君と番になる日まで

藍沢真啓/庚あき

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清明の払暁

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 最悪だ。
 身内にこんな感情を抱くなんて、自分はなんて薄情なのか、と気分が落ち込むが今はそれどころではない。紅龍が戻ってくる前に姉を遠ざけなくては。
 醜聞好きな姉に、世界的に有名な紅龍との間に紅音という子供がいるのを、知られる訳にはいかない。彼女はきっとさまざまな場所で吹聴するだろう。そうして周囲の目を集めて、注目されるのを喜ぶに違いない。

「ねぇ、なんとか言いなさいよ。せっかく私が話しかけてあげてるっていうのに」
「……ねえさんはどうしてここに」

 きっと姉のことだ。普通の会社員であるにも拘らず、合わない身の丈を取り繕うために、このホテルの施設を利用していたのだろう。両親も姉の我が儘を後押しするように、不要な金を渡している筈だ。それが慧斗のために支払われていた補助金だったとしても。
 玲司は知らない。慧斗の祖母が亡くなったと同時に、慧斗に与えられる筈の国からの補助金は、すべて両親の口座に振り込まれているのを。
 それを機に、御崎家の羽振りが随分と良くなったと、風の噂で耳にしていた。
 慧斗自身は祖母との契約不履行として玲司に相談すれば良かったのだが、祖母が亡くなった喪失感と、自分を金蔓としか考えていない家族に落胆して動くことができなかった。
 それに、祖母が遺してくれた家と遺産、凛から斡旋されたバイトで十分とは言えずとも懐には問題なかったのもある。

「このホテルのサロンに来てたのよ。オメガのあんたより美しい私だもの。磨かなきゃ損じゃない。それに糠臭いあんたよりも優秀な私のほうがアルファの妻にお似合いでしょ?」

 巻いた髪を指で払い、慧斗を見下ろしせせら笑う。
 姉はオメガを卑下しながら、自分はそれ以上の美しさや教養を持っているから、アルファから請われると信じている。
 確かにベータと結婚するアルファがいないわけではない。
 しかし、姉は本当のアルファとオメガの絆を理解していない。
 だから簡単にアルファと結婚できると言い切れるのだ。

「そう……だね」

 本当にそんな事が実現するなら、と内心で吐露する。口に出してしまうと、ムキになった姉が発狂するだろうし。ホテルに迷惑を掛けるのもしのびない。

 姉は沈んだ顔を俯かせる慧斗を見て、何を思ったのかパッと明るい顔をして口を開く。

「もしかして、生活に苦労して、売春でもしているのかしら。やめてよ、実弟が紛いなことをして生計を立ててるなんて知られたら、私の評判にも関わるじゃない。あ、でも、オメガなんて体しか取り柄がないんだものね。どうせまともな職にも就いてないんでしょ」

 もう何も反論する気力もわかず、慧斗は黙ったまま姉の言葉を耳に入れていた。
 さっきから姉のオメガに対する誹謗中傷を聞いた周囲の人々は、姉に対して険しい視線を投げているのに気づかないのだろうか。
 このホテルはアルファとオメガがヒート期間を過ごす特別フロアがあり、姉よりも身分の高いアルファやオメガが多く滞在しているのだ。
 その最愛の番を蔑ろにした姉を、アルファたちが一斉に姉へと威圧を込めて睨んでいる。にもかかわらずベータで鈍い姉は、相変わらず慧斗を睥睨したまま嫌な笑いを浮かべていた。

 オメガはその性質上、社会不適合者と言われてたのは、過去の話だ。
 今は抑制剤の種類も増え、薬の相性さえ良ければ、ヒート休暇の期間も短く済む。つまり、オメガは現在では、普通に社会で生きていけるようになったのだ。
 かくゆう慧斗も凛の臨床実験で多少薬効は強いものの、ひとりで紅音を五年育てたことができた。
 こんなネットでも簡単に拾える情報を知らずに、姉は悪し様にオメガを罵倒する。

