君と番になる日まで

藍沢真啓/庚あき

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回春の暁月

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 半狂乱で暴れる男性は、大きな目をギョロリと動かして周囲に睨みつける。頬が痩け、細い体でどうしてあんな力が、と慧斗は紅龍の腕の中で不思議に思った。

「兄さんを殺したくせに……ボクの兄さんを返せよ!」
「……伊月は生きてる」

 すぐ近くから静かに告げられた言葉に、慧斗は驚きで紅龍を見上げる。苦々しい顔で男性を睨む紅龍の目は、射抜かんばかりに細められていた。

「嘘だ!」
「嘘じゃない。信じられないなら、連れて行ってやるから待ってろ」

 直情的に喚き叫ぶ男性に紅龍が淡々と答える。
 家族を殺されたかもしれないという疑念を、男性は牙を周囲に剥き、真実を知ろうと訴えている。慧斗でもきっと同じことをするだろう、と共感めいたものが胸中に湧き上がった。
 逆に紅龍の鷹揚な態度が不思議だ。
 人の生き死にに関することを、どうして彼はこうも静かに話せるのか。

「……どういうこと?」
「話はあとでする。今は病室に帰って風呂に入れ」

 慧斗の疑問を封じて、紅龍は慧斗を抱き上げると、騒然としている中を離脱した。
 渦中である一角を何度も慧斗は振り返る。
 離れていくにつれ声も届かなくなっていったが、あの場所だけが異質に映る。
 自分は事件の中心にいたはずなのに、蚊帳の外に置かれているようで不安になった。
  
「でも……」
「母には父もいる。破門したといえ、王家の頭領に牙は剥かないだろう」
「……」
「それよりも自分の心配をしろ。まだ体も快方に向かってる途中だというのに、無茶をして……」

 厳しい顔で紅龍が慧斗をたしなめてくる。だけど気丈に振舞っているのは、慧斗を包む紅龍の腕がまだ震えていて、それだけで彼が怒りや恐怖をその体で必死に押さえ込んでいるのが分かった。
 先程の泰然自若な態度も虚勢だったに違いないと気づく。
 多分自分も紅音の手前冷静に対応するだろう。弱い部分を他人に見せたくなかったから。

「慧斗君」
「凛先生。紅音は?」
「今は食べ疲れたみたいで、奥の休憩室で眠ってる。それよりも、なんなのその格好は」

 ナースステーションを通り過ぎようとした時、凛の厳しい声がふたりを引き止める。
 本当は事情を話さなくてはならなかったけども、慧斗の頭にはこの状況を紅音に見られるのを回避したい。あれだけ憔悴した息子にこれ以上の心痛を与えたくなかったから。
 慧斗は声を抑えて、先程あった出来事を簡単に話した。

「……なるほどね。ひとまず、慧斗君はその土だらけなのをなんとかしよう。向こうの方については、こちらで一度話を聞いてみるから」
「え、お風呂に入ってもいいんですか?」

 まだ完全に体調が回復していないため、意識が戻ってからずっと入浴許可が下りなかった。いつもは紅龍が熱い湯を浸して絞ったタオルで全身を拭いてくれる。

「多分、髪に土が付着しているし、慧斗君も気持ち悪いんじゃない?」

 言われてみれば、放り出されて受身を取らずに花壇に突っ込んでしまったため、全身が土で汚れている。おそらく髪にも入り込んでいるだろう。

「すみません、凛先生。ご迷惑おかけして」
「いいの。それよりも、擦り傷もあるようだし、あとで消毒しに行くから」

 ありがとうございます、と紅龍に抱かれたまま頭を下げ、そこで凛と別れる。下手にここで長い時間話していると、紅音に気づかれる可能性もあるからだ。
 迷惑をまたかけてしまったと、落ち込む慧斗に「気にするな」と頭上から声が降ってきて思わず顔を上げる。そこには柔らかい表情で慧斗を見下ろす紅龍の顔があって、安心させるその表情に「うん」と小さく頷いた。
 病室に戻り、その足で浴室へと連れられた慧斗はなんなく服を脱がされ、浴室の椅子に座らされる。そしてあろうことか紅龍がいきなり服を脱ぎだしたのに度肝を抜かれた。

「なっ、なんで、紅龍まで服を脱いでるんだ!?」
「ん? かなり派手に花壇に倒れ込んだだろう? 背中にも怪我をしているかもしれないし、今興奮状態で気づいてないだけで、捻挫をしているかもしれない。まだ体力も回復していないんだから、俺が洗うのが最善じゃないのか」
「……うっ」

 紅龍からど正論を繰り出され、慧斗は言葉に詰まってしまう。
 確かに普段は体を拭くだけで片付くものの、今の状況は髪にまで土が入っているかもしれない。寝ているベッドに土がつくのも嫌だし、紅音に疑問を持たれるのも避けたい。

「じゃあ……お願いしても……いぃ?」

 言葉尻が窄んでいってしまったが、ちゃんと慧斗の言葉は紅龍の耳に届いたらしく、喜色を滲ませ微笑んでいた。

 シャワーで土の汚れを流され、泡立てたシャンプーで丁寧に髪を洗われた。かすり傷のせいで多少沁みたものの、久々の入浴にすぐに気にならなくなった。
 特別病棟は上流階級の人が入院するためか、常備しているアメニティも慧斗からすれば浮世離れしたブランド物で取り揃えられている。更には持ち込みまでOKされているのだから、この病棟が異質に感じてしまうのは、慧斗の庶民感覚が染み付いているせいだろう。
 地肌をマッサージするように紅龍の長い指が頭を滑っていき、心地よさにほうとため息が出る。

