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一章
泡沫
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クライド様、と唇が淡く動く。
「エミリオ、王都へなぜ?」
理知的な眉を歪ませエミリオへ近づくクライドの隣には、離婚の原因となったエミリアはいない。どうやら何かの用事で街に出ていたようだ。
冷ややかな眼差しにエミリオの体が竦む。
「なぜ、王都へ来たのかと聞いているんだが?」
甘い香りがクライドから香り、当時の冷遇されていた記憶が蘇って体も口も動けずにいると。
「まあいい。それよりも話がある」
「……え?」
横柄にクライドが告げた言葉に、エミリオは疑問を持つ。離婚してから一年。別の女性に子供を作っておきながら、慰謝料ひとつエミリオに渡さず身ひとつで放り出したクライドに、何の話があるというのか。
エミリオは護衛騎士に視線を向けると、彼はどこかに姿を隠したのか、素人であるエミリオには見つけられなかった。
「おい、どこを見ている。話があるから来いと言ってるだろう!」
「話なら、ここで聞きます。今更何の話だと言うのですか」
エミリオの細い手首を掴み、ぐいぐいとどこかに連れて行こうとするクライドは声を荒立ててエミリオに命令する。しかし、今では他人のクライドに従う理由はない。毅然と反論するエミリオの鼻先に甘い香りが強くなった気がした。
「はっ! いいのか? お前の秘密を大声で話しても構わないんだな?」
鼻で笑うクライドが放った言葉にさっと顔色が白むのを感じた。エミリオの秘密といえばひとつしかない。こんな人通りの多い場所で声高らかに言われたら、エミリオに奇異の目が集まってしまうだろう。
「そ、それは……」
「心配しなくても、行くのはそこの酒場だ。誰がお前と連れ込み宿なんかに行くつもりはない」
蔑む言葉の槍がエミリオの胸を貫く。クライドがこんな風にエミリオを見下すようになったのはいつごろからだったろう。
婚約時も結婚して暫くしてからも、クライドは紳士的に優しく、エミリオを大切に扱ってくれたというのに。
「……分かりました。ですが、護衛が近くにいるので、彼に話してからでもいいですか?」
「護衛?」
目を眇めて周囲を見回したクライドだったが、誰もいないじゃないか、と吐き捨てる。
「もしかして、フレデリク殿下がつけた護衛か?」
「……ええ」
前に盗賊に襲われた時にフレデリクと自分を守ってくれた護衛騎士は、職務に忠実に遂行していた筈だ。その彼がどこにもいない?
「ふうん、うまくやってたんだな、殿下は。まあいい、護衛が見つけやすいように窓際に座ればいいだろう。来い」
「あっ!」
不穏な言葉が耳に入ってきたが、強引に腕を引っ張られ、エミリオはクライドに引きずられながら近くの酒場に入っていった。
昼時の酒場は食堂として人で賑わっていた。クライドはエールと本日のおすすめである肉の煮込みとパンを、エミリオは元々食欲がなかったのでワインをオレンジの果汁で割った飲み物を注文した。
時間を置かずやってきた食事や飲み物は、貴族の口には合わないような粗雑なもので、ひと口ふた口飲んだものの、すぐにグラスをテーブルに置いたエミリオをよそに、クライドはガツガツとマナーなど関係なく乱暴な食べ方で口に運んでいた。
彼はこんな食べ方をする男だったろうか。
伯爵子息としてプライドが高く、どちらかといえばスマートな所作だった記憶がある。それに、エミリオの記憶にあったクライドはいつも身なりを整えていた。しかし今のクライドはどこか髪も服も乱れているように感じた。
「……それで、僕に話とは」
意を決してエミリオが口を開くと、クライドは一心不乱に食事をしていたのをやめ「そうだったな」と言ってスプーンをテーブルに置く。
「お前、今フレデリク殿下に保護されてるだろう?」
「どうしてそれを?」
「ああ、聞いたんだよ。お前の父親からな」
「え?」
どうして父親がエミリオの事を離婚したクライドに話したのだろう。いや、そもそも縁が切れた伯爵家の子息にそんな話を吹き込んだのか。父は自分に興味もなければ価値も感じない人物だ。何の理由でそんな事を……
「まあ、どっちにしても殿下はうまくやったよなぁ。俺にエミリオを預けておきながら手を出すなと命令しておいて、離婚すればすぐさま囲った上に、レッセン伯爵家を取り潰ししたんだから」
「取り……潰し?」
一気に流れ込んできた情報に頭が追いつかない。
クライドとの白い結婚も、離婚後のあのプロポーズも仕組まれていたという事なのか?
