君と番になる日まで

藍沢真啓/庚あき

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嫩葉の終宵

3-紅龍

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「あとで迎えに行くから」
「……うん、それじゃあ後で」

 紅龍は、玲司の弟で慧斗の主治医である凛が診察をしたいと言い、慧斗を伴って出ていこうとする背中に声をかける。わかったと頷く慧斗の姿が扉の向こうに消えたのを見送り、少しぬるくなった湯呑から茶を啜った。
 紅音は織田が連れて行くと言い、薔子がそれなら少し話をしようと引き止めた。祖母という存在を知らない紅音は、織田がそのように見えるのか、きゃっきゃっと楽しそうにはしゃぎながら部屋を出て行った。
 あれほど賑やかだった部屋に紅龍と薔子だけ。
 朝の光が燦々と入る中、緩やかな時間が流れる。

「玲司もそうだけど、あなたも随分と寛容になったようね、紅龍君」

 くすくす笑い傍に寄せたカートに食器を乗せながら、寒川薔子がそう言った。彼女は玲司の実母と親友であり、夫との不貞の子である玲司を引き取り養子にした人物だ。現総理の妹で、長男の総一朗に家督を譲ってからというもの、この別邸にて生活をしている。控えめな行動だが、実際は豪傑な人物だ。
 元々は紅龍の両親と薔子の実家である朱南家と交流があり、その縁で紅龍が留学をし、玲司や椿たち親友になった経緯がある。
 世間の煩わしさに別邸になかば引きこもるようになってはいるものの、彼女の辣腕は相変わらず発揮されており、寒川家が安定しているのは間違いない。
 玲司が桔梗と婚姻を結んでからは、頻繁に別邸と本邸を行き来しているようだ。先ほどの桔梗が別邸に来れない事情という言葉の意味は分からないが、薔子は桔梗を随分と気に入っているらしい。

「運命には寛容なんですよ、アルファというのは」
「私は夫もアルファだったからね。あなたの行動理念も分かるわ。……運命はとっくに死んじゃったけど」

 薔子は皿に視線を向けたまま、苦い表情で小さく呟いた。それは今にも泣きそうな、悲愴に似た笑みだったが、彼女の内心は紅龍には分からない。

 寒川薔子の事情を紅龍は知らない。彼女は実家の……尊敬する兄のために寒川の前当主であるアルファと結婚をしたという情報くらいしか。
 第二性関係なく、アルファ同士であっても男女間であれば子供を成せる。彼女はアルファという性を持ちながら、運命と結ばれることなく今を生きている。それは幸か不幸か紅龍には計り知れない。

「それはそうと、あなたのお家の方はどう?」

 椅子に座り直した薔子が、テーブルに頬杖をついてニヤリと微笑む。そこには先ほどの複雑な笑みは消えてなくなっていた。女は役者だと聞くが、まさにそうだと内心で嘆息した。

「変わりませんよ。大陸だろうが弐本だろうが『名付き』は狂信者と盲信者ばかりで」
「つまりは、アルファ至上が蔓延っている、と」
「変化がない、というのは安寧に繋がってますけど、裏を返せば澱んだ空気で反吐が出ます」

 人は一度覚えた旨味を捨てることができない。だからこそアルファに媚びへつらう者は常に足の引っ張り合いをする。時には命の奪いも。恩恵を多く懐に入れたいという欲で溢れている。
 伊月の家もそういった家のひとつだった。ベータ家系でありながら王家に近く仕えていた家で、曽祖父の代には命を賭して主である曽祖父を守っていたという。だからこそ曽祖父は傍に置き、見合う立場を与えた。
 伊月は珍しくあの家系でアルファとして誕生した。だからこそ伊月を紅龍の傍に置いた。あわよくば王家の深くまで入り込ませようと。
 それが子孫を増長させた。故にあのような愚策で紅龍を取り込もうとしたのだろう。馬鹿にされたものだ、と紅龍は思わずため息を漏らす。

「どこも身の程知らずはいるものね」
「ええ、困ったものだ」

 どこの世界にも高位アルファを崇拝する輩は一定数いる。その中でもアルファの寵を得るのかで争い、階級ができあがる。紅龍の家では伊月の家がそうだった。彼らを切り捨ててから今日まで空席となっているが。それでもなんとかなっているのは、紅龍の両親はとっくの昔にあの家を存在価値なしと判じていたからだ。
 昔は忠義に厚いと聞いていたが、時間の流れと共に人は堕落していくものだ。
 監視目的で紅龍が芸能の世界に入った際、伊月を傍に置くようになったが、元々優秀なのか仕事も滞りなく進んだおかげで手放す時期を誤ってしまった。
 そのせいで番になったばかりの慧斗が忽然と姿を消してしまったのだから。