「痒いところはないか?」
「ううん、気持ちよくて寝ちゃいそう」
「眠かったら眠っていいぞ。ちゃんと支えておくし、湯船にも入れてあげるから」

 事件からずっと紅龍に甘えている。今回も紅龍の親を助ける名目があったにせよ、そのしわ寄せが紅龍に向かっている気がする。
 罪悪感に落ち込みそうになる慧斗だったが、謝罪を口にしても紅龍は受け入れることはないだろう。
 さっきだってそうだ。紅龍は母親の安否を確かめず、一目散に慧斗に駆け寄ってくれた。
 本音を言えばすごく嬉しかった。真っ直ぐに自分の安否を確かめてくれる紅龍の姿にときめいた。
 でも、同時にこれだけ慧斗を思ってくれるのに、自分は紅龍の気持ちに応えることに躊躇いがある。紅龍が嫌いだからではない。好きなのに頑なだった時間を長く過ごしたせいで素直になれなかった。
 ぐちゃぐちゃな気持ちを抱えたまま、トリートメントまで済ませて、もこもこの泡で優しく体を洗われた慧斗は紅龍に再び抱き上げられて湯船へと沈んだ。少しぬるめの湯温は、慧斗の負担を考えてのことだろう。本当にこんなにまめまめしいとは思わなかった。

(いや、違う。元々紅龍が細やかな人間だって知っていたはずだ)

 あれは初めて紅龍と出会い、衝撃でヒートになってしまって、雪崩るように番になった時。
 激しい情交に半ば意識を失っている慧斗を、何度か紅龍がお風呂に入れてくれたのを脳裏によぎった。涙と汗と体液に汚れた慧斗の体を、紅龍の大きな掌が大切な物を扱うように、優しく綺麗にしてくれたことも。
 何度も愛してると囁いてくれて、慧斗は祖母以外で初めて安堵することを覚えた。
 だからあれだけ好意を寄せてくる紅龍に、婚約者がいると知らされて絶望したのだ。

「あのさ、紅龍。さっきの男性って……」
「ああ……あれは伊月……お前と出会った時に同行していた男の義理の弟だ」
「弟……ってだけじゃないよね」

 ぽつりと慧斗がこぼした疑問に、ちゃぷんと水面が揺れる。浴槽に凭れるように座る紅龍の上に同じ方向で慧斗が乗せられていたせいで、紅龍の動揺がはっきりと感じ取れた。彼と紅龍の関係がそれだけではないと。
 慧斗の無言の圧に何かを悟ったらしい紅龍は、小さくため息を漏らしているのが、自分の濡れたうなじに感じた。

「多分、お前の予想通りだ。あいつは俺の元婚約者だった」
「……そっか」

 やっぱり伊月という男が言ったのは本当のことだった。
 慧斗と紅龍が出会った時、紅龍には将来を誓い合った人がいたのだ。それがあの憔悴しながらも綺麗なオメガの男性。
 自分よりも紅龍の隣に立つのがふさわしい人。
 自分が彼の人生を変えてしまったのではと、胸が痛くなる。

「ただ、慧斗には言い訳にしか聞こえないかもしれないが、元々形だけの婚約だったんだ。王家は代々恋愛結婚が多くてな」
「うん、麗蘭さんから聞いた」
「そうか。でも、俺は結婚や番を得ようとは思っていなかった。玲司や椿たちが番を得て良かったとは思っていても、自分が欲しいとか考えてもいなかったな。だが名家というのは周囲の縛りもわずらわしくてな、適当に選んだのが伊月の義弟だった」

 ふう、と息を落として、それから慧斗と紅龍の距離が更に縮まる。お腹に手が回され、すぐ横に紅龍の気配を強く感じた。

「そもそも俺としては慧斗を番にした時点で……いや、慧斗をホテルに連れて行く時点で伊月に言ってあったんだ。慧斗を番にして本国に帰る。つまりは慧斗を王紅龍の正式な番として連れて帰ると。それが何をトチ狂ったのか、伊月は予定にない仕事をねじ込んで俺と慧斗を引き離し、慧斗に金を渡して追い出しただけでなく義弟を焚きつけてフェロモンテロを起こした」
「フェロモンテロ……」

 それは近年耳にする言葉だった。
 オメガの大半はその特性から仕事に就くのも難しく、低所得者が多い。ある程度の保障は受けれるもののそれすら知らないオメガは生きていくために、抑制剤と真反対の促進剤を服用し、強制的にアルファと番う。
 逆レイプをされたアルファは自身の地位が堕ちるのを恐れ、そのほとんどが番となり戸籍を結ぶこともあるという。アルファにはオメガとの『番解除』の権利を持っているにも関わらず。
 アルファもオメガも、判定されてすぐに教育期間などでそれぞれの特性を学ぶ機会がある。そういった機会に参加しなくとも、国から分厚いパンフレットが必ず届く。
 そこにはバースの特性だけでなく、各保障の手続きについての記載や、番になった際の報告義務だけでない。様々な理由で番を解除することになったオメガのその後の人生についても詳細に書かれている。
 オメガは一度アルファにうなじを噛まれたら、心変わりをしたとしても他のアルファに触れることができない。全方位に向かっていたフェロモンを一方向に向かうよう遺伝子を書き換えられるのだ。その代償は命懸けである。
 番を解除されたオメガのほとんどが普通に戻ることはない。一方的に縁を断ち切られたとしても、オメガは番ったアルファにしか反応できないのだ。それは正に生きた地獄と称する人もいた。
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