それに、元婚家が撮り潰したのもフレデリクが……?
あの愛してると言ったのも、公爵家での甘い扱いも、何もかもがフレデリクの思惑通りだったと……?
「おかげでこちとら平民になったせいで、生きるのに精一杯だ。両親も壊れて、エミリアも出て行った。全部全部お前のせいだ!」
ごっごっと喉を鳴らしてエールを一気に飲み込んだ後、ダン、とテーブルに木のジョッキを叩きつけて吐き捨てたクライドの瞳は、昏い中に恨みの炎を滾らせていた。
自ら平民と言ったから、レッセン伯爵家が取り潰しになったのは事実なのだろう。
生まれた時から貴族だった両親が疲弊し、心が壊れる事も貴族であるエミリオも耳にしたことがある。だからこそ貴族は己の利益を求めながらも一定のラインを超えないように生きている。彼らが平民の生き方なんてできないから。
「殿下の思惑に俺は巻き込まれすっかり落ちぶれた。何もかもお前のせいだ、この悪魔め!」
「そんな……僕は……」
「悪いと思ってるなら、殿下に俺を貴族として復活するように進言しろよ。なあ? 元夫が落ちぶれたなんて、お前も目覚めが悪いだろうしなぁ?」
ニヤニヤと嗤って唆すクライド。彼はこんな人を脅迫するのも平気な人だったか。
エミリオの記憶になるのは、自己保身が強く、貴族としてのプライドの高い、でも真面目な人だった筈だ。
この人は……誰、なのだろう。
やはり、フレデリクの愛は泡沫の夢というのは、間違いなかったようだ……
「エミリオ、王都へなぜ?」
理知的な眉を歪ませエミリオへ近づくクライドの隣には、離婚の原因となったエミリアはいない。どうやら何かの用事で街に出ていたようだ。
冷ややかな眼差しにエミリオの体が竦む。
「なぜ、王都へ来たのかと聞いているんだが?」
甘い香りがクライドから香り、当時の冷遇されていた記憶が蘇って体も口も動けずにいると。
「まあいい。それよりも話がある」
「……え?」
横柄にクライドが告げた言葉に、エミリオは疑問を持つ。離婚してから一年。別の女性に子供を作っておきながら、慰謝料ひとつエミリオに渡さず身ひとつで放り出したクライドに、何の話があるというのか。
エミリオは護衛騎士に視線を向けると、彼はどこかに姿を隠したのか、素人であるエミリオには見つけられなかった。
「おい、どこを見ている。話があるから来いと言ってるだろう!」
「話なら、ここで聞きます。今更何の話だと言うのですか」
エミリオの細い手首を掴み、ぐいぐいとどこかに連れて行こうとするクライドは声を荒立ててエミリオに命令する。しかし、今では他人のクライドに従う理由はない。毅然と反論するエミリオの鼻先に甘い香りが強くなった気がした。
「はっ! いいのか? お前の秘密を大声で話しても構わないんだな?」
鼻で笑うクライドが放った言葉にさっと顔色が白むのを感じた。エミリオの秘密といえばひとつしかない。こんな人通りの多い場所で声高らかに言われたら、エミリオに奇異の目が集まってしまうだろう。
「そ、それは……」
「心配しなくても、行くのはそこの酒場だ。誰がお前と連れ込み宿なんかに行くつもりはない」
蔑む言葉の槍がエミリオの胸を貫く。クライドがこんな風にエミリオを見下すようになったのはいつごろからだったろう。
婚約時も結婚して暫くしてからも、クライドは紳士的に優しく、エミリオを大切に扱ってくれたというのに。
「……分かりました。ですが、護衛が近くにいるので、彼に話してからでもいいですか?」
「護衛?」
目を眇めて周囲を見回したクライドだったが、誰もいないじゃないか、と吐き捨てる。
「もしかして、フレデリク殿下がつけた護衛か?」
「……ええ」
前に盗賊に襲われた時にフレデリクと自分を守ってくれた護衛騎士は、職務に忠実に遂行していた筈だ。その彼がどこにもいない?
