君と番になる日まで

藍沢真啓/庚あき

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黎明の夜明け

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「妊娠してるね」

 白いベッドに寝かされた慧斗へ淡々と事実を述べたのは、寒川の弟で寒川総合病院の医師であり、慧斗の雇用主でもある寒川凛さむかわりんだった。

 大学准教授、白糸と共に自宅近所にあるカフェバーへ向かったのは覚えている。普段からアルコールを取らない生活を送ってたから、飲んだものも普通のハーブティだった。たしかあれはレモングラスだったか。爽やかな香りが口の中に微かに残っている。
 ああ、そうだ、と脳裏で原因を反芻する。寒川のオススメで出たキャセロール。凝縮された濃厚なクリームと鶏肉の脂の匂いに気持ちが悪くなって倒れた。胃が飛び出そうな位に引き攣れた痛みと、下腹部の便秘や下痢とは違う痛み。ここ一ヶ月ほど続いていたが、あんなに強烈に体が悲鳴を上げることはなかった。

「妊娠……」
「血液検査と超音波の画像を見る限り間違いないね。胎嚢の大きさから現在妊娠三ヶ月かな」

 三ヶ月……
 間違いなく紅龍との間の子供だ。
 どうしよう、と心臓が軋むように高鳴る。学生で身寄りもない自分では、まともに育てる自信なんかない。でも番との子供だ。あの美しく慧斗を魅了した高位アルファとの子供。彼には婚約者がいて、遠からずその人と結ばれるだろう。きっと神様が孤独な慧斗に愛おしい人との子供をプレゼントしてくれたのかもしれない。だけど。

「凛先生」
「なに?」
「ずっと抑制剤の治験バイトしてましたが、赤ちゃんは大丈夫なんですか?」
「……産むつもり?」
「……」

 すぐに肯定ができなかった。
 本能では番との間の子供を産んで育てたい。だが現実に目を向ければ、今の環境で子供を産んで育てることができるのか。もし子供が障害があったらひとりで子供を養育なんてできるのか。不安ばかりが慧斗の細肩にずしりとのしかかる。

「まあ、新薬の治験なんてデメリットばかりだから、一概に安全だよとは僕も断言できない。ただ、君のこれまでのデータを見ても異常な数値はなく安定してる。元々貧血気味ではあるけどね。ここの所食べてないでしょ」
「……食べても吐いちゃうので」
「慧斗君は我慢しいなんだから、もっと僕を頼りなさいって言ったでしょ。うちの兄が近所に住んでるんだから、食事の差し入れにも行かせたのに」

 凛は慧斗を我慢しいと言うが、一度頼ることを覚えてしまうと、ダメになると分かっていたからだ。
 甘えに慣れていざ苦境に立ったとき誰も手を差し伸べてくれないと、絶望に打ちひしがれてしまう。両親ですら、手を伸ばしたのに慧斗の手を振り払ったのだ。あの時のいいようもない感情が今も慧斗の心に根深く残っている。

 俯いて唇を固く結ぶ慧斗のまろい頭を、凛は撫でながら口を開く。

「慧斗君のおうちのことは聞いてる。君のお祖母様にも治験の話をしたときに会ったからね。きっと君のご両親のことがトラウマになって、他人を頼るのが怖いっていうのも理解してる。でも、君が本当に子供を産んで育てるつもりなら、人を頼ることを学ばなくてはいけないよ」
「頼ることを学ぶ……」
「そうそう。もう大変だったんだよ、君が倒れたーって兄さんは慌てて僕に電話してくるし、一緒にいた大学の先生も顔を真っ青にしてオロオロしてたし。挙句には治験のバイトで君が倒れたんじゃって僕が詰られるし」
「え?」

 まさか自分が倒れて意識がない間に、そんな修羅場が展開されてたなんて。慧斗は驚きを隠せない。
 寒川も白糸もそんなに心配をかけてたことを知り、胸がじわりと温かくなる。
 祖母が亡くなってから、ずっとひとりで生きていくものだと思っていた。オメガである不条理な世の中で、生きていくのも不便な人生を送って、ひっそりと平坦で無味無臭な未来をひとりで。

「君は臆病になってはダメだよ。子供はひとりで育てることはできないんだから」

 そうだな、と凛の言葉に胸の中で頷く。
 この子を堕ろす選択は最初から浮かばなかった。あったのは子供を産んで育てる自信が自分にない不安だけだった。

「産みたい。俺はこの子を家族として迎えたい」
「楽な道じゃないよ? 君はそれを乗り越えて家族を大事にできる覚悟はある?」
「はい。だって、俺の宝物ですから」

 慧斗は真っ平らなお腹を優しく撫でる。その顔はすでに母としての柔らかな微笑みを浮かべていた。


 慧斗が新しい命をこの世に生み出したのは、十月のことだった。特別室の窓から見える、シンボルツリーのイチョウの葉が黄色に染まって美しい。
 男性オメガは自然分娩は危険が伴うために、帝王切開にて子供を生んだ。
 治験体の出産ということで主治医である凛の計らいにより、一般棟の特別室に入院を許された慧斗は、あっという間に駆け抜けた七ヶ月に思い馳せる。

