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孟夏の深更

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「彼は照れてるんですよ。本当は俺のことが好きなのに、シャイなかたですから」
「ふん。じゃあ、それならどうして俺に抱かれて拒絶反応を示さない。これは照れや心の問題ではなく、慧斗が俺の番だという明確な証拠になるんじゃないのか?」

 微かに汗の匂いが混じる紅龍のフェロモンは、峯浦によって塗られた恐怖を溶かしていく。彼の腕の中で峯浦の威圧が解けた慧斗は、紅龍の胸に顔を押し付ける。平然と話しているが、彼の鼓動が急いでこの場に来たのだと教えてくれた。

「彼は、俺の、つがいじゃない」
「ああ、分かってる。まだ辛いだろう? 少し大人しくしておけ」
「うん」

 弛緩した喉から峯浦を否定する言葉が自然と出る。自分の胸に顔を伏せる慧斗の頭を撫で梳き、紅龍が優しい声音で囁いてくる。
 その声にほっと息をついて、慧斗は目を閉じた。

「慧斗さん! どうして俺じゃなくて、そんな男に身を任せているんです! あなたは俺のオメガだ! 俺と番になるのが正しいんだ!」

 背中に投げられる峯浦の鋭い声に、慧斗はビクリと肩を震わせる。

「妄言も甚だしい。いつ、慧斗が、お前と番になると言った?」
「そ、それは……これから……」
「つまりはお前が暴走して、妄想を現実と勘違いしたということだな」
「違う! 慧斗さんは俺が話せば受け入れてくれるはずだ!」
「慧斗のフェロモンも感じないお前が、か?」
「そんなことはない! 慧斗さんのフェロモンは分かってる! 百合のように可憐な匂いだ!」

 違う。自分のフェロモンは百合のように清廉なものじゃない。どうしてそんな嘘をつくのだろう。
 怖い。峯浦の話は一方的すぎて、掴めず怖い。まるで暗闇から突然剛速球がくるかのような恐怖を感じる。避ける余裕も与えられない強い感情は、それだけで慄く。

「……話にならんな。このことは理事にも話をしておく。今後の身の処しかたを考えておくんだな」

 紅龍は慧斗の肩を抱いて、そのまま喚き立てる峯浦の横を通りすぎると、白糸教授室へと連れていってくれた。

 当然ながら白糸は驚愕した。紙のように顔を白くした慧斗を支えるようにして現れたのが、以前白糸にも話した慧斗の番だったのだから。

「すまないが、どこか慧斗を休める場所はないだろうか」
「あっ、こ、こちらのソファに!」

 わたわたとデスクから立ち上がった白糸がソファを指差す。彼にしては珍しいほどの慌てようだ。紅龍は部屋の主の慌て様など気にせず、腕の中の慧斗をそっとソファに寝かせた。

 白糸はミニキッチンへと行き、冷水で濡らしたタオルと、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し紅龍に渡す。

「彼は……慧斗君はいったいどうしたんです」
「慧斗は、アルファの威圧を直接ぶつけられたようだ」
「アルファの威圧……誰がです」
「たしかミネウラと言っていたな」
「峯浦……って、紅音君の……」
「知っている奴か?」
「はい、学園内にある保育園の保育士です」

 朦朧とする頭の上でふたりの会話が聞こえる。ふと、ひんやりするものが額から目元を覆う。きっと白糸が用意してくれたものだろう。冷たい感触が心地よい。
 遠くから「至急こちらに。はい、慧斗君が」と白糸の強ばった声が聞こえる。紅龍に向けてじゃないということは、誰かと電話で話しているのだろうか。

「もう、大丈夫だ。安心して少し休むがいい」

 耳にはっきりと聞こえる紅龍の声音は慧斗を案じるもので、彼が心底慧斗を心配したというのが分かる。

「うん……ありがとう、紅龍……きてくれて……」

 紅龍のフェロモンの匂いを近くに感じ、慧斗はとろとろと眠りに落ちていった。


 次に意識が浮上したのは、陽も落ちた夜だった。外はすっかり夜の帳が落ち、星が窓からでも瞬いてるのが見える。

「あ、起きた?」

 身じろぐと、なぜか大学に居ないはずの桔梗の声が聞こえた気がする。慧斗はぬるくなったタオルを持ち上げ体を起こすと、そこにいたのは部屋の主である白糸と彼の番、秋槻理事に玲司と桔梗、それから秘書の結城とその番。それから紅龍と。

