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清明の払暁

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「俺を寒川家の養子に?」

 玲司から告げられた言葉に、慧斗は手にしていたソーサーを離してしまう。テーブルと距離がなかったため、カチャンと音を立てて割れることはなかったが、中の紅茶はソーサーだけでなくテーブルにまで雫を飛ばしていた。


 朝、紅龍のことが新聞報道され、血の気が引いた慧斗は慌てて彼に知らせた。
 紅龍は渡された新聞を流し見て、それから床へと放ったあと、慧斗の腕を引っ張ってベッドに誘った。
 性的な気配もなく、ただただ慧斗を安心させるように背中を撫で、彼の鼓動を耳に刻む。

「大丈夫だ。慧斗は心配しなくてもいい。一応このマンションはマスコミには知られていないが、ハイエナみたいに鼻が利くからな。もし慧斗や紅音の姿を撮られるかもしれない。しばらく窮屈になるが家で紅音と一緒にいてほしい」
「仕事はどうしたら……」
「まだ本調子じゃないだろう? 後で秋槻や白糸と相談して決めよう。それから玲司にも話しておかないといけないし」

 なだめるように背中を撫で、密着した体から香る甘く苦い紅龍のフェロモンが心地よくて、慧斗はこの人を信じようと紅龍の背中にそっと手を這わせた。
 しばらく互いの体温を分かち合っていたものの、それは秋槻からの呼び出しによって終了を迎えることとなる。

 すでに準備していた朝食を三人で取りながら、紅龍は慧斗を守るようにと紅音に託し、紅音も元気よく快諾していた。

「もし、何か不都合があって外に出なくてはならなくなったら、上の椿のところか、階下の相馬そうまのところに連絡すればいいから」
「え……玉之浦さんにも相馬さんにも迷惑じゃ……」
「慧斗をひとりで行動させて何かあるほうが問題だ。頼むから、提案を受け入れて欲しい」

 相馬というのは、相馬玲王れおというアルファの弐本人俳優だ。今回、紅龍が監督する映画の主演をつとめており、慧斗自身も何度か食堂で白糸と昼食を取ってる際に一緒になったことがある。
 紅龍自ら抜擢したこともあり、雰囲気が紅龍ととても似ていた。そんな相馬だが、偶然にも現在慧斗たちが暮らすマンションの真下に、マネージャーと一緒に居を構えているという。
 そのマネージャーは笹川藤野ささかわふじのというオメガ男性らしいが、慧斗は一度も会ったことがない。紅龍曰く「アルファはオメガを囲うから」と、頷くべきか首を傾げるべきか、分からない言葉で締めくくった。

 そうして朝早く出かけた紅龍が帰宅したのは、日付が変わろうかという深夜の時間帯だった。
 酷く疲れた顔で、玲司が明日自宅に来ると告げた紅龍は、ふらつく足取りで自室へと入っていった。
 何か良くない話でも聞かされたのかと、不安で眠れなかった慧斗は、にこやかに訪問した玲司から齎された話に驚愕するのだった。


「そう。実は今回の話が出ようがでまいが、話自体はあったんだよ。夏に別邸に行ったよね。そこで薔子さんが慧斗君と紅音君を気に入っちゃったみたいで。……どうかな」
「どうかな、と言われてもすぐには……」

 こんな重要な話、すぐに答えを出すものではない。

 確かに去年の夏に紅龍の強引な家族旅行の行き先が、要塞のような大きな洋館だった。そこで玲司や凛の母である寒川薔子と邂逅したが、気に入ったと言われるほど交流がなかったかに思えたが……
 疑問が脳裏をよぎりながらも、戸惑いでどう答えていいか悩んでいると。

「まあ、座って話をしようか。色々説明もしなくちゃいけないし」

 再度お茶を淹れ直して、慧斗は紅龍の隣に腰を下ろした。
 紅音は桔梗と一緒に紅龍の両親の家で待っている。予定外のお泊りで、紅音のテンションはかなり上がっていると、SNS経由で教えてくれた。添えられた写真には、頬にご飯をつけて大きな口を開けて笑う息子の姿を、微笑ましく見る紅龍の両親がおさまっていた。

 両親が住む元祖母宅は、紅龍が施したセキュリティに加え、彼の両親が手を入れているそうだ。猫の仔一匹入ることも許されない鉄壁となっていると聞いた時には、目を白黒させたものだ。
 一応、紅龍を通して建て直しを提案したものの、本国ではなかなか見られない和建築を気に入っているようで、このままの形で残していきたいと返ってきた。

