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嫩葉の終宵

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 「大丈夫ですか?」と玲司が差し出してくれたのは、マグカップいっぱいに入ったカモミールのミルクティ。隣に座る紅龍には、これまたたっぷりカップに入ったコーヒーを置く。

「ありがとうございます、玲司さん」
「いいんです。少し飲んで落ち着いてからお話すればいいんですよ」
「これ、玲司さんが焼いたお菓子。甘さ控えめだから食べて」

 そう言って玲司の隣から白い皿に並べた焼き菓子を差し出してくれた桔梗に、慧斗は首を折って礼をする。俯いた途端、耐えていた涙がボタボタとズボンに濃い染みを作った。
 悲しみと共に怒りが慧斗の涙腺を緩める。胸の中で何度も「どうして」「俺は何もしてないのに」と見えぬ犯人に対して憤りを叫んだ。
 いたわるように背中を撫でてくれる紅龍の掌の温かさにひとりではないと安堵する。きっとここに紅音がいたら、慧斗は必死で涙を耐えていただろう。だが紅音は安全を画するために、白糸の家に預けたと紅龍から聞いた。
 白糸の番である紅竹くれたけは寒川や秋槻に家格は下がるものの、それでも名持ちの名家だと教えてくれたのは紅龍だ。引き取られていく時に号泣する紅音へ、害の手が及ばないようにするにはこれが一番の方法だったと話す紅龍に感謝しかない。きっとひとりだったら、ただただ震えて泣いて何もできなかったに違いない。
 白糸の所には紅音よりも小さな子どもがいる。人に優しい子どもだから、きっと寂しさも和らげてくれるだろう。

 あのあと、衝撃な出来事に腰が抜けてしまった慧斗に、若い警察官は事情を聞きたいと迫った。四角四面な態度に柳眉を逆立てたのは紅龍だった。

『職務に忠実なのは結構。だが、今は何かを聞ける状態じゃないのは、見て取れるだろうに。二時間後にこれから言う場所に来てくれれば、そちらの聞きたいことを話せる状態にしておく。もし、納得できないようなら、弁護士立ち会いで警察署に申し立てに行くが?』

 どうやら警察官はベータだったようで、紅龍のアルファの威圧に圧倒され、渋々ながら承諾したのだった。多分、それだけでなく、弁護士というワードも拍車をかけたのだろう。近隣の住人たちの後押しも力強かった。
 どちらにせよ、地域課の警察官では初期の調査しかできない。後ほど事件性も鑑みて刑事課の者と一緒に行くと吐き捨てていった。
 それから紅龍は来客対応中であろう玲司に連絡をし、慌ててやってきた玲司と桔梗に慧斗を託して、今度は白糸に連絡を取り紅音を預けた。
 家には立ち入り禁止テープがかけられたせいもあり、着替えを持ち出すこともできない。紅龍は白糸に当座のお金を渡そうとしたのだが、白糸も番も受け取らなかったという。

『今度みんなで食事をしようと言っていた。それが礼の代わりだともな。……いい上司だな、慧斗』
『うん……』

 すぐに迎えに行くから、と自分に言い聞かせ、ふらつく足元を紅龍に支えられながら『La maison』へと連れて行かれた。

 白糸から今はそれよりも慧斗の傍にいてあげろと言われ、紅龍は泣き叫ぶ紅音の声に何度も後ろ髪を引かれながら、『La maison』へと走って向かったそうだ。
 店に到着するなり、放心状態の慧斗を抱きしめ、何度も何度も「大丈夫だ」と耳元で囁き続けた。
 前の自分なら、ひとりで紅音を守ると決意していた頃だったなら、慧斗は紅龍の腕から逃げただろう。
 だが今はもうできない。彼の腕の中が安心できる場所だったのを思い出してしまったから。
 おかげで何とか落ち着き、警察への対応や紅音のことを紅龍に礼を告げることができた。

 そして現在、玲司の店で警察の人を待っている状態だ。

「そういえば、客が来てるって言っていたが、それは良かったのか?」

 隣で紅龍が玲司に問いかけてるのを、ぼんやり耳を傾ける。

「ええ、あなたに頼まれた件での報告だったので」
「それは後で聞く」
「分かりました」

 ふたりの会話はとても大事な気がしたものの、ショックが抜けきらない慧斗は聞き流してしまった。それに、慧斗の意識はすぐに静かな店内に響くベルの音によってかき消されてしまったのだ。

「今回の件ですが、不法侵入と器物破損だけでなく、窃盗の可能性も出てきました」

 『La maison』のソファ席に案内され、ふたり掛けのソファに腰を下ろした紅龍と慧斗は、警察官に案内されてきた刑事課のベータらしき男ふたりからそう告げられる。

「現場検証を行いましたところ、どうやら先に裏庭から入り、家屋に無理やり侵入したようです。のちほど被害届の確認のためにご自宅にご案内しますが、かなり内部が荒らされている模様で……」

 外の被害だけでなく、家の中まで……。
 恐怖に慧斗の喉からひゅっ、と鋭い笛の音が鳴った。
 ただでさえ祖母との思い出のある家が悪意に汚されたというのに、それだけでなく慧斗が住み始めてから今日までの、沢山あるいろんなものまでもが傷つけられた。
 見知らぬ悪意に、慧斗の心はすっかり折れてしまい、紅龍に肩を抱かれていなければ倒れていたに違いない。