「……紅音?」

 慧斗とソファの隙間に収まるようにして、我が子がくうくうと寝息を立てて眠っていた。

「え? どうしてみんな……」
「私が連絡したんだよ。寒川さんのお宅にね。で、丁度弟夫夫が来たのと、迎えに来た白糸教授の番である紅竹さんも鉢合わせて。最終的に紅音君を連れた三人が合流したって感じ」
「はぁ……」
「大丈夫か? 気分は?」

 よく事情が飲み込みきれない慧斗は、伺うような紅龍の質問に「大丈夫です」と返す。
 あれだけケンケンと対応していたのに、嘘のように穏やかな心で紅龍に返事ができた。

「すみません、皆さん。俺のせいでご迷惑をおかけしました」

 そう言って、腰を折る。
 あんな手紙を寄越してきたくらいの人間なのだ。もっと警戒する必要があった。昼間の学園内だからと気を緩めていた慧斗にも責任がある。

「こちらこそ事情があったとはいえ、対応が遅れて申し訳ない。彼は……峯浦は解雇にした。このことは、彼の実家にも話をして、先ほど彼はご両親に引き取られたよ。一応向こうのご両親も即日解雇を納得されたから、慧斗君は心配しなくてもいいし、そもそも謝るのは向こうだ」
「ですが……」
「というか、アルファの威圧でオメガを支配しようとか、アホかって言いたいですけどね」
「それをお前が言うか、龍蘭たつら

 白糸教授とその番がなにか言ってるが、玲司が湯気の立つカップを慧斗の差し出し「ラベンダーのミルクティです。落ち着きますよ」と言って渡してくれる。
 コクリとひと口飲み込むと、花の香りとミルクの甘い香りがわずかに残っていた慧斗の緊張を解きほぐす。
 そっと視線を落として紅音を見ると、目元が少し赤い。

「もしかして、紅音泣いてました?」
「あ、ええ。おかーさんしんじゃう! って、それはもう」

 その時のことを思い出しているのか、玲司がクスリと笑みを浮かべる。
 慧斗は息子に泣かせるようなことをしてしまったと、胸が痛くなった。

「ごめんね、紅音」
「んむ……おかーさん?」

 まろい頬を指先で撫でると、その刺激に目を覚ました紅音がパチリと目を開くと、慧斗の腰にしがみついて再び泣き出した。

「おかーさんぜんぜんおきないんだもんー! ぼくおいていかないっていったのに!」
「ごめん、紅音。いっぱい心配かけちゃったね」
「もーゆるさないんだからねー! おかーさんのばかああああ!」

 わあわあ、えぐえぐと泣く息子の頭を撫でて慧斗は何度も「ごめんね」と言葉をこぼす。
 死に直面する出来事ではなかったけど、それでもあのまま紅龍が来なかったら、慧斗は紅音とこうして会えなかったかもしれない。冷静になって思い返してみると背筋がゾッとする。
 どうして自分にあんな歪んだ愛を当然のように向けてきたのか。今も峯浦の心情は慧斗には理解できないし、したくもない。

「どうしたら、お母さんを許してくれる?」
「あしたのあさごはん、おかーさんのぱんけーきがいい。ふわふわの」
「そっか。それなら、帰りに材料買わなくちゃね」

 膝の上を濡らし続ける紅音を抱き上げ、ぎゅっと存在を確かめるようにだきしめる。甘くて慧斗の傍にずっとある匂い。この匂いを感じることができて良かった。

「うちに材料があるので、帰りに店のほうに寄ればいいですよ、慧斗君。それよりもお腹空いたでしょう? おふたりが寝てる間に家に帰って作ってきたんです。といっても、サンドウィッチですけどね」
「あとは、理事が注文してくれたピザとかもありますよ」

