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孟夏の深更
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紅音と同じ黒髪に真っ赤な瞳の美丈夫の姿が脳裏に焼きつけられ、気づけば結城の番の運転で『La maison』まで送られていた。
会いたかった。
二度と会いたくなかった。
相反する感情がぐるぐると渦巻き、体が猛火に炙られたように熱い。体が番であるあの男――王紅龍の姿を求め、鮮明にまぶたの裏で輝く。
五年前よりも逞しくなった腕で抱きしめられ、彼の胸の中で溶けるほど愛されたい。オメガである体は紅龍だけを欲し、彼に届けとばかりうなじから匂いを放つ。
抱いて。あの日のように、激しく、でも優しく、強く愛して。
本能が離れていこうとする紅龍を欲し、長らくなかった後孔がじわりと愛蜜をこぼすのがわかる。
だけど心は反対に、いまさら現れた紅龍に対して、冷たいものを飲み込んだかのような感情の渦に飲まれていた。
「これ、結城と番契約結んでなかったら、かなりヤバイ状況なんじゃ……」
「慧斗君も番持ちのオメガだから、そんな事故になることはないぞ」
「まあ、確かに。でも、あの俳優さんは今頃どうなってるのやら」
「いいから運転に集中しろ」
運転席と助手席でそんな会話が繰り広げられていたが、意識が朦朧とする慧斗には届くことはなかった。
結城の番である秋槻允はハンドルを切りながら「発狂しそうだったけども」と、同じアルファとして同情を感じていた。
番契約をしたオメガの匂いは、相手であるアルファにしか届かない。あの邂逅のあと、物理的に離れた慧斗の体は悲鳴をあげた。異変を察知した結城の手によって強制的に引き離され、彼の番の車で強制的に紅音を預けている寒川の店へと運ばれた。
なぜ、と混乱した頭で慧斗は自問自答する。
慧斗は紅音を妊娠してからずっと発情期が訪れていなかったのだ。通常オメガは妊娠してから出産後三ヶ月から半年ほどで発情期が再開すると言われている。だが慧斗は紅音を産んでから半年以上経っても発情期が来ず、事情を知ってる凛からは様子を見ようと言われていた。
きっと番から離されたオメガの発情期のひどさを知っているからだろう。抑制剤も効かず、狂ったように番を求め、昼も夜も関係なく自慰に耽るという。そんな状況で子育てなどできない。番に捨てられたオメガが育てる子どもは、すべからくネグレクトの被害者になると聞いたことがある。凛はそれを危惧していたのだろう。
定期的に凛の診察を受け、抑制剤もお守り代わりで定期的に服用するよう、処方される程度だった。
「寒川さん、いますか!」
アルファの匂いはキツイだろうと、結城が慧斗に肩を貸して、結城の番が声を張り上げいる。途中で電話をかけていたのだろう。門扉の前からの声掛けにも関わらず、すぐに玲司と桔梗が飛び出してきた。
「「慧斗君!」」
「おかーさんっ!」
続いて朦朧とする慧斗の耳に届いたのは、子供特有の高い声。愛おしい我が子の声が慧斗のようすを見て泣き声で濡れているように聞こえる。
「おかーさん、だいじょーぶ!?」
「くお……ん」
裸足のまま弾丸のように飛びついた紅音を、慧斗は息を乱しながらも両腕で包み込む。
「ごめ……、心配かけたね……」
深く我が子の匂いで肺を満たす。かすかなミルクの匂いと家で使うボディソープの香り、それから紅龍に似た香りが、慧斗の乱れた心と体を鎮めてくれる。
大丈夫、車内で手持ちの緊急抑制剤は飲んだ。一度凛に診察してもらわなくてはならないけど、発情で狂いそうにはなっていない。
まだ体の奥底で紅龍を欲するように熱で炙られている気がするが、紅音の匂いのおかげで次第に冷静になれた。