 またも吐息をこぼしてぬるくなった茶を啜る。甘くて喉を越すとほのかな苦味が口をさっぱりさせてくれる。本国のお茶も嫌いではないが、弐本のお茶は紅龍の心をリセットしてくれた。からになった湯呑をテーブルに置き、紅龍が静かに立ち上がると「あら、ゆっくりすればいいのに」と言う薔子に困ったように笑い、紅龍はリビングをあとにする。
 背後から「アルファの執着は誰も同じね」と揶揄う薔子の声が聞こえてきたが、紅龍は内心で肯定に頷きドアを閉じた。

 玲司から勧められたとはいえ、急にあいたオフはこれまで休みなく働いてきた紅龍にすれば、戸惑いが多く占める。同時に思いもよらぬきっかけを与えてくれた喜びもあった。

 五年の間、伊月に内密で動く傍ら自分も弐本の伝手を使い慧斗探しに明け暮れていた。まさか伝手のひとりである悪友が大切に隠してたのは盲点だったが。
 それでもこうして慧斗と紅音と一緒に時間を過ごせることは、紅龍にとって夢にも見たものだった。
 思わず口元が緩んでもしかたないだろう。
 これを期に慧斗との距離を少しでも詰めていけたら……
 きっと頑なな慧斗が紅龍に心を許すまでには時間が必要だろう。それに紅音ともこれまで一緒に入れなかった時間を埋めていきたい。

「本当は出産にも付き添いたかったが……」

 一緒に生活するようになり、しばらくして慧斗からいくつかの写真を見せてもらった。多くの紅龍が知らない五年の歳月がそこにあった。
 慧斗が紅音を宿したお腹を愛おしそうに抱えて微笑む姿。
 それからベッドの上で病衣を着て笑う姿。多分、あの時の写真は出産のために入院したものだろう。男性オメガの子宮は女性の膣と違い、産道とするには腸壁が収縮に絶えず、出血多量で亡くなるといった例もある。そのため男性オメガは帝王切開が主となっており、事前入院が当たり前になっていた。慧斗も同じように出産前に入院したはずだ。
 他にも紅音の育児に悪戦苦闘している姿や、お宮参りやお食い初めに保育園の入園式など、ひごとに紅音の成長が垣間見えた。それは写真や動画のフィルター越しだった。
 どうして自分はその場にいることはできなかったのか。後悔ばかりが紅龍を占める。

「それもこれも伊月が余計な真似を……」

 あのまま慧斗が待っていたら、なにがなんでもプロポーズに頷かせ、名実ともに婚姻を結んでいただろう。
 しかし待っていたのは、慧斗の残り香が漂う空っぽの部屋だった。
 名前もバックグラウンドも知らない番を見つけるまでに五年の月日が流れるなんて、当時の紅龍には想像もつかなかった。
 その理由が悪友である玲司だったとも。おかげで慧斗を見る前に、自分によく似た紅音と対面するなんて思わなかった。

「今更どうこう言っても時間は戻らないがな」

 苦笑に唇を歪めて髪をかきあげる。

 だからもう一度初めから慧斗とやり直す。三人で家族となるために。
 そのために本国や海外の仕事を撮影と称してセーブしている。キャストも弐本でやりたい事がある者ばかりを集めた。撮影終了時期も未定の仕事だ。時間に余裕がある彼らは、紅龍のスケジュールを笑ってこなしてくれる。
 本当にありがたい仲間だ。その分、給料面でも衣食住も充実させているが……
 彼らのためにも慧斗と正式な番契約と婚姻を結び、紅音も含めて三人で家族になる。今の紅龍の強い願いだった。

 まずは慧斗を迎えに行って、それから紅音のいる畑に行こう。家族で収穫するのもいい。街育ちの紅音も慧斗もきっと笑顔で楽しむに違いない。

「家族。家族か……」

 五年の時間を巻き戻すのは紅龍でも不可能な話だ。それならば今を三人で過ごし、家族としての絆を築いていければ……
 クラシカルな佇まいの廊下を歩きながら、紅龍は薔子に事前に聞いていた凛の部屋へと足を進めた。
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