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黎明の夜明け

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 あの黒曜石のような髪と紅玉の瞳をした美しいアルファから逃げて三ヶ月。
 外はすっかり春めき、桜の蕾が色を濃くしていた。

「あ、慧斗君。ちょっとちょっと」
「はい、どうしましたか。秋槻理事」

 大学の卒業を控え授業の殆どを終了させた慧斗はバイト先の大学事務局へ向かっていた所、理事長の甥で実質学園を運営している秋槻理事に声をかけられ振り返る。
 まだ若いのに学園の発展に尽力をつくしている。理事会からも信用が厚く、職員だけでなく生徒たちからも好意を向けられている。

「申し訳ないんだけど、白糸しらいと准教授に、これを渡してもらってもいいかな」

 そう言ってアルファにしては物腰の柔らかい理事から受け取ったのは、大きな茶封筒だった。

「これを白糸准教授にお渡しすればいいんですね」
「そう。あと、向こうの教授が返事は早めにと言ってたから、それも言付けてくれるかい」
「それは、はい」
「じゃあ、頼んだよ」

 爽やかに手を振って立ち去ろうとしていた理事は、何か思い出したのか足を止めて慧斗に向かい合う。

「慧斗君、随分顔色が悪いね。ちゃんと食事を取らないといけないよ」

 慧斗の肩をポンと叩き、今度こそ慧斗の前から消えていった。
 慧斗はぼんやりと彼の後姿を見送っていたが、その姿がなくなると自然とため息が零れてしまう。彼の言うことに思い当たりがありすぎるほどあったからだ。

「食べても吐いちゃうんだよね」

 重い吐息混じりに呟いていた。

 脳裏に何度も浮かぶのは、あの濃密な時間と、慧斗のうなじを噛んだ美しい男のこと。
 何度も忘れようと思ったのに、体の隅々まで刻み込まれた記憶は忘れたくても忘れられない。

 番となった王紅龍はかなり有名人だった。
 普段あまりテレビを観ることもなかった慧斗が知らないだけで意識して周りを見渡せば、彼の載った雑誌や主演で出ている映画に特集を組んだ番組など、どうして今まで気付かなかったのが不思議なほど彼の姿で世間は溢れかえっていた。
 あの日、慧斗に小切手を渡した男が言うように、慧斗と紅龍はとてもじゃないが身分が釣り合わない。
 あのまま紅龍と一緒にいれば、確実に慧斗が心も体も磨り減ってしまっただろう。今の選択に後悔はない。

「それでも……」

 この身が裂かれるような心の痛みに比べたら、きっと彼と一緒の方が楽だったのではと思った。

 紅龍と出会い、抱かれてから三ヶ月。
 彼と出会う前ならあっという間に過ぎ去った時間も、ふとした折に彼の姿が目に入ってしまい、もどかしい思いに心が荒れた。
 おかげでここのところまともに食事が取れない。なんとか努力して飲み込もうとするものの、すぐに吐き出してしまうのだ。かろうじて検体の仕事で抑制剤は飲んでるものの、あまりにも戻すのを繰り返すとデータ収集に支障が出るのではと不安になる。
 一度担当医師に相談したほうがいいと考えながら、慧斗は頼まれた物を持っていくために、白糸准教授の部屋へと向かった。


 運良く准教授は在席していた。

「いらっしゃい」
「こんにちは。秋槻理事からこちらを預かってます」

 慧斗はそう告げ、白糸に茶色の封筒を渡す。白糸はありがとうと言って、慧斗にソファへ座るよう促してくれた。

 白糸そう准教授は、オメガでありながら現在の地位に立った慧斗憧れの人だ。決して驕ることなく、誰にでも平等に接して、仕事面でも手を抜かない。厳しいけど素晴らしい人だと尊敬している。
 文学部の学生として、慧斗も彼の授業を選択しているひとりだ。
 この大学は……というより学園は広大な土地にあり、まるでひとつの町のようだった。通常大学部の校舎に教授室があると聞くが、広すぎる土地を活かし、大学部校舎の傍に教授棟がある。教授だけでなく准教授にも個室が与えられているそうだ。逆に講師や助教や助手は校舎にある合同研究室にいることが多いと聞く。
 彼らは教師でありながら研究者でもある。それに常勤・非常勤もいるから、その方が楽なんだと話を聞いた。
 以前白糸から助手のバイトを秋槻理事を通して紹介されたが、当時は畏敬の念が強く断った。その代わりとして斡旋してくれたのが、今の事務員のバイトだった。

 白糸は封を切り、上質な紙が表紙の薄い冊子を検め、それからため息をつく。

「御崎君、すぐに持ってきてくれてありがとう。本当、あの教授は……」

 苦笑する白糸に、慧斗は秋槻理事の伝言を伝えると、すぐにスマホを持ち電話を架け始めた。しばらく何かをやり取りしていたが、慧斗はこのまま居てもいいのかとそわそわしてしまう。
 離席しようかと腰を浮かせると、白糸の細い手が留まるよう制する。しばらくすると折り合いがついたのか「それでは」と白糸が告げ、スマホから耳を離した。

「待たせてごめん」
「いえ、俺がいても良かったのかなって」
「いいのいいの。あれ、見合い写真だからさ」
「は?」

 あの茶封筒の中身は見合い写真と身上書だったらしい。件の教授は白糸曰く「お見合いジジイ」だそうで、成婚率の高さを謳っているそうだ。
 白糸はクールに見えて人たらしだ。学園だけでなく他校の教授にも人気があるらしい。本人は自覚がないようで、誰が彼の心を射止めるのか、事務局の中で賭けが行われてる位。それもどうかと思うが。

「こっちはそんな気はないっていうのに、しょっちゅうこういうの送ってくるから困るんだよ」
「白糸准教授は結婚とかしないんですか?」
「ひとりが楽なんだよ」

 そう微笑む白糸の姿に、少しだけ羨ましいなと感じた慧斗だった。


 白糸はたかが届け物をしただけの慧斗へ、今日のお礼だからと食事に誘ってくれた。
 そこは偶然にも慧斗の家近くにあるカフェバー『La maison』だった。しかも祖母が生きてた頃からの常連でもある。

「ここなら君の家にも近いだろう?」

 それに今日はバータイムだって聞いてたから、とカラカラ笑う白糸とは対象的に慧斗は困り顔で追従している。
 居酒屋ならまだ分かる。安いし量も多いし腹も満たせる。しかしこの店は居酒屋レベルの店ではないのだ。

 お互いオメガで肉親の縁に薄いという共通点から、白糸は時折慧斗を率いて食事やお茶に連れて行ってくれる。
 一学生で一バイトである慧斗を贔屓しても大丈夫なのかと問えば。

『別に口にしなければ問題ないんじゃないかな』

 と、あっけらかんに言うものだから、慧斗の方が焦ったほどだ。

 今日も戸惑う慧斗に白糸はウインクして、店の扉を迷いなく開く。カロロロンとカウベルの音色が響き、それから「いらっしゃいませ」と低く艶のある男性の声が迎えてくれた。

「あれ? 慧斗君?」
「ふたりとも知り合い?」

 驚いた顔を見せたのは、この店のオーナーシェフで祖母が亡くなった時に沢山お世話になった寒川玲司さむかわれいじだった。
 真っ白なシャツに黒のスラックスとタブリエを履いた美丈夫は、アルファらしい精悍な美貌を持っているからか、商店街の女性陣は遠巻きにきゃいのきゃいのしてるのを知っている。
 その割に客が少ないのは、彼が修行したフランスの味付けにこだわってるせいだろう。慧斗は慣れてるのもあって、寒川の差し入れなど美味しくいただいていた。

「ええ、祖母が存命だった頃からの……」
「そうだったのか」
「慧斗君は白糸さんの所の学生さんでしたね」

 寒川はにっこり接客スマイルを浮かべて、慧斗と白糸を中へ案内してくれた。まだバータイムが始まったばかりなのか、店内には慧斗たちしかおらず、とても静かな空間だ。日中に来たことはあったものの、夜営業の時に入るのは初めてで、見知った場所だというのに不思議な感覚に陥る。

「慧斗君はお酒大丈夫?」
「いえ、下戸なんで。全く」

 ゆったり寛げるソファ席だと飲み過ぎるからと、カウンターに並んで座った慧斗に、寒川からメニューを受け取った白糸がそう尋ねてくる。例え飲めたとしても、ここ最近の体調の悪さを考えたら控えるしかない。
 白糸は駅のコインパークに停めてある車で来てるのもあり、ふたりしてホットドリンクと、寒川が勧める料理を数点注文した。
 この店の料理は割と多く食べている。味については心配していない。だが、体調はどんどん悪くなっている気がする。
 店内に微かに香る料理の匂いが、慧斗の内蔵にねっとりと絡みつき、胃液がこみ上げそうになる。
 本当ならばこのまま家に帰って寝てしまいたい。でも白糸の好意を無碍にするのも心痛い。
 寒川も祖母の家に住むようになってからの付き合いのため、彼にも心配をかけるのも心苦しい。
 ふたりに気づかれないよう、慧斗はハーブティーをちびちび飲みながらやり過ごそうとする。
 しばらくさんにんでとめどない会話に興じていたものの、慧斗の体調は悪化するばかりだ。
 胃が絞れるように痛いし、下腹部もズキズキしている。何度か意識が持って行かれそうになったが、グラスを強く握りかろうじて保っていた。

 なんとか痛みに耐え白糸や、寒川と会話を続けていたが。

「お待たせしました。鶏のクリーム煮です」

 そう言ってカウンターテーブルに乗せられたキャセロールから立ち上るミルクの匂いと鶏肉の匂い。

「……ぅっ」

 今まで以上に胃が痙攣するほど痛み、限界を超えた意識は唐突に途切れていった。
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