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20悔恨①

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 教会の扉を開くと、あの日の光景が鮮明に蘇ってくる。
 あの日とは違い、埃のない床を踏みしめ祭壇の前に立つと、陽の光を受けて輝く春空と花園のステンドグラスを見上げた。
 記憶にあるステンドグラスには、花園に佇む白髪の神の姿があった。だけど今はその神の姿はない。その理由を知っているだけに、複雑な気持ちが湧き上がる。

 アリステルが短い人生を終えた夜。ボロボロな廃教会の朽ちた床に横たえるアリステルは、木の人形のように細く、抱き上げた時はあまりの軽さに背筋が震えた。
 銀糸のような髪は脂とフケと黒くなった血で汚れ、白磁の肌は垢と埃で色を変え、涙の筋がはっきりと浮かんでいる。閉じた眼蓋は微かに震えるだけで、あの緑の瞳を見せてはくれない。
 きっとアリステルは生を終えるのだろう。だけど謝罪を告げぬまま、彼を神の元へと行かせるなんてできず、何度もアリステルの名を叫んだ。

『アリス! 逝かないでくれ、アリス!』

 呼びかけに、うっすらと開かれたアリステルの瞳は濁っていて、絶望だけが全身を支配していた。
 もう、二度と、過ちを取り戻せない……と。
 だけど神は……アリステルは、最期の哀れみをくれた。

『かみ……さ……ま、あ、りが……と。ゆり、う、す、さま……』

 神の使徒のような美しい笑みを浮かべ、アリステルが自分の名を淡く呼んだ。最後に何かを言ったようだが、吐息になって耳に届くことはなかった。

 命の糸が完全に切れたアリステルの体重が腕にかかる。とても、とても軽く、昔一度だけ嫌々で踊ったダンスの練習。あの時も羽のように軽いと感じていたのに、このアリステルはそれよりも軽くて怖くなった。
 自分が下した間違った決断が、一人の無実の人間の命を奪ってしまったことに。

 慟哭。

 静かな廃教会に嘆き嗚咽する悲鳴が響く。後悔しても、もう遅い。この結果にしたのは己が素直にならなかったからだ。


 ■ ■ ■

 アリステルは、義母が王太子として生きていくために条件として充てがった、ひとつ年下の青年だ。どうして異性愛者の自分が、同性のアリステルを婚約者として、擁立しなくてはいけないのだと。王に何度も意見を言ったのに、約束を破って子爵令嬢との間に子どもを作った後ろめたさから、日和見主義な態度しか返してこなかった。
 決定権のある王ではない以上、この婚約を覆すことはできない。それなら、向こうから婚約を破棄または逃げるように仕向けよう。

 初対面の婚約式で、明るい笑顔で挨拶するアリステルに、冷たい視線と態度で接する。早く、一刻でも早く、お互いが傷つかないためにも、自分を嫌って欲しい。
 そう心で願っていても、アリステルは何度も可愛らしい笑みでまとわりついていた。

 可愛らしい。そう、アリステルを可愛いと思っていた。

 女性が好きなのに、同性であるアリステルに、好感を持っている自分に驚いた。だけど認めるのは癪で、傍に寄る度、冷たい態度しかできなかった。その度に泣きそうに顔を歪めるアリステルを抱きしめたい衝動に駆られる。すぐに自分は女性が好きなのだと、心に言い聞かせた。

 心を掻き乱されるのが嫌でアリステルを冷遇する。アリステルの悲痛な表情を見てまた心を乱される。悪循環の繰り返しだった。
 自分のアリステルの対応を見た、親友のハイノも、アリステルに対して素っ気ない物だった。
 ハイノは軽佻浮薄けいちょうふはくで、良くも悪くも自分に従順な男だった。己がなく、付き合いやすくもあり、面白みもない男だった。
 しかし右腕としては自己が薄く、不安なのも嘘ではなかった。

 そんな自分の心が分からない中、イレーネ・クーニッツと出会った。己の運命を変えてしまった女に。生涯癒される事のない傷を負う事になった毒婦に。
 恋情を孕んだ思慕で近づいてきて、自身の不幸を嘆き、健気さを出して自分を篭絡した。
 それだけなら、アリステルとの婚姻までの遊戯程度に思っていたのに、彼女はそれだけでは足りずアリステルまでも利用しだしたのだ。

『……わたし、どうしたらいいのか分からなくて……』
『どうしたんだ、イレーネ。何が君を悩ませているんだ?』
『実は……アリステル様に……虐められて……ううっ』

 ある日、イレーネからアリステルに虐められていると、涙ながらに訴えてきた。
 荷物を捨てられたり、取り巻きの貴族と一緒になって恫喝してきたり、そんな非道を受けていると。
 当時、アリステルとの関係や感情に悩んでいたため、疑う事もなくイレーネの言葉を信じてしまった。
 それが決定打になったのは、自分がアリステルとの婚約を終わらせるきっかけになった事件。

 イレーネからアリステルに呼び出されたと相談され、ハイノと一緒にその場所に向かった。そこで見たのは、踊り場でアリステルがイレーネを突き飛ばす光景。

 嘘だ。信じられない。純真なアリステルがあんな酷い仕打ちをするなんて。
 目の前の光景が夢ではないかと、混乱ばかりが支配していた。だが、どう否定しても現実が繰り広げられていて、生徒たちの悲鳴で止まった時が動き出した。

