18 / 69
孟夏の深更
2-紅龍
しおりを挟む
「御崎君!」
目の前の華奢な青年が膝から崩れていくのを、紅龍は信じられない思いで眺めていた。ふわりと紅龍だけに分かる甘い香り。間違いない。
黒い髪に黒の瞳、地味な黒縁眼鏡をした青年は、あれから時間が流れたため大人びてきているが、紅龍の記憶に今も強く残る最愛の番だった。
御崎慧斗。
悪友である寒川玲司に依頼し、数少ない情報の元伝えられた番の名前。あの頃より美しさが滲み出て、地味な眼鏡やスーツでは隠しきれていない。
紅龍は慧斗を抱くオメガの男の手を払い除け自らの腕に閉じ込めたかった。しかし紅龍の行動を止めたのは、自分を招いたはずの秋槻学園の理事の男だった。
「王さん、彼らはオメガです。オメガのことはオメガにしか分からないこともありましょう。今、私たちにできることはありません。どうぞお座りください」
さすが上位アルファというべきか。紅龍の圧に負けないどころか笑みすら浮かべている。
紅龍は舌打ちし、飾り付けられた食事が乗ったテーブルを挟んでソファに腰を落とした。
「理事、申し訳ありませんが、俺は彼を病院に連れて行きます。おひとりで大丈夫でしょうか」
蹲る慧斗の傍にいた男がそう秋槻に告げているのが聞こえる。慧斗から溢れ出る甘やかな香りで脳が痺れそうだ。大学というベータだけでなくアルファもオメガもいる場所を訪ねるために強めの抑制剤を服用して良かった。下手をすれば慧斗を襲いかねない。
「ああ、それは問題ないよ。それよりも彼の方が心配だ。すぐに充に連絡して行ったほうがいい。どうせすぐ近くにいるんだろう?」
「ええ、ご名答です。今日は子供たちをわざわざ預けて近くにいます。向かいながら連絡しますので、このまま失礼いたします」
「彼にも落ち着いたら連絡するように言ってくれるかな」
はい、と頷いた男は、慧斗の体を支えて逃げるように出て行った。
扉が完全に閉じた時、目の前の秋槻は「すみませんね」と苦笑を浮かべた。その言葉は心からの謝罪とは程遠い。
引き止める隙すら与えられなかった。噛み締めた唇から鉄の味が口の中に広がる。とても苦い。
あんなに近くにいたのに、触れることすらできなかった。
「どうして俺を止めた」
喉を唸らせ問いかければ、秋槻は飄々と「さてなんのことだか」と態度を変えず微笑む。
「逆に、あなたがなぜ彼をご存知で? あの子はうちの学生から職員となった優秀な子です。世界的に有名なあなたとは接点なんてないでしょうに」
紅龍は笑みを浮かべて淡々と問う秋槻に対して言葉が詰まる。
確かに俳優である紅龍と理事秘書の慧斗では接点すらない。それでも自分と慧斗は運命の名のもと、街の片隅で出会い、結ばれた。それをバカ正直に言うつもりはなかったが。
(それに慧斗の経歴については謎が多い)
玲司から名前と年齢を教えてもらってからというもの、紅龍は慧斗について色々調べた。確かに彼がこの秋槻学園の大学部を卒業後、秋槻と恩師の教授の秘書をしているという。しかし、慧斗の就職時期が謎を呼んだ。
慧斗が学園で秘書になったのは、卒業して二年近く経ってからだ。普通は間を置くことなく職に就く筈。
それに謎なのはそれだけでない。名前も年齢も分かるのに、彼の家族構成や自宅が把握できないのだ。まるで何者かの意思によって秘匿されているのを感じた。
多分、紅龍が付き合いのある高位アルファの誰かが慧斗を守っているのだろう。
今回自主制作の映画の撮影と称して来日したのは、本国では色々調べるのに限界があったからだ。仕事自体も弐本での仕事以外入れていない。撮影時期も細かく決めていない。ひとえに慧斗の足跡を調べるためだったが……まさかこんなにすぐ彼と再会できるとは。
だが、目の前の男と慧斗に寄り添っていたオメガの男のせいで引き離された。運命と離れるのが辛いのは、秋槻もアルファだから分かるだろうに。
「まあ、そんなに怖い顔をしていたら、多くのファンがびっくりされますよ。お茶でも飲んで落ち着かれたらいかがですか」
秋槻はそう言って紅龍の鋭い視線に怯えることなくポットに茶葉とお湯を入れてコゼーを被せている。緊張した室内に烟ったような特徴的な茶葉の香りが広がる。
「彼の……慧斗の所を行かせろ」
「そんなに焦らなくても。近々彼には会えます」
「……どういう意味だ」
ニヤリと口の端を吊り上げ、秋槻が言葉を紡ぐ。玲司と同じ上位アルファ家系の人間と言うべきか、どこか得体の知れないのが気に食わない。
「本当は、中国語に堪能な東風谷教授にお願いしようと思ったんですけどね。まあ、彼にも経験が必要だと、もうひとりの准教授とも話し合って、」
「能書きはいい。早く結論を」
「焦っては大事なものを取りこぼしますよ」
「……」
「まあいいでしょう。あなたが撮影で学園に滞在している間、通訳として彼……御崎慧斗を付かせることに決定いたしました」
目の前の華奢な青年が膝から崩れていくのを、紅龍は信じられない思いで眺めていた。ふわりと紅龍だけに分かる甘い香り。間違いない。
黒い髪に黒の瞳、地味な黒縁眼鏡をした青年は、あれから時間が流れたため大人びてきているが、紅龍の記憶に今も強く残る最愛の番だった。
御崎慧斗。
悪友である寒川玲司に依頼し、数少ない情報の元伝えられた番の名前。あの頃より美しさが滲み出て、地味な眼鏡やスーツでは隠しきれていない。
紅龍は慧斗を抱くオメガの男の手を払い除け自らの腕に閉じ込めたかった。しかし紅龍の行動を止めたのは、自分を招いたはずの秋槻学園の理事の男だった。