それに紅龍のフェロモンのおかげというべきか、ほとんど顔を合わせることなく結城によって連れ出されたために、自分の素性が彼にはバレていないはずだ。
慧斗はふうと深い息を落とし、紅音の背中をぽんぽんと叩いて大丈夫だと知らせると、玲司に顔を上げる。
「すみません、玲司さん。これから凛先生の所に行ってくるので、もう少しだけ紅音を預かってくれてもいいですか?」
バース科の医師は数があまりいないのもあり、特にオメガの変異について対応できるよう、寒川総合病院では主治医とのホットラインが繋がれている。まだ午前中の今なら彼と連絡が取れるはずだ。せっかくの休みに心苦しさを覚えるが、今はこのどうにもならない熱を治めたい。
「それは構いませんが、おひとりで移動できないでしょう? 凛をご自宅に向かわせます。紅音君はこのまま預かってますので、落ち着くまで休んでいてください」
「でも……」
自分は一介の患者なのだ。わざわざ主治医に往診してもらうなどとんでもない、と玲司に訴えたものの、慧斗に何かあっても困ると言われた。
「ひとりで頑張るのは美徳です。ですが子供を苦しませるのはただの我が儘ですよ。慧斗君、もっと周囲の人を頼ることを覚えなさい。みんな君が手を伸ばしてくれるのを待っているんですからね」
「玲司さん」
「凛のことなら大丈夫です。ランチを奢ると言えば喜々として来てくれますよ」
肩を竦めて苦笑する玲司の一言に、それまで重かった空気が弛緩するのを感じる。きっと慧斗が固辞できないように、素直に受け取れるようにしてくれているのだろう。
彼が番と家族以外のオメガを厭うているのに気づいていた。その彼は慧斗を身内のように扱ってくれるから、峯浦のことも素直に相談できたのだ。家族に捨てられた慧斗にとって、玲司は一番頼りになる『他人』だった。
裸足で出てきた紅音を桔梗に託し、玲司が凛に連絡している間に慧斗は結城と彼の番に支えられて自宅へと帰った。
彼らは庭に干してあった布団を取り入れてくれただけでなく、洗いたてのシーツと共に寝室に敷いてくれて寝かせてくれた。あまりに鄙びた家を見た結城の番は入るのを躊躇っているのか、すぐに結城に買い出しを頼まれて出かけてしまったが。
「なんだかすみません」
「いいのいいの。あれは独身オメガの家にアルファの匂いを付けるのを忌避してるだけだから」
確かにアルファは番を自分のテリトリーから出すのを嫌がる。自分の匂いを番に染み込ませるマーキングだと聞いたことがある。だからこそ番のいるオメガに他のアルファの匂いをつけるというのは、相手に喧嘩を売る行為なのだとも。
特に執着が強い高位アルファは、自らの子供がアルファだった場合、早々に独立させたりするらしい。
もし慧斗なら。
紅音がアルファで大きくなって自立したいと言い出さない限り傍にいて欲しいと強く願っている。
「ところで、理事のお客様は……」
紅龍の姿を目にした途端、あまりにも濃密なフェロモンの匂いにあてられたせいで、そのあとのことを覚えていなかった。
「あー、うん、だよねー」
結城にしては言葉が砕け、更には言い淀んでいる。
「あのさ、プライベートに踏み込んじゃうけど、義兄の客人って御崎君の知り合い?」
「え……」
「実はさ……」
呆けてる慧斗に結城が説明したのは。
慧斗がフェロモンにあてられ意識を無くしたのを、アルファの客人が病院に連れて行くとひと騒動あったそうだ。
「海外で活躍してる超有名な俳優の王紅龍が、あんなに取り乱した姿なんて、かなり貴重な光景見ちゃったよ。一応、王さんは義兄が抑えてる。今頃は今回の議題を進めてるんじゃないかな」
「そういえば、そんな超有名な俳優さんが、どうしてうちの大学へ?」
