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凄辰の薄月

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 副都心に存在する外資系のホテルの一室。
 広々としたその一室の光景に、慧斗は覚えがあった。
 シックでありながらもそのどれもが一流品で揃えられ、今腰を下ろしているソファも適度な反発感でこのまま眠ってしまえたら、きっとこの現実さえも夢だったのではと思える心地よさだ。
 しかし、両腕には冷たい手錠が掛けられ、目の前にはかつて紅音の担任をしていた保育士である峯浦と。

「随分と大人しい姿になりましたね。あまりにも地味すぎて、写真を見た時には他人の空似かと思いましたよ」

 クツクツと肩を揺らし、あからさまに慧斗を馬鹿にした男。
 黒髪を後ろに撫で付け、この部屋に負けない上質な佇まいで立つ男。
 慧斗が紅龍と五年もの間引き離され、紅龍に婚約者がいるからと小切手を渡してきた男。
 紅龍の片腕と教えられた異国の男性がそこにいた。
 逆にあなたは前よりもくたびれましたね、と悪態をつきたくなったものの、現状を考えれば下手に神経を逆撫でする発言は避けたほうがいい。
 いや、気が緩んでしまったら言いそうで、慧斗は自分を窘めるようにして一度唇を噛み締め、それから口を開く。

「これはいったいどういうつもりですか」

 紅龍の片腕だった男と、元保育士。

 接点もなさそうなふたりを前に、慧斗は冷静に尋ねた。

 教授棟の前で不審な電話に出た慧斗は、ボイスチェンジャー越しの指示のままに、指定されたホテルへと駆けつけた。紅龍が跡を追ってこないよう、携帯電話の電源を落として、渡された携帯に必ず出るようにと加えられたうえで。

 不審がる学園の警備員に『忘れ物を取りに行く』と告げ、バスで駅前まで行き、電車に飛び乗った。都心に向かう電車は混んでいて、誰か見張りを付けられている可能性もあったため紅龍や玲司に連絡が取れず、緊張の中での移動は疲労が伴った。
 駅に到着してからも、ホテルにたどり着くまで、助けを求めようと考えた。その度に写真にあった紅音の姿が現実になるのでは、という恐れが脳裏をよぎり、どうしても動けないままホテルに到着した。
 すぐに峯浦に確保されたせいで、結局彼らの命令通りになったことが歯がゆい。
 
 犯人候補一位の峯浦にしては、かなり綿密な指示だったから不思議に思った。なるほど、名家の人間ならば自分の証拠を残さないよう、こういった指示を与えるのも峯浦に実行させるのも頷けた。
 峯浦は慧斗を番にしようと、威圧を放ち学園を追われた。しかも警察も峯浦を先日の事件の第一容疑者と確定している。
 つまり、実行した峯浦だけが逮捕され、自分はその間に逃げるつもりだろう。
 あの日慧斗に小切手を渡してきた男らしい、なんとも傲慢で自分勝手な計画だ。
 しかも指定してきた部屋が、紅龍と結ばれた部屋だとか。
 多分、思い出のある場所で、男は峯浦をけしかけて慧斗をレイプさせるつもりだろう。
 すでに番になっている慧斗には、峯浦に犯された時点で壊れる可能性が高い。下手をすれば死に至る場合だってある。
 アルファならば誰だって知っているはずなのに、男も峯浦もニヤニヤと笑う。

「どう……って言っても、見たままですよ。あなたはこれから紅龍を裏切って、そこのアルファと番うのです。上位アルファなら上書きできるそうですし?」

 男の言うように上位アルファであればオメガの番契約を上書きできると聞いたことがある。だが、それは上書き前のアルファよりも高位であることと、上書きする相手が運命という補足がつく。
 多分、男は峯浦が紅龍よりも高位だと囁いたに違いない。
 以前、峯浦は紅龍の威圧で気圧されたというのに、もう忘れてしまったのだろうか。
 それとも都合の悪いことは忘れてしまったのか。
 アルファは無駄にプライドが高いというし、なかったことにしたのかもしれない。

「……峯浦先生」
「慧斗、もう俺は先生じゃないんだ。番になるんだし、名前を呼んでくれると嬉しいな」
「先生、あなたは騙されているんです、そこの男に。あなただって自分が紅龍より高位だと思っているのですか?」

 煽っている意識はあったが、元々聡明な峯浦の目を覚まさせるには、多少怒らせたほうがいい。

「あの時、紅龍の威圧に負けたから分かっているんじゃないですか。あなたが俺と番おうとも、俺はあなたと番には絶対になれない。お願いですから、俺を解放してください」
「うるさい!」
「っ!」
「あの時は油断していたんだ! 俺はあんな男よりも上のアルファなんだ! 慧斗、俺と今度こそ番になろう。ふたりで幸せになろう?」

 濁った目でニヤリと笑う峯浦は、慧斗の知る峯浦とは違っていた。たった数ヶ月で、彼になにがあったのだろうか。
 呆然とする慧斗を見据えたまま、峯浦はゆらりと立ち上がり、ゆっくりと距離を縮めてくる。じっとりと慧斗に視点を置いて、まだ触れられてもいないのに、慧斗の胃がぎゅっと引きつった。