「お願いだから、実家に帰ってこないでよ。あんたみたいな淫売オメガが家族にいるなんて、私もう恥ずかしくて恥ずかしくて」

 だったら最初から声をかけずに無視を決め込めばいいだろう、と慧斗は口にしそうになったが、慌てて飲み込んだ。反論しようなら口撃が倍以上になって戻ってくるのが想像にかたくない。
 それなら言いたいことだけ言わせておいて、さっさと退散してくれればいい。
 運がよければ、ホテルスタッフが追い出しにかかってくれるかもしれないが。実姉のことでこれ以上迷惑をかけたくない。

「だからあんたに支払われる補助金は、私たちの慰謝料として受け取るのは当然よね」
「勝手にすればいい。そもそも俺に渡す気持ちなんて更々ないだろう?」
「ええ。だって、私も一時期迷惑していたもの。あんたがオメガだって周囲に知られた時、弟がオメガだから、私もビッチ扱いされちゃうし」

 ああいやだいやだ、と毒づく姉を、慧斗は冷ややかに眺めていた。

 実際、慧斗がオメガだと判定されてすぐの頃は、オメガのマイナス部分しか知らない級友たちから揶揄われた。しかし、当時の保健室の養護教師がオメガの人で、全校生徒を集めて講習をしてくれたおかげで、オメガに対するイメージが幾分か和らいだ。 
 それでも一度染み込んだ慧斗の意識は、完全に払拭できることはなかった。
 自分がオメガだと判定された時、慧斗は両親を恨んだ。
 どうしてベータの両親と姉の中で、己だけがオメガなのか、と。
 だけど彼らは慧斗の嘆きに気づかず、むしろ異分子扱いしながらも、オメガの子供に対する特権をすぐさま享受する手続きを行った。そのひとつがオメガ特別補助金だ。
 オメガはその体質からか虚弱な者が多く、医療費などがアルファやベータより多額となる。それを補償し、かつ希少なバース性であるオメガを保護する意味もあった。
 だけど慧斗はそんなお金を貰っても嬉しくなかった。
 オメガは番がいないと、生涯の殆どをヒートで苦しむことになる。それに見合った金額か分からない補助金を渡されても困惑するしかなかった。
 そんな決して少なくない慧斗へのお金は、ベータ家系の両親たちにはかなりの大金だったのだろう。慧斗のオメガ性を疎んじながらも、彼らは税金を収めているのだからと、慧斗の許可なく申請を出して当たり前のように姉へ散財した。養育されていた慧斗のお金だから、両親がどのように使おうがどうでも良かった。

 しかし両親や姉は、本格的に慧斗がヒートに入ると、祖母の家へと慧斗を捨てた。そのまま補助金も祖母の口座に振り込めば良かったのに、両親はそのまま自分たちの懐に略取し続けた。
 もちろん両親からは一定額が慧斗の養育費として祖母に支払われたものの、到底オメガの子供を賄いきれる金額ではなかった。
 そして玲司の力で正しく養育する祖母の口座に補助金が振込まれることになったが、それも祖母が亡くなる数年の間だけだった。
 あまりの恐怖に玲司には知らせなかったが、祖母が亡くなり数日した頃の深夜、突然両親と姉が押しかけてきたのだ。それもガラの悪い人間を伴って。どうやら姉が借金をしている金融会社の人らしい。
 恫喝や脅迫に長けた裏社会の人間は、両親や姉を死なせたくないのなら、補助金の振込先を戻すように唆してきた。
 大学に入ったばかりの子供だった慧斗には、底知れぬ裏の人間の威圧に恐怖を感じ、言われるがまま書類に震える手で記入した。
 情はとっくに消えてなくなっても、自分のせいで人がこの世から消されると聞かされ、突き放せれるほど慧斗は薄情ではなかった。
 それに自分には祖母がこれまで貯めてくれたお金と祖母の遺産、古くても温かい家がある。
 両親にも姉にも、今後自分には関わるなと約束させ、別れの言葉とした。

