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孟夏の深更

3-紅龍

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 カララン、とカウベルが軽快な音色で店内を駆け、閉じていく扉に消えていく番の姿を紅龍は無意識に手を伸ばして追いかける。しかし彼の思いも虚しく、扉は閉じられてしまい、聞こえるのはベルの残響だけだった。

「あ、すみません王さん。コーヒーのお代わりはいかがです?」
「あ、ああ。済まないがもう一杯もらえるかな」
「かしこまりました」

 玲司から詳しい話を聞かされていないらしい桔梗は、紅龍の前に置いてある空のカップを引き下げ厨房に戻っていく。きっと玲司から自分とあまり話すなと言われているに違いない。なんとも心の狭い男だと紅龍は吐息を落とす。いや、慧斗が別のアルファと懇意にしてたら、自分だって近寄らせたくないと思うだろうと苦笑が自然と浮かんだ。

 紅龍は先ほどまで慧斗が座っていたテーブルに視線を馳せる。あれから五年。出会った頃よりも随分と大人になった。それに『クオン』という子供は慧斗に似ていた。
 自分がこんなに慧斗に焦がれて渇望していた間、彼はどこかのアルファと結婚をしたというのか?
 でもそんなはずはない、と自分の疑問に反論する。
 番を結んだオメガは、うなじを噛んだアルファにしか反応をしない。ましてや、番以外のアルファが抱こうとすれば、激しい拒否反応を起こす。最悪にはショック死すらあるとも。
 それに慧斗は多情な人間ではないと、あの短い時間でも感じ取っていた。
 白金に琥珀と派手な見た目にも関わらず、紅龍の腕の中での慧斗は初心なオメガだった。

「自業自得というものです、紅龍」

 厨房から出てきた玲司は、まるで紅龍の葛藤を読んでたかのように苦言を呈する。彼はオートのコーヒーミルで豆を挽いてる間に保温していたポットに別のポットから熱湯を注いでいる。
 せっかく脳裏にあの日の慧斗を思い浮かべていたのが霧散してしまった。

「……お前、慧斗を前から知っていたな」

 恨みがましい目で悪友を睨みつければ。

「少なくともあなたと慧斗君が出会うよりも前から知ってます」

 淡々とした声が返ってくる。玲司の目線は一切紅龍には向かず、真っ直ぐにコーヒーを見据えていた。
 玲司を責めても柳に風なのは分かっていたので反論は喉でとどめる。悪友の中で一番コイツが掴めない人物なのを理解していたからだ。

「じゃあ、慧斗の番が俺だというのも知っていたってわけか」
「まあ、慧斗君が誰かと番になったのと、あなたがひとりのオメガを死に物狂いで探し出した時期がかぶってたので。それに、当時の特徴を聞いてすぐに慧斗君だって気づきましたし」
「……つまり、お前は意図して俺に慧斗の情報を隠していたのか」
「でもちゃんと、教えましたよ。彼の名前と年齢は」

 それも最近の話だがな、と悪態を飲み込む。それで得心がいった。寒川ならば一般家庭の人間ひとりを秘匿するのは簡単なことだから。普通の探偵では探れないはずだ。
 してやられたと紅龍は小さく舌打ちする。思わぬ伏兵が目の前の悪友だったことに、悪態をつかないだけマシだろう。

「……なぜ、今になって俺に情報を開示した。お前の家ならば、永久に隠しとおせたものを」

 そう、上位アルファ家系の寒川の次男である玲司ならば、外国にいる紅龍に黙っていることは可能だったはずだ。もしかして……

「慧斗になにかあったのか?」
「あったといえばありました。ですが、『他人』であるあなたに教えるのは問題なので黙秘します」
「悪友にも言えないことか?」
「あなたが慧斗君に歩み寄り、彼に土下座でもして謝るなら、話は別ですけどね」

 はいどうぞ、とカップを差し出され紅龍は睨み据えたままそれを受け取る。ドリップしたばかりの黒い液体からフルーツを感じさせる軽やかな香りと、焙煎独特の香ばしい匂いが立ちのぼっている。
 カチリ、と陶器が触れ合う音をさせ、カップを持ち上げた紅龍はひとくち口に含んだ。
 静かな店内には玲司が使った器具や食器を洗う音と、紅龍がカップを置く音。窓を開けた遠くから、子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
 今日は玲司に無理を言って、店を貸切にしたおかげで静かすぎるほど静寂に満ちている。つい最近まで慌ただしかったからか、これだけの静けさはとても心地が良い大切な時間に思えた。
 そんな中でも慧斗は出入り自由なのか、と紅龍に目を合わせずに子供を大事そうに抱いてテーブル席に座る彼の姿に思い馳せる。ほっとした顔で玲司を見ていた慧斗にとっては、玲司は自分よりも身近な存在としているのが分かった。釈然とはしないが。
 それに、と紅龍は思考を続ける。ちらりと見えた慧斗の子供。確か『クオン』といったか。
 慧斗によく似た勝気そうな元気な子供。
 黒い髪に、好奇心旺盛そうな赤い瞳……
 紅龍は自身の目元をそっと撫でる。容貌だけ見れば慧斗にそっくりな可愛らしい子供。だが特徴だけを拾い上げれば、それはまさに自分と同じではないか。

「なあ、玲司。慧斗が連れてた子供、年齢を聞くのはアリか?」

 縋るように悪友を見上げれば、彼は深いため息をこぼして目を閉じている。言うか言うまいか悩んでいるのだろう。もうそれだけで答えが分かってしまった。

「一応、保護対象は慧斗君で、紅音君に関しては付随の存在ですからね。ま、紅龍にならいいでしょうが、彼に問い詰めるのは今はおやめなさい。いいですね」
「……分かった。『今』は何も問いただすことはしない。約束する」

 紅龍は逸る気持ちを抑えて真っ直ぐに玲司を見据える。もし、紅龍が予想していた通りの答えが玲司から出れば、それは……

「紅音君の年齢は現在四歳です」

 それはあの日の夜、紅龍と慧斗が交わったことで育まれた命なのだから――
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