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凄辰の薄月

6-紅龍

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 ガラガラとリノリウムの床を車輪が転がる音を、紅龍は足をよろめかせて追いかけるしかできない。先を行くストレッチャーは紅龍を無視して処置室の奥へと消えていった。

 あの後、部下を連れて大挙してきた椿によって、峯浦は拘束されて、慧斗は支配人の采配で裏口から救急車で運ばれた。ふらついている紅龍を椿は引き止めてきたが、その腕を振り払い、自分の車で救急車の後を追った。ここまで事故なくこれたのは奇跡かも知れない。
 伊月も峯浦もどうでもよかった。ただ慧斗が無事であればいいと、そればかりを強く願っていた。

「王さん」

 立ち竦む紅龍の背後から、少し高めの声が呼びかける。振り返ると、そこに立っていたのは、男性看護師を伴った術衣を着た寒川凛だった。その凛の横を看護師が薬剤を抱えて走って処置室に向かっているのが見える。

「慧斗は……」

 自分の声が震えている。
 メディアでは威風堂々とした王紅龍も、現実では番の安否に不安になっているひとりの男だった。

「今は時間がありませんので簡単に。これから慧斗君の処置を始めます。本来であれば血縁者である紅音君に書類を書いていただく必要がありますが、彼は未成年ですし、兄もすぐに来れない状態なのであなたに同意書の記入をお願いします」
「同意書……」
「そうでないと、慧斗君の命を助けることができません。あなたが呆けてどうするんです! しっかりしてください、王紅龍さん!」

 ぴしゃり、と鞭のようなひと言が凛から放たれ、呆けていた紅龍の意識に強く響く。
 ああそうだ、自分が動かなくては慧斗が死んでしまうかもれしない。
 最愛の番の命を消してしまうわけにはいかない。

 分かった、という紅龍の赤い瞳には多少なりとも力が戻っていた。
 凛はそれに頷き、近くにいた男性看護師に手続きを頼むと、彼はそのまま急ぎ足で処置室に入っていった。
 それを見送り、促されるまま書類を書いて提出した紅龍は、処置室の前にあるベンチに腰を下ろしたままうな垂れた。

「慧斗……」

 白く人形のように何の反応も示さなかった慧斗の姿が脳裏に浮かんでは消えていく。
 顔が腫れるまで殴られて、どれだけ痛くて苦しかっただろう。
 あんなにひどい目に遭って、どれだけ辛かっただろう。

「戻ってきてくれ、慧斗」

 あのまま目を覚まさなかったらどうしたいいのか。
 もう二度と、彼の口から自分の名を読んでくれないのだろうか。
 もう二度と、自分たちの子である紅音と三人で笑い合うことは叶わないのだろうか。

「いいや、慧斗は戻ってくる。あいつが紅音を残してどこかに行ってしまうなんて有り得ない」

 紅龍を除外しても慧斗が紅音から離れるなんてことはしない。
 大丈夫だ。慧斗は絶対に大丈夫だ……

「ほーろんさんっ」

 聴き慣れた声に顔を上げると、パタパタと足音を立てて紅音が駆け寄ってくる。その後ろには玲司と桔梗、それから白糸教授と秋槻理事がいた。
 きっと自分も慧斗もいけないからと、白糸が代理で迎えに行って、秋槻が玲司に連絡して、紅音を連れてきてくれたのだろう。
 小さな体を両腕で受け止め、ギュッと抱きしめる。いつもと違う空気を感じ取っているのか、紅音の体は緊張で震えていた。

「ほーろんさん、おかーさんは?」
「慧斗は……」

 あんな惨状を子どもに伝えていいのか、紅龍は言い淀む。その紅龍の姿に、紅音はへにゃりと眉尻を下げた。

「おかーさん、きょうね、ぼくとおいしーのたべるってやくそくしたの。それなのに、しろいとせんせーがきてね、ほーろんさんのところにいこうっていったんだよ」
「……そうだったな。でも……」
「おかーさん、ぼくとやくそくしたのやぶったことないの。えんそくのときにあまいたまごやきにして、っていったらつくってくれるし、たんじょうびにれーじさんのけーきもおねがいしてくれたの。ねぇ、おかーさんどこにいっちゃったの? ぼくとおいしーのたべるのわすれちゃったの?」
「くお、ん……っ」

 紅音を抱きしめる紅龍の体がだんだんと震えているのに気づいたのだろう。紅音の訴えは最後には弱々しくなり、涙声で尋ねてきた。
 自分まで弱くなってどうする。紅音を不安にさせて、泣かせてしまうなんて、慧斗に知られたら怒られるに違いない。
 紅龍は「しっかりしろ」と自分に暗示をかけて、それから深く呼吸をすると口を開く。

「紅音、あのな。おかーさんは一杯頑張りすぎて疲れちゃったんだ。だから少し病院でお休みするから、紅音は白糸教授と一緒に待っていてくれるか?」

 紅龍は紅音の小さな背中を撫でながら、ゆっくりと説明する。以前峯浦に襲われて倒れた時、小さな体で慟哭して死なないでと泣いていた紅音の姿が蘇る。
 敏い紅音に嘘を言っても通用しない。だからこそ、現状をオブラートに幾重にも包んだ事実を語って聞かせた。
 誰もが紅音の発言に注視している中、微かな声で「ほーろんさん」と紅龍を呼ぶ声が耳に届く。キン、と凍えるような静かな廊下では、僅かな囁きですらはっきりと響いた。

