上 下
57 / 69
清明の払暁

しおりを挟む
「……そう、それは大変だったね」

 目の前に置かれたカップから、ふんわりとラベンダーとミルクの甘い香りが鼻腔を擽り、自然と安堵の吐息がこぼれる。
 膝の上に泣き疲れて眠ってしまった紅音がいるため、そろりと半身を動かしてカップを手に取ると、湖面に息を吹きかけそっと一口を含んだ。
 店の前庭に咲いていたラベンダーを収穫し、ハーブティーに加工したのは、目の前で紅音を心配そうに見下ろす玲司の番である桔梗だ。
 その桔梗は出先で貰ったお菓子を出すために厨房に居た。

「紅龍、どうして慧斗君と離れたのかな。自分の立場や慧斗君の事件のことを考えたら、少しでも離れるのは得策じゃないっていうのは分かるでしょ」
「幸せすぎて油断していた」
「浮かれるのは分かるけどね。ゴリ押しの共同生活から、家族として生活を共にできるようになったから。でも、紅龍。君は弐本の大半が知っている著名人なんだよ。しかも慧斗君や紅音君は戸籍上は家族でも、世間からしたら子持ちのオメガが王紅龍と行動を共にしているというのは、十分にスキャンダルなんだってこと」
「ああ理解している。やっと慧斗や紅音が家族になって、気が緩んでいるっていうのも。だから、こんなトラブルが起こってしまったのは、俺の失態だ」

 いつになく気落ちしている紅龍は、両手で包んだカップの中の黒い湖面を長い睫毛を伏せて見下ろしていた。
 確かに紅龍も浮かれていたが、慧斗も同じほど浮き足立っていたのは事実だ。以前の自分なら、紅音が我が儘言っても、宥めすかしてでも自宅に帰っていた。

 あのあと姉を追い出したホテルのスタッフの案内で、ホテル側が手配してくれたハイヤーに乗って地下駐車場から帰ることにした。しかし、あとを付けられるのを心配した紅龍が、車内から玲司に連絡を取り、彼の店『La maison』に向かうことになった。
 行きの際に乗った紅龍の車は、代行が自宅まで届けてくれるそうだ。

「今までクレイジーなファンがいなかったと言えば嘘になるが、ああも理性なく自己主張してきた人間は初めてだ。あの時、ホテルスタッフが引き離していなかったら、俺だけでなく他のアルファもあの女を抹殺していたかもしれないな」
「物騒な話は止めてくれる? 寝てても紅音がいるんだし」
「悪い、慧斗。もしかして紅音起きちゃったか?」
「それは心配ないと思う」

 眦を釣り上げ隣に座る紅龍を窘め、それから視線を下へと移す。語気が荒くなってしまったので紅音が目覚めるのではとハラハラしたものの、豪胆なのかスヨスヨと寝息を立てて起きる様子がない。慧斗はホッと安堵した。
 紅龍も息子の初めて見る様子を思い出したのか、口をムニムニ動かして熟睡している紅音の姿に、優しく目を細めた。

「慧斗君、紅音君を上で寝かせたほうがいいんじゃない?」

 不意に聞こえた声に顔を上げると、両手にトレイを持った桔梗が立っている。今のマンションに引越ししてから……厳密に言えば事件後から久々の再会だが、相変わらず綺麗な人だと感心する。
 桔梗からの申し出はありがたかったが、きっと動かそうとした時点で紅音は起きてしまうと確信している。

「いいえ、下手に動かすほうが起きちゃうかもしれないので」

 断りを入れると「そう」と桔梗は微笑んでから玲司の隣に立った。

「それにしても、慧斗君の身内を悪し様に言うのは憚られるけど、小さな子どもがいるのに自分優先に行動するなんて……」
「桔梗君、自己中心で自分可愛いと思っている人には、周囲なんて見えていないんだよ」

 小さくため息をついている桔梗に対し、それ以上の悪口で玲司が言葉を続ける。
 的を得ているし、慧斗自身も姉を擁護する気もないので、苦笑するにとどめた。

「前にお会いしたのは、おばあさんが亡くなった直後でしたか。あの時も私に擦り寄って大変迷惑を被りましたね」
「え、そうなんですか?」
「しばらくの間頻繁に店に来て、あれこれと仕事の邪魔をしてきたので、弁護士を通して注意をしたくらいですから」

 初めて聞く姉の挙動に、慧斗は「すみません」と沈んだ声で謝罪をこぼした。

「しかし、不思議なんですよね。慧斗君には悪いですが、ご実家の経済状況では、気軽にあのクラスのホテルを利用なんてできないはずなんですが」
「それは……」
「慧斗君、私に隠していること、ありますよね?」
「あ……え、と」
「話してくれますよね?」

 玲司からの無言の圧力に、慧斗はあっさりと白旗を振った。長年、自分の後見者である人を躱せるほど、慧斗の神経は図太くない。
 一度は玲司の助けで祖母に慧斗の補助金を入金するようにしたのを、祖母の死後に両親と姉に恫喝されて仕方なく両親の方に振込手続きをとらされたことなど、色々隠していたことを話していた。

「……なるほど。人が目を離している隙に、そんな姑息なことをしていたんですね」
「言わなくてすみません」
「玲司その顔怖いからやめろ」
「ブラック玲司さんかっこいい……」

 沈痛な面持ちで反省を告げる慧斗に、紅龍と桔梗が玲司への感想を漏らす。
 慧斗自身も何度か悪巧みしているような玲司の顔を見たことがあるが、桔梗のようなおおらかな感想を抱くことなく、むしろ近寄りたくない感情のほうが強かった。

