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嫩葉の終宵

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 微かに出汁のいい匂いがしてきて、慧斗は無意識に鼻を揺らす。遠くから紅音の元気な声が聞こえ、再び沈みかけた意識がふわりと浮かんだ。
 朝か、と思うものの、布団が心地よくて出るのが億劫だ。まだ惰眠を貪っていたいと考えてしまうのは、今の生活に慣れてきた証拠か。

「起きたか、慧斗」

 襖が開き姿を現したのは、目にも眩しい美丈夫。その上半身には紅音が好きなキャラクターがプリントされた水色のエプロンをまとっている。慧斗が買う時もかなりの勇気を要したが、視覚的に有害すぎて、彼のファンに土下座したくなる心境だ。

「朝飯ができたぞ」
「んー」
「今日は休みだから、食事を取ってまた寝ればいい」
「そうする……」

 そう言って踵を返す紅龍の後ろ姿をぼんやりと眺め、慧斗は深くため息を漏らしていた。外はすっかり真夏だろうというのに、部屋の中はひんやりとエアコンの冷気が肌を撫でる。

 ちらりと横を見ると、畳まれた大人の布団と子供用布団が重なって置かれている。どうしてこうなったんだ、と朝から憂鬱な気持ちで、頭を抱えた。

 峯浦との騒動があったあの日、紅音が繰り出した爆弾発言を紅龍が肯定した。

『おじさんは、ぼくのおとーさん?』
『慧斗、俺はお前しか番にしたくない。だから、お前たちの家族に俺も入れてくれないか?』

 なぜかその日から紅龍は滞在していたホテルを引き払い、このセキュリティもへったくれもないボロ屋に寝起きするようになった。
 慧斗は当然猛反対した。ただでさえ困惑している慧斗と紅音の生活に割り込んでくれるな、と。それに誰もが知ってる俳優が、こんななんの取り柄もない慧斗につきまとえば、紅龍がのちのち困るからと。
 それなのに紅龍は鼻で笑い、一笑に付したのだ。

『言いたい奴には言わせておけばいい。本当なら、お前たちふたりをホテルに連れて行きたいが、玲司の傍のほうが安全だ。それにここを出入りする時には変装をしているから心配するな』

 彼は強気に言い放ち、自分の布団だけでなく、慧斗と紅音の分の布団まで持ち込んだ。今まで量販店の安い布団で寝ていたのだが、流石に高額所得の俳優様が持参した布団は、まさに雲の上で寝てるかの如くぐっすり眠れた。おかげで朝起きるのが辛い。
 その他にも気づけば家電も真新しい物に変わってたりするし、前の生活に戻ったら生きていけるか不安しかない。

 慧斗はのそりと布団から出てシーツやカバーを剥ぎ取り、三人分の布団を庭の物干し台に掛けていく。
 梅雨が明けてからというもの晴天続きで、今日も洗濯物が気持ち良く乾きそうだ。
 空は雲ひとつなく、降り注ぐ強い日差しを手で遮り見上げる。
 予想外の住人が増えたものの我が家は平和だ。といいたいが、そうでもない。
 以前投函されていた差出人不明の手紙。あれがまだ続いていたからだ。
 ただ撮影されてる状況が、学園と近所じゃなくなり、通勤時だったり買い物途中のワンショットだったり。
 おかげで紅龍が我が家に無理くり押しかけてきたのだが。

「おかーさん、ほーろんさんがごはんだよーって」
「あ、うん。すぐに行くね」
「はーい」

 背後からぱたぱたと小さな足音が聞こえ振り返れば、少しだけ身長の伸びた愛息子がそう告げてくる。
 彼が紅龍を「おとーさん」と言ったのは、あれきりだった。その後は「ほーろんさん」。ホンロンと言えないからそうなったようだ。
 多分、紅音も突然現れた父親の存在に、距離が測りかねているのだろう。
 微かに空腹を訴えるお腹に応えるように、くわりと欠伸をひとつして、慧斗は居間へと入っていった。

 中華粥は鶏出汁の匂いが立ち、油条ヨウティヤオが数切れ乗っている。それだけでも十分なのに、トッピングの量が凄い。
 パクチーにネギ、刻みザーサイにクコの実や松の実などの木の実、ホタテの甘辛煮や鶏肉を裂いたものと多彩だ。
 それだけでなくトマトと卵の炒め物やなんと点心まである。

