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黎明の夜明け

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 一瞬、慧斗は状況が頭の中で処理ができず、目をパチパチと瞬かせる。
 蕩けそうに甘く魅惑的な香りに脳が溶けそうだ。
 慧斗の全身を温かい何かが優しく包み込んでいる。これは……

「大丈夫か?」

 頭上から響く甘くて低い艶のある声が降ってきて、少しだけ冷静になった慧斗は自分が誰かの腕の中にいると気づく。多分……というか、今ここにいるのが自分とぶつかった相手しかいないのだから、後ろに倒れそうになった慧斗を助けてくれたのだろう。

「あ、あの……っ」

 慌てて謝罪を告げようと口を開いた途端、微かな苦くてでも魅惑的なアルファの匂いが慧斗の脳をグラリと揺らした。

 ドクドクと耳障りなほど心臓が早く鳴る。気を引き締めていないと足元から崩れそうで、目の中で星が弾ける。
 いつものヒート以上に性欲が全身を支配するのが分かった。

 この人アルファだ、と僅かに残る冷静な部分が今すぐ離れろと警鐘を鳴らす。だが、たかが至近距離でアルファの匂いを感じただけなのに、こうにも脳と体を蕩かす感覚に陥るのだろうと混乱していた。

 慧斗は祖母が亡くなってから、オメガの身体変化……いわゆるヒートが止まってしまっていた。それに加え慧斗の事情を知ったカフェオーナーの身内がバース科の医師をしているからと紹介をされ、被検体になるならと新種の抑制剤を飲むようになっていた。
 ヒートが止まったのは、心因性なものが原因だと、わりと早く診断されたが……
 新種の抑制剤は、よほどのことがない限り、アルファのフェロモンに反応しなくなる物だった。さすがにヒートになると無意味な代物と化すのだが、日常生活を送る分には支障がでないというものだ。
 月に一回ほどレポートをメールを送り、半年に一回受診するだけで、協力金……それも結構な額が入金される。定職もなく学生である慧斗にとっては十分すぎる仕事で、尚且つ言わなければベータと偽装もできた。

 だが、慧斗は自身がオメガである事を隠すのを躊躇った。国の方針ではバース性の告知は任意であるからだ。それでも慧斗は自身がオメガであることをバイトの面談でも申告していた。
 きっと黙っていれば、今日のようなトラブルに巻き込まれることはなかったに違いない。それでも誰かを騙す胸の痛みに耐え切れなかった。

 これまでも馬鹿の一つ覚えのようにわざわざマイナス面をアピールするのはどうかと思った。
 躊躇したのも一度や二度ではない。だが、慧斗は後からバレて大きな問題になるなら素直に言ったほうがいい、たとえそれで不採用になったとしても仕方がないと。

 そういう風に思えるようになるまで時間を要したが、多くのオメガが社会に進出するのが当たり前になった世の中で、自分の性をこそこそ隠すことこそ後ろめたいのだと考えるようになっていた。

 とはいえ現実は非情で、慧斗がオメガだと言った時点で雇用主が苦い顔をしたり、酷い時には愛人にならないかなど性対象として見たり。だから慧斗が採用されるまでに受けた面接は星の数ほどあった。
 オメガが性に彩られた存在なのは知っている。結局行き着くのは体を商品として鬻ぐしかできないのだと。
 それでも慧斗は普通にしがみついた。亡き祖母に恥じる生き方はしたくなかった。

 にもかかわらず、慧斗の小ぶりな鼻はヒクヒクと動きアルファであろう体臭をうっとりと嗅いでいる。それに呼応して、自分のフェロモンがネックガードの隙間を押しのけじわりと溢れてくるのが分かった。浅ましいオメガの本能のおかげで、少しだけ自分を取り戻すことができた。

「す、すみませんっ」

 咄嗟に慧斗は分厚い胸を両手で押し返した。ダメだ、このままだと巻き込んでしまう。
 オメガのヒートに巻き込まれれば、アルファはラットを起こす。世の中にはそれを利用して、オメガが発情誘発剤を飲んで、アルファを逆レイプするヒートテロなるものが問題視されているのだ。
 どんな事情であっても、アルファが同意なくオメガの体を暴けばそれは性犯罪とみなされてしまう。

「だ、大丈夫ですから、は、早く離れ……」

 精一杯の力で押した筈だ。しかし、男は抱きしめる腕に力を込め、ゆっくりと傾いできた頭が慧斗の首筋へと寄せられていく。
 男の高い鼻梁が首筋を撫で、それから後を追うようにぬめった感触が這う。
 きっとネックガードで気づかれてしまう。その前にどうにかしなくては、と慧斗はパニックになりながらも算段を組み立てる。

「お前、オメガか?」
「っ」

 クン、と首筋の空気が動くのに気づいたものの、慧斗は更に強くなった男の匂いに囲まれ声も出ない。
 まるで凍りついたように体が固まってしまう。
 逃げなくては。
 でもなんでにげなくちゃいけないんだろう。こんなにもいい匂いがするのに。
 男の問いの間にも、慧斗の思考は薄靄に覆われ濁っていく。

「おれは……」
「お前は俺の……だ」

 ゆるりと顔を上げれば、さらりと黒髪が慧斗の頬を撫で、その刺激だけで熱い吐息を漏らす。黒い帳の合間から見えた赤い瞳に囚われ、慧斗のお腹の奥にあるオメガの部分がじわりと蜜を滲み出し濡れた感触がした。

「ちがう……にげて……」

 ひし、としがみつく慧斗の理性が、強制的に発情した自分から逃げるよう呟きを落とす。
 この腕は気持ちがいい。できるならこのまま彼に抱かれていたいと切望する。
 だけど、ぼんやりとした視界でもはっきり分かる。このアルファは高位のアルファだ。カフェオーナーや先ほど助けてくれた玉之浦と同じく、アルファの中のアルファだ。こんなみっともなく生きるのに精一杯のオメガが相手にしてもいい人間じゃない。

「あなたは……うんめいじゃ……ない」

 慧斗のネックガードを齧り、舌で味わいながら彼が囁いたのは。

『お前は俺の運命だ』

 そう慧斗の耳朶を叩き、ネックガードを鋭い牙で噛み切ろうとしていた。黒く硬いネックガードはいくらアルファの犬歯でもちぎるのは容易くないだろう。
 それに、このネックガードは祖母がくれた大切な物だ。その意思がかろうじて落ちそうになる慧斗の頭を引き止めていた。

「自覚しろ。お前は俺の運命だ。素直に身を委ねてくれれば酷いことはしないと約束する」

 情欲に揺れる赤い双眸に、慧斗はふっと口元を綻ばせる。
 やはりアルファは高慢な存在だ。男の匂いにあてられ酩酊してしまったけど、威圧的な言葉で少しだけ目が覚めた。
 運命なんて砂漠からダイヤモンドを探すよりも難しく、天文学的な奇跡なのだから。たまたま偶然ぶつかっただけの軽いアクシデント程度のものではない。
 彼は自分の『運命』ではない。

「いやだ、離して」
「許すわけがないだろう。いい加減諦めろ」
「お願いやめてくださいっ」

 慧斗は首を振って抵抗する。ちっ、と微かに舌打ちした音がしたかと思えば、長く男らしい指が慧斗の顎を捉え、それから熱い唇に自身の唇が塞がれていたのだった。

「ん……んんっ、ふ……ぅ、や……め……んー」

 ちゅ、ちゅる、と呆然とする慧斗の唇を割り、男の分厚い舌が入り込み絡めて吸ってくる。官能を引き出すような口づけに、とうとう自立ができなくなった慧斗の足は、ガクンと脆く崩れていった。
 男は予測していたのか、慧斗の腰に腕を回し、それでも執拗に慧斗の口腔をまさぐる。

 脳までも溶かすような甘くて苦い口づけは、微かに煙草の不思議な味が混じって慧斗の体の芯を見えない炎で炙ってくる。
 今すぐに男から離れて逃げなくていけないと思うのに、本能が男が施す淫らな口づけが欲しいと舌を絡ませる。
 これまでもヒートの度に後孔が疼いてアルファのモノを欲することはあったけども、それとは全く違う。うなじからアルファを誘う匂いを放ち、全身で慧斗を抱きしめ口づけに興じる男を求めていた。

 甘い……でも苦い。媚薬みたいだ。

 唾液を注がれ、混じったそれが慧斗の口の端から零れていっても、男は重ねた唇を押し付けるようにして堪能している。
 度数の高い上質な酒のような男の唾液を、一度は明瞭となったものの再び蕩ける頭でコクリと飲み込んだ。

 もう逃げられない、と慧斗は本能的に悟った。アルファは狙った獲物を逃がさないだろう。
 きっといいように弄ばれて、高慢な支配者の前で足を開いて快感だけを貪るふしだらなオメガになるだろう。
 自分の矜持なんて紙のように軽いものとなる。

 慧斗の目尻から溢れた涙がひとすじ頬を伝う。
 それは歓喜なのか、それとも絶望なのか、答えを出す前に慧斗の意識がふつりと途切れていった。

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