 大人はこんな状況にもかかわらず、紅音はいまだ深い眠りについたままだ。肝が据わっているのは紅龍に似たのだろうか。
 微かに赤く腫れた目元をそっと指先で撫でる。「むぅ」と口をへの字にしていたものの、起きる気配がない。
 本当に自分のせいで息子に悪いことをしてしまった。
 もっと早くに姉から離れていれば、紅音に怖い思いをさせることも泣かせることも回避できたはずなのに……
 姉に対する昔からの苦手意識のせいで、大切な我が子を傷つけてしまったことが悔しい。

「慧斗、大丈夫か? 顔色が悪い」
「あ、ごめん。大丈夫」

 ふわり、と甘くて苦い香りと共に、温かい手が慧斗の髪の間を滑っていく。
 このぬくもりが、いつしか心地よく、安心できるようになったのはいつからか。

「もししんどいなら、桔梗君と一緒に自宅のリビングで休んでもいいですからね」

 あれだけ魔王降臨な雰囲気を醸していた玲司も、元気のない慧斗を慮って、休息を提案してくれる。
 とてもありがたかったが、過去のやらかしを人に託して、自分だけ安全帯にいるのはいやだ。

「いいえ、俺もこのまま話に参加します」

 まだ不安ばかりが強く慧斗を支配していたが、紅音をこれ以上悲しませないためにも、慧斗はギュッと奥歯を噛み締めた。



 詳細は当時手続きをしてくれた弁護士に確認する必要があるが、玲司の手元にある書類の控えをまとめたものを皆で確かめたところ。

「おい、玲司。慧斗の祖母宅の土地がお前の名義になっているんだ」
「それは、慧斗君のご両親が勝手に土地を処分しないためですよ。当時にはすでに土地価格が上がってましてね、あれだけの広さを売却すればそれなりの大金になるんです。当然、相続税が発生するので手に入るのは、減額された金額になります。とはいえ、軽く新築戸建てが二軒ほど建てれる土地ですから」
「最低でも数千万ってところか」

 あの祖母の家が建つ場所に、そんな高額が発生するのかと慧斗は驚く。

「まあ、代理が私ってだけなので、実質は今も慧斗君が所有者なんですけどね。それに、今は紅龍の両親が住んでいるし、一般家庭よりもセキュリティは強固ですから。押しかけようとしても玄関にたどり着く前に警察が来る可能性が高いかと」
「向こうも祖母が亡くなる前に土地を譲渡したのを知っているので、自分たちにはそのお金が入らないのは理解しているようでした。なので、俺の補助金が狙われたのかもしれないです」

 実際、祖母が亡くなり、玲司主導で葬儀をつつがなく終えてすぐ両親たちがやってきた。
 玲司が依頼した弁護士から、祖母の遺書が公開され、実質祖母には遺産はなく、残るのは古びた家屋のみだけだと。その家屋も慧斗に譲り、少額の財産も後見人の玲司に託してあるため、両親には一銭たりとも入らない旨を伝えられたそうだ。
 多少の金銭が入ると見込んでいた両親や姉が目をつけたのが、慧斗の補助金だった。
 祖母の口座が凍結される前に、祖母と一緒に作った都市銀行の自身の口座に振込まれるよう、手続きをする直前だった。
 その入金先を慧斗が未成年なのもあり、両親に変更するよう迫られたのだ。
 あの時の両親たちは、慧斗を息子ではなく、ただの金を搾取できる存在としか見ていなかった。
 慧斗はそんな両親たちを、もう家族ではなくなったのだと、諦めるきっかけとなったのだった。


 結局、一度弁護士とすり合わせをするので安易に御崎家の人たちと接触しないように、と玲司に言われ、慧斗たちは紅龍が購入したマンションへと戻ることになる。
 不安は残ったものの現在の住居は知られていないし、戸籍も簡単に開示できないよう手続きをしているのもあり、接触さえしなければ大事はないだろうと慧斗は考えていた。

 しかし、その思いは紅龍が紅音を抱いて紅龍の腕に囲われる慧斗の姿が、朝刊にて大々的に掲載されたのが発端となり、しばしの安息の時間は脆くも砕かれることとなったのである。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

余命僅かの悪役令息に転生したけど、攻略対象者達が何やら離してくれない

上総啓
BL
ある日トラックに轢かれて死んだ成瀬は、前世のめり込んでいたBLゲームの悪役令息フェリアルに転生した。 フェリアルはゲーム内の悪役として15歳で断罪される運命。 前世で周囲からの愛情に恵まれなかった成瀬は、今世でも誰にも愛されない事実に絶望し、転生直後にゲーム通りの人生を受け入れようと諦観する。 声すら発さず、家族に対しても無反応を貫き人形のように接するフェリアル。そんなフェリアルに周囲の過保護と溺愛は予想外に増していき、いつの間にかゲームのシナリオとズレた展開が巻き起こっていく。 気付けば兄達は勿論、妖艶な魔塔主や最恐の暗殺者、次期大公に皇太子…ゲームの攻略対象者達がフェリアルに執着するようになり…――? 周囲の愛に疎い悪役令息の無自覚総愛されライフ。 ※最終的に固定カプ

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【書籍化確定、完結】私だけが知らない

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ 目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/12/26……書籍化確定、公表 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている

飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話 アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。 無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。 ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。 朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。 連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。 ※6/20追記。 少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。 今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。 1話目はちょっと暗めですが………。 宜しかったらお付き合い下さいませ。 多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。 ストックが切れるまで、毎日更新予定です。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします

  *  
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!? しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です! めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので! 本編完結しました! 時々おまけを更新しています。

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

処理中です...