 妊娠が発覚してすぐに、慧斗は白糸と共に秋槻理事の元へと報告に向かった。
 というのも、翌月に卒業が決まり、大学の事務に就職が内定していたため、今後について話しておきたかったからだ。
 妊娠初期には流産の危険が。
 中期になれば体型に変化が出てきて仕事の幅が狭まるし。
 後期になるといつ出産になるか分からない。
 最悪内定も取り消しになるかな、と慧斗は戦々恐々したものだが、なぜか付き添った白糸が「大丈夫」とニヤリと笑ったのに勇気をもらった。

 報告をした際、秋槻理事はあまりいい顔をしなかった。体調に左右されるということは、業務に支障が出るとイコールなのだから。
 そこに苦言を呈したのは、同行していた白糸准教授だった。
 彼は大学側が慧斗を採用を見送るというのなら、自分の秘書として個人的に雇うと言ったのだ。それならば学園にも迷惑をかけないし問題ないだろう、と。それによって妊婦差別しているのが世間にバレると、困るのは学園ではと言い切ったのには驚いた。
 当然理事は慌てた。そりゃそうだろう。白糸准教授はオメガでありながら、他学の教授との交流もあり、尚且つ彼の存在のおかげで多くのオメガ学生が受講を希望している。
 秋槻理事の回答如何によっては他の大学に移るのもやぶさかではないと、白糸准教授は暗に匂わせた。

 結局、慧斗の内定は事務職員から白糸の秘書として採用が決定した。それだけでなく、生まれた子供も敷地内にある職員用保育園に預ける手続きも取ってくれたのだ。
 これまではバイトで四苦八苦していたが、正社員になれば賞与ももらえるし、有給も勤務年数で与えられる。更には秋槻学園に勤務していたという職歴があれば、たとえここを退職することになっても有利に働く。
 そのために白糸は慧斗と共に交渉してくれたに違いない。
 本当に白糸には一生頭が上がらないだろう。

 頭が上がらないといえば白糸だけでない。寒川兄弟の存在も大きい。
 弟の凛は病院事務局と厚生労働省にかけあって、妊娠中の検診や入院費などを治験患者だからと、無償の手続きを取ってくれた。凛曰くキャリアの親戚がいるそうで、問題なく申請は通るだろうと。
 慧斗が治験実験をやっているデータが実際にあり、協力的だったのも要因のひとつだろう。
 おかげで今日に至るまで慧斗の生活が苦しくなった記憶は全くない。妊娠継続中も凛からバイト代が入金されていたからだ。
 凛曰く「妊娠中は抑制剤は不要なんだけど、中止後の状態とかなかなかデータが取れないからね」と笑って言われた時には、彼はねっからのサイエンティストだと内心で震えたものだ。
 兄の玲司も食が細くなった慧斗のために食べやすい食事を作ってくれたり、買い物に付き合ってくれたりと献身的に付き合ってくれたから、商店街のご婦人たちから玲司と結婚したのかと質問攻めにあったりもした。
 結局説明しまわって、慧斗がシングルで子供を産むことや、主治医が玲司の弟で兄が手伝ってくれたということで納得してくれた。独身アルファの大変さを身を持って知った一幕だった。

「ふゃぁ……」

 これまでの出来事を回想していた慧斗の耳に、弱々しくでも存在を主張する泣き声が聞こえてくる。
 ベッドの隣に小さな柵で囲われたベッドがあって、そこに更に小さな新生児がもぞもぞと動いている。

「ミルクかな」

 慧斗は帝王切開で痛むお腹を庇いながらミニキッチンでミルクを作る。
 男性オメガは乳腺があまり発達せず、母乳で育てるのが困難だからだ。
 今は母乳と変わらぬ成分の粉ミルクが開発されてる。こういった便利な物はどんどん臆さず活用しようと思う。

 消毒された哺乳瓶に規定の粉ミルクと適温のお湯を注いで泡立てないように振って溶かす。何度か温度を確かめてこれも消毒された蓋を閉めてテーブルに置く。赤ちゃん用ベッドから我が子を抱き上げれば、鼻先に届くふわりと甘く優しい香りに慧斗の口元が綻んだ。

 そっと扱わないと壊れそうな温かい我が子へ「ご飯だよ」と声を掛ける。その声に乳児は弱々しい泣き声をたてるのをやめ、涙に濡れた両目をぱっちりと開く。
 それは父親の紅龍と同じ紅玉の瞳。生まれて数日にもかかわらず、我が子の整った相貌は看護師たちの目を集めていた。
 きっと我が子は父親と同じ美しい人になるだろう。それでも慧斗は願う。

「どうか人を大切にできる人間になって。紅音くおん

 しずかに我が子の柔らかな黒髪で覆う額に唇を落とした。
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