「すごい豪華……」

 いつも休日は家で紅音リクエストのパンケーキか、玲司の店で早めのブランチを取ることが多い。だが、紅龍が我が家に来てからというもの、慧斗たちが『La maison』に行くのについて渋い顔をするのだ。
 それで何度か諍いがあった。結局、休日に紅龍が撮影でいない時なら行くことを許可されたものの、正直納得いかない。どうして押しかけの紅龍にあれこれ言われないといけないのだ。
 しかしまあ、彼の作る料理(料理が得意とは思ってなかったが)は、どれも本格的で美味しい。慧斗も玲司も中華系をあまり作らないのもあり、物珍しさもあって紅音は紅龍が作る食事を楽しみにするようになった。

「基本放置かすぐにできるものばかりだから、慧斗も覚えれば簡単にできるようになる。教えようか?」
「いや、いい。結構」
「……つれないな」

 紅音に自分と紅龍の料理を比較されたくなくて、すぐさま拒否を口に乗せた。

「いただきます」
「いただきまーす」

 呆けている紅龍を無視し、慧斗と紅音は唱和をしてレンゲを手に取る。ぐっすり眠ったし、布団を干したりと重労働をしたので腹ペコなのだ。

(うん、本当に美味しい。朝から中華粥とか贅沢だな。エアコンで冷えた体に染みる)

 言葉にしないものの、慧斗は紅龍に感謝をしていた。
 食事の面でもそうだが、子育てについてもひとりで背負っていたものが楽になった。
 峯浦が解雇されてから紅音は保育園に復帰した。いつもなら慌ただしい通勤・通園だったのが、紅龍が車で送り迎えをするようになった。おかげで仕事もキリのいいところまでやれるようになったし、その間は紅龍が撮影場所に紅音を連れて行ったり、学園のカフェでおやつを食べさせたりしているようだ。
 自分がかなり時間に追われてる生活をしていたのだと気づいたのも、紅龍が負担を請け負ってくれたからだと思う。

『慧斗、前にも言ったように俺にはお前しか番がいない。だから、俺と一緒になってくれないか?』

 そう、一緒に生活するようになってからというもの、紅龍から何度も乞われた。しかし、慧斗はそれに首を縦に振ることはなかった。
 怖いのだ。今はこの『家族ごっこ』が目新しくて楽しいのかもしれない。だけど紅龍は世界で活躍する俳優で、玲司と懇意にしていることから、いいところの家柄なのだろう。
 いつか庶民の生活に飽きて逃げ出すかもしれない。また捨てられるのが怖いのだ。

「慧斗? ぼんやりしてどうした。冷めると味が落ちる」
「あ、あぁ、うん」

 遠い目で反芻していた慧斗を訝りながら窘める紅龍に、慌てて慧斗はレンゲを握り直した。


 溜まった洗濯を済ませてる間に、紅龍は紅音と一緒に家の掃除をやっていた。
 古いのに部屋数だけはある御崎家は、いくつかの部屋を生活に使い、他は掃除する以外では使用していない。あとは雑多な物をしまう納戸になっている。
 正直面倒だと思うのに、紅龍は紅音と楽しそうに掃除をしている。それも掃き掃除してからの固く絞った濡れ雑巾で畳の目に沿うように拭いているのだ。どこでそんなスキルを覚えてきたのか。
 色々ツッコミたい部分はあるものの、生活は快適だった。快適すぎて戸惑う部分が多い。
 どうせ紅龍もすぐに庶民の生活に飽きるに違いない。
 このぬるま湯のような生活は今だけだと自分を戒め、ぼんやりと風にはためく洗濯物を眺めた。

「慧斗、洗濯は終わったか」
「終わったけど、どうかした?」

 地面に置いた籠を持ち、首を傾げる。
 縁側の窓を開いて姿を見せた紅龍の背後から、エアコンの冷気が漂い慧斗の顔を冷やして過ぎる。

「実は、スケジュールの関係で一週間ほど撮影がストップするんだ」
「へぇ」

 長期で撮影をすると聞いているが、慧斗はその内容を知らない。見学に行った紅音にこっそり聞いたけど「ないしょー」と笑って教えてくれなかった。

「それで、紅音と一緒にどこかにいかないか?」
「は?」
「玲司の実家の別荘で五日間、家族旅行に行こう」
「え?」

 慧斗も同じように今日から一週間ほど学園の施設メンテナンスで仕事が休みだ。紅龍のところもその関係でのお休みなのだろう。
 でも旅行? と首を傾げハテナマークを飛ばす慧斗の額に、庭に降りてきた紅龍はそっと口づけを落とす。

「遅いかもしれないけど、これからの時間を少しでも慧斗と紅音と過ごしたいんだ」

 家族として、と微笑む紅龍は、映画やメディアで見たどの姿よりも輝いて見えた。
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