 幸運なことにイレーネの怪我は大したことはなかった。それでも婚約者が起こして成ってしまった怪我のため、彼女を月光宮で療養させることにした。
 王も王妃も、自分の宮で療養させることに嫌悪を示したが、彼女をアリステルから守るためだと押し通した。
 男女が二人きりで時間を過ごせば、関係もそれなりに密になる。ただ、婚姻を結ぶまで肉体関係を結ぶことはしなかったのは、今にして思えば幸いだったと思う。
 この頃にはイレーネに心酔していたため、次の夜会で誰にも相談せず、アリステルと婚約を破棄しよう。次の婚約者にイレーネにすると宣言しようと心に決めた。



『アリステル……君がそこまで姑息で陰湿だとは思わなかった』
『僕はそんな事はしていません……! お願い、僕の話を……、』
『二度と俺の前に姿を見せないでくれ』
『どうして、僕の話を聞いてくれないんですか……!』

 そうして夜会の日にイレーネを虐めたことや、非人道的好意についてアリステルを断罪した。同時に婚約を破棄する旨を伝え、アリステルに目の前から消えてくれと叫んだ。
 自分はただ、王宮から実家の侯爵家に戻って、次は普通に結婚してくれればいいと思っていたんだ。だが、自分の気持ちを過剰に読み取ったハイノが、アリステルを市井に放逐したと言う。
 温室育ちの貴族子息が、何の伝手もない平民街で、一人生きていくなんて拷問に等しい。
 すぐにハイノに連れ戻すように命令したが、ハイノは自分を諌めるだけで、動こうとしなかった。のちに、ハイノもイレーネに篭絡されていたそうだ。それだけでなく、他の高位貴族子息にも粉を掛けていたと聞いて、倒れそうになった。しかし、一刻も早くアリステルを探さなくては、と騎士に捜索をさせつつ、王に頼んで影にイレーネの調査をお願いした。
 一度決めた婚約を勝手に破棄をした自分に、王は大層憤慨していたが、王太子だからという理由で渋々承諾してくれた。

 結局、アリステルの行方は分からず仕舞いだったが、検問を出ていないことから、王都からは出ていないらしい。どうか安全に生きていて欲しいと願いながらも、変わらず捜索だけは続けるように命じた。
 その中でイレーネの悪事が明確化した。
 彼女はアリステルから虐められたと悲哀を誘ってきたが、そのどれもが自作自演の嘘だったという。その証言をしたのは、イレーネと同じ男爵令嬢で、虚偽の虐めの手伝いをさせられたそうだ。その代わりにイレーネが王族になったあかつきには、高位貴族の男を紹介すると、餌で釣ったと綴られていた。
 自分は騙されていたのだと知るやいなや、イレーネを月光宮から追い出し、王族を謀った罪で処刑となった。そして同時期に、アリステルの所在がようやく分かり急いで駆けつけたが、やっと再会した時には彼は虫の息で。
 自分の腕の中でアリステルは息を引き取った。

 自分が素直になれなかったせいで、本当は愛しいと思っていた人を、亡くしてしまったのだ。


 ■ ■ ■

 王太子である自分が色仕掛けで謀られたことを理由に廃嫡となり、次の王太子を義弟のアベルに変わった。結局は王妃の思惑通りとなり、アリステルを失い茫然自失となっている間に、自分は王家管轄地のひとつを与えられ引きこもることになった。

 無実の罪で息子を失った侯爵家には、自分の私財全てを慰謝料として渡した。だから管轄地にはほぼ無一文で向かうことになったが、心を壊した自分にはどうでもいいことだった。
 ただ、アリステルの両親には一つだけお願いをした。アリステルの遺髪を自分に分けてくれないかと。最初は渋い顔をしていた侯爵夫妻だったが、もう二度と関わらない事を条件に、アリステルの遺髪を受け取った。
 それが自分が余生を生きるよすがになっていた。

 ハイノは、自分が流されやすい性格でイレーネの色香に掛かった罪悪感で、自分の廃嫡と同じ頃に自死した。アリステルに許して欲しいとの手紙を残して。
 自分の心は完全に壊れてしまった。王族であるため自死もできない自分が、大切な人がもうこの世にいない絶望だけが、これからも生きていくしかない世界になったのだから。
 ハイノの両親から酷く恨まれた。当然だ。自分のせいでアリステルもハイノも失ってしまったのだから。

 自分は深い森に囲まれた小さな小屋で孤独に生きていた。領地は管理人に任せて、ただひたすらにアリステルとハイノに謝罪する日々を送っている。
 身の回りの世話もする人もおらず、町から訪ねてくる者もいない、孤独の日々。
 壊れた心は体までも蝕み、日に日に弱っていった。

 きっとそう遠くない未来に、自分の命は終わるだろう。その時アリステルに会えたなら、今度こそは大切に愛していくから、ずっと傍にいさせてと希おう。

 アリステルの遺髪を編んだ指輪を嵌めた薬指にキスをする。

『ねえ、アリス。今度はちゃんと愛してるって言わせて……』
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