紅龍が有名俳優だとは知っているが、慧斗はあえてそこには触れず話に耳を傾けることにした。
「なんか、今度自主制作で映画を撮るんだって。それで大学に使用許可を知人である義兄にお願いするために来日したとかなんとか」
「自主制作の……映画?」
「そうみたい。ただ興業に出すものじゃなくて、プライベートに近い作品なんだってさ」
「そう……ですか」
詳しくは知らないけど、と肩を竦める結城に、慧斗は曖昧に言葉を返した。
そんな話を先日街中で聞いた気がする。
私的な映画の撮影……この場所を撮影場所に選んだのは、たまたまだと信じたい。それ以前に、あの一瞬で五年前に体を繋げたオメガだと気づかれていないだろうし。
五年も経ったのだ。当時婚約していた人と番となり、家庭を作っているに違いないだろう。なおさら紅音の存在を紅龍に知られる訳にはいかない。大切な息子の平穏を守るために紅龍とは二度と接触しないようにするべきだ。
「それでね、御崎君って中国語を学生時に選択してたって聞いたんだけど」
「え、ええ」
王朝文化に興味があり、その流れで文学にも食指を伸ばした結果、日常的な会話を取得していた。慧斗が外国語を話せることが今回と何か関係しているのか、と首を傾げてみせると。
「実は、本当は東風谷教授が王紅龍氏の通訳として同行する予定だったんだ。でも教授は番の体調が思わしくないって断られて。それで仕事を増やすようで心苦しいんだけど、君に王氏の通訳として動いて欲しいんだ」
「はい?」
東風谷は文学部の教授で、慧斗が中国語を選択した時に師事していた人物だった。いつも難しい顔をしていて、人を寄り付かせない人だったものの、ゼミは分かりやすく楽しいものだったと思い出す。
立板に水の如く結城の言葉が浸透する前に流れていく。更には最悪なタイミングで凛が到着してしまい、話の確認も取れぬまま結城と買い物から戻ってきた彼の番は、そそくさと帰ってしまった。
「あれ? 僕お邪魔だった?」
「いえ、わざわざ遠くまで往診してくれて、胸が痛いです」
布団から体を出して迎えようとすれば、凛からそのままでと手で制される。
「起きなくていいから。話はだいたい帰り際の秋槻さんから聞いたけど、抑制剤飲んだのにヒートが発露しかかったって?」
傍らに座る凛に慧斗は頷く。
「紅龍が……番だったんです。今日、大学に来た理事のお客様が……」
「ふぅん。きっとそれが発情の起爆剤だったのかもね」
「起爆剤?」
「そう。たまーにいるんだよ。医学的根拠は分からないけど。番から離れたオメガが妊娠出産を期に発情が抑えられるって事案。どっかの学者が子供の中にあるアルファの遺伝子でヒートが抑えられているんじゃないかって。全員が全員ではないから、都市伝説に近いものだけどね」
持参したバッグからタブレットやフェロモン測定器などを取り出しながらつらつらと説明する凛に、慧斗は思い当たる節があるのか「そういえば」と呟く。
「紅音と一緒にいると落ち着くのは、そういった作用なんでしょうか」
「明確にそうとは言えないけどね。でも、母親にとって子供の匂いって特別なんじゃないの」
「確かに」
甘いミルクのような息子の匂い。この四年、彼の匂いが傍にあったおかげで、狂うことなく生活できたのかもしれない。
紅龍がどんな意図で慧斗の前に現れたか分からない。しかし紅音の存在を隠さなくてはならないのは痛感している。
紅龍に紅音との生活を壊されてくない。
結城が言ったように紅龍の通訳は慧斗に決まったのだろう。今更嫌だとは言えない。秋槻理事にも迷惑をかけてしまう。
ならば必要最低限で接触するしかない。
なにがなんでも紅音を守る。これまでもこれからもふたりの世界で十分なのだ。幸せな世界を壊されないよう自分が頑張るしかない。