(それなのに今更)

 まだも慧斗のオメガ性を蔑む姉の言葉を耳に流しながら、慧斗は小さくため息をつく。
 いい加減耳ざわりの悪い言葉を聞くのもうんざりして、ゆっくりと慧斗が立ち上がると。

「慧斗、なんの騒ぎだ?」
「おかーさんっ」

 遠巻きに出来ていた人垣を割って、紅音を抱いた紅龍が姿を現す。いつもなら頼もしい援軍が来た、と気持ちが沸き立つが、この状況ではトラブルが増す気がした。
 慧斗はどうしたらいいのか、と困惑に眉を歪める。

「おかあさん? あの子、あんたの子なの? あんた、いつの間に子供を産んだのよ。それに、あの人って俳優の王紅龍さんじゃ……」

 面食いの姉が紅龍だと気づかないわけがない。
 高慢で自信家の姉は珍しく目を白黒させ、慧斗と紅音を抱く紅龍を何度も視線を往復させていた。
 なかなかに貴重な光景が見ることができたが、このまま紅龍の姿を姉の視線に晒すのは不快だった。それに紅音に何かされても困る。
 見知らぬ人物が番と一緒にいることに怪訝な顔をした紅龍を、姉から距離を離そうと立ち上がったが、その前に弾丸の如く姉が紅龍に飛びついた。

「あのっ、私、慧斗の姉で御崎凛虹といいます! 慧斗の友人ですか? 私もこれからお付き合いさせていただいてもいいですか!?」

 立板に水のごとくまくし立てる姉に、紅龍は硬直する紅音を守るように強く抱きしめ、必死で回避している。何度も「離れてください!」と姉に注意しているが、人目があって強く出れないせいか、紅音の顔を自分の肩に押し付けているのが見えた。

「紅音!」
「おがあさぁぁんっ!」

 紅龍の腕の中でジタバタと暴れ、手を伸ばした慧斗の胸に飛び込む紅音は、細い腕を首に巻きつけヒックヒックと嗚咽を漏らしている。急に見知らぬ人が飛びついてきたのだ。子どもにとっては恐怖でしかないだろう。

「ごめん……もう、大丈夫だからね」
「おがーさぁん、こわいよー」

 落ち着くように紅音の背中を撫でながら、慧斗は紅龍に視線を移す。案の定、邪魔だった子どもがなくなって好機と思ったのか、紅龍の腕に自分の腕を蛇のように絡ませて秋波を送っている。
 息子を恐怖に陥れ、媚びた目を紅龍に向けている姉に、慧斗の腸が煮えくるのを感じた。
 怒りに震える唇を開いた途端、紅龍に巻きつく姉へ複数の黒い手が伸びているのが見えた。

「きゃあ! なにすんのよ!」
「申し訳ございません。当ホテルの大切なお客様にご迷惑を掛けるような行為はおやめください」
「私だってお客様よ!」
「迷惑行為をされる方は、当ホテルのお客様とは認定されません。他の方々にも不快感を与えますので、退去いただきますようお願いいたします」

 揃いのスーツを纏った男性数人が、姉を出口に引きずりながら宣告している。
 当然姉も髪を振り乱して暴れていたが、屈強な男性数人の適うはずもなく、されるがまま玄関の外へと放り出されていた。
 あまりにも突然の終劇に、しばし沈黙が流れていたが、次第にパラパラと拍手が最終的には大きな歓声となってフロアに広がった。

「紅音、慧斗大丈夫か!?」

 こわばった顔で近づき、ふたりごと抱く紅龍が安否を尋ねてくるのを、慧斗はコクコクと頷くしかできなかった。

「うん、まだ紅音がグズってるけど、俺はどこも怪我していないよ」
「そうか……良かった……」

 微かに香る紅龍の匂いに慧斗はホッと息をついて、姉に掴まれよれた紅龍のコートの背中に手を這わせていた。
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