「あっ!」

 怯える慧斗の手首を痛いほど握った峯浦は引きずるようにして、慧斗をベッドルームへと連れて行く。
 慧斗は足を踏ん張って「嫌だ」と何度も訴える。あのベッドは自分が紅龍と番契約を結んだ大事な場所だ。峯浦の汚い欲望に穢されたくない。
 しかしアルファの力にオメガの非力さでは勝てない。慧斗の抵抗もむなしく、峯浦は軽々と子どもを引きずるようにして、あえなくベッドルームへと足を踏み入れる羽目になった。

「峯浦先生! 正気に戻ってください! あなたはあの男に利用されているんです!」
「黙れ! オメガは黙ってアルファの俺の前で足を開けばいいんだ!」

 説得しようとした慧斗の頬に強い衝撃が走る。自分が峯浦に殴られたと気づいたのは、口の中に鉄の味が広がったからだ。歯がぶつかって切れて血が出たのだろう。
 次第にじんじんと頬に痛みが広がり、グラリと視界が揺れる。脳が揺れて脳震盪でも起こしたのだろうか。

 ――オメガは黙って足を開けばいい。

 何度このセリフを聞かされただろうか。オメガだろうがひとりの人間だ。尊厳も人格もあるヒトだ。それなのに、アルファもベータもオメガというだけで軽んじる。
 結局峯浦も、紅龍に負かされ、プライドが傷ついた。だからその番である自分を虐げて、アルファの尊厳を戻したいだけだろう。
 別に慧斗に思いがあって、この行動ではないはずだ。

(やっぱりアルファは自分勝手で傲慢で不遜な存在だ)

 内心で唾棄した。だけどもうひとりの自分が囁く。

(紅龍は本当に自分勝手で傲慢で不遜なのか?)

 その問いに慧斗は「違う」と自答する。
 紅龍は性急に慧斗を番にしたが、触れる手も匂いも優しかった。半ばラットを起こしていたというのに、慧斗が痛がらないよう丁寧に後孔を解して、繋がってくれた。慧斗は嵐のような時間だったけども、一度として苦痛だと感じたことはなかった。
 再会してからもそうだ。強引に慧斗を通訳にしたけども、彼は命令もしなければ威圧を放つこともなかった。
 同居してからも、紅音を一番に可愛がってくれて、同じくらい慧斗も大切に見守ってくれた。
 五年も離れていたのだ。すぐにでも慧斗を抱きたいはずなのに、彼は一度としてその要求をしてこなかった。今日までまともにヒートが来ない慧斗を慮って、慧斗が心を開くまで待っていてくれているのだ。
 紅龍は峯浦とは違う。
 触れていいのは……

 慧斗の体がベッドの柔らかな布団の上に投げ出された。上質な羽毛によって痛くはなかったが、これから起こるだろう出来事が現実化してきて、思わず息を呑む。

「さあ、慧斗。俺があんなヤツの契約を上書きしてあげるよ。ふたりで幸せになる儀式だ。可愛く啼いてくれよ」
「やだっ! 峯浦先生、こんな事はやめてください!」
「うるさい!」

 またも頬を強くぶたれ、また頭がグラリと揺れる。こんな所で気を失ったら終わりだ。
 峯浦に犯されたら、もう紅龍に顔向けできない。

 抵抗しているのに、峯浦は慧斗のスーツを剥ぎ、ネクタイを抜く。どちらも手錠をされていたせいで、手首の所で塊になっていた。ワイシャツのボタンに手を掛けたが、小さなボタンに苛立ったのか、左右に割るようにして引き裂いてしまった。
 白い胸元に金色がキラリと光る。それは紅龍と紅音が慧斗のためにとオーダーしてくれた『お守り』だった。
 金色の縦長のタブレットに並ぶ暁色の石。
 蓮の花という名を持ち、希少種だと知った時には、着けるのを躊躇ったほど。
 だけどネットで調べた石言葉にある『一途な愛』『運命の恋』など、紅龍の慧斗に対する思いに溢れた言葉が並んでいるのを知り、それからは肌身離さず着けるようになった。
 慧斗は胸元の金色を握り叫ぶ。

「俺の体は紅龍だけの物だ! あなたなんかに触らせない!」

 きっと峯浦は激高するだろう。それでも自分の口でこの言葉を言いたかった。

「この……っ!」
「ぐ……っ」

 今度は拳で殴られた。左だけでなく右も、掠ってこめかみにも衝撃が来た。何度も何度も殴られ、意識が朦朧としてきたその時。

「なあ、あんたなら促進剤を持っているだろう?」
「裏で手に入れた物なら。粗悪品ですから、それこそ命の保障はできかねますよ」
「それでもいい。ヒートさえ起これば、抵抗する気すら起こさないだろう」
「まあ、ヒートのオメガはアルファの精を搾り取るだけになりますからね」

 耳鳴りの音と共に、ぼんやりとふたりの会話が聞こえ、突然口の中に何かが押し込まれた。溺れるほど水を押し込まれた物と一緒に飲まされた慧斗の記憶は、スイッチを切られたように唐突に闇へと飲まれていった。
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