君と番になる日まで

藍沢真啓/庚あき

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孟夏の深更

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「おかーさん、また、ふーってしたね」

 緑香る爽やかな朝だというのに、慧斗は無自覚にため息を何度もこぼしていたらしく、とうとう紅音に指摘されてしまった。
 薬の効果か体調が落ち着いたため、秋槻たちが訪ねてきた翌日、紅音を連れて凛のいる病院で診察を受けた。

『うん、血液検査の結果もフェロモン濃度値も平常値まで戻ってる。薬と相性が良かったみたいだね。これなら明日から出勤してもいいよ』

 内心であと数日はドクターストップがかからないかな、と願っていたものの、そう問屋が卸さないらしい。朗笑する凛に強くでるわけにもいかず、慧斗は『分かりました』と返事するにとどめた。

 また定期診察で、と言われ、次回の予約をしてから病院を出る。早い時間の診察だったが、終わったのは昼を過ぎた頃で、紅音と途中近くのカフェで食事を取り帰宅したのだが……
 
『なに……これ』

 ポストに入っていた消印のない封筒。そこには『御崎慧斗様』とゴシックフォントが規則正しく並び、送り主の所には何も記載がなかった。ふと、嫌な予感が心臓を叩いた。
 明らかに怪しさしかない手紙だったが、中身を確認しないことには、誰が送ってきたかも分からないままだ。
 意を決して震える指先で中身を改める。

『……っ!』

 悲鳴を上げなかっただけでもできたほうだ。中には明らかに隠し取りと分かる、視線が向いていない自分の写真が幾つも入っていたから。
 ドクドクと心臓が高鳴り、鼓膜まで震える。

『おかーさん?』
『く、紅音、玲司さんの所に行くよ』

 慧斗は手紙を握り締め、不思議そうに見上げる紅音の手を引いて一目散に玲司たちの店へと向かっていた。

 アイアンドアをくぐり、アプローチを小走りで駆け店舗の扉を開くと、いつものように玲司と桔梗がカウンターの中でそれぞれ仕事をしていた。

『おや、慧斗君。今日は凛の所に診察に行ったんじゃ』
『れ、玲司さ……っ』
『ちょ、慧斗君、顔色真っ青。ほら、すぐに座って!』

 よほどの顔色だったのだろう。慌てたように桔梗がカウンターから飛び出し、慧斗を近くの椅子に座らせる。ぐしゃぐしゃになった封筒を握る手は、止めたいと思っていても震えがおさまらない。
 その異様な慧斗の様子に何かを悟ったらしい玲司は、グラスになみなみと水を入れると「飲みなさい」と言って慧斗に向かい合わせで座る。言われるがままにグラスを傾けると、冷えた水が喉を通り、レモンの香りが口の中に広がった。桔梗に抱き上げられた紅音は今にも泣きそうに顔を歪めている。

 無言で空になったグラスに水を注ぎ、それで、と玲司が話を促してくる。
 慧斗はまたも一気にレモン水を胃に流し終えると、少しだけ落ち着きを戻し、握ったままの封筒を差し出した。

『これが、帰ったらポストに……』

 テーブルに置かれた歪な写真を、節くれだった玲司の指が丁寧に伸ばしている。目線の合わない慧斗や紅音の写真が数葉並んでいる。

『明らかに盗撮ですね。これだけでも十分に犯罪の証拠になりえますよ』
『でも、誰が撮ったのか……』
『君に言い寄ってきた保育園の人間なのでは? あれから保育園に近寄ってないでしょ?』
『ええ。もし、あの件で紅音に不遇な対応を取られるのが怖くて』

 そういった事例がニュースで取り上げられたのを知っていたために、慧斗の言葉は尻すぼみになる。オメガはどこに行っても性的搾取をされやすい。どれだけ法整備がなされようと、人の心が変わる訳ではないのだから。

『きっとそれが一因でしょうね。保育士なら、園児の住所なんて名簿で簡単に分かるでしょうし』
『多分』

 個人情報にしてもしかりだ。人が扱う以上機密は機密ではない。
 まだ自分はいい。でも、紅音に何かがあったら、自分はきっと壊れてしまう。
 ただでさえ紅龍が現れたことで不安定になっているのだ。慧斗はただ紅音と穏やかに暮らしたいだけなのに。

『まあ、現時点で憶測でしかないですからね。保育士の犯行と決め付けるのは時期尚早でしょうか』
『そうですね。もしかしたら別の人間が起こした可能性もあるでしょうから』

 断罪するのは簡単かもしれない。だけど実際に峯浦がやってないとしたら?
 彼は裕福な家庭の子供だと耳にしている。不用意に責めて間違いだったら、今度はこちらの立場が不利になるだろう。
 庶民で母子家庭の慧斗はどうあがいても立場は弱く、周囲が助けてくれなければ、そうそうに崩壊していたに違いない。

『一応、うちの弁護士を通して被害届を出しておきましょう。それに……』
『それに?』
『紅龍から聞いてます。慧斗君、彼の通訳を務めるんでしょう?』

 突然玲司から出てきた紅龍の名に、慧斗はびくりと肩を揺らす。
 ふと、一昨日ここで会った彼の姿がよぎった。
 五年前よりも更に精悍で色香漂う男になっていた。あの薄い唇が何度も慧斗を愛してると言って、逞しい腕が何度も愉悦に悶える体を抱きしめてくれた。
 彼の甘く苦いフェロモンに我を忘れて駆け寄って口付けたいと思ってしまった。

『ええ、秋槻理事の依頼で。でも、玲司さんは王氏とお知り合いなんですか?』

 あの日『La maison』にいた紅龍はとても寛いでいた。孤高の獣が安心するねぐらで過ごすかのように。
 たった一週間だったが、あんな穏やかな表情の紅龍を見たのが初めてで、慧斗は疑問を口にしていた。