 祖母が亡くなった時、慧斗の両親は古びた家を壊して土地を売るから、相続を放棄しろと迫ってきた。しかし、土地の所有者が玲司だと知るやいなや、早々に弁護士を寄越してきた手腕を察したのか「こんな廃屋なんていらないから好きにしろ」と悪態を吐いて帰っていった。
 両親は……特に父は実家だというのに思い入れもないようで、慧斗の心は悲しくなるばかりだった。
 その後一度だけ彼らは慧斗の前に現れた。それが慧斗の補助金の振り込み手続きというのだから、完全に両親に対して家族の情というものは消え去っていた。
 それに比べて玲司の母である薔子は、他人であるというのに慧斗に優しくしてくれた。凛が突然別邸に現れたのも、オメガは環境の変化でも体調を崩しやすいと知っていて、息子を呼び寄せたと家政婦の織田から聞かされた時には面映ゆい気持ちになったものだ。
 そんな薔子が自分を養子に迎えたいと言ってくれる。
 もし、寒川の養子になれば、現在加熱しつつある報道も早く落ち着くだろう。
 現在は紅龍の両親だけが祖父母という紅音も、新しく家族が増えるのは良い傾向に違いない。
 でも……誰もが知っている高位アルファ家系である寒川家に、一般庶民の慧斗が戸籍に入ってもいいのだろうか。いや、すでに慧斗は紅龍と入籍しているから、それでさえおおごとではあるが。

「慧斗、顔色が悪い。つらいなら、この話はまた今度にしてもいいから」
「え?」

 背中に温かい感触と共に、赤い瞳が慧斗を覗き込んでくる。考え込みすぎて意識があさっての方に飛んでいたらしい。

「あ、いや、大丈夫。玲司さん、話を続けてもらっても?」
「慧斗君が問題なければ」
「お願いします」
「……分かりました。不調があればすぐに言ってくださいね」
「はい」

 佇まいをただし玲司の話に慧斗は耳を傾けた。
 現在寒川家には三人の子どもがいる。
 長男でアルファの総一朗そういちろう
 次男で養子のアルファの玲司。
 三男でオメガの凛。
 玲司はオメガの桔梗と婚姻を結んでいるものの、なかなか子宝に恵まれていない。更には玲司自身が寒川家の後継を拒否しているのもあり、お互い合意の上で書面を交わしている。
 長男の総一朗は後継ではあるが、諸事情により結婚ができない。また将来的に養子に行く可能性があるため、こちらも寒川家の当主としてつとめてはいるものの永続的なものではない。
 三男の凛はオメガで婿養子という手があるが、彼は生まれつき子どもを成せない体なのもあり、次代が望めない。

「そういう訳で、慧斗君を気に入った母が是非に、と」
「え、でも玲司さんと桔梗さんに子どもができたら、」
「養子なので、子どもができたとしても寒川の後継にしたくないんです」

 まず、玲司が養子ということに驚きを隠せなかった。
 面識はないが、玲司の店で何度か長男の姿を見たことがあるし、凛も長い付き合いで既知である。それぞれ玲司との関係はとても良好で、ひとりだけ養子というのを信じられなかった。
 更には凛がオメガでありながら子どもが作れないと知り、慧斗は胸が痛くなった。
 だが、こんな大切な話を本人からではなく、他の人から聞いてもいいのだろうか。

「玲司さん、凛先生はこの話について公表してもいいと?」
「ええ、慧斗君なら吹聴しないだろうから、普通に話してもいいと言ってましたよ」

 信頼されてますね、と玲司から言われて、自分も凛を深く信頼していると返した。紅龍は微妙な顔をしていたが。

「そして今回のことがありましたので、薔子さんはなるべく早く手続きを取った方がいいと。寒川の身内が紅龍の相手ということなら、世間も騒ぐことなく受け入れる可能性が高いと言っていましたし、私も同じように思いました」
「……」
「それにね、長年あの家族に悩まされている慧斗君を救いたいという気持ちもあるんです。今のままでは私の手が離れた途端、大きな顔をしてあなたから搾取すると思いますよ」

 確かに両親や姉は成人して随分経っても後見人をしてくれているのは、玲司が防波堤となって慧斗や紅音を守ってくれるからだ。もしこのまま玲司の手を離れてしまえば、今度は紅龍の威光までも利用してくるかもしれない。
 特に姉は自分から紅龍を奪い取る可能性だってある。
 だが自分が寒川の戸籍に入るというのはできるのだろうか。普通なら、慧斗が紅龍の両親と養子縁組するのが妥当のような気がする。

「その話は私から薔子さんに言ったんですよね。ですが、私にだって可愛い息子と孫にちやほやされたい! と、紅龍の両親に吠えてましてね。それで彼らはいつでも会えるし、実質息子の番だから、と」

 話によると玲司の母親と紅龍の両親は昔からの親友とのことらしい。世間は狭いとはこういうことなのか。

「まあ、色々思惑がありますが、詰まるところ。私が後見している子を、自分も守りたいっていう話なんですよ。同じシングルで子どもを育てた者同士という仲間意識なんでしょうね」

 やはり今ここで決心するには重大すぎる内容のため、数日中に返事をするからと伝え、玲司は帰っていった。
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