 苦く甘い紅龍の匂いが、慧斗の揺れる不安をかろうじて奮い立たせる。

「……わかりました。しばらく家に入れないんですよね?」
「そうですね。現場検証自体は数時間で終わらせることになりますが、あの状態でお住みになるのはオススメできないかと」
「ですよね」

 木造の古い家にぶちまけられたペンキは、外壁を張り替えない限りは厳しいだろう。近隣の人の不安も煽るだろうし。 

「俺だって、慧斗と紅音をあんな状態の家に住まわせるのは反対だ」
「わかってる」

 隣で渋い顔で静かに反対を告げる紅龍の背中を、慧斗はなだめるようにそっと背中を撫でた。
 出会ってすぐの頃は、こうして自然と紅龍の体に触れるのを躊躇っていた気がする。それがいつの間にか当たり前のように紅龍に触れることができるようになっていた。
 なにげなく触れる紅龍の体温が慧斗に安心を与えてくれる。それは彼が自分の番だからなのか、それともバース性とは違う感情がそう思わせるのか。
 いろいろ慧斗の身にふりかかり、重要な件を傍に寄せれば紅龍のことは後ろに置いておくべきだとは考えるものの、心のどこかではすでにそういった存在ではないと囁いていた。

「ところで、今回の事件の犯人に心当たりはありますか?」

 慧斗の精神状態が不安定なのに気づいたらしい刑事が、早く必要な情報だけでも引き出そうと質問を繰り出す。思い当たる慧斗は不安な眼差しを紅龍に向けると、彼は小さく頷いてくれた。

「のちほど現場検証の時にお渡ししますが、前々から宛先不明……というか、直接手紙が投函されてるのが続いていて」
「内容をうかがっても?」
「特に手紙はなくて、ただ俺たちや子供が撮された写真が送られてました」
「つまり、盗撮って事ですか?」
「ええ」
「心当たりはありますか?」

 あるといえばある。しかし、峯浦のことは終わった件だし、下手に刺激をすれば学園にも迷惑をかけることとなる。慧斗は言葉を飲み込むとふるふると首を横に振った。

 質問してきた刑事が「ふむ」と指先で顎をこすりながら唸る。それから隣の刑事に目配せする。隣の刑事は首を縦に少し動かして席を立った。少しして戻ってきた刑事が質問してきた刑事に耳打ちをした。

「今、彼に盗撮被害の届けがないか照合をお願いしてました。失礼ですが、そういった届けを出されていないようですが」
「ええ、実害がなかったのと、子供に余計な不安を与えたくなかったので」
「そうですか。ところでお子さんは?」
「今、上司の家に預けています」
「上司とは」
「秋槻学園の白糸教授の秘書と、理事の臨時秘書をしているんです。子どもは白糸教授のほうへ預かってもらってます」
「……なるほど、御崎さんはオメガなのに優秀なんですね」

 最後のひと言に「それ、性差別ですよ」ともうひとりの刑事が窘める。「すみませんね」と謝られたが、一定の年齢のベータからすれば、オメガは情弱で知能も低い者だと思っている人間も少なくない。こういう風に見られるのは一度や二度ではない。慧斗はいえと言って話を流した。
 別に自分の事を知ってほしい訳ではない。一秒でも早く思い出の家をあんな風にした犯人を捕まえてもらえればいい。

 淡々と繰り返される質問に慧斗は落ち着かない気分が強くなっていく。
 どうして被害に遭ったこちらが探られるような真似を受けなくてはいけないのか。疑心暗鬼になってる慧斗の不信感に気づいたのか、刑事の矛先が隣に座る紅龍へと移る。

「ところで、御崎さん。隣の方はどういったご関係で? 派出所の住民登録票では御崎さんと息子さんのふたり家族だとありますが……」

 定期的に訪れる近所の交番の巡回でそのような物を書いた記憶はある。当時は慧斗と紅音だけだったから素直にそのまま書いた。だから刑事たちからすれば、慧斗の隣で番然としてる紅龍の態度を訝るのも理解できる。どう説明したものかと頭を回転させていると。

「ああ、これは失礼を。私は王紅龍という者です。今回は映画の撮影で来日していまして、慧斗には通訳をお願いしているんですよ」

 と、にっこりメディアなどで見る作られた笑みを浮かべ答える紅龍に、正面の刑事ふたりが「そういえばテレビで観たことが……」と呟くのが聞こえる。

「極秘で来日しているので、内密に願います」

 ふたたび笑みを深めた紅龍に、なぜか頬を染めた刑事ふたりは、コクコクと頷いたのだった。

 結局、御崎親子の身柄は紅龍と玲司が預かることとなり、もし何かあればふたりのどちらかに連絡することで落ち着いた。
 それから刑事たちを伴い慧斗と紅龍は御崎家へと向かう。すでに検証自体は終わっており、周囲の住人も家に戻ったのかとても静かだ。
 家が目に入ると血のような赤が飛び込んできて、慧斗の心臓が冷える気がする。
 紅龍に肩を抱かれ、慧斗は赤い壁や荒れた庭を見ないようにして、久々に帰る家へと入っていった。
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