君と番になる日まで

藍沢真啓/庚あき

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嫩葉の終宵

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 寒川別邸を出て、紅龍の運転でなぜか連れてこられたのは、車で十数分ほどにある大きなホテルだった。
 別邸のように左右に翼を広げたような建物は、遠目に見ると白い高貴な鳥のように感じた。

「ところで、どうして裏山行くのに、車乗ってホテルに?」

 後部座席でうきうきはしゃいでる紅音は別にして、素朴な疑問を紅龍に向ける。
 昨日の紅龍の話では、別荘から三十分歩いて行ける距離ではないのか。
 疑問を口にした慧斗に、ハンドルを握った紅龍はまっすぐ見据えたまま口を開く。

「この一帯も寒川の土地なんだ。目的の清水の湧く沢もこちらから行った方が近い。それに、今日はこのままここに一泊して、明日ホテルのアクティビティに参加させてあげようと思ってな」
「どうして先に言ってくれなかったんだ」
「慧斗をびっくりさせたくて」

 助手席に座る慧斗は、まだ朝も始まったばかりというのに、すっかり疲れ果てていた。
 どうしてアルファというのはこう自分勝手なのが多いのだろう。
 いや、自分の周りにいるアルファはそうじゃないと分かっていても、紅龍の事前に言わなかった事に腹の奥がグッと熱くなる。

「でも泊まるって言っても、荷物とか持ってきていないのに」

 車に乗っているのは、お弁当と水筒の入ったトートバッグと、何かあった時のために紅音の着替えやタオル。あとは簡単な救急セットだけだ。ホテルに一泊する準備などひとつもしていない。
 ああ、怒りたくないのに、と慧斗はせり上がってくる物を何とか抑え黙っていたが。

「心配しなくても大丈夫だ。荷物はあとから織田がホテルに届けてくれる手配になってる」
「は? なに……それ」

 別に荷物を出しっぱなしにしていないから、織田が部屋に入っても困ることはないのだが、紅龍の勝手な行動に感情が一気に昂ぶる。

「なんで、俺たちに関係することを、勝手に決めてるんだよ。今回の旅行にしたってそうだ。確かに紅音をどこにも連れていけない後ろめたさもあって、話には乗ったよ。実際、紅音も喜んでる。でも、なんでもかんでもあなたが決めていい理由にはならないんじゃないか」

 長年溜め込んでいた色んな気持ちがひとこと口にした途端、戸惑う紅龍に構わずこぼれ落ちていく。
 これまで沢山の選択や決め事をひとりで悩んでは選んで決めてきた。
 多分、紅龍みたいな強引なところが万人に受けているのかもしてないが、慧斗は嫌だった。
 傲慢なアルファらしい部分を見せつけられると、その人がどれだけ良い人だったとしても接触を避けたくなる。
 そう、紅音の保育園にいた峯浦のような……

「慧斗……」
「オメガはアルファの……番の言うことをきく人形じゃないんだ。あなたは俺を大切だと言いながら、俺の言葉に耳を傾けてくれないじゃないか。それって、俺があなたに従順に従うと思ってるから、なんでも自分で決めて俺には事後報告になっても問題ないと軽く考えている。俺はひとりでも大丈夫だった。あなたがいない五年間、俺は自分で決めて紅音を産んで育てた。俺はあなたの下僕でも奴隷でもないっ」

 後ろで紅音が聞いてるって分かっていても、一度噴出した感情は次から次へと溢れ出てくる。それは五年もの間、孤独に耐えながらもひとりで頑張ってきた自分を、紅龍は鑑みてくれないと思っていたからだ。

 認めて欲しい。オメガひとりでもちゃんと生きて、子供を育てることができる人間だというのを。
 それがどうにもならない複雑な感情だとしても、我慢できなかった。
 唐突に怒り出した慧斗を、紅龍は呆れているかもしれない。もしかしたら嫌ってしまったかもしれない。紅龍は世界的に有名な俳優で、一般人である慧斗にここまで言われて我慢できないかもしれない。
 自分の行動でまたも紅龍が離れてしまうのでは、と慧斗の心臓がギシギシ締め付けられる。オメガの自分はそれを回避したいが、親としてひとりの成人男性としては、紅龍の思いつきを許せなかった。

 紅龍には番だからとかではなく、同じひとりの人間として、対等に付き合いたいと思うようになっていた。
 だからこそ紅龍の思いつきを自分が知らされてなくて、慧斗は自分の心に折り合いが付けられなくなっていた。
 紅音はいきなり慧斗が怒ったためか、キョトンと目を見開いて凍りついている。

 ふと、右手のぬくもりと「すまない」と落ち込んだかのような声が耳朶を打つ。俯けていた顔を運転席に向けると、いつもキリリと切れ上がった眉が泣きそうに萎れて、赤い瞳がいつも以上に濡れているのか煌めいていた。

「本当に慧斗にサプライズで驚かせたかっただけなんだ。勿論、紅音にも。慧斗、自覚してないと思うが、別邸にいる時は少し気遣ってただろう? ホテルなら気兼ねなく過ごせるだろうと考えて……」
「別に俺はそんなことを望んでなかった」
「……そうだな。本当にすまない。慧斗に一言相談するべきだったな」