決意を胸の内で誓う慧斗を、凛は横目に見ながら小さくため息を漏らしていた。
会いたかった。
二度と会いたくなかった。
相反する感情がぐるぐると渦巻き、体が猛火に炙られたように熱い。体が番であるあの男――王紅龍の姿を求め、鮮明にまぶたの裏で輝く。
五年前よりも逞しくなった腕で抱きしめられ、彼の胸の中で溶けるほど愛されたい。オメガである体は紅龍だけを欲し、彼に届けとばかりうなじから匂いを放つ。
抱いて。あの日のように、激しく、でも優しく、強く愛して。
本能が離れていこうとする紅龍を欲し、長らくなかった後孔がじわりと愛蜜をこぼすのがわかる。
だけど心は反対に、いまさら現れた紅龍に対して、冷たいものを飲み込んだかのような感情の渦に飲まれていた。
「これ、結城と番契約結んでなかったら、かなりヤバイ状況なんじゃ……」
「慧斗君も番持ちのオメガだから、そんな事故になることはないぞ」
「まあ、確かに。でも、あの俳優さんは今頃どうなってるのやら」
「いいから運転に集中しろ」
運転席と助手席でそんな会話が繰り広げられていたが、意識が朦朧とする慧斗には届くことはなかった。
結城の番である秋槻允はハンドルを切りながら「発狂しそうだったけども」と、同じアルファとして同情を感じていた。
番契約をしたオメガの匂いは、相手であるアルファにしか届かない。あの邂逅のあと、物理的に離れた慧斗の体は悲鳴をあげた。異変を察知した結城の手によって強制的に引き離され、彼の番の車で強制的に紅音を預けている寒川の店へと運ばれた。
なぜ、と混乱した頭で慧斗は自問自答する。
慧斗は紅音を妊娠してからずっと発情期が訪れていなかったのだ。通常オメガは妊娠してから出産後三ヶ月から半年ほどで発情期が再開すると言われている。だが慧斗は紅音を産んでから半年以上経っても発情期が来ず、事情を知ってる凛からは様子を見ようと言われていた。
きっと番から離されたオメガの発情期のひどさを知っているからだろう。抑制剤も効かず、狂ったように番を求め、昼も夜も関係なく自慰に耽るという。そんな状況で子育てなどできない。番に捨てられたオメガが育てる子どもは、すべからくネグレクトの被害者になると聞いたことがある。凛はそれを危惧していたのだろう。
定期的に凛の診察を受け、抑制剤もお守り代わりで定期的に服用するよう、処方される程度だった。
「寒川さん、いますか!」
アルファの匂いはキツイだろうと、結城が慧斗に肩を貸して、結城の番が声を張り上げいる。途中で電話をかけていたのだろう。門扉の前からの声掛けにも関わらず、すぐに玲司と桔梗が飛び出してきた。
「「慧斗君!」」
「おかーさんっ!」
続いて朦朧とする慧斗の耳に届いたのは、子供特有の高い声。愛おしい我が子の声が慧斗のようすを見て泣き声で濡れているように聞こえる。
「おかーさん、だいじょーぶ!?」
「くお……ん」
裸足のまま弾丸のように飛びついた紅音を、慧斗は息を乱しながらも両腕で包み込む。
「ごめ……、心配かけたね……」
深く我が子の匂いで肺を満たす。かすかなミルクの匂いと家で使うボディソープの香り、それから紅龍に似た香りが、慧斗の乱れた心と体を鎮めてくれる。
大丈夫、車内で手持ちの緊急抑制剤は飲んだ。一度凛に診察してもらわなくてはならないけど、発情で狂いそうにはなっていない。
まだ体の奥底で紅龍を欲するように熱で炙られている気がするが、紅音の匂いのおかげで次第に冷静になれた。
それに紅龍のフェロモンのおかげというべきか、ほとんど顔を合わせることなく結城によって連れ出されたために、自分の素性が彼にはバレていないはずだ。
慧斗はふうと深い息を落とし、紅音の背中をぽんぽんと叩いて大丈夫だと知らせると、玲司に顔を上げる。
「すみません、玲司さん。これから凛先生の所に行ってくるので、もう少しだけ紅音を預かってくれてもいいですか?」
バース科の医師は数があまりいないのもあり、特にオメガの変異について対応できるよう、寒川総合病院では主治医とのホットラインが繋がれている。まだ午前中の今なら彼と連絡が取れるはずだ。せっかくの休みに心苦しさを覚えるが、今はこのどうにもならない熱を治めたい。
「それは構いませんが、おひとりで移動できないでしょう? 凛をご自宅に向かわせます。紅音君はこのまま預かってますので、落ち着くまで休んでいてください」
「でも……」
自分は一介の患者なのだ。わざわざ主治医に往診してもらうなどとんでもない、と玲司に訴えたものの、慧斗に何かあっても困ると言われた。
「ひとりで頑張るのは美徳です。ですが子供を苦しませるのはただの我が儘ですよ。慧斗君、もっと周囲の人を頼ることを覚えなさい。みんな君が手を伸ばしてくれるのを待っているんですからね」
「玲司さん」
「凛のことなら大丈夫です。ランチを奢ると言えば喜々として来てくれますよ」
肩を竦めて苦笑する玲司の一言に、それまで重かった空気が弛緩するのを感じる。きっと慧斗が固辞できないように、素直に受け取れるようにしてくれているのだろう。
彼が番と家族以外のオメガを厭うているのに気づいていた。その彼は慧斗を身内のように扱ってくれるから、峯浦のことも素直に相談できたのだ。家族に捨てられた慧斗にとって、玲司は一番頼りになる『他人』だった。
裸足で出てきた紅音を桔梗に託し、玲司が凛に連絡している間に慧斗は結城と彼の番に支えられて自宅へと帰った。
彼らは庭に干してあった布団を取り入れてくれただけでなく、洗いたてのシーツと共に寝室に敷いてくれて寝かせてくれた。あまりに鄙びた家を見た結城の番は入るのを躊躇っているのか、すぐに結城に買い出しを頼まれて出かけてしまったが。
「なんだかすみません」
「いいのいいの。あれは独身オメガの家にアルファの匂いを付けるのを忌避してるだけだから」
確かにアルファは番を自分のテリトリーから出すのを嫌がる。自分の匂いを番に染み込ませるマーキングだと聞いたことがある。だからこそ番のいるオメガに他のアルファの匂いをつけるというのは、相手に喧嘩を売る行為なのだとも。
特に執着が強い高位アルファは、自らの子供がアルファだった場合、早々に独立させたりするらしい。
もし慧斗なら。
紅音がアルファで大きくなって自立したいと言い出さない限り傍にいて欲しいと強く願っている。
「ところで、理事のお客様は……」
紅龍の姿を目にした途端、あまりにも濃密なフェロモンの匂いにあてられたせいで、そのあとのことを覚えていなかった。
「あー、うん、だよねー」
結城にしては言葉が砕け、更には言い淀んでいる。
「あのさ、プライベートに踏み込んじゃうけど、義兄の客人って御崎君の知り合い?」
「え……」
「実はさ……」
呆けてる慧斗に結城が説明したのは。
慧斗がフェロモンにあてられ意識を無くしたのを、アルファの客人が病院に連れて行くとひと騒動あったそうだ。
「海外で活躍してる超有名な俳優の王紅龍が、あんなに取り乱した姿なんて、かなり貴重な光景見ちゃったよ。一応、王さんは義兄が抑えてる。今頃は今回の議題を進めてるんじゃないかな」
「そういえば、そんな超有名な俳優さんが、どうしてうちの大学へ?」
紅龍が有名俳優だとは知っているが、慧斗はあえてそこには触れず話に耳を傾けることにした。
「なんか、今度自主制作で映画を撮るんだって。それで大学に使用許可を知人である義兄にお願いするために来日したとかなんとか」
「自主制作の……映画?」
「そうみたい。ただ興業に出すものじゃなくて、プライベートに近い作品なんだってさ」
「そう……ですか」
詳しくは知らないけど、と肩を竦める結城に、慧斗は曖昧に言葉を返した。
そんな話を先日街中で聞いた気がする。
私的な映画の撮影……この場所を撮影場所に選んだのは、たまたまだと信じたい。それ以前に、あの一瞬で五年前に体を繋げたオメガだと気づかれていないだろうし。
五年も経ったのだ。当時婚約していた人と番となり、家庭を作っているに違いないだろう。なおさら紅音の存在を紅龍に知られる訳にはいかない。大切な息子の平穏を守るために紅龍とは二度と接触しないようにするべきだ。
「それでね、御崎君って中国語を学生時に選択してたって聞いたんだけど」
「え、ええ」
王朝文化に興味があり、その流れで文学にも食指を伸ばした結果、日常的な会話を取得していた。慧斗が外国語を話せることが今回と何か関係しているのか、と首を傾げてみせると。
「実は、本当は東風谷教授が王紅龍氏の通訳として同行する予定だったんだ。でも教授は番の体調が思わしくないって断られて。それで仕事を増やすようで心苦しいんだけど、君に王氏の通訳として動いて欲しいんだ」
「はい?」
東風谷は文学部の教授で、慧斗が中国語を選択した時に師事していた人物だった。いつも難しい顔をしていて、人を寄り付かせない人だったものの、ゼミは分かりやすく楽しいものだったと思い出す。
立板に水の如く結城の言葉が浸透する前に流れていく。更には最悪なタイミングで凛が到着してしまい、話の確認も取れぬまま結城と買い物から戻ってきた彼の番は、そそくさと帰ってしまった。
「あれ? 僕お邪魔だった?」
「いえ、わざわざ遠くまで往診してくれて、胸が痛いです」
布団から体を出して迎えようとすれば、凛からそのままでと手で制される。
「起きなくていいから。話はだいたい帰り際の秋槻さんから聞いたけど、抑制剤飲んだのにヒートが発露しかかったって?」
傍らに座る凛に慧斗は頷く。
「紅龍が……番だったんです。今日、大学に来た理事のお客様が……」
「ふぅん。きっとそれが発情の起爆剤だったのかもね」
「起爆剤?」
「そう。たまーにいるんだよ。医学的根拠は分からないけど。番から離れたオメガが妊娠出産を期に発情が抑えられるって事案。どっかの学者が子供の中にあるアルファの遺伝子でヒートが抑えられているんじゃないかって。全員が全員ではないから、都市伝説に近いものだけどね」
持参したバッグからタブレットやフェロモン測定器などを取り出しながらつらつらと説明する凛に、慧斗は思い当たる節があるのか「そういえば」と呟く。
「紅音と一緒にいると落ち着くのは、そういった作用なんでしょうか」
「明確にそうとは言えないけどね。でも、母親にとって子供の匂いって特別なんじゃないの」
「確かに」
甘いミルクのような息子の匂い。この四年、彼の匂いが傍にあったおかげで、狂うことなく生活できたのかもしれない。
紅龍がどんな意図で慧斗の前に現れたか分からない。しかし紅音の存在を隠さなくてはならないのは痛感している。
紅龍に紅音との生活を壊されてくない。
結城が言ったように紅龍の通訳は慧斗に決まったのだろう。今更嫌だとは言えない。秋槻理事にも迷惑をかけてしまう。
ならば必要最低限で接触するしかない。
なにがなんでも紅音を守る。これまでもこれからもふたりの世界で十分なのだ。幸せな世界を壊されないよう自分が頑張るしかない。
決意を胸の内で誓う慧斗を、凛は横目に見ながら小さくため息を漏らしていた。
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