見る方がおかしいんだよ」
きっぱりと告げる上司に、柚希は「そうですか」と諦念混じりの声を落とした。
恥ずかしいのだ。
兄のように接してくれる上司が、自分を可愛い部下と言ってくれた事に。たった今しがた恋人に浮気をされて別れのメッセージを送ったばかりの傷心状態が、一気に吹っ飛んでしまう位、嵯峨の言葉が嬉しくも恥ずかしく、顔が熱くなったのだ。
だからそっけない言葉になってしまったのだが、頭上からは柚希の心情を悟ったかのようなクスリと笑みが零れた感覚を憶えた。
(こんな甘い笑みを見せられたら勘違いしてしまいそうだ)
失恋したばかりの柚希には、嵯峨の甘い態度は心に毒だ。浮気されて別れた直後に上司にふらつくとかだらしない、と自分を責める。
普段はもっと自制心があると自負している柚希も、心が傷ついた今は、目の前の優しい温もりに縋ってしまいたくなっているのだろう。しっかりしろ、と自分を律し、そっと嵯峨から距離を取る。
「ありがとうございます、専務。プライベートで落ち込んでたのですが、おかげで落ち着きました」
無理でも笑みを作って、柚希はそう告げる。
あまりこんな場所で話し続けるのは、お互いに悪目立ちしてしまうし、今は小降りな雨もいつ本降りになるか分からない。
ここはさっくりと解散した方がいい。そう柚希が口を開きかけたその時。
「わっ!?」
「おやおや、本格的に降ってきたね」
まるで柚希を嘲笑うかのように、バケツをひっくり返したかのような雨が二人を襲う。しっとり湿る程度だったスーツは、中のシャツまでもびっしょりと濡らし、不快感ばかりが募る。
「駅まで走っていっても余計びしょ濡れになってしまいそうだし……そうだ」
「え?」
セットしていた髪が崩れ、額にかかる前髪を掻き上げた嵯峨は、急に柚希の手首を掴み、駅とは違う方へと足を向け走りだす。
(え、ちょ、そこは……)
戸惑う柚希が嵯峨に引っ張られ入ったその場所は、先程恋人が自分以外の男性と入っていったラブホテルだったのだ。
嵯峨零一は一年前までは大企業の営業部長をしていて、柚希の会社の副社長とは高校時代からの同級生で親友との事で、停滞しがちな営業部の起爆剤として専務の席を用意し、引き抜いたとの噂のある人だ。
その為か、嵯峨は専務という立ち位置にいるにも拘らず、頻繁に営業部に顔を出しては、運営指導をしているからか、普通なら雲の上の存在である筈なのに、柚希はチーフという立場からか、嵯峨からよく声を掛けられていた。
怜悧で冷たい印象のある上司だが、とてもフランクで、仕事も断捨離が上手く、嵯峨が就任してからというもの、営業部の成績はうなぎのぼりである。
「嵯峨専務、どうして、このような場所に」
柚希は不釣り合いな場所に佇む上司を前にして、心臓がドクドクと高鳴る。ボロボロ零れていた涙も驚きで止まった程だ。
「それはこちらの台詞だよ、槻宮君。君こそ、どうしてこんな場所に?」
ヒクリと喉が引き攣って答える事のできない柚希の前に嵯峨は音もなく立ち、すっと差し出された指は、頬を伝うそこへと静かに触れる。
「しかも、君みたいに綺麗な子が泣いてるなんて、何かあったのかな?」
指の腹で目元を拭われたのか、ピリ、と微かな痛みが走る。
「……っ」
「ああ、痛かったね。こんなに真っ赤になって腫れる位泣くなんて……。辛かっただろ?」
そっと肩を引き寄せられ、顔が嵯峨のスーツに押し付けられる。ムスクの似合いそうな上司は、ハーブとラベンダーの香りと微かな煙草の匂いが混じっていた。
小柄な柚希の体はすっぽりと嵯峨の腕に包まれ、雨の中だというのに温かい。
「あ、あの。嵯峨専務っ?」
「ん? どうかした?」
「あの。人目が気になったりしませんか?」
何故、自分は上司に抱き締められているのか分からず、パニックになった柚希は我に返るとモゾモゾと身じろぐ。幾ら周囲が自分達の世界に入って周りに目が向かないラブホテル街とはいえ、嵯峨は男の自分から見ても美丈夫だ。
しかも抱いてるのも同じ男だと知られれば、衆人環視の的になるのは目に見えてる。それなのに嵯峨は周りの事など気にする事もなく、優しい眼差しで柚希の目元を拭っていた。
「何故? 可愛い部下が泣いてるのを慰めてるだけなのに。変な目で見る方がおかしいんだよ」
きっぱりと告げる上司に、柚希は「そうですか」と諦念混じりの声を落とした。
恥ずかしいのだ。
兄のように接してくれる上司が、自分を可愛い部下と言ってくれた事に。たった今しがた恋人に浮気をされて別れのメッセージを送ったばかりの傷心状態が、一気に吹っ飛んでしまう位、嵯峨の言葉が嬉しくも恥ずかしく、顔が熱くなったのだ。
だからそっけない言葉になってしまったのだが、頭上からは柚希の心情を悟ったかのようなクスリと笑みが零れた感覚を憶えた。
(こんな甘い笑みを見せられたら勘違いしてしまいそうだ)
失恋したばかりの柚希には、嵯峨の甘い態度は心に毒だ。浮気されて別れた直後に上司にふらつくとかだらしない、と自分を責める。
普段はもっと自制心があると自負している柚希も、心が傷ついた今は、目の前の優しい温もりに縋ってしまいたくなっているのだろう。しっかりしろ、と自分を律し、そっと嵯峨から距離を取る。
「ありがとうございます、専務。プライベートで落ち込んでたのですが、おかげで落ち着きました」
無理でも笑みを作って、柚希はそう告げる。
あまりこんな場所で話し続けるのは、お互いに悪目立ちしてしまうし、今は小降りな雨もいつ本降りになるか分からない。
ここはさっくりと解散した方がいい。そう柚希が口を開きかけたその時。
「わっ!?」
「おやおや、本格的に降ってきたね」
まるで柚希を嘲笑うかのように、バケツをひっくり返したかのような雨が二人を襲う。しっとり湿る程度だったスーツは、中のシャツまでもびっしょりと濡らし、不快感ばかりが募る。
「駅まで走っていっても余計びしょ濡れになってしまいそうだし……そうだ」
「え?」
セットしていた髪が崩れ、額にかかる前髪を掻き上げた嵯峨は、急に柚希の手首を掴み、駅とは違う方へと足を向け走りだす。
(え、ちょ、そこは……)
戸惑う柚希が嵯峨に引っ張られ入ったその場所は、先程恋人が自分以外の男性と入っていったラブホテルだったのだ。
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