「王さん、彼らはオメガです。オメガのことはオメガにしか分からないこともありましょう。今、私たちにできることはありません。どうぞお座りください」
さすが上位アルファというべきか。紅龍の圧に負けないどころか笑みすら浮かべている。
紅龍は舌打ちし、飾り付けられた食事が乗ったテーブルを挟んでソファに腰を落とした。
「理事、申し訳ありませんが、俺は彼を病院に連れて行きます。おひとりで大丈夫でしょうか」
蹲る慧斗の傍にいた男がそう秋槻に告げているのが聞こえる。慧斗から溢れ出る甘やかな香りで脳が痺れそうだ。大学というベータだけでなくアルファもオメガもいる場所を訪ねるために強めの抑制剤を服用して良かった。下手をすれば慧斗を襲いかねない。
「ああ、それは問題ないよ。それよりも彼の方が心配だ。すぐに充に連絡して行ったほうがいい。どうせすぐ近くにいるんだろう?」
「ええ、ご名答です。今日は子供たちをわざわざ預けて近くにいます。向かいながら連絡しますので、このまま失礼いたします」
「彼にも落ち着いたら連絡するように言ってくれるかな」
はい、と頷いた男は、慧斗の体を支えて逃げるように出て行った。
扉が完全に閉じた時、目の前の秋槻は「すみませんね」と苦笑を浮かべた。その言葉は心からの謝罪とは程遠い。
引き止める隙すら与えられなかった。噛み締めた唇から鉄の味が口の中に広がる。とても苦い。
あんなに近くにいたのに、触れることすらできなかった。
「どうして俺を止めた」
喉を唸らせ問いかければ、秋槻は飄々と「さてなんのことだか」と態度を変えず微笑む。
「逆に、あなたがなぜ彼をご存知で? あの子はうちの学生から職員となった優秀な子です。世界的に有名なあなたとは接点なんてないでしょうに」
紅龍は笑みを浮かべて淡々と問う秋槻に対して言葉が詰まる。
確かに俳優である紅龍と理事秘書の慧斗では接点すらない。それでも自分と慧斗は運命の名のもと、街の片隅で出会い、結ばれた。それをバカ正直に言うつもりはなかったが。
(それに慧斗の経歴については謎が多い)
玲司から名前と年齢を教えてもらってからというもの、紅龍は慧斗について色々調べた。確かに彼がこの秋槻学園の大学部を卒業後、秋槻と恩師の教授の秘書をしているという。しかし、慧斗の就職時期が謎を呼んだ。
慧斗が学園で秘書になったのは、卒業して二年近く経ってからだ。普通は間を置くことなく職に就く筈。
それに謎なのはそれだけでない。名前も年齢も分かるのに、彼の家族構成や自宅が把握できないのだ。まるで何者かの意思によって秘匿されているのを感じた。
多分、紅龍が付き合いのある高位アルファの誰かが慧斗を守っているのだろう。
今回自主制作の映画の撮影と称して来日したのは、本国では色々調べるのに限界があったからだ。仕事自体も弐本での仕事以外入れていない。撮影時期も細かく決めていない。ひとえに慧斗の足跡を調べるためだったが……まさかこんなにすぐ彼と再会できるとは。
だが、目の前の男と慧斗に寄り添っていたオメガの男のせいで引き離された。運命と離れるのが辛いのは、秋槻もアルファだから分かるだろうに。
「まあ、そんなに怖い顔をしていたら、多くのファンがびっくりされますよ。お茶でも飲んで落ち着かれたらいかがですか」
秋槻はそう言って紅龍の鋭い視線に怯えることなくポットに茶葉とお湯を入れてコゼーを被せている。緊張した室内に烟ったような特徴的な茶葉の香りが広がる。
「彼の……慧斗の所を行かせろ」
「そんなに焦らなくても。近々彼には会えます」
「……どういう意味だ」
ニヤリと口の端を吊り上げ、秋槻が言葉を紡ぐ。玲司と同じ上位アルファ家系の人間と言うべきか、どこか得体の知れないのが気に食わない。
「本当は、中国語に堪能な東風谷教授にお願いしようと思ったんですけどね。まあ、彼にも経験が必要だと、もうひとりの准教授とも話し合って、」
「能書きはいい。早く結論を」
「焦っては大事なものを取りこぼしますよ」
「……」
「まあいいでしょう。あなたが撮影で学園に滞在している間、通訳として彼……御崎慧斗を付かせることに決定いたしました」
63
お気に入りに追加
1,591
あなたにおすすめの小説
【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜
ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。
そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。
幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。
もう二度と同じ轍は踏まない。
そう決心したアリスの戦いが始まる。

捨てられオメガの幸せは
ホロロン
BL
家族に愛されていると思っていたが実はそうではない事実を知ってもなお家族と仲良くしたいがためにずっと好きだった人と喧嘩別れしてしまった。
幸せになれると思ったのに…番になる前に捨てられて行き場をなくした時に会ったのは、あの大好きな彼だった。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿

【奨励賞】恋愛感情抹消魔法で元夫への恋を消去する
SKYTRICK
BL
☆11/28完結しました。
☆第11回BL小説大賞奨励賞受賞しました。ありがとうございます!