 と話を繋いだのは結城。確かにゴタゴタが昼頃なら、今の外の様子を見るに彼らもお腹が空いているだろう。悪いことをしてしまった。

「皆さんにも申し訳……」
「それはいいから。紅音君、お母さんと一緒にどっち食べたい?」
「んーとね、れーじさんのさんどいっち!」

 紙皿を持って尋ねてくる桔梗に、元気よく紅音が答える。その隣では白糸と彼の番がピザの残りをアルミホイルで包んでいた。きっと明日のお昼はトースターで温めたピザになりそうだ。

「はい、ちょっと重いから気をつけて持ってね」
「ありがとー、ききょーさ、ん?」
「俺が持っててやるから。ほら」

 両手を伸ばして桔梗から紙皿を取ろうとした紅音の横から、大きな手が奪い取る。言わずもがなそれは紅龍だった。
 差し出して来た紅龍を、飴玉みたいな紅音の瞳が見上げている。見知らぬ人に警戒心が強い紅音は、突然割り込んできた紅龍をあからさまに要注意人物だと感じているのだろう。

「おじさん」

 ぽつりとこぼした紅音が紅龍を呼ぶ言葉に、周囲から吹き出す音があちこちから響く。確かに紅龍は慧斗よりも年上だけど、玲司と同じ年齢だったはずだ。玲司は『れーじさん』なのに、紅龍は『おじさん』。みんなが笑うのはしかないのかもしれない。

「どうした、ちびっこ」
「ちびっこじゃないもん。くおんだもん」
「そうか、クオンはどういう字なんだ?」
「あのね、『くれない』に『おと』っていうんだって」
「紅音でクオンか。お母さんがつけてくれたのか?」
「うんっ、おかーさんが、ぼくにはじめておくるぷれぜんとだよって」
「なるほど、確かに名前は子供に贈る最初のプレゼントだな。それで、俺に何か言いたいんだろう?」

 紅龍は紙皿を持ったまま紅音に視線を合わせるようにしゃがみ、涙が残る頬を反対の指で拭い尋ねる。

「あのね、おじさんはぼくのおとーさんなの?」

 紅音のひとことが室内の緩やかな空間を凍りつかせた。

「……どうしてそんな風に思った?」

 にも関わらず、紅龍は冷静に質問を質問で返す。一同は紅音の言葉を固唾を飲んで耳を傾ける。

「あのね、おかーさんおじさんにつんつんだけど、ぼくをみるめとおなじやさしーめでおじさんをみてるの。それにね、まえにおかーさんがいってたんだ、ぼくのかみとめがぼくのおとーさんとおなじできれーだよって」

 にこにこと話す紅音の回答に、慧斗は今すぐにでもどこかへ逃げ出したい心境になっていた。確かに紅音に父親のことを一度だけ話したことがある。紅音が保育園で不審な人物を見たと聞いた帰り道、お迎えに来た親子連れを羨ましそうに見ていた紅音が聞いたのだ。
 『ぼくにもおとーさんはいるの?』と。
 さすがに『いない』とも言えず、慧斗は紅龍のことを語って聞かせた。どうせ幼児の記憶なんてすぐに新しい情報で上書きされて忘れてしまうだろうから、と。安易な気持ちで。
 それがこうもはっきりと覚えていたなんて……紅龍の息子だから記憶が良いのだろうか。

 しかも、自分が紅龍を結構な頻度で見ていたと知り、恥ずかしさでいたたまれない。

「そうか」
「おじさんは、ぼくのおとーさん?」

 紅龍は目を細め紅音の頭を優しく撫でる。今朝までは紅龍に警戒してたはずなのに、今は大人しく撫でられている。もしかして、周囲に知り合いしかいないから、安心しているのかもしれない。
 周囲が緊張に包まれる中、紅龍は優しく笑みを浮かべて口を開く。

「ああ。お前は俺の息子で、慧斗は俺の大事な番だ。後にも先にも慧斗しか番を作っていない」
「え?」

 思わず会話を遮ってしまった。
 自分以外に番がいない? だって、あの時紅龍の側近だった男は国に番がいると言っていた。もしかしてあれは嘘だった?

「慧斗、俺はお前しか番にしたくない。だから、お前たちの家族に俺も入れてくれないか?」

 まっすぐ向けられる赤い瞳に、慧斗の心臓はトクリと高鳴っていた。
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