「なんだ?」

 きっと紅音は紅龍の言った言葉の真意を理解しようと考えている。
 紅龍が優しい嘘という皮膜に包んだ事実を、一枚ずつ剥いで知ろうとしている。
 それは紅音が確実に傷つくと分かっているのに、彼も紅龍も止めることはしない。
 お互いに慧斗が大切な存在だから。
 家族として、慧斗と共に歩く存在であると認め合ったからこそ、紅音は事実を受け入れようと目元を赤くして見上げてきた。

「ぼく、ほーろんさんといっしょにいる。おかーさんげんきになるんでしょ? だったら、ぼくもいっしょにおかーさんおーえんしたいもん」

 赤い両目が潤んで、透明な涙がポロポロと頬を転がっていくにも関わらず、紅音は真っ直ぐに紅音を見て訴える。
 ああ、この子は自分の子だと、慧斗の子だと納得する。
 強く、賢い、この子を置いて、慧斗が逝くことは絶対にないだろうと確信する。

「……そうか。それなら、一緒に慧斗を待っていようか」
「うん。おかーさんげんきになるまでまってる」
「ああ……そうだな」

 慧斗も凛も消えた処置室からは誰も出てこない。
 それでも紅龍も紅音も慧斗が戻ってくると信じていた。
 小さな息子に背中を押されて、紅龍は我が子を抱きしめながら、静かに涙を流した。


 それから一時間ほどして、処置室からストレッチャーに乗せられた慧斗と、凛が姿を現した。特別病棟の一室に入れるとのことで、紅音は桔梗と白糸と秋槻と共に、運ばれる慧斗についていった。

「お疲れ、凛」
「あ、兄さん来てたんだ」
「きますよ。慧斗君の法定代理人ですし」

 小さくなっていく慧斗と紅音を見送っていると、背後で寒川兄弟の応酬が繰り広げられていた。
 玲司が慧斗の法定代理人になっているとは知らなかった。言われてみれば色々と納得することができた。
 慧斗の祖母が幼い慧斗を守るために取った方法なのだと。

「それで、慧斗に何があったんだ」

 振り返り尋ねる紅龍に、凛は自身の個室に案内し、落ち着いた所で口を開いた。
 慧斗を発見した時、唯一事情を知っているだろう峯浦を振り払った衝撃で気絶させてしまったため、原因を聞けずにいたのだ。もうひとりの伊月も、慧斗の状態に混乱していたせいで、そこまで頭が回らなかった。

「慧斗君は、発情促進剤を服用していました。それも一般に出回っている物の何倍も濃縮された、違法の促進剤をね。元々ヒートが不安定だった所に、劇物を摂取させられたせいで、体が拒絶反応を示したんです。どんな薬物もそうですが、時によっては劇薬にもあります。救急搬送時、一時期、慧斗君の心臓が止まっていたそうです」
「「え」」
「緊急措置で王さんに同意書書いてもらったから、胃洗浄して、蘇生処置もしたから大丈夫。ただ……」
「ただ、なんだ?」

 落ち着きを戻した心臓がまた軋み出す。
 凛の言葉を聞きたくない、だけど聞かなくては、と自分を鼓舞する。

「普通であれば、もう意識が戻ってもいい頃なんです。だけど、慧斗君だいぶ暴力を受けたみたいでね。何度もアルファの力で顔や頭を殴られた痕跡があった。簡易でレントゲンを撮ったけど、腕や足だけでなく、肋骨も骨折しているし、明日の早い時間に脳の検査を中心にやる予定」
「そんな……」

 絶望や怒りで何かが抜け落ちていく感覚がする。何とか意識を持ち上げただけに、紅龍の気持ちはどん底まで落ちていった。
 できることなら今すぐにでも伊月も峯浦もこの世から葬り去りたい。だけど、それは二度と慧斗や紅音に会えないと理解しているだけに、もどかしさに歯噛みするしかなかった。

「慧斗は……元に戻るのか?」

 自分の声が震えているのが分かる。

「慧斗は、俺や紅音の元に戻って来れるのか?」

 頬が冷たい。自分が泣いていると分かっているのに、体が固まったように動けない。

「分からない。明日目覚めるかもしれないし、こればかりは検査してみないことには……」
「頼む! 戻ると言ってくれ!」
「紅龍!」

 バネのように凛に飛びかかろうとしたが、玲司が後ろから羽交い締めして制してくる。
 言質を取ろうと、紅龍は力の限り暴れるが、憔悴した紅龍が敵うはずもなく拘束された。

「落ち着きなさい。凛を責めてもどうにもならないのは、紅龍だって分かっている筈でしょう」
「だけど、慧斗が……紅音が……」
「それなら、あなたが冷静になるべきでしょう? あなたまで取り乱していたら、紅音君は更に不安になりますよ」
「……っ、だけど……だけ、ど」

 窘めてくる玲司に抑え込まれ、紅龍は溢れる感情のままに声をあげて泣いた。
 怒りも、悲しみも、紅龍の全ての感情が体に収まりきれず、目覚めない番を求めて咆哮していた。
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