『まあ、そうですね。彼は以前弐本で留学していたんです。その頃からの悪友ですね』
『留学……』

 だから弐本語も堪能だったのかと納得した。だったら慧斗が通訳をせずとも意思疎通が取れるのでは、と結論づけたものの、他にも秋槻の意図があるのだろうと考え直す。
 出勤してからその件については話し合うべきだろう。
 しかし、彼がこの国にいたというのは、どの雑誌にもテレビでも言っていなかったように思えたが……
 慧斗が知らないだけで、公表されている事実なのだろうか。

『メディアは知らないと思いますよ。彼の留学はごく一部の関係者しか知りませんので』
『それは俺が聞いても』
『大丈夫でしょう。慧斗君は紅龍の番ですし』

 眉が歪め薄く笑う玲司の言葉に、慧斗の息が止まる。

『……やっぱり気づいてましたか……』
『まあ、どっちからも話を聞いていればおのずと、ね』

 苦笑する玲司に慧斗も困ったように口元を笑みに歪めていた。

 紅音を妊娠した時、保護者がわりである玲司に報告はしていた。彼は諭すように何度も父親について誰何してきたが、慧斗は父親が外国人のアルファであること、予期もせず番になってしまったことのみ話していた。

『すみません。今まで黙っていて』

 これまで色々手助けしてくれた玲司に、慧斗は不義理をしたと謝罪する。

『謝らなくてもいいですよ。あれの立場も立場ですからね。黙っていたくなったのも納得できますし』

 頭を俯かせた慧斗の耳に聞こえる優しい言葉。
 玲司はこれまでも慧斗を責めることを言わなかった。番の桔梗を一番に考え、他人には一定の距離を置く彼からの温かい慰めに、堪えていた涙がこみ上げほとほとと頬を濡らしていった。

『慧斗君、これだけは覚えておいてください。僕と紅龍は確かに友人ではありますが、それよりも慧斗君と紅音君の安寧を大切にしていますからね。もし、アレが無理強いしてきたら、ここにいらっしゃい。塩をまいて追い出してあげますから』

 頭を撫でながら玲司が告げた言葉に、慧斗は一瞬だけ涙が止まり固まる。
 塩……。まさかの玲司からそんなセリフが……

『……ふふっ、彼にそんなことできるの、玲司さんだけですよ』
『僕だけではないですけどね。ですが、泣き止んでくれて良かったです。桔梗君の次に君に泣かれると困ってしまいます』
『俺は泣きませんよ』
『おや、そうですか? 桔梗君の泣き顔は僕だけのものですからね』
『なっ、い、今はそういう話じゃ』
『れーじさんと、ききょーさんなかよし?』
『ええ、仲良しですよ』
『……ふふっ』

 あれだけ緊迫していた空気がふわりと溶けて消えていく。思わず慧斗の唇も綻び、笑みがこぼれた。
 玲司はよく祖母に依頼されたからと口に乗せて言うも、彼の態度はすでに逸脱してるのに気づいていないようだ。彼は無意識に慧斗と紅音を懐に入れて守ってくれた。そのおかげで今日まで無事で生きてこれたのだと納得できた。

『ありがとうございます。お手数おかけしますが、よろしくお願いします』
『はい、賜りました。とりあえず、明日から紅龍の仕事があるんでしょう? 今日はどうしますか? 心配なら紅音君だけでなく君も泊まれるようにしますが』

 心遣いある申し出に慧斗は首を振って断る。いくらなんでも玲司たちに頼りすぎだ。

『今日はもう何もないでしょうし、紅音と一緒に家に帰ります。大丈夫、ちゃんと施錠して気をつけますから』

 ただでさえ峯浦を避けるために日中紅音をここに預けて迷惑をかけているのだ。
 自衛できることはできる分だけ自分でやるしかない。

『それに、玲司さんからいただいた食事も悪くなっちゃいますから』

 おどけてそう言えば、それもそうですね、と玲司も苦笑して返してくれた。
 落ち着いた頃、慧斗は紅音を連れて自宅に戻った。玲司と約束したようにしっかり施錠をし、道路に面した窓にはカーテンを引いて中が見えないようにもした。
 閑静な住宅地だ。下手に長時間佇んでいる人がいれば目立つ。立地的に庭から出れば玲司たちの自宅側の門にも数メートルで駆け込むことができる。
 ああは言ったものの不安が纏う慧斗はあまり眠れず翌朝を迎えた。
 おかげでため息がひっきりなしに何度も漏れてしまう。

「おかーさん、おしごとおやすみする?」
「大丈夫だよ。ちょっと眠いだけだから。それよりも、紅音も玲司さんと桔梗さんに迷惑かけないようにね」
「だいじょーぶ。ぼくいいこだよ」

 手をつなぎながら『La maison』へ向かう途中、息子がそう自信満々に言うので、慧斗は思わず「ぷっ」と吹き出す。
 紅音は慧斗がいつもと違うのに気づいてながら、こうして和ませてくれるのがすごい。

(紅龍がどう出てくるか分からないけど、やっぱり俺の世界は紅音とふたりだけでいい)

 改めて彼とは一定の距離を保ったままで仕事をしようと心に決めていると、隣から「あっ」と驚いたような声が上がり斜め下を見る。Tシャツに藍色のパーカー、黒のハーフパンツを履いた息子が赤い瞳をこぼれそうに見開いていた。

「紅音? どうか……」
「ぼく、あのおじさんしってるよ。まえにほいくえんでぼくをみてたおじさん」
「え?」

 息子の視線を辿ると、『La maison』の前に王紅龍がカジュアルな格好で立っているのが見えた。
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