上 下
16 / 37
一章

泡沫

しおりを挟む
 クライド様、と唇が淡く動く。

「エミリオ、王都へなぜ?」

 理知的な眉を歪ませエミリオへ近づくクライドの隣には、離婚の原因となったエミリアはいない。どうやら何かの用事で街に出ていたようだ。
 冷ややかな眼差しにエミリオの体が竦む。

「なぜ、王都へ来たのかと聞いているんだが?」

 甘い香りがクライドから香り、当時の冷遇されていた記憶が蘇って体も口も動けずにいると。

「まあいい。それよりも話がある」
「……え?」

 横柄にクライドが告げた言葉に、エミリオは疑問を持つ。離婚してから一年。別の女性に子供を作っておきながら、慰謝料ひとつエミリオに渡さず身ひとつで放り出したクライドに、何の話があるというのか。
 エミリオは護衛騎士に視線を向けると、彼はどこかに姿を隠したのか、素人であるエミリオには見つけられなかった。

「おい、どこを見ている。話があるから来いと言ってるだろう!」
「話なら、ここで聞きます。今更何の話だと言うのですか」

 エミリオの細い手首を掴み、ぐいぐいとどこかに連れて行こうとするクライドは声を荒立ててエミリオに命令する。しかし、今では他人のクライドに従う理由はない。毅然と反論するエミリオの鼻先に甘い香りが強くなった気がした。

「はっ! いいのか? お前の秘密を大声で話しても構わないんだな?」

 鼻で笑うクライドが放った言葉にさっと顔色が白むのを感じた。エミリオの秘密といえばひとつしかない。こんな人通りの多い場所で声高らかに言われたら、エミリオに奇異の目が集まってしまうだろう。

「そ、それは……」
「心配しなくても、行くのはそこの酒場だ。誰がお前と連れ込み宿なんかに行くつもりはない」

 蔑む言葉の槍がエミリオの胸を貫く。クライドがこんな風にエミリオを見下すようになったのはいつごろからだったろう。
 婚約時も結婚して暫くしてからも、クライドは紳士的に優しく、エミリオを大切に扱ってくれたというのに。

「……分かりました。ですが、護衛が近くにいるので、彼に話してからでもいいですか?」
「護衛?」

 目を眇めて周囲を見回したクライドだったが、誰もいないじゃないか、と吐き捨てる。

「もしかして、フレデリク殿下がつけた護衛か?」
「……ええ」

 前に盗賊に襲われた時にフレデリクと自分を守ってくれた護衛騎士は、職務に忠実に遂行していた筈だ。その彼がどこにもいない?

「ふうん、うまくやってたんだな、殿下は。まあいい、護衛が見つけやすいように窓際に座ればいいだろう。来い」
「あっ!」

 不穏な言葉が耳に入ってきたが、強引に腕を引っ張られ、エミリオはクライドに引きずられながら近くの酒場に入っていった。


 昼時の酒場は食堂として人で賑わっていた。クライドはエールと本日のおすすめである肉の煮込みとパンを、エミリオは元々食欲がなかったのでワインをオレンジの果汁で割った飲み物を注文した。
 時間を置かずやってきた食事や飲み物は、貴族の口には合わないような粗雑なもので、ひと口ふた口飲んだものの、すぐにグラスをテーブルに置いたエミリオをよそに、クライドはガツガツとマナーなど関係なく乱暴な食べ方で口に運んでいた。
 彼はこんな食べ方をする男だったろうか。
 伯爵子息としてプライドが高く、どちらかといえばスマートな所作だった記憶がある。それに、エミリオの記憶にあったクライドはいつも身なりを整えていた。しかし今のクライドはどこか髪も服も乱れているように感じた。

「……それで、僕に話とは」

 意を決してエミリオが口を開くと、クライドは一心不乱に食事をしていたのをやめ「そうだったな」と言ってスプーンをテーブルに置く。

「お前、今フレデリク殿下に保護されてるだろう?」
「どうしてそれを?」
「ああ、聞いたんだよ。お前の父親からな」
「え?」

 どうして父親がエミリオの事を離婚したクライドに話したのだろう。いや、そもそも縁が切れた伯爵家の子息にそんな話を吹き込んだのか。父は自分に興味もなければ価値も感じない人物だ。何の理由でそんな事を……

「まあ、どっちにしても殿下はうまくやったよなぁ。俺にエミリオを預けておきながら手を出すなと命令しておいて、離婚すればすぐさま囲った上に、レッセン伯爵家を取り潰ししたんだから」
「取り……潰し?」

 一気に流れ込んできた情報に頭が追いつかない。
 クライドとの白い結婚も、離婚後のあのプロポーズも仕組まれていたという事なのか?
 それに、元婚家が撮り潰したのもフレデリクが……?

 あの愛してると言ったのも、公爵家での甘い扱いも、何もかもがフレデリクの思惑通りだったと……?

「おかげでこちとら平民になったせいで、生きるのに精一杯だ。両親も壊れて、エミリアも出て行った。全部全部お前のせいだ!」

 ごっごっと喉を鳴らしてエールを一気に飲み込んだ後、ダン、とテーブルに木のジョッキを叩きつけて吐き捨てたクライドの瞳は、昏い中に恨みの炎を滾らせていた。

 自ら平民と言ったから、レッセン伯爵家が取り潰しになったのは事実なのだろう。
 生まれた時から貴族だった両親が疲弊し、心が壊れる事も貴族であるエミリオも耳にしたことがある。だからこそ貴族は己の利益を求めながらも一定のラインを超えないように生きている。彼らが平民の生き方なんてできないから。

「殿下の思惑に俺は巻き込まれすっかり落ちぶれた。何もかもお前のせいだ、この悪魔め!」
「そんな……僕は……」
「悪いと思ってるなら、殿下に俺を貴族として復活するように進言しろよ。なあ? 元夫が落ちぶれたなんて、お前も目覚めが悪いだろうしなぁ?」

 ニヤニヤと嗤って唆すクライド。彼はこんな人を脅迫するのも平気な人だったか。
 エミリオの記憶になるのは、自己保身が強く、貴族としてのプライドの高い、でも真面目な人だった筈だ。
 この人は……誰、なのだろう。

 やはり、フレデリクの愛は泡沫の夢というのは、間違いなかったようだ……
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?

音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。 役に立たないから出ていけ? わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます! さようなら! 5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……? ※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

【完結】第三王子は、自由に踊りたい。〜豹の獣人と、第一王子に言い寄られてますが、僕は一体どうすればいいでしょうか?〜

N2O
BL
気弱で不憫属性の第三王子が、二人の男から寵愛を受けるはなし。 表紙絵 ⇨元素 様 X(@10loveeeyy) ※独自設定、ご都合主義です。 ※ハーレム要素を予定しています。

あなたの隣で初めての恋を知る

ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。 その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。 そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。 一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。 初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。 表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

愛されない皇妃~最強の母になります!~

椿蛍
ファンタジー
愛されない皇妃『ユリアナ』 やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。 夫も子どもも――そして、皇妃の地位。 最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。 けれど、そこからが問題だ。 皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。 そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど…… 皇帝一家を倒した大魔女。 大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!? ※表紙は作成者様からお借りしてます。 ※他サイト様に掲載しております。

【完結】今更愛を告げられましても契約結婚は終わりでしょう?

SKYTRICK
BL
冷酷無慈悲な戦争狂α×虐げられてきたΩ令息 ユリアン・マルトリッツ(18)は男爵の父に命じられ、国で最も恐れられる冷酷無慈悲な軍人、ロドリック・エデル公爵(27)と結婚することになる。若く偉大な軍人のロドリック公爵にこれまで貴族たちが結婚を申し入れなかったのは、彼に関する噂にあった。ロドリックの顔は醜悪で性癖も異常、逆らえばすぐに殺されてしまう…。 そんなロドリックが結婚を申し入れたのがユリアン・マルトリッツだった。 しかしユリアンもまた、魔性の遊び人として名高い。 それは弟のアルノーの影響で、よなよな男達を誑かす弟の汚名を着せられた兄のユリアンは、父の命令により着の身着のままで公爵邸にやってくる。 そこでロドリックに突きつけられたのは、《契約結婚》の条件だった。 一、契約期間は二年。 二、互いの生活には干渉しない——…… 『俺たちの間に愛は必要ない』 ロドリックの冷たい言葉にも、ユリアンは歓喜せざるを得なかった。 なぜなら結婚の条件は、ユリアンの夢を叶えるものだったからだ。 ☆感想、ブクマなどとても励みになります! ☆ムーンライトノベルズにも載せてます。 ☆書き下ろし後日談をつけて、1月に同人誌にもします。

処理中です...