「ふうん、うまくやってたんだな、殿下は。まあいい、護衛が見つけやすいように窓際に座ればいいだろう。来い」
「あっ!」
不穏な言葉が耳に入ってきたが、強引に腕を引っ張られ、エミリオはクライドに引きずられながら近くの酒場に入っていった。
昼時の酒場は食堂として人で賑わっていた。クライドはエールと本日のおすすめである肉の煮込みとパンを、エミリオは元々食欲がなかったのでワインをオレンジの果汁で割った飲み物を注文した。
時間を置かずやってきた食事や飲み物は、貴族の口には合わないような粗雑なもので、ひと口ふた口飲んだものの、すぐにグラスをテーブルに置いたエミリオをよそに、クライドはガツガツとマナーなど関係なく乱暴な食べ方で口に運んでいた。
彼はこんな食べ方をする男だったろうか。
伯爵子息としてプライドが高く、どちらかといえばスマートな所作だった記憶がある。それに、エミリオの記憶にあったクライドはいつも身なりを整えていた。しかし今のクライドはどこか髪も服も乱れているように感じた。
「……それで、僕に話とは」
意を決してエミリオが口を開くと、クライドは一心不乱に食事をしていたのをやめ「そうだったな」と言ってスプーンをテーブルに置く。
「お前、今フレデリク殿下に保護されてるだろう?」
「どうしてそれを?」
「ああ、聞いたんだよ。お前の父親からな」
「え?」
どうして父親がエミリオの事を離婚したクライドに話したのだろう。いや、そもそも縁が切れた伯爵家の子息にそんな話を吹き込んだのか。父は自分に興味もなければ価値も感じない人物だ。何の理由でそんな事を……
「まあ、どっちにしても殿下はうまくやったよなぁ。俺にエミリオを預けておきながら手を出すなと命令しておいて、離婚すればすぐさま囲った上に、レッセン伯爵家を取り潰ししたんだから」
「取り……潰し?」
一気に流れ込んできた情報に頭が追いつかない。
クライドとの白い結婚も、離婚後のあのプロポーズも仕組まれていたという事なのか?
それに、元婚家が撮り潰したのもフレデリクが……?
あの愛してると言ったのも、公爵家での甘い扱いも、何もかもがフレデリクの思惑通りだったと……?
「おかげでこちとら平民になったせいで、生きるのに精一杯だ。両親も壊れて、エミリアも出て行った。全部全部お前のせいだ!」
ごっごっと喉を鳴らしてエールを一気に飲み込んだ後、ダン、とテーブルに木のジョッキを叩きつけて吐き捨てたクライドの瞳は、昏い中に恨みの炎を滾らせていた。
自ら平民と言ったから、レッセン伯爵家が取り潰しになったのは事実なのだろう。
生まれた時から貴族だった両親が疲弊し、心が壊れる事も貴族であるエミリオも耳にしたことがある。だからこそ貴族は己の利益を求めながらも一定のラインを超えないように生きている。彼らが平民の生き方なんてできないから。
「殿下の思惑に俺は巻き込まれすっかり落ちぶれた。何もかもお前のせいだ、この悪魔め!」
「そんな……僕は……」
「悪いと思ってるなら、殿下に俺を貴族として復活するように進言しろよ。なあ? 元夫が落ちぶれたなんて、お前も目覚めが悪いだろうしなぁ?」
ニヤニヤと嗤って唆すクライド。彼はこんな人を脅迫するのも平気な人だったか。
エミリオの記憶になるのは、自己保身が強く、貴族としてのプライドの高い、でも真面目な人だった筈だ。
この人は……誰、なのだろう。
やはり、フレデリクの愛は泡沫の夢というのは、間違いなかったようだ……
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