 ぎゅっ、と握ってくる手は指先が少し冷たい。余程緊張して話しているのだろう。そのことに少しだけ溜飲が下がるだけでなく、アルファなのにどこか怒られたばかりの犬のように見えて、ちょっとだけ可愛いと思ってしまった。

「も、いいよ。どうせホテルも予約キャンセルできないだろうし。でも! 次からはちゃんと事前に相談はしてほしい。いいな!」
「慧斗……」
「はい、この話はおしまい! 早く動かないと、沢に着くの遅くなるだろう?」
「あ、ああ!」

 離す直前、一度だけ強く慧斗の手を握った紅龍の顔は、今まで見たどの映画やグラビアよりも輝いていた。
 なんで自分みたいな平凡なオメガなんかに、こんなに輝く笑みを向けるのだろうか。
 戸惑いばかりが慧斗を支配し、怒りがしぼんでいく。

「ほーろんさん、おかーさんおこらせちゃだめっ」
「紅音もごめん。でも、これからは楽しいこといっぱいだから」
「たのしー?」
「そう、楽しいことだ」

 自分の顔に熱が集まって再び俯く慧斗の耳に、紅龍を怒る紅音とどこか浮かれたような紅龍の声が流れてきた。泣いた(泣いてはないが)カラスがもう笑ってる、と慧斗の唇から小さなため息が漏れた。

 まだもやっとしたのが心に残っていたが、これ以上掘り下げてもお互い気分が悪くなると感じた。せっかくの旅行なのだから、いつまでも引きずってもしょうがない。
 嫌な気分を残したまま旅行を続けるのは、紅音の情操教育にも悪い。
 蟠りは慧斗の胸の底にあるものの、気にしないふりをすることにした。

「おかーさん、おこなの?」

 車を停めにいった紅龍とは別行動で、慧斗は紅音とホテルのエントランスに足を踏み入れる。フロアの真ん中に季節はずれの桜の大木が聳え、仄かに甘く若い人工的な香りが漂う。桜の花の香りを模したルームフレグランスなのだろうか。優しい匂いに自然とほっとする。
 周囲の人々は明らかに上流階級とひと目で分かる人たちばかりで、普通に入ってしまって良かったのだろうかと、そっと周りを覗ってみるが特別引き止められることなかった。ほっとしながら紅音の手を握って近くのソファに近づく。

「んーん、もう怒ってないよ。ごめんね、紅音。びっくりしたよね」

 そっかー、と言いながら、口をもにょもにょと動かしてる紅音。なにか言いたいが、いいあぐねているのだろう。彼の癖だった。

「紅音? なにか言いたいことあるなら、言ったほうがいいよ」
「んー」
「ほら」

 慧斗は微笑んで紅音を抱き上げる。入口からはいってくるだろう紅龍が見える位置のソファに腰をおろし、とんとんと紅音の背中を優しく叩く。
 鼓動のリズムに合わせて、紅音の背中に音色を刻む。
 紅音は慧斗の胸あたりのシャツをきゅっと握り、呟くように口を開いた。

「あのね、おかーさん。おかーさんが、ほーろんさんきらいなら、ぼくおかーさんとふたりでいいよ」
「え……」
「だってね、ぼく、おかーさんだいすきだもん。おかーさんが、ほーろんさんのせいでかなしいおもいするのいやだ。だから、おかーさんがほーろんさんきらいなら、ぼく、ほーろんさんとばいばいしてもいいよ」
「……」

 さきほどは激情にかられて紅龍に言いたいことを言ったが、思った以上に紅音の心に深い傷をつけてしまったかもしれない。紅音を一番といいながら、その自分が愛しい息子を傷つけたことに、涙が出そうになった。

「ごめん。ごめんね、紅音。悲しい気持ちにさせてごめん」
「おかーさん」
「さっきのはね、紅龍が嫌いでいったことじゃないんだ」
「じゃあ、おかーさん、ほーろんさんすき?」

 くっ、と顔を上げ濡れた瞳で見上げてくる紅音の質問に、慧斗はぐっと息をのんだ。
 子供は時々思いもよらない言葉で親を撃沈させる。「あ」だの「う」だの奇妙な声をあげたが、意を決して紅音の耳に唇を寄せた。

「紅龍のこと、嫌いじゃないよ」
「すきってこと?」
「うーん、好き……なのか俺にもわからないんだ。まだ、気持ちの整理がついてないんだよ」
「ふーん」
「慧斗」

 後ろから太く長い腕と甘く苦い香りが紅音を抱く慧斗ごと包み込む。

「俺のこと、好きって本当か?」
「ほ、紅龍っ、俺は別に好きって肯定したわけじゃ」
「分かってる。まだ気持ちの整理がついてないんだろう? でも、嫌いって言われなかっただけでも嬉しい、慧斗」

 強く抱かれ、紅龍の匂いが慧斗の体深くに染みていく。低く艶ある声に脳が溶けていくのを感じながら、慧斗は安堵にそっと目を閉じた。
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