冷酷大元帥×元娼夫の忘れられた夫
——「また俺を好きになるって言ったのに、嘘つき」
元娼夫で現魔術師であるエディことサラは五年ぶりに祖国・ファルンに帰国した。しかし暫しの帰郷を味わう間も無く、直後、ファルン王国軍の大元帥であるロイ・オークランスの使者が元帥命令を掲げてサラの元へやってくる。
ロイ・オークランスの名を知らぬ者は世界でもそうそういない。魔族の血を引くロイは人間から畏怖を大いに集めながらも、大将として国防戦争に打ち勝ち、たった二十九歳で大元帥として全軍のトップに立っている。
その元帥命令の内容というのは、五年前に最愛の妻を亡くしたロイを、魔族への本能的な恐怖を感じないサラが慰めろというものだった。
ロイは妻であるリネ・オークランスを亡くし、悲しみに苛まれている。あまりの辛さで『奥様』に関する記憶すら忘却してしまったらしい。半ば強引にロイの元へ連れていかれるサラは、彼に己を『サラ』と名乗る。だが、
——「失せろ。お前のような娼夫など必要としていない」
噂通り冷酷なロイの口からは罵詈雑言が放たれた。ロイは穢らわしい娼夫を睨みつけ去ってしまう。使者らは最愛の妻を亡くしたロイを憐れむばかりで、まるでサラの様子を気にしていない。
誰も、サラこそが五年前に亡くなった『奥様』であり、最愛のその人であるとは気付いていないようだった。
しかし、最大の問題は元夫に存在を忘れられていることではない。
サラが未だにロイを愛しているという事実だ。
仕方なく、『恋愛感情抹消魔法』を己にかけることにするサラだが——……
☆描写はありませんが、受けがモブに抱かれている示唆はあります(男娼なので)
☆お読みくださりありがとうございます。良ければ感想などいただけるとパワーになります!
【BL】こんな恋、したくなかった
のらねことすていぬ
BL
【貴族×貴族。明るい人気者×暗め引っ込み思案。】
人付き合いの苦手なルース(受け)は、貴族学校に居た頃からずっと人気者のギルバート(攻め)に恋をしていた。だけど彼はきらきらと輝く人気者で、この恋心はそっと己の中で葬り去るつもりだった。
ある日、彼が成り上がりの令嬢に恋をしていると聞く。苦しい気持ちを抑えつつ、二人の恋を応援しようとするルースだが……。
※ご都合主義、ハッピーエンド

末っ子王子は婚約者の愛を信じられない。
めちゅう
BL
末っ子王子のフランは兄であるカイゼンとその伴侶であるトーマの結婚式で涙を流すトーマ付きの騎士アズランを目にする。密かに慕っていたアズランがトーマに失恋したと思いー。
お読みくださりありがとうございます。
婚約破棄?しませんよ、そんなもの
おしゃべりマドレーヌ
BL
王太子の卒業パーティーで、王太子・フェリクスと婚約をしていた、侯爵家のアンリは突然「婚約を破棄する」と言い渡される。どうやら真実の愛を見つけたらしいが、それにアンリは「しませんよ、そんなもの」と返す。
アンリと婚約破棄をしないほうが良い理由は山ほどある。
けれどアンリは段々と、そんなメリット・デメリットを考えるよりも、フェリクスが幸せになるほうが良いと考えるようになり……
「………………それなら、こうしましょう。私が、第一王妃になって仕事をこなします。彼女には、第二王妃になって頂いて、貴方は彼女と暮らすのです」
それでフェリクスが幸せになるなら、それが良い。
<嚙み痕で愛を語るシリーズというシリーズで書いていきます/これはスピンオフのような話です>
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる