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春の宵闇

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 紅音に着替えをさせ、駅に向かう途中にある『La maison』へと寄ることにした。
 さっき桔梗が声を掛けてくれたのを無視したかたちになるので、謝りたかったからだ。

「こんにちは、桔梗さんいますか?」

 お店はティータイムに入っていたため、店内に桔梗がいるだろうと訪ねてみれば、やはり桔梗が店内をくるくると忙しそうに接客していた。

「慧斗君? まだ仕事中のはずでは?」
「あ、玲司さん」

 カウンターでコーヒーを淹れていた玲司が、首を傾げて慧斗に問う。彼が不思議に思うのも仕方ないだろう。

「あのね、れーじさん。おかーさん、おしごとのえらいひとに、ごようじおねがいされたんだって」
「お仕事の偉い人……白糸さんがですか?」
「いえ、秋槻理事のほうで」
「なるほど。それがなぜ桔梗君と関係が?」

 物腰柔らかく慧斗に問うが、その目は眼光鋭い。玲司は桔梗を大事にしているせいか、たまに慧斗ですらも剣呑な視線を向けることもあるのだ。
 見た目は極上のイケメンアルファだが、こと番相手になると残念イケメンになる。
 商店街の奥様がたが『昼の帝王』とか、訳のわからない呼称を裏で呼んでるのが分かるような、わからないような。確かにカフェの店長が『夜の帝王』は怪しいことこの上ない。

 慧斗は玲司に帰る途中、桔梗に声を掛けられたらしいが、考え事に意識を向けてたせいで無視してしまった。そのことを侘びに来たと説明すれば、ようやく納得してくれたのか、玲司は「桔梗君、慧斗君がきてますよ」と声を掛けてくれた。

「慧斗君!」
「ききょーさんこんにちは」
「紅音君、こんにちは。さっきも会ったね」

 桔梗は基本的に優しい人間だと常々思う。噂だと玲司と同じアルファ高位家系の子息らしいが、結婚するまでは会社員をしていたというし、今もこうして紅音に視線を合わせるためにしゃがんでくれている。
 普通だよ、と本人は否定するけども、自然にやれる人は少ない。

「桔梗さん、さっき声を掛けてくれたそうで……。すみません、考え事してたので全然気づかなくて……」
「あ……、あぁ、それで来てくれたの?」

 気にしなくてもいいのに、と笑う桔梗にもう一度謝り、帰宅後に玲司に用事があるからと再来を約束して『La maison』を後にした。


 電車に乗ってる途中、秋槻から通話アプリのチャットから、店の住所と地図が送られてきた。無茶ぶりしてくるくせに、こういった細かい所に気が届くからか、彼を本気で嫌いになれない。長男なのに苦労性な人だ。

『彼は弟の自由さに振り回されてるから』

 そう言ったのは、秋槻の弟の番で秘書をしているオメガの男性。後天的にバースが変化したという珍しい人で、元はベータで育ったそうだ。色々苦労されてるのに、番と一緒に仕事を頑張ってる、慧斗にとっても尊敬に値する人物だった。

「おかーさん?」
「あ、うん。どうした、紅音」

 くん、と袖を引っ張られ、意識を紅音に移すとほっぺを膨らませ不機嫌な顔が近くにあった。

「もう、ぼんやりしてたらだめだよ。おかーさんびじんなんだから、わるいひとにさらわれちゃう」

 慧斗はそう思っていないが、息子の目にはそう映るらしい。

「ごめん、ちょっと行くところの確認をしてたんだ」
「おかーさん」
「なに?」
「ぼく、おかーさんだけでいいからね」

 紅音は慧斗の腕を小さな腕でぎゅっと抱きしめ、口をへの字にして思いもよらない言葉を呟いた。
 何かを悟ったのだろうか。慧斗が色々胸の内に抱えているのを。

「……どうしてそう思ったの?」
「おかーさん、ずっとこまったおかおしてるもん。おかーさんにはいつもにこにこしてほしいの。だから、ぼくがおおきくなったら、おかーさんまもるんだ。それならぼくとおかーさんだけだもんね」

 ダメだな、と慧斗は反省する。大事な紅音にいらぬ心配を掛けてしまった。
 慧斗は誓ったのだ。紅音が産まれた時に。
 暮れゆく茜色の空に照らされた赤子のふっくらとした頬、病院の近くにある教会から聞こえる鐘の音に笑みに小さな口が浮かんだ、彼を『紅音』と名付けたあの時。
 この子は絶対に幸せにする。限界はあるけども、でも紅音には苦労させない。
 慧斗は小さな紅音を抱きしめ誓ったのだ。

「そっか。俺も紅音だけいればいいからね」
「えへー」

 満面の笑みを浮かべたぷくぷくほっぺを慧斗の腕に押し付ける息子に、慧斗も自然と笑みを浮かべていた。


 週末の街は思っていたよりも賑わっている。

 駅からデパート直通の地下通路を歩いていると、柱に埋め込まれたモニターにいくつも並ぶ美形の姿を目にした慧斗の心臓がドクリと跳ねた。

「きゃーっ! 紅龍さん!」
「今度、映画の撮影で来日するんでしょ?」
「そうそう、なんでも自叙伝的なラブストーリーって雑誌にあったよ!」
「運命の番と出会った映画スターが、そのオメガと結ばれるまでの話なんでしょ。うぅ、ロマンチック!」
「ってことは、その映画スターが紅龍さん? でも彼が結婚したって報道ないよね?」
「自叙伝にもピンキリあるからねー。実際は創作ってことなんじゃないかな」
「公開されたら一緒に観に行きたいね」
「ねー」

 若い女性ふたりがキャイキャイ騒いでいる会話の内容を聞いて瞠目する。
 紅龍が来日。

「大丈夫……ただ仕事をしにこの国にくるだけなんだから」

 島国といえどもたったひとりの人間を探し出すには容易ではない広さだ。たとえ同じ市にいてもすれ違う機会すら知人でも稀なのだ。それに撮影や取材で簡単に体も空かない紅龍が自分を探すとは思えない。
 公にはしていないようだが、あの日慧斗に小切手を渡してきた紅龍の秘書が言ったのだ。彼には彼の身分に合う番がいると。
 だから大丈夫。慧斗も紅音も見つかる筈ない。
 高鳴る心臓を片手で押さえ、もう片方の手で紅音の紅葉の手を強く握った。

 まだ動揺が続いているのか、紅音の手をしっかり握り締めたまま、メモにあった菓子店に向かう。デパートの案内図で場所を確かめ、目的の店を見つけると、どれも賞味期限が二週間以内だった。
 慧斗は秋槻に前日までに送ってもらうことを報告し、秋槻もそれで問題ないと返事が返ってくる。
 色鮮やかな焼き菓子の細工の美しさに、思わず慧斗も幾つか購入した。これから行く茶葉専門店で合いそうなお茶を買い、夜に食べようと心に決めた。

「おかーさん、ぼくもおかしほしーの」
「ん、いいよ。どんなのがいい?」

 サクサクなクッキーに香り高いチョコレート、宝石のような果物が乗ったケーキに、食感の軽いマカロンやトロトロプリン。
 ツヤツヤの小豆をまとったおはぎに、食べるのを躊躇うほど美しい細工の練り切りに、ねっちりとした羊羹。
 目移りしそうな中、なぜか紅音はふるふると首を振っていた。

「あのね、れーじさんのおかしがいいの」

 そうきたか、と内心でため息をつく。
 紅音にとって玲司の作るご飯は、慧斗のご飯と同じ位『母の味』なのだ。まだ今のように繁盛しなかった頃は、試作品と称して頻繁に差し入れをしてくれたからか、年の割に舌が肥えてしまった。

「じゃあ、帰りに『La maison』に寄ろうっか。でも、パンケーキは良かった?」
「それはたべる! いちごのがいいの」

 さすがに好物を声高に言う息子の姿に、慧斗はクスリと笑みを漏らす。

「じゃあ、パンケーキは半分こにしようか。それなら玲司さんのお菓子も食べれるでしょ?」
「おかーさん、だいすき!」
「俺も紅音が大好きだよ」

 えへー、と抱きついてくる紅音のほっぺにお返しのキスを贈った。

 温かくて、何よりも大切で大事な紅音。この子のために自分は生かされている。
 だからこそ紅龍に気づかれないようにひっそりとふたりで生きていく。
 小さな慧斗の願いは数日後に見事に崩れるのを、この時の